詠春拳

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詠春拳
えいしゅんけん
発生国 中国
発生年 清代雍正年間
創始者 五枚尼姑、厳詠春、張五
源流 少林武術
流派 詠春派
派生種目 截拳道EBMAS
主要技術 小念頭、尋橋、標指、黐手、木人樁
公式サイト 詠 春 體 育 會
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詠春拳(えいしゅんけん、永春拳)は広東省を中心に伝承されていた徒手武術を主とする中国武術で、少林武術を祖とし、一般的には短橋(腕を短く使い)狭馬(歩幅が狭い)の拳法であるとされている。200年から300年の歴史があると考えられている。拳術を中心技術として刀術と棍術とを含むが、伝承された型を分析すると、むしろ術を基礎として、それを徒手拳術に応用した部分も多く見受けられる。練習に人を象った木の人形(木人樁、もくじんとう)を使用することでも有名である。

手技に特徴があり、拳技は地味で見栄しないが、香港映画や、最近ではハリウッド映画などにもそのアクションの中で詠春拳の手技が見られることが多いが、根本的に飛んだり跳ねたりということを一切しない、実用を重視した地味な拳法体系である。

現在のほとんどの詠春拳の伝承には、小念頭、尋橋、標指、と呼ばれる(またはそれに相当する)3つの套路(空手でいう形)と、木人樁法、八斬刀や胡蝶掌刀と呼ばれる刀術、そして六點半棍、行者棒などと呼ばれる棍術が含まれるが、伝承によってはそれ以外の拳套や武器術も伝わっており、その全てが短橋狭馬の技術というわけでもない。

永春拳は現在までに多くの分派を生じており、他の南派少林拳発生との関連もあって、どこからどこまでが永春拳であるとは定義できない[1]。ただしもともと「永春拳」と称していたものから「言」偏のついた「詠春拳」と称するようになったのは、詠春拳王と呼ばれた広東省・佛山の武術家、梁贊より以降に限っており、この系統での套路(形)は小念頭、尋橋、標指の三套路のみである。これは梁贊がこの三つをまとめたからだと考えられる。(ただし後から他門派の技法や形を取り入れている混合的な流儀もある。また虚偽を教えていることも普通にあるのでかなり紛らわしい)

ブルース・リーによって葉問派詠春拳が世界的に有名になってからは、世界各地に伝えられ最も多く練習される中国武術の一つになったが、ブルース・リー以前にも華僑によって東南アジア方面にも伝承されており、それぞれに独自のスタイルを形成している。

詠春拳の歴史と伝説

南少林寺と起源

詠春拳の発祥には清朝に対するレジスタンスや、粤劇(広東オペラ)の発祥が関わっていると言われる。創始者とみなされている者としては、至善禅師、五枚尼姑、苗顕、厳詠春、方永春、張五(攤手五)などの名が残る。それ以降の伝承者の名称には粤劇における役の名前も多く見受けられ、古伝の永春拳と粤劇はその創成期において歴史を共有しているようである。至善禅師、五枚尼姑、苗顕は少林五老のうちの三人であり、これは古伝の永春拳が洪家拳と関連が深く、紅船戯班内では散逸した南派少林拳の伝承を受け継ぐ為、技術交流が頻繁に行われていたようである。ちなみに詠春拳団体や道場のマークに梅の花が用いられるのは、梅の花の花びらの数が、この"少林五老"の数と同じ五である事から来ている。

厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をし、そこで豆腐を売って生活をしていた。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学ぶ。厳詠春はそれらを父から学び、改良したという。また古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れ、そこで詠春拳を作ったという伝承もある。厳詠春(もしくは方永春・いずれも女性)が(別説には、)の闘争を元に創案にしたとも言う。 詠春という名前については、厳詠春から取ったと言われるが、南少林寺では至善禅師のおられた「永春殿」で練習されていたからという説もある。厳詠春は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であるとも言われる。いずれにせよ、南少林寺は長い間架空のものとされてきたが、近年実在したとする説もあって将来の研究に注目したい[2]

