青山博一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Hanabishi (会話 | 投稿記録) による 2012年5月26日 (土) 16:45個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎経歴)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

青山博一
2009年 日本GP250cc表彰台にて
グランプリでの経歴
国籍 日本の旗 日本
活動期間 2000年 - 2011年
チーム ホンダKTM
レース数 116
チャンピオン 250cc - 1 (2009年)
優勝回数 9
表彰台回数 27
通算獲得ポイント 1263
ポールポジション回数 8
ファステストラップ回数 11
初グランプリ 2000年 250cc パシフィックGP
初勝利 2005年 250cc 日本GP
最終勝利 2009年 250cc マレーシアGP
最終グランプリ 2011年 MotoGP バレンシアGP
テンプレートを表示
2007年 日本GP
2009年 日本GP
2011年 ポルトガルGP

青山 博一(あおやま ひろし、1981年10月25日 - )は、千葉県市原市出身のオートバイレーサー。2003年全日本ロードレース選手権GP250チャンピオン2009年ロードレース世界選手権250ccクラスチャンピオン。弟は現オートレース選手青山周平

経歴

5歳でポケバイに乗り始め、14歳でミニバイクレースを始める。15歳で桶川塾入学。

1998年にロードレースデビューし、筑波選手権参戦。1999年にはハルクプロより全日本ロードレース選手権GP125にデビューし、表彰台2回獲得。2000年よりGP250に転向し、3勝で年間ランキング2位となり、ルーキー・オブ・ザ・イヤー獲得。2002年には2勝で2度目のランキング2位。2003年は全6戦中5回の表彰台と安定したリザルトで、初のタイトルを獲得した。

2004年ホンダ・レーシングスカラシップ第1期生に選ばれた青山は、アルベルト・プーチが率いるテレフォニカ・モビスター・ホンダチームから、ダニ・ペドロサのチームメイトとしてロードレース世界選手権250ccクラスにフル参戦を開始。翌年も同体制で参戦し、ツインリンクもてぎで行われた日本グランプリで同選手権初優勝を遂げた。以降もプーチ宅にほど近いアパートメントを拠点に、プーチのトレーニング指導を受けながらレース活動を行っている。

スカラシップ期間の2年間を終えて、2006年からはKTMワークス・チームに移籍。2008年まで所属するが、KTMの250ccクラスからの撤退に伴い再び移籍を強いられることになり、2009年高橋裕紀の後継としてチーム・スコットに所属(マシンはホンダ・RS250RW)。前年の不振や、マシン開発が2007年を最後に終了している[1]ということもあって、周囲も、そして青山自身も大きな期待はできない状況であった。

しかし開幕戦カタールGPの予選で、アルバロ・バウティスタと激しいポールポジション争いを繰り広げて予選2位、決勝でも激しい3位争いを繰り広げて4位。続く第2戦日本GPも予選2位、決勝もバウティスタと激しい争いを繰り広げて2位に入る。そして迎えた第3戦スペインGPでは、他メーカーのマシン開発が進むヨーロッパラウンドに突入したことから苦戦が予想され、予選では6位に終わったが、決勝前のサイティングラップでタイヤの異変に気付き、決勝直前にマシンを変える。決勝では4台による50回以上のトップ交代劇があったが、最後にはバウティスタとの一騎打ちとなり、最終ラップの最終コーナーでバウティスタを下して2年振りの優勝を飾るとともに、ポイントリーダーに躍り出た。

その後のフランスイタリアでは、ウエットレースでスペアマシンがない状況だったこともあり8位・6位に終わるが、久しぶりにドライコンディションとなった第6戦カタルニアGPでは途中マシンがスローダウンしたものの2位フィニッシュ、そして第7戦ダッチTTでは残り2ラップの最終シケインでバウティスタと接触するものの、何とかトップでチェッカーを受け2勝目。その後も第10戦イギリスGPで1周もトップを譲らず3勝目を挙げるなどしてポイントリーダーの座をキープし続け、第16戦マレーシアGPを含むシーズン4勝と全レースでシングルリザルトを記録するという好成績を残し、この年を最後に廃止される250ccクラスで年間チャンピオンを獲得した[2][3]。青山は原田哲也1993年)、加藤大治郎2001年)に続き、ロードレース世界選手権250ccクラスのシリーズチャンピオンを獲得した3人目の日本人となった。

