マイソール王国

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マイソール王国
ಮೈಸೂರು ಸಾಮ್ರಾಜ್ಯ
ヴィジャヤナガル王国 1399年 - 1947年 英領インド
インド共和国
マイソール王国の国旗
(国旗)
マイソール王国の位置
1784年のマイソール王国の版図
公用語 カンナダ語英語
首都 マイソールシュリーランガパッタナ
元首等
1399年 - 1423年 (初代) ヤドゥ・ラーヤ
1761年 - 1782年 (最盛期)ハイダル・アリー
1782年 - 1799年 (最盛期)ティプー・スルタン
1940年 - 1947年 (終代)ジャヤチャーマ・ラージェーンドラ
変遷
設立 1399年
滅亡1947年

マイソール王国(マイソールおうこく、英語en:Kingdom of Mysore, カンナダ語:ಮೈಸೂರು ಸಾಮ್ರಾಜ್ಯ)は、14世紀末から20世紀中頃にかけて、南インド、現在のカルナータカ州マイソール地方に存在したヒンドゥー王朝(一時イスラーム王朝)(1339年 - 1947年)。首都はマイソール(現マイスール)とシュリーランガパッタナ

マイソールを首都においたためこの名がある。その歴史の多くをヒンドゥーのウォディヤール家カンナダ語: ಒಡೆಯರ್ Wodiyar)が治め、1760年以降にムスリム支配におかれ、1799年よりイギリス東インド会社(後にイギリス領インド帝国)の支配下となり、ウォディヤール家に戻り、マイソール藩王国と呼ばれた。

歴史

ヴィジャヤナガル王国からの独立

マイソール王国の王家であるウォディヤール家は、14世紀末頃から現カルナータカ地方に存在し、ヴィジャヤナガル王国の領土拡大にともないその臣下となり、その封建国として存続した。しかし、1565年、ヴィジャヤナガル王国がターリコータの戦いにおいて敗北した後、しだいに独立の動きを見せ、事実上半独立の立場をとった。

1610年、ヴィジャヤナガル王ヴェンカタ2世の治世に、領主ラージャ・ウォディヤール1世(在位1578 - 1617)はヴィジャヤナガル王国からマイソール王国の独立を宣言して、首都をマイソールからその近郊のシュリーランガパッタナ(セリンガパタム)に遷都した。

独立初期の歴史

ナラサー・ラージャ1世

ナラサー・ラージャ1世(在位1638 - 1659)の治世、マイソール王国は同じようにヴィジャヤナガル王国から独立したマドゥライ・ナーヤカ朝ケラディ・ナーヤカ朝といったナーヤカ朝などと争い、その領土の征服に成功している。

また、ナラサー・ラージャ1世は首都シュリーランガパッタナに城壁、貨幣鋳造所、火薬庫を建造する一方、カーヴェーリ川からの用水路を複数作り、周辺地域の農業開発を進めた。だが、17世紀、デカンのビジャープル王国はヴィジャヤナガル王国など南方諸国を攻撃し、1638年にマイソール王国の首都シュリーランガパッタナはビジャープル王国に包囲された。1649年、主家であったヴィジャヤナガル王国がビジャープル王国に攻め滅ぼされると、ナラサー・ラージャ1世はその最後の王シュリーランガ3世を支援している(のちにシュリーランガ3世がマイソール王国に亡命してきた際も、それを受け入れている)。

しかし、その従兄弟ドッダ・デーヴァ・ラージャ(在位1659 - 1673)の治世、ケラディ・ナーヤカ朝の大軍が首都シュリーランガパッタナを攻撃したが、マイソール王国は撃退している。このように、王国の成立初期には混乱があったが、その治世も先王と同様に王国の領土を拡大している。

マイソール王国の中央集権化

チッカ・デーヴァ・ラージャ
ファイル:Narasaraja Wadiyar II.jpg
ナラサー・ラージャ2世

17世紀後半、その息子チッカ・デーヴァ・ラージャ(在位1673 - 1704)の治世に、それまで在地の連合政権の性格を見せていたマイソール王国の中央集権化が進められ、王権の強化が行われた。