厳詠春から紅船戯班

佛山の茶葉商人であり後に厳詠春の夫となる梁博儔がそれを学び、そして更に古伝の永春拳は梁博儔の唯一の弟子である広東省佛山の商人、梁蘭桂へと受け継がれていった。やがて佛山から粤劇の紅船戯班が旅巡業にやって来た折り、粤劇「紅船戯班」の役者であった黄華寶と船員の梁二娣が梁蘭桂から古伝の永春拳を教わることとなり、激しい修行の結果、黄華寶と梁二娣は古伝の永春拳を継承した。梁蘭桂は粤劇をこよなく愛しており、これまでに粤劇の役者達と親交があったため、その縁で師弟関係ができたと考えられている。これ以後、古伝の永春拳は、広東省周辺の民間芸能である粤劇の興行一座であった「紅船戯班」の内部で伝承されてきたことは間違いないようである。その当時、職業として古伝の永春拳を対外的に教授する者も稀であったため、歴史上のほとんどの期間においては、古伝の永春拳は門外不出の様相を示しており、武館を開設する慣習もなかった。

詠春拳王・梁贊

対外的に詠春拳を伝授するようになったのは、紅船戯班の黄華寶・梁二娣から四川梅花拳、蛇形洪拳、古伝の永春拳など各種南派少林拳を授かった「詠春拳王」と呼ばれた佛山の武術家、梁贊(1826~1901)からである。またこの拳法が古伝の永春拳から言偏の付いた「詠春拳」と呼ばれるようになったのも、小念頭、尋橋、標指の三套路に制定したのも梁贊であったと言われている。梁贊は広東省佛山の筷子街で「贊生堂」という名の漢方薬店及び診療所を生業として、佛山の人々から「佛山贊先生」と親しまれていた。しかし、梁贊は生涯、詠春拳の武館を構えることはなく、詠春拳を伝えたのは自分の息子と僅かの弟子だけであった。

職業武術家・ 陳華順

その中に陳華順(1849~1913)がおり、彼は贊生堂の向かいで両替商を営んでいたため別名を「找錢華」と呼ばれたが、その縁で詠春拳を学ぶこととなった。陳華順は身長も高く体格も大きい人で腕力自慢の人物であったという。陳華順は39歳の時(1888年)に梁贊の門下生となり、13年の修業期間を経て詠春拳の全伝を継承すると、両替商を辞めて、1901年には「杏濟堂」の名称で武館を開設し、詠春拳を教授することを生業とするようになった。歴史的に武館を構えて詠春拳を教授する職業武術家を生業としたのは、この陳華順からである。これ以後詠春拳は多くの弟子を輩出するに至った。陳華順の弟子の中でも、雷汝済は後の佛山派の祖となり、葉問は香港に渡り、葉問派の一代宗師となった。

香港に行くまでの葉問

葉問(1893~1972)は本名を葉継問と言い、広東省南海人である。葉一族は佛山では桑畑や綿花畑、製糸工場などを経営しており、裕福な名家の次男として生を受けた。兄と姉が一人ずつ、妹が一人の6人家族であった。詠春拳では陳華順の最晩年の弟子にあたり、葉問入門当時(1904年)陳華順54歳、葉問11歳であった。葉問は直接武館には通わず、葉家の祖師堂にわざわざ陳華順を呼んで月額・銀8両、非常に高額な月謝を支払って個人教授で教わっていたという。

入門して2年ほど経って、不幸にも陳華順は脳卒中を患い、指導ができなくなった。当然、葉問が僅か2年で詠春拳の全傳を継承しているはずもなく、陳華順の「葉問が最後まで詠春拳を修行できるように」と兄弟子達へ進言したことによって葉問の修行は続けられる事となった。陳華順の代わりに葉問の面倒を見たのは葉問にとって兄弟子にあたる呉仲素で、既に佛山の線香街で詠春拳の武館を開いていたため数年間面倒を見る形となった。この時に呉仲素の計らいで広州派詠春拳伝承者の阮奇山とも交流しながら拳技を磨いた。

1909年、葉問16歳の時、香港へ留学を果たす[3]。香港留学の間、詠春拳の練習は中断するかと思われたが、偶然にも、梁贊の実子、師叔にあたる梁壁と翌年香港で出会う。葉問は好運にも、香港での留学期間も詠春拳を4年ほど練習する機会を得たのである。1918年、佛山に戻った葉問は警察官となる。また、佛山に戻ってから葉問は張永成と結婚し2男1女をもうける。

