マドゥライ・ナーヤカ朝

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マドゥライ・ナーヤカ朝の版図

マドゥライ・ナーヤカ朝(マドゥライ・ナーヤカちょう、英語:Madurai Nayaka dynasty)とは、南インドタミル地方(現タミル・ナードゥ州)に存在したヒンドゥー王朝16世紀 - 1736年)。ナーヤカ朝の一つでもある。首都マドゥライティルチラーッパッリ

歴史[編集]

独立[編集]

ヴィシュワナータ・ナーヤカ

タミル地方都市マドゥライは歴史のある地で、古くはパーンディヤ朝の首都として繁栄したが、14世紀初頭にデリー・スルタン朝に幾度となく略奪、破壊され、1334年以降はその地方長官が樹立したマドゥライ朝英語版の首都となり、1378年ヴィジャヤナガル王国の領土となった。

16世紀頃から、マドゥライにおいて、ナーヤカ(ヴィジャヤナガル王国の領主層)としてヴィジャナガル王国に仕えていた有力な一族がみられる。

また、このナーヤカ一族はヴィジャナガル王国において、地方長官クラスの大ナーヤカであったことも知られ、ヴィシュワナータ・ナーヤカ(在位1529 - 1563)が最初の君主として記録されている。

その息子クマーラ・クリシュナッパ・ナーヤカ(在位1563 - 1573)の治世、1565年にヴィジャヤナガル王国がターリコータの戦いにおいて敗北したのち、ナーヤカ朝としての独立の動きを見せ、事実上半独立の立場をとった。

ムットゥ・ヴィーラッパ・ナーヤカ(在位1609 - 1623)の治世、1614年ヴェンカタ2世の死後、同年と1616年から1617年にかけて、ヴィジャヤナガル王国は王位をめぐる深刻な内紛が起こった。

これにより、マドゥライ・ナーヤカ朝は、衰退したヴィジャヤナガル王国から完全に独立を果たした。

争いと繁栄[編集]

ミーナークシ寺院
ティルマライ・ナーヤカ
ミーナークシ寺院の黄金池

ムットゥ・ヴィーラッパ・ナーヤカの息子ティルマライ・ナーヤカ (在位1623 - 1659)に治世には、1649年にヴィジャヤナガル王国が滅亡し、マドゥライ・ナーヤカ朝は、ほかのナーヤカ朝やマイソール王国と争っている。

なお、この王朝は芸術の点では突出しており、16世紀から多数のヒンドゥー教寺院が建設され、16世紀から17世紀にはかけては、かの有名なインド最大規模のヒンドゥー教の寺院であるミーナークシ寺院が建設された。

16世紀中頃のヴィシュワナート・ナーヤカの時代から、17世紀の王ティルマライ・ナーヤカの治世にかけてまで、首都マドゥライにヒンドゥーのシヴァ神を祭る大寺院、今日でもマドゥライの顔と名高いミーナークシ寺院が建設された。

この寺院はシヴァ神妃であるミーナークシを祀り、インド最大規模のヒンドゥー寺院であるとともに、寺院の中央に存在する巨大な「黄金池」や「千本柱広間」という多数の仏像が置かれた大広間を持ち、後期ドラヴィダ型建築の典型的なものとして知られる。

また、ティルマライ・ナーヤカはヒンドゥー教の手厚い保護者であるとともに、多数のヒンドゥー寺院を建設したことで知られ、1636年、首都マドゥライにはティルマライ・ナーヤカ宮殿と呼ばれる宮殿も造営した。

1659年ティルマライ・ナーヤカの死後、息子のムットゥ・アラカードリ・ナーヤカ(在位1659 - 1662)が後を継いだが、3年後の1662年に死亡し、 その幼少の息子チョッカナータ・ナーヤカ(在位1662 - 1682)が新たな王となった。

衰退と飢饉[編集]