また、その治世を通して、マイソール王国はナーヤカ朝などと争い領土を拡大し、デカンで強盛を誇っていたマラーター王国の王サンバージーが、1681年国境に攻めてきたが、これを撃退している。だが、1689年にマラーター王国のサンバージーが死亡し、マラーター勢力が南下すると、マイソール王国の領土はマラーター勢力によって荒らされた。

そのため、チッカ・デーヴァ・ラージャはそれを追ってきたムガル帝国の皇帝アウラングゼーブに味方し、その代償として領土を得るなどして危機を脱した。

その後、その息子ナラサー・ラージャ2世(在位1704 - 1714)の治世、1707年に皇帝アウラングゼーブが死亡し帝国が衰退していくと、ムガル帝国の広大な領土は徐々に解体され、1713年カルナータカ太守アルコット太守)が独立してカルナータカ地方政権が成立するなど、南インドはこれらをはじめとするいくつかの地方勢力が分立する形となり、マイソール王国もその主権から離れていった。

カーナティック戦争と簒奪者ハイダル・アリーによる近代化と領土拡大

ハイダル・アリー

17世紀、イギリスマドラスに、フランスポンディシェリーにそれぞれ南インドに確立し、18世紀になると植民活動に乗り出そうとしていた。1740年以降、カルナータカ地方政権で内紛がおこり、イギリス、フランスや現地勢力の争いと結び付き、1744年には南インドでは以降3次にわたるカーナティック戦争(~1761年)が勃発した。マイソール王国もこの戦争に参加し、第2次カーナティック戦争以降、王国のムスリム軍人であるハイダル・アリーが活躍した第2次、第3次カーナティック戦争では、ハイダル・アリーは王国の軍司令官の1人としてその天才的な軍事才能を発揮し、マラーター同盟やニザーム王国との戦いを有利に進め、マイソール王クリシュナ・ラージャ2世(在位1733 - 1760)はハイダル・アリーを重用し、1759年に彼を王国の軍総司令官と宰相に任命した。

しかし、1760年にその失脚計画が露見したため、ハイダル・アリーはクリシュナ・ラージャ2世を宮殿に幽閉して王位を簒奪し、自ら新たに王(在位1760 - 1782)となり、ムスリム王朝を樹立した。翌1761年には、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世による王位の認可を受け、その正当性を確保した。一方、旧王家のウォディヤール家は家臣の地位に落とされ、1799年までの間その当主は新王朝の王によって選ばれた。

新たな王ハイダル・アリーは軍を西洋式にするなどの近代化を進め、行政機構の中央集権化を進め、そのひとつに、ザミーンダールによる徴税請負制を徐々に廃し、国家による直接徴税を行い、税収の増加を目指そうとした。また、ハイダル・アリーは宗教に比較的に寛容であり、彼の最初の宰相をはじめ文官、軍の指揮官や兵士ほとんどはヒンドゥー教徒だった。さらに、ハイダル・アリーはマイソール王国の領土の拡大を目指し、1763年3月にケラディ・ナーヤカ朝を滅ぼし、ケーララ地方にも侵略し、1766年ザモリンカリカットを落とし、1767年初頭にはトラヴァンコール王国に侵入し、急速に南インドに領土を拡大した。

このように、マイソール王国は南インドにおいて最も強勢を誇ったが、当時第3次カーナティック戦争終結後に南インドにおいて優位だったイギリスとの対立を不可避にした。また、デカンのマラーター同盟ニザーム王国なども、マイソール王国の南インドにおける進出を脅威とし、イギリスと協力関係を結ぼうとした。

第1次、第2次マイソール戦争

マイソール戦争による領土の変化
1780年のマイソール王国の領土。ハイダル・アリーは一代でヴィジャヤナガル王国の旧領に相当する地域を王国の版図とした。

ハイダル・アリーは以前より、カルナータカ太守ムハンマド・アリー・ハーンがイギリスと同盟して、マドラスを使用させていることに不満で、そのうえ、デカンのマラーター同盟やニザーム王国などがイギリスと協力関係を結び、マイソール王国の近隣を取り巻いていることも不満だった。