1937年には葉家の全財産は日本軍に接収され、葉家の邸宅は日本軍の司令部となった。裕福な名家の次男であった葉問は45歳でいきなり無一文になってしまう。ちなみに佛山は翌年に陥落し、日本軍に占領された。1941年(葉問48歳)、友人の周雨耕・周清泉父子の頼みで、周光輝、郭富、倫佳、招允らに葉問自身初めて詠春拳を教授した。

戦後、復権を果たした葉問は國民党で警察局刑偵隊隊長、升督察長、廣州市衛戌司令部南區巡邏隊上校隊長などを歴任していた。1949年、國共内戦の激化、共産党の政権掌握に至って、國民党の要職にあった葉問は身の危険を感じ、何と妻子を残したまま、身分証明書の名前も「葉溢」に変え、マカオ経由で香港へ逃亡(亡命)した。

葉問香港へ行く

葉問の香港での生活はたちまち困窮を極めた。葉問が生き延びるために残された道は、弟子を取って詠春拳を教える事で生活していく事のみであった。葉問はその目的達成のためにあらゆる縁を頼って、友人・知人を尋ね歩いた。香港留学時代からの友人であった李民に相談を持ちかけに行った。李民は葉問の頼みを聞き入れ、一肌脱ぐ事になった。

1950年5月、李民の計らいで「港九飯店職工總會」で詠春班の最初の練習が始まる事となった。参加者は職工總會理事長の梁相、駱耀、陳球、陳計ら16名であった。7月には次の新しいクラスが開始されたが、30名を超す人気で詠春拳の香港での名声は一気に広まる。しかし、この頃の参加者には脱落者が多く、最終的に残ったのは結局、詠春四大天王の一人で後に「標指王」とよばれた梁相と詠春四大天王の一人で後に「尋橋王」と呼ばれた駱耀の二人だけであった。

葉問派詠春拳の発展

脱落者の続出に葉問は香港留学時代に培った現代科学の明快で合理的な考え方に基づいた教授方法を採用することになった。中國武術が旧態依然の伝統的な指導方法が常識であった時代に、科学的な視点で合理的に詠春拳を指導するなど想定外の出来事であった。それは陰陽五行八卦 など実証する事の困難な形而上学に終始する東洋哲学から脱却し、葉問の弟子達は明快で理解が容易な最短コースで詠春拳を修行する事が出来る様になったのである。

1961年、駱耀師が深水埗基隆街で独立。また、1963年、詠春四大天王の一人で「講手王」と呼ばれ畏れられた黄淳樑師(1935-1997)が28歳の折りに遂に独立し、弟子をとって生活するようになる。武館の名も「黄淳樑詠春國術會」として詠春拳を更に普及させた。この事は葉問が直弟子(第1世代)だけでなく孫弟子(第2世代)にも慕われる存在になった事を意味する。葉問派詠春拳は、香港でも一大門派へと発展したのであった。

晩年の葉問

1964年、弟子達は葉問の身体のことを考え、武館は閉鎖して休養にあてるよう進言した。それに応えて葉問は九龍・旺角通菜街の一室を終の棲家と決め、詠春拳は個人教授のみ受け付けるのみとした。晩年は徐尚田師が面倒を見ていたとの事である。1968年、葉問75歳の折、詠春門の悲願であった「詠春聯誼會(後の詠春體育會)」が遂に設立された[4]。 葉問は随分この事を喜んだという。 詠春體育會は当初武館というより詠春拳の指導者が集まる会議室として開館されたが、練習場として初めて詠春體育會を使用したのは黄淳樑師で、1997年に黄淳樑師が亡くなるまで練習場としては詠春體育會を独占使用していた。現在では各派が時間割を割いて共同で使用している。

1972年12月1日、多くの弟子達に見送られ、九龍・旺角通菜街の自宅で逝去。享年79歳。ちなみにブルース・リーは葉問の後を追うように翌年の1973年7月20日に僅か32才の若さで亡くなったのである。

詠春各派

広州派詠春拳(蛇鹤咏春拳)

伝説では詠春拳に六點半棍という棍術が加わったのは、古伝の詠春拳を梁蘭桂から継承した黄華寶は、古伝の詠春拳を教授する代わりに、至善禅師が伝えたと言われる南少林寺独特の棍術「六點半棍」を陸錦、又の名を大花面錦から交換教授という形で習得したとされている。広州派詠春拳はこのエピソードの中に登場する陸錦を祖とする。 廣州詠春拳

