オデヤ朝

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オデヤ朝
Wadiyar dynasty
ヴィジャヤナガル王国
マイソール・スルターン朝
1399年 - 1947年 英領インド
インド共和国
マイソール王国の国旗 マイソール王国の国章
(国旗) (国章)
マイソール王国の位置
マイソール宮殿
公用語 カンナダ語英語
首都 シュリーランガパトナ
マイソール
ラージャ
マハーラージャ
1399年 - 1423年(初代) ヤドゥ・ラーヤ
1673年 - 1704年 チッカ・デーヴァ・ラージャ
1894年 - 1940年 クリシュナ・ラージャ4世
1940年 - 1947年(終代) チャーマ・ラージャ11世
変遷
成立 1399年
滅亡 1947年
通貨 ルピー

オデヤ朝(オデヤちょう、カンナダ語:ಒಡೆಯರ್, 英語:Wadiyar dynasty)は、南インドカルナータカ地方に存在したマイソール王国ヒンドゥー王朝1399年 - 1947年)。マイソール王国の歴史において、その大部分の期間を統治した王朝でもある。

歴史[編集]

1399年ヤドゥ・ラーヤマイソールの支配権を奪った[1]マイソール王国を建国した。以後、彼とその子孫の王朝はオデヤ朝と呼ばれた。

この王朝は当時南インドを支配していたヴィジャヤナガル王国に従属し、16世紀前半の王チャーマ・ラージャ3世クリシュナ・デーヴァ・ラーヤに娘を嫁がせ、1520年ライチュールの戦いにも従軍した[2]

その後、その息子ティンマ・ラージャ2世の治世、1565年にヴィジャヤナガガル王国がターリコータの戦いで敗北すると、弟のチャーマ・ラージャ4世は半独立の立場を打ち出した[3]

1610年ラージャ・オデヤ1世シュリーランガパトナをヴィジャヤナガル王国から奪い、独立を宣言した。また、これにより首都がマイソールからシュリーランガパトナへと遷都された[4]

その後、17世紀後半から新興カーストマラーターが台頭し、シヴァージーによってマラータ-王国が建国されると、マイソール王国とマラーター王国は交戦状態となった。1685年以降、マラーターの侵攻が本格化すると、時のオデヤ朝の王チッカ・デーヴァ・ラージャムガル帝国と結び、1687年にはバンガロールを封土として与えられた[5]

18世紀初頭、ムガル帝国が撤退したのち、南インド一帯は争乱に巻き込まれた。こうした中で、ハイダル・アリーという王国のムスリム軍人が台頭した。1761年に彼が王国の政権を握るとマイソール王らはその傀儡となった[6]

ハイダル・アリーの死後、息子ティプー・スルターンも王国の政権を握り続け、1786年にはパードシャーを称し、1796年チャーマ・ラージャ9世の死を機にオデヤ朝を廃絶した。ハイダル・アリー父子の統治期間、彼らの傀儡であったナンジャ・ラージャチャーマ・ラージャ8世、チャーマ・ラージャ9世の三王は、彼らによって殺害されたともいう[7]

だが、1799年5月4日、ティプー・スルターンが第四次マイソール戦争で戦死すると、イギリスマイソール・スルターン朝を廃絶し、チャーマ・ラージャ9世の息子クリシュナ・ラージャ3世を即位させ、オデヤ朝を復活させた[8]。その後、7月に軍事保護条約が締結され、王国は藩王国となった[9]

19世紀後半と20世紀後半において統治したチャーマ・ラージャ10世クリシュナ・ラージャ4世の父子は、開明的で近代的思考を持った人物であり、藩王国の近代化に大きく貢献した[10]

1947年8月15日チャーマ・ラージャ11世の治世、インド・パキスタン分離独立に際して藩王国はインドに併合され、オデヤ朝の歴史も終わりを告げた[11]

歴代君主[編集]

出典・脚注[編集]

  1. ^ Mysore 2
  2. ^ パイス、p248
  3. ^ Mysore 2
  4. ^ Mysore 2
  5. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p171
  6. ^ KHUDADAD The Family of Tipu Sultan GENEALOGY
  7. ^ Mysore 3
  8. ^ Mysore 4
  9. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p44
  10. ^ Mysore 4
  11. ^ Mysore 5

参考文献[編集]

  • 辛島昇編 『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』 山川出版社、2007年
  • パイス、ヌーネス著 『ヴィジャヤナガル王国誌 大航海時代叢書(第Ⅱ期)』 岩波書店、1984年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]