府内藩
府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。本記事では関連のある亀川藩、中都留藩、豊後高松藩についても記述する。
藩史
豊後府内は大友氏の居城であったが、大友吉統は文禄の役で卑怯なる振る舞いをしたため、豊臣秀吉の怒りを買って改易されてしまった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで、豊後高田領主の竹中重利ははじめ西軍に与して田辺城の戦いに参加したが、後に東軍に寝返ったため、戦後に徳川家康から賞されて、高田1万石から府内2万石に加増移封され、府内藩の藩祖となった。重利の後は子の重義が後を継いで徳川秀忠の寵を得たが、罪を得て改易されてしまった。
代わって下野国壬生藩より日根野吉明が2万石で入るが、明暦2年(1656年)に嗣子無くして死去してしまい、無嗣改易されてしまった。その後、豊後高松藩より松平忠昭が2万1000石で入り、以後、大給松平家が10代にわたって支配し、明治維新を迎えた。
明治4年(1871年)、廃藩置県により府内県となり、後に大分県に編入された。
歴代藩主
竹中家
2万石(外様 1601年 - 1634年)
日根野家
2万石(外様 1634年 - 1656年)
松平〔大給〕家
2万1000石(譜代 1656年~1871年)
- 忠昭(ただあき)〔従五位下、左近将監〕
- 近陳(ちかのぶ)〔従五位下、対馬守〕
- 近禎(ちかよし)〔従五位下、対馬守 寺社奉行〕
- 近貞(ちかさだ)〔従五位下、対馬守〕
- 近形(ちかのり)〔従五位下、主膳正〕
- 近儔(ちかとも)〔従五位下、長門守〕
- 近義(ちかよし)〔従五位下、主膳正〕
- 近訓(ちかくに)〔従五位下、左衛門佐〕
- 近信(ちかのぶ)〔従五位下、信濃守〕
- 近説(ちかよし)〔従五位下、左衛門尉 若年寄・会計奉行〕
亀川藩
亀川藩(かめがわはん)は、江戸時代前期に豊後国速見郡周辺を領有した藩。藩庁として亀川(現在の大分県別府市)に陣屋が営まれた。
寛永11年(1634年)、松平忠昭が丹波亀山藩から移封されて立藩した。
翌寛永12年(1635年)に忠昭は中都留藩に転封となったため、当藩は廃藩となった。
中津留藩
中津留藩(なかづるはん)は、江戸時代前期に豊後国大分郡周辺を領有した藩。
寛永12年(1635年)、松平忠昭が亀川藩から移封されて立藩した。
寛永19年(1642年)に忠昭は豊後高松藩に転封となったため、当藩は廃藩となった。
豊後高松藩
高松藩(たかまつはん)は、江戸時代前期に豊後国大分郡周辺を領有した藩。藩庁として小路口村(現在の大分県大分市高松)に屋敷が営まれた。
寛永19年(1642年)、松平忠昭が中津留藩から移封されて立藩した。
明暦4年(1658年)に忠昭は府内藩に転封となったため、当藩は廃藩となった。
幕末の領地
参考文献
- 児玉幸多・北島正元監修『藩史総覧』新人物往来社、1977年
- 『別冊歴史読本 江戸三百藩 藩主総覧 歴代藩主でたどる藩政史』新人物往来社、1977年
- 中嶋繁雄『大名の日本地図』 文春新書2003年
- 八幡和郎『江戸三〇〇藩 バカ殿と名君 うちのさまは偉かった?』光文社新書、2004年
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