佛山派詠春拳 (彭南永春拳)

葉問の兄弟子にあたる雷汝済が興した門派である。 佛山派詠春拳

古勞偏身咏春拳

齢70歳になって佛山の「贊生堂」を閉鎖した梁贊は故郷の古勞鎮に戻って隠棲生活を送った。梁贊が亡くなる75歳までに伝えた咏春拳を特に古勞偏身咏春拳と呼ぶ。

葉問派詠春拳

最も有名なスタイルに葉問派詠春拳があるが、その極端にコンパクトで直截性を強調した動作は、古伝の詠春拳を意図的に整理、近代化したものであり、詠春拳の全体像から見れば独特なものであって、これが詠春拳の代表的スタイルというわけではない。葉問派詠春拳は更に實用詠春拳と伝統詠春拳に分類される。

葉問系詠春拳は中国伝統武術についてまわる陰陽、五行、八卦などの東洋哲学から脱却し、練習者に科学的論理性と徹底した理解を求める教授スタイルで知られ、合理的・実戦的であると言われるが、かといって術理が欧米化して堕落した訳ではない。また他の中国武術のような内功、外功といった概念を持たず、呼吸法も自然呼吸である。道教的影響よりも仏教的な色彩が色濃いと言える(外家拳)。武術一般の内功にあたると思われる「内力」という概念があるが、そのための特別な養成法があるわけではなく、正しく練習をしていけば長い間に自然と自覚されていくものとされている。ただし初級套路の小念頭に内功を養う効果があると指導する指導者もいる。実際、小念頭には各種の意念を用いることや、集中力、自然呼吸を重視する点において立禅と共通する要求が多い。

接触感覚を重視することで、目に頼らずに戦うという考えであるために、周辺の比較的スタイルの近い門派には存在する視力の訓練も存在しない。身体に負荷をかけたり、身体を打ち付けて鍛えるような外功的な訓練も行なわず、力みを極端に嫌い、南方の拳法にある剛強なイメージからは外れた訓練体系であることで知られる。この「無駄なことをしない」という思想は、ジークンドーにも受け継がれている。

この簡単さゆえに、戦闘理論に関しては非常に厳密な理解と体現を要求されることになるため、実際には簡単とは言え非常に習得・体現の難しい武術である。その内容も、時代が下るにつれて、また広く練習されるにつれて、非常に残念な事であるが、中核的内容が薄められたり、映画のアクション的な動作や他の格闘技術などの影響を受けて改変・変容し、また新たな一派が勝手に誕生してしまったりすると言う傾向にあるのは残念な事である。葉問詠春拳の本来持っていた徹底したシンプルさと実用を重んじるという特徴は、その学習と理解のし難さも手伝ってか、徐々に見られ難くなっているのは誠に残念の極みである。また一口に葉問派とは言っても、指導者や武館によって指導内容には既に想像以上の大きな違いがあることが知られるようになってきている。

最近では、新たな格闘術EBMAS(Emin Boztepe Martial Arts System)[5]も誕生してしまっており、全く油断の出来ない状況になっている。現在でも世界的な普及・発展を続けているが、これは実はブルース・リーの影響ではなく、香港返還による人材の海外流出によるものである。しかし日本においては未だマイナーな一中国武術に過ぎず、また現在でも「詠春拳=ブルース・リー」というイメージが根強い。

實用詠春拳 (詠春拳學)

葉問派詠春拳の中でもとりわけ黄淳樑師による黄淳樑派詠春拳の事を指す。黄淳樑師は葉問が実施した合理的な教授方法を更に発展させ、科学的詠春拳(Scientific Ving Tsun)を提唱し、自らの詠春拳に學の字を加え「詠春拳學」と称した。武術を崇高な学問にまで昇華させたのである。その詠春拳は一般に實用詠春拳と呼ばれた。實用とは日本語で言うと「実戦」と同義語となる。實用詠春拳に対比する言葉としては伝統詠春拳がある。一般的な葉問派詠春拳は伝統詠春拳に分類される。