そして、1767年1月、マラーター同盟がマイソール王国の領土に侵入し、マイソール王国も交戦し、第1次マイソール戦争(アングロ・マイソール戦争)が勃発した。イギリスはマラーター同盟やニザーム王国とともに戦ったが、マイソール王国も近代化のために力をつけており、1769年に逆にマドラスを落とされ、同年3月29日マドラス条約を結んで一時停戦した。

その後、1774年にマイソール王国はケーララ地方のコーチン王国とトラヴァンコール王国に家臣として貢ぐように勧め、1776年8月までにコーチン王国の北部を占領するなど、1770年代を通してマイソール王国の領土を拡大した。ハイダル・アリーはその間、トルコオスマン帝国イランザンド朝アラビア半島オマーンなどと使節を交わしている。このことから、ハイダル・アリーがとても外交手腕に優れた人物だったことがわかる。また、1779年にハイダル・アリーは、同じカルナータカに存在したチトラドゥルガ・ナーヤカ朝を滅ぼし、その領土を併合している。

しかし、同年イギリスがフランスからケーララの都市マーヒを奪い、軍事的にも重要だったこの地が奪われたことで、南インドにおけるイギリスの脅威が増した。ハイダル・アリーはこの脅威に対して、フランス、マラーター同盟、ニザーム王国と同盟し、1780年7月2日にイギリスに対して宣戦布告した(第2次マイソール戦争)。同月ハイダル・アリーはカルナータカ地方政権の領土に80000~100000の大軍を送り、同年11月3日その首都アルコットを占領し、マドラス近くまで攻めたが、攻め落とすことはできなかった。第2次マイソール戦争中、1782年12月6日にハイダル・アリーは死亡し、その息子ティプー・スルタン(在位1782 - 1799)が新たな王となった。ティプー・スルタンもまた父同様に有能な君主であり、その武勇から「マイソールの虎」とも呼ばれ、第2次マイソール戦争をイギリス相手に有利に戦い、1784年3月11日マンガロール条約英語版を結んで戦争を終わらせた。

ティプー・スルタンと第3次、第4次マイソール戦争

ティプー・スルタン
第3次戦争によって没収されたマイソール王国の版図
第4次戦争によって奪われたマイソール王国の版図

新王ティプー・スルタンは父同様に広い国際視野を持ち、イギリスと対立していたフランスはもとより、トルコのオスマン帝国やアフガニスタンドゥッラーニー朝、アラビア半島のオマーンに使者を送り、イギリスに対しての同盟を持ちかけた。

また、フランスをもとに軍の近代化、行政機構の中央集権化を進め、土地制度や司法制度、幣制の改革を行い、新たに併合したカルナータカ地方の領土の統治に力を入れ、マイソール王国の国力の向上を目指した。土地制度では、ティプー・スルタンはジャーギールを与える慣行を廃止し、父同様にザミーンダールなどによる直説徴税を廃し、国家の税収を上げようとした。しかし、耕作民に課した地租は同時代のムガル帝国、マラーター同盟などと変わらず、その額は生産物の3分の1に及んだが、ザミーンダールの不法な付加税の徴収はなくなった。軍政面では、ティプー・スルタンは当時のインドでは最高水準の軍を保持していたとされ、ムガル帝国やマラーター同盟の軍では無規律が横行していたが、マイソール王国の軍はきちんと統制がとれ、ヒンドゥー、ムスリムともに彼に忠実だった。

しかし、1785年以降、デカンのマラーター同盟やニザーム王国と再び争うようになり(前戦争ではこれらは中立を保っていた)、イギリスも南インドの植民地計画を進めるようになり、マイソール王国の領土分割をねらう勢力はイギリスに加担した。

1790年初頭イギリスは、1789年12月にティプー・スルタンがケーララ地方を侵略したことを口実に宣戦し、マラーター同盟、ニザーム王国、トラヴァンコール王国はイギリスに加担した。一方、フランスは前年からのフランス革命により兵を出せず、オスマン帝国はロシアとの戦争によりイギリスと結んでおり、マイソール王国は不利を強いられた。さらに、1792年2月5日から3月18日にかけて、マイソール王国はイギリス、マラーター同盟、ニザーム王国の軍にシュリーランガパッタナを包囲され、マイソール王国軍は一連の戦いで20000人の死者を出した。そして、同月19日ティプー・スルタンは敗北を認め、シュリーランガパトナ条約を結び、トラヴァンコール王国、コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイール王国の約半分の領土と、多額の賠償金の支払いを約束し、その保証に二人の息子を差し出した。