2010年は最高峰のMotoGPクラスへステップアップし、チーム「パドック・グランプリ・チーム・マネージメント」に1名体制で所属することになり、マシンはホンダ・RC212Vを使用した。メインスポンサーにはオーストリアのオンラインカジノ会社である「インターウェッテン」が付いた[4]開幕戦カタールGPをステップアップ勢トップとなる10位でフィニッシュし、その後も確実にポイントを獲得していたが、6月21日、第5戦イギリスGPにて、決勝日のウォームアップ走行中にハイサイドで転倒し、背中を強打して脊椎圧迫骨折(第12胸椎)を負い、療養のため第10戦まで一時参戦休止となる。その間は秋吉耕祐アレックス・デ・アンジェリスに代役を任せていたが、第11戦インディアナポリスGPより復帰。その後は目立った転倒もなく出走した全てのレースで完走を果たし、年間ランキング15位でデビューシーズンを終えた。チームとは2年契約を結んでいたが、資金繰りが悪化したためMotoGPクラスからの撤退が決まり、青山はチームを離れることとなった。

2011年グレシーニ・レーシングに移籍。250cc時代からのライバルであるマルコ・シモンチェリをチームメイトに、クラス2年目のシーズンを迎えた。ウェットレースとなった第2戦スペインGPではクラス自己ベストの4位に入賞する活躍を見せるが、ドライ路面ではタイヤに熱を入れてパフォーマンスを発揮させることができないという問題を抱え[5]下位でのフィニッシュが続いた。第7戦ダッチTTでは骨折で欠場中のダニ・ペドロサの代役としてレプソル・ホンダからエントリー、最新ワークスマシンを駆る機会を得たが、フリー走行での転倒でまたも胸椎(9番)を骨折してしまった[6]。その後も完走率は高いが下位集団でのレースが続き、年間ランキングでは前年から向上して10位を記録したものの、シーズン終了をもってチームを去ることとなった[7]

2012年シーズン、青山はグランプリを去りスーパーバイク世界選手権に転向。テンケイトレーシングでジョナサン・レイのチームメイトとしてホンダ・CBR1000RRを駆ることとなった[8]

レース戦績

日本国内選手権

  • 1996年 - ミニバイクレース 関東ミニ選手権 チャンピオン
  • 1997年 - ミニバイクレース 関東ミニ選手権 チャンピオン
  • 1998年 - 筑波選手権 GP125ランキング2位 / SP250ランキング7位
  • 1999年 - 全日本ロードレース選手権 GP125ランキング11位(カストロール・チームハルクプロ/RS125R)
  • 2000年 - 全日本ロードレース選手権 GP250ランキング2位(3勝:もてぎ鈴鹿TI/チームハルクプロ/RS250R)
  • 2001年 - 全日本ロードレース選手権 GP250ランキング8位
  • 2002年 - 全日本ロードレース選手権 GP250ランキング2位(2勝:SUGO、鈴鹿/チームハルクプロ/RS250R)
  • 2003年 - 全日本ロードレース選手権 GP250チャンピオン(1勝:SUGO/チームハルクプロ/RS250R)