その他の詠春拳

刨花蓮詠春拳、紅船永春拳、阮奇山詠春拳、岑能詠春拳、、陳汝棉系永春拳(花洪拳)、順徳永春拳、越南詠春、馬来西亜永春などの各派があり、その他にも秘密主義を貫いて今も隠され続けている伝承も残っているというが、そのほとんどは失伝の危機に瀕している。香港返還の影響や華僑の動きによって世界的に伝承が散らばり、本国である中国で途切れた伝承が、海外に残っているような例も存在するようである。非常に多様である。

詠春拳の技術

坐馬

広東系南派少林拳の基礎的な拳技の事。二字拑羊馬などの「馬」の事である。馬は単に立ち方を表すものではなく、馬の状態になる事を「坐馬」と呼び、特に広東系南派少林拳の修行開始時に於ける最重要技法である。北派少林拳では同様な技法に站樁がある。この技法は詠春拳独自のものではなく、洪家拳とも共通し、実際に二字拑羊馬は両拳に存在する。詠春拳は「坐馬」と言う技術的基盤の上に成立している拳法で、葉問口訣においても「力由地起」とその重要性を説いている。よって馬の重要性を説かない詠春拳は、正統詠春拳ではない。

葉問口訣

葉問口訣とは、詠春拳の極意を短文で表したもので、詠春拳を修業する上で守らなければならない課題や理想的な目標を表した言葉の事である。以下に中文のまま列記する。

念頭不正,終生不正。〈拳套要求、人生寓意〉

念頭主手〈一說守〉,尋橋主腳〈與步〉。〈練習拳套目的〉 標指不出門。(拳法〉

來留去送,甩手直衝。

撳頭扢尾,撳尾扢頭,中間〈飄〉膀起。

正身子午,側身以膊〈為子午〉。

朝面追形,而〈追形〉不追手,以形補手,以手補形。

力由地起,拳由心發,手不出門〈手不離午〉。

避實擊虛 (遇實則卸,見虛即進)。

畏打〈終〉須打,貪打〈終〉被打。(不畏打,不貪打〉

轉馬手先行,上馬手先行。〈轉馬上馬,樁手先行〉

留情不出手,出手不留情。〈留情不打,打不留情〉

不挑不格,消打同時。

葉問派詠春拳を規準としたもの

詠春拳は基本的には短打接近戦の徒手による格闘術体系である。接近戦と手技の細やかさに特徴があり、相手の攻撃を封じて、いち早く相手を打倒することを考えて作られており、競技格闘技とは戦闘行為に対する発想が著しく異なっている。

近距離での打撃に対する防御技術が精緻であり、基礎の拳套である小念頭に含まれる技の約8割は防御技である。ただし防御技・攻撃技と分類のできないものも多い。また相手の動向を察知し制御するという点に重点がおかれ、その攻撃技でも防御技でもない技(概念)というものを有している。この二点が武術格闘技としては非常に特徴的になっている。

詠春拳の訓練は、まず套路によって技のパーツとしての手形と身体構造の運用法の基礎を学び、未精練な筋肉運動の改変を行なう。より実践的な応用や、パーツごとに学んだ手法の整合法は対人練習によって学び、訓練する。このため、対人訓練には大きなウェイトが置かれている。過手(グォーサオ)と呼ばれる、お互い接手(チプサオ)や雙黐手(セヨンチーサオ)を実施した状態から一定のルールの上で自由に攻防する練習によって、様々の応用技術、戦闘理論、展開原則、歩法、体捌き、位置取りなどを学び、また神経反応の改変と養成、本能的な精神反応の改変させ、また橋手や馬を訓練する。

葉問派の技術的な特徴としては、黐、貼身ということが挙げられる。 また短橋狭馬の拳法の中でも、葉問派はより動作を小さく、直線的にまとめてある。 ただし、第三段階の標指になるとこの特徴は変化する。

詠春拳の技術に関する誤解

詠春拳というとワンインチパンチ(寸打)が有名であるが、詠春拳(または南派少林拳術)の寸打は独特であり、北派拳術の寸勁と同じものとは言えない。また、詠春拳には裏拳や曲線を描く打撃がないように言われることがあるが、実際には掛槌(裏拳)、横拳(フック)、上沖拳アッパーチョップ、各方向からの肘打ち、更には回し蹴り(に似たもの)までもがある。特にチョップと裏拳は肘技に関連しているのでよく使用される。それらの技術は、特に近代格闘技などから流入したという訳ではない。