チョッカナータ・ナーヤカの治世に造営された、ティルチラーッパッリの宮殿
ティルチラーッパッリの宮殿内部

チョッカナータ・ナーヤカの治世、1673年タンジャーヴール・ナーヤカ朝を滅ぼし、その首都タンジャーヴールには、弟のアラギリ・ナーヤカを配置した。

しかし、1675年ビジャープル王国によって派遣されたヴィヤンコージーが、タンジャーヴールを奪い、タンジャーヴール・マラーター王国を建国した。

これ以降、タンジャーヴール・マラーター王国が新たな隣国となり、マイソール王国なども台頭するようになり、これらと争うことになった。

だが、この頃、マドゥライ・ナーヤカ朝の領土は飢饉に陥り、農村や都市のみならず、マドゥライまで荒廃し、王であるチョッカナータ・ナーヤカは堕落してしまった。

この地を訪れていたイエズス会士は、1678年の状況について、

「以前はとても繁栄していた都市は、面影はなくなり、かつて豪華で壮大だった宮殿は、荒廃して廃墟となっている。マドゥラ(マドゥライ)はたとえると盗賊のたまり場よりも少ない町である。新しいナーヤッカンは本質的に何もしない王である。彼はすべての夜を寝て、すべての日を寝ており、寝ていない彼の隣人は、各々の時間に、彼から彼の領土のいくつかの断片をひったくる。」

、と語っている。

チョッカナータ・ナーヤカは晩年を、タンジャーヴール・マラーター王国とマイソール王国の侵入に苦しみながら、1682年に死亡した。

マンガンマルの功績[編集]

マンガンマル
ムガル帝国の最大版図

だが、その息子のランガクリシュナ・ムットゥ・ヴィーラッパ・ナーヤカ(在位1682 - 1689)の治世には、北インドからの圧力も強まりを見せるようになった。

1681年から、ムガル帝国皇帝アウラングゼーブによりデカン戦争が行われ,1686年ビジャープル王国と、1687年ゴールコンダ王国が滅ぼされ、1689年にはマラーター王国の王サンバージーを捕え処刑し、デカンに進出しつつあったマラーター王国を南に押し返した。

このように、1680年代にムガル帝国がデカンにおいて覇権を確立すると、皇帝アウラングゼーブはマラーター勢力の追討も兼ねて、南インド侵略しようとし、マドゥライ・ナーヤカ朝も危機にさらされた。

このような情勢の中、1689年、ランガクリシュナ・ムットゥ・ヴィーラッパ・ナーヤカは死に、その母親でチョッカナータ・ナーヤカの妃マンガンマル(在位1689 - 1704)が、後を継いだ。

1690年代にかけて、マンガンマルはムガル帝国のアウラングゼーブの侵略を食い止め、南下してきたマラーター勢力や、かねてからの南インドのマイソール王国、タンジャーヴール・マラーター王国の侵入に対抗した。

この女王がマドゥライ・ナーヤカ朝で最も偉大な君主とされるのは、こうした外敵の侵入を食い止めた功績からだろう。

なお、1704年にマンガンマルは、孫のヴィジャヤランガ・チョッカナータ・ナーヤカ(在位1704 - 1731)に王位を譲り、1705年に死亡した。

滅亡[編集]

1707年にムガル皇帝アウラングゼーブが死亡し、帝国軍はデカンから撤退したので、マドゥライ・ナーヤカ朝はムガル帝国の侵略の危機を脱した。

しかし、アウラングゼーブが南インドのアルコットに置いたカルナータカ太守は、1713年に地方政権化し(カルナータカ地方政権)、ヴィジャヤランガ・チョッカナータ・ナーヤカの治世の大半はそれや、タンジャーヴール・マラーター王国の戦いに費やされた。

1731年、ヴィジャヤランガ・ナーヤカの死後、その妃であり女王ミーナークシ(在位1731 - 1736)も、カルナータカ地方政権やタンジャーヴール・マラーター王国との戦いを続けた。

だが、1736年にミーナークシは、カルナータカ地方政権の太守の娘婿チャンダー・サーヒブの姦計に陥り、首都ティルチラーッパッリを落とされ、捕えられたのち自殺した。

しかし、マドゥライ・ナーヤカ朝が滅ぼされたことで、南インド諸勢力の均衡が崩れ、カルナータカ地方政権が、タンジャーヴール・マラーター王国の首都タンジャーヴールを脅かした結果、1744年から始まる第1次カルナータカ戦争の遠因の一つとなった。

参考文献[編集]