この戦争によりマイソール王国は莫大な損害を被り、18世紀末にティプー・スルタンはフランスのナポレオンと結ぼうとしたが、イギリスはこれを条約違反とし、1799年3月8日に第4次マイソール戦争が勃発した。マイソール王国は交戦したものの、イギリス軍に敗北し続け、同年4月5日にイギリスとニザーム王国の軍50,000により、首都シュリーランガパッタナを包囲された(シュリーランガパッタナ攻囲戦英語版)。ティプー・スルタン率いるマイソール王国軍30,000は、1ヵ月にわたり交戦したものの、5月4日の総攻撃でティプー・スルタンは戦死し、シュリーランガパッタナは陥落、占領された。(ティプー・スルタンとシュリーランガパッタナ攻防戦で運命を共にしたものは、軍人だけで6000人に及び、のちにティプー・スルタンとその主な武将の墓が、シュリーランガパッタナの宮殿に作られた)。

これにより、30年以上にわたるマイソール戦争は終結し、イギリスの南インドにおける覇権が決まり、インドの植民地化がまた一段と進む結果となった。また、マイソール王国が制圧されたことにより、19世紀イギリスは内紛の多かったマラーター同盟に介入し、中断していたマラーター戦争を再開して第2次マラーター戦争(1803~1805)と第3次マラーター戦争(1817~1818)へとつながっていった。

マイソール王国の藩王国化とインド併合

チャーマ・ラージャ10世

1799年6月にイギリスは戦後処理として、ヒンドゥー王家のウォディヤール家を復活させ、幼王クリシュナ・ラージャ3世(位1799 - 1831)を即位させ、マイソール王国を藩王国化した。また、マイソール王国の首都はシュリーランガパッタナからマイソールへと移された。一方、ティプー・スルタンの一族などの旧王家はヴェールールの城に住むこととなり、そこで年金生活を行った。しかし、1806年7月にヴェールールでシパーヒーらがイギリスに対して反乱を起こすと、旧王家の一族もティプー・スルタンの息子をはじめ参加したが失敗し、捕えられてカルカッタへ強制送還された。

一方、1831年マイソール藩王国は農民反乱が起きたことを理由に、同年10月3日藩王クリシュナ・ラージャ3世が存命中にもかかわらず、イギリスに統治権を奪われた。マイソール藩王国はイギリス領インドへと編入され、1881年まで50年間イギリスがバンガロールを行政中心地にマイソール支配した。

その後、1857年1859年インド大反乱ののち、1881年にイギリスはマイソール藩王国を復活させ、クリシュナ・ラージャ3世の孫チャーマ・ラージャ10世(在位1881 - 1894)が即位した。イギリス領インド帝国の支配下で間接支配のもと、藩王家はインド独立までこの地域を治めたが、その統治期間の間、平均識字率や社会発展の面ではイギリス領インドよりもずっと進んでいて、かなり近代的かつ能率の高い行政を行なっていた。

そして、1947年8月15日インド・パキスタン分離独立時、最後の藩王ジャヤチャーマ・ラージェーンドラ(在位1940 - 1947)と藩王家は、帰属先をインドとし、その領土はマイソール州となり、1973年11月以降はカルナータカ州となった。

歴代君主

※1799年以降はマイソール藩王。また、ハイダル・アリーとティプー・スルタンの統治期間の間に、ウォディヤール家では、ナンジャ・ラージャ(Nanja Raja)、チャーマ・ラージャ8世(Chama Raja VIII) 、チャーマ・ラージャ9世(Chama Raja IX)が交代した。

参考文献

  • 「新版 世界各国史7 南アジア史」 山川出版社 辛島 昇
  • 「世界歴史の旅 南インド」 山川出版社 辛島昇・坂田貞二
  • 「ケンブリッジ版世界各国史 インドの歴史」 創士社 バーバラ・D・メトカーフ、トーマス・D・メトカーフ
  • 「近代インドの歴史」 山川出版社 ビパン・チャンドラ  

関連項目

外部リンク