ロードレース世界選手権

  • 凡例
  • ボールド体のレースはポールポジション、イタリック体のレースはファステストラップを記録。
シーズン クラス バイク 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
2000年 250cc ホンダ RSA MAL JPN SPA FRA ITA CAT NED GBR GER CZE POR VAL BRA PAC
8
AUS 28位 8
2001年 250cc ホンダ JPN
13
RSA SPA FRA ITA CAT NED GBR GER CZE POR VAL PAC
21
AUS MAL BRA 28位 3
2002年 250cc ホンダ JPN
12
RSA SPA FRA ITA CAT NED GBR GER CZE POR BRA PAC
11
MAL AUS VAL 27位 9
2003年 250cc ホンダ JPN
2
RSA SPA FRA ITA CAT NED GBR GER CZE POR BRA PAC
5
MAL AUS VAL 15位 31
2004年 250cc ホンダ RSA
11
SPA
Ret
FRA
4
ITA
9
CAT
6
NED
10
BRA
6
GER
4
GBR
9
CZE
7
POR
9
JPN
3
QAT
3
MAL
Ret
AUS
7
VAL
DSQ
6位 128
2005年 250cc ホンダ SPA
Ret
POR
6
CHN
3
FRA
6
ITA
7
CAT
4
NED
4
GBR
Ret
GER
3
CZE
5
JPN
1
MAL
5
QAT
6
AUS
6
TUR
3
VAL
6
4位 180
2006年 250cc KTM SPA
6
QAT
5
TUR
1
CHN
3
FRA
4
ITA
Ret
CAT
6
NED
9
GBR
3
GER
8
CZE
3
MAL
Ret
AUS
3
JPN
1
POR
2
VAL
Ret
4位 193
2007年 250cc KTM QAT
Ret
SPA
6
TUR
Ret
CHN
9
FRA
Ret
ITA
21
CAT
7
GBR
3
NED
5
GER
1
CZE
6
SMR
2
POR
Ret
JPN
8
AUS
4
MAL
1
VAL
10
6位 160
2008年 250cc KTM QAT
16
SPA
4
POR
5
CHN
2
FRA
7
ITA
8
CAT
7
GBR
6
NED
6
GER
8
CZE
13
SMR
Ret
IND
C
JPN
9
AUS
Ret
MAL
2
VAL
5
7位 139
2009年 250cc ホンダ QAT
4
JPN
2
SPA
1
FRA
8
ITA
6
CAT
2
NED
1
GER
4
GBR
1
CZE
4
IND
2
SMR
4
POR
4
AUS
7
MAL
1
VAL
7
1位 261
2010年 MotoGP ホンダ QAT
10
SPA
14
FRA
11
ITA
11
GBR
DNS
NED CAT GER USA CZE IND
12
SMR
12
ARA
13
JPN
10
MAL
7
AUS
13
POR
12
VAL
14
15位 53
2011年 MotoGP ホンダ QAT
10
SPA
4
POR
7
FRA
8
CAT
Ret
GBR
9
NED
8
ITA
11
GER
15
USA
10
CZE
9
IND
9
RSM
11
ARA
11
JPN
9
AUS
Ret
MAL
C
VAL
12
10位 98

エピソード

2009年11月には、メインスポンサーが同じ「Interwetten」(スペイン語では「Interapuestas」)という縁から、リーガ・エスパニョーラRCDエスパニョールの試合を表敬訪問し、当時同チーム所属だった中村俊輔と対面を果たした。青山は俊輔からユニフォームを受け取る代わりにヘルメットを贈ったが、エスパニョールの他の選手が俊輔に「青山のサインをもらってくれ」と頼むシーンもあり、俊輔もその人気に驚いていたという[9][10]

セパン・インターナショナル・サーキットと相性がよく、250cc時代には6年のうちに4度ものポールポジションを獲得し、ポールトゥウィンも2度飾っている。チャンピオンを獲得した2009年には、コースレコードも更新してのハットトリックも達成した。MotoGPにステップアップした2010年シーズンも、5位争いを演じシーズン自己ベストの7位に入賞している。

ハルクプロの本田監督曰く、典型的な理論型のライダーであるという。マシンセッティングなどもきちんと自分の言葉でメカニックに伝え、ひとつひとつ積み上げて自分で納得するまで続ける。GPにおいてはKTMワークス在籍時代から彼とチームのミーティングが他のチームと比較しても平均2時間とかなり長い。(日本テレビMotoGP放送での逸話)

脚註

外部リンク