第一次マイソール戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
第一次マイソール戦争
マイソール戦争
Anglo-Mysore War 1 and 2.png
第一次マイソール戦争による領土の変化
1767年 - 1769年
場所 南インド
結果 マイソール王国の勝利(マドラス条約の締結)
衝突した勢力
Flag of Mysore.svg マイソール王国
Asafia flag of Hyderabad State.png ニザーム王国
Flag of the British East India Company (1707).svg イギリス東インド会社
Flag of the Maratha Empire.svg マラーター王国
Nawab flag.GIF カルナータカ太守
指揮官
Flag of Mysore.svg ハイダル・アリー
Flag of Mysore.svg ティプー・スルターン
Flag of Mysore.svg ルトフ・アリー・ベグ
Flag of Mysore.svgマクダム・アリーFlag of Mysore.svgレザー・サーヒブ
Asafia flag of Hyderabad State.png ニザーム・アリー・ハーン
Flag of the British East India Company (1707).svg ジョゼフ・スミス
Flag of the British East India Company (1707).svg ジョン・ウッド
Flag of the British East India Company (1707).svg ブルック大佐
Flag of the Maratha Empire.svg マーダヴ・ラーオ
Nawab flag.GIF ムハンマド・アリー・ハーン

第一次マイソール戦争(だいいちじマイソール、英語:First Anglo-Mysore War, カンナダ語:ಒಂದನೆಯ ಮೈಸೂರು ಯುದ್ಧ)は、1767年から1769年にかけて、イギリス東インド会社マイソール王国との間で南インドにおいて行われた戦争。

背景[編集]

マイソール王国のある南インドは古来から季節風貿易での莫大な利益により潤っており、土地も豊かであった。1761年6月以降、同国ではムスリム軍人のハイダル・アリーが実権を握り、 ヒンドゥーオデヤ朝の王は有名無実化していた[1]

そのころ、1757年イギリス東インド会社ははベンガル太守プラッシーの戦いで破り、1764年にはムガル帝国アワド太守ベンガル太守ブクサールの戦いで破った。翌1765年にはベンガルビハールオリッサディーワーニー(行政徴税権)を得ることに成功し[2]植民地の拡張を目指して次にこの地を支配するべく機会を狙っていた。

ハイダル・アリーは以前より、カルナータカ太守ムハンマド・アリー・ハーンがイギリスと同盟してマドラスを使用させていることに不満で、そのうえデカンマラーター王国ニザーム王国などがイギリスと協力関係を結び、マイソール王国の近隣を取り巻いていることも不満だった。

こうした情勢により、南インドでは不穏な空気