鈴木政一
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名前 | ||||||
カタカナ | スズキ マサカズ | |||||
ラテン文字 | SUZUKI Masakazu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1955年1月1日(69歳) | |||||
出身地 | 山梨県 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
監督歴 | ||||||
1993-1994 2000-2002 2004 |
ジュビロ磐田サテライト ジュビロ磐田 ジュビロ磐田 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
鈴木 政一(すずき まさかず、1955年1月1日 - )は、山梨県出身の元サッカー選手・サッカー指導者。現役時代のポジションはDF。2002年にジュビロ磐田が史上初の1st・2nd両ステージ制覇を達成した時の監督である。日本体育大学体育学部体育学科卒業。現・日本体育大学サッカー部監督(准教授)。
経歴
サッカーを始めたのは中学3年の時と遅かったが、山梨県立石和高等学校、日本体育大学ではそれぞれ主将を務めた。大学時代は全日本大学サッカー選手権大会で法政大学を破り優勝も経験している。その後1977年にヤマハ発動機サッカー部(Jリーグ所属のジュビロ磐田の前身)に入団。以来、2010年まで選手・指導者時代を通して30年以上ヤマハ・磐田に在籍した(ちなみにプロ契約はしていない「サラリーマン」であった)。選手としては1982年の天皇杯に優勝している。
1984年にヤマハのコーチに就任後、1995年までヤマハでコーチ・総監督、磐田でサテライト監督を務め、その後はフロント入りしていたが、2000年6月にトップチームのコーチとして現場に復帰。9月に監督のハジェヴスキー・ギョキッツァが解任されたのを受けて監督に昇格する。現場に復帰したのがわずか3ヶ月前なので戦術面の大幅な変更はせず、ハジェヴスキーが採用した3-5-2システムを踏襲した。鈴木が監督に就任した直後に名波浩が復帰したこともあってこの年のリーグ戦残り5試合は4勝1敗の成績を残した。
2001年はFIFAクラブ世界選手権スペイン大会に出場が決まっていたことから(ただし、この大会は運営を任されていた代理店のISL社の倒産の影響で中止された)、世界と戦うためのシステムとして「N-BOX」(MFを4人箱型に配置し、その中心に名波を置く)を採用した。このシステムが功を奏してJリーグでは圧倒的な力を示し、1stステージは優勝、2ndステージも2位となる。しかし、サントリーチャンピオンシップでは鹿島アントラーズに敗れ、ヤマザキナビスコカップでも決勝で横浜F・マリノスにPK戦の末敗退し、結局この年はここぞという試合を落として結局無冠に終わってしまった。
2002年には前年の悔しさを晴らすべく開幕から連勝を重ね、史上初の1st・2ndステージ両方制覇を成し遂げた(もちろん年間王者である)。この年限りで勇退し強化部長に就任し現在に至っている。ただし、2004年の9月から11月にかけて兼任扱いで監督に復帰した。これは、この年の2ndステージで磐田が一時最下位になるほどの不振に陥ったことで危機感を持ったフロントが、監督の桑原隆を解任し、後任が見つかるまでの暫定措置として鈴木に兼任させたというものである。このステージは結局13位に終わるが、鈴木はこのステージの勝ち点14のうち13を8試合で稼ぎ、暫定監督の立場でも名将の片鱗を見せた。
2010年9月、北信越フットボールリーグ1部・AC長野パルセイロの強化本部長に就任、磐田時代とは一変し、公式戦全試合にベンチ入りして戦術面でのアドバイスを行い、クラブのJFL昇格に貢献した。
2011年母校日本体育大学サッカー部監督に就任。16年振りに関東大学サッカーリーグ戦2部で優勝、1部に昇格させる。また、7月にはAC長野パルセイロのアドバイザーにも就任、クラブはJFL参入1年目で2位となるなど、カテゴリーを問わず指導したチームは安定した好成績を挙げている。
監督としての特徴
監督としては「選手ひとりひとりの能力を最大限に引き出す」サッカーを目指したが、これはスカウト経験が長く、選手の特徴の把握など観察眼に優れた鈴木ならではのサッカーである(当時の主力であった名波、藤田俊哉、福西崇史、服部年宏などもほとんどが鈴木がスカウトした)。
戦術は前監督のハジェヴスキー・ギョキッツァからの3-5-2をベースに(後年「サイドバックの人材がいたら、個人的には好みの4バックでやりたかった」と回想している)、先述の「N-BOX」などのアレンジも加えているが、鈴木の最大の持ち味は戦術よりもむしろ「この戦術では選手をどう配置するか」と言った選手の使い方にあると言える。
所属クラブ
- 1977年-1982年 ヤマハ発動機サッカー部
個人成績
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国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1977 | ヤマハ | 東海 | - | ||||||||
1978 | ヤマハ | 東海 | - | ||||||||
1979 | ヤマハ | JSL2部 | |||||||||
1980 | ヤマハ | JSL1部 | |||||||||
1981 | ヤマハ | JSL1部 | |||||||||
1982 | ヤマハ | JSL2部 | |||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 36 | 0 | |||||||
日本 | JSL2部 | ||||||||||
日本 | 東海 | - | |||||||||
総通算 |
指導者経歴
- 1984年-1990年 ヤマハ発動機サッカー部コーチ
- 1991年-1992年 ヤマハ発動機サッカー部総監督
- 1993年-1994年 ジュビロ磐田サテライト監督
- 2000年6月-2000年9月 ジュビロ磐田コーチ
- 2000年9月-2002年 ジュビロ磐田監督
- 2004年9月-2004年11月 ジュビロ磐田監督(強化部長と兼任)
フロント経歴
- 1995年-1996年 ジュビロ磐田強化部育成課長
- 1997年-1998年 ジュビロ磐田強化部育成長兼スカウト
- 1999年-2000年6月 ジュビロ磐田スカウト部長兼強化部育成課長
- 2003年- ジュビロ磐田強化部長
- 2009年4月-2009年12月 ジュビロ磐田育成部長(ダイレクター)
- 2010年9月-2011年3月 AC長野パルセイロ強化本部長
- 2011年4月- 日本体育大学サッカー部監督
監督成績
年度 | 所属 | クラブ | リーグ戦 | カップ戦 | ||||||
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順位 | 試合 | 勝点 | 勝利 | 引分 | 敗戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | |||
2000 | J1 | 磐田 | 4位 | 5 | 12 | 4(0) | 0 | 1 | - | 準々決勝 |
2001 | J1 | 磐田 | 準優勝 | 30 | 71 | 26(8) | 1 | 3 | 準優勝 | 4回戦 |
2002 | J1 | 磐田 | 優勝 | 30 | 71 | 26(8) | 1 | 3 | 準々決勝 | 準々決勝 |
2004 | J1 | 磐田 | - | 8 | 13 | 3 | 4 | 1 | - | - |
- 2000年は2ndステージ第11節より、2004年は2ndステージ第5節より第12節まで指揮。
- 順位はいずれも最終順位。
- 勝利数のうちカッコ内の数字はVゴールでの勝ち数。
エピソード
- 裏方志向と言うこともあり、その実績の割には知名度はそれほど高くない(2002年に両ステージ制覇を達成した時も記録の偉大さの割に世間では騒がれなかった)。
- 監督としての通算成績(59勝6分け8敗)は驚異的であり、勝率は8割を超える。現在は延長戦が廃止されているので、今後Jリーグでこのような成績を挙げる監督はおそらく現れないと思われる。
- 選手やスタッフからは「マサくん」と呼ばれている。