ごく最近まで日本では詠春拳は福建系南派少林拳に分類され、白鶴拳と共通点の多い拳法と考えられてきた。しかし実質的には白鶴拳と詠春拳は基本功から根本的に違う別門派である。詠春拳は広東系南派少林拳特有の技法を有し、これまで通説とされてきた白鶴拳と同系統との説は、日本人の根拠のない思い込みによる誤解であった[6]

日本における詠春拳事情

日本で詠春拳といえば、それはおおむね葉問派詠春拳のことである。

1970年代のブルース・リーの人気により、日本でも詠春拳を学びたいと考える人が沢山いた。しかし葉問の直弟子全盛の時代には香港まで渡り、または香港人に付いて最終段階である標指まで学ぶことにできたのはごく小数に限られた。理由の一つに「日本人に教えてはならない」という葉問の教えの影響がある。

1980年代〜1990年代に日本人でも学べる香港の武館は、黄淳樑師の武館だけであったとも言われており、黄淳樑派詠春拳以外はこの遺言の影響は現在でも残る。この影響により、日本で武館を開く者はまだ数少なく、練習者も少ない。運良く香港の傳人に就いて全伝を学ぶことができても日本で教えてはならないと堅く言い含められていることがあり、今も広範な伝承にはブレーキがかかっている。この事が日本と各国との人気・事情の差となっている。

1980年代より川村祐三氏(徐尚田、姜撓基伝)、台湾出身の錢彦氏(盧文錦伝)らが中国武術専門誌や書籍、主催する団体を通して詠春拳を日本に紹介してきたが、徐尚田系の詠春拳修得そのものの難しさ[7]もあって幅広い普及には至っていない。

日本国内で葉問派詠春拳の実像にアクセスできる機会は今もって少なく、標指までの正しい全伝を学べる機会となってはほぼ皆無という状況にある。とりわけ香港の梁贊直系主流を自負する団体に関しては、實用詠春拳の黄淳樑派詠春拳以外は葉問の遺言がそのまま保たれている状況にある。現在では、梁挺派詠春拳を指導する団体や、新たな格闘術EBMAS、出自不明の欧米人指導者によってWing TsunやWing Tzun[8]は国内で普及しつつあるが、日本で正しい詠春拳を全伝学べる機会はほぼ期待できないのが現実だ。

脚注

  1. ^ *近年「永春白鶴拳」や「紅船永春拳」、「詠春拳」はそれぞれ別門派として扱われるようになっている。異なる点として、全体的に古いものほど洪家拳に近い趣があること、古い「永春拳」には詠春三大手と呼ばれる基本手型が存在しないことなどがある。
  2. ^ *近年になって南少林寺に関しての古文書が嵩山少林寺から発見され、それを元に福建省の九連山で発掘調査を行うと明代の大規模な寺院の遺跡が見つかるなど、定説が覆されつつあると報じられているが、その真実の解明については今後の研究が待たれる。
  3. ^ *香港の赤柱に現在もある聖士提反書院(St. Stephen's College)へ留学中に葉問は外国語や数学、科学に興味を覚え勉学に勤しんだ。
  4. ^ *英語表記は「Ving Tsun Athletic Association」で葉問派詠春拳の統括団体である。詠春體育會は、香港の武術団体では初めて香港政府から認可を受け、社団(法人)を取得した。
  5. ^ *葉問の曾孫弟子にあたる梁挺氏が主宰する梁挺派詠春拳より、更に派生した新たな格闘術の団体で、この格闘術の術理が中国武術の範疇に入っていると断ずるのは極めて難しい。
  6. ^ *詠春拳には白鶴拳にあるような特殊な発声法や震身勁と呼ばれる発勁法、鉄砂掌等の外功による鍛錬法は一切存在しない。両拳には技術的相違点が多く、同じ技術体系にあると考えるほうがよほど無理があると言える。
  7. ^ 詠春四大天王の一人で「小念頭王」と呼ばれる徐尚田師の詠春拳は初級套路・小念頭の段階を八年という途方もない歳月を費やす事で有名である。
  8. ^ アルファベット表記では詠春は通常「Wing Chun」もしくは「Ving Tsun」となるが、詠春拳から派生した欧米人がターゲットの新団体は、アルファベット表記を変更して、自らの独自性をアピールする試みが目立っている。

外部リンク

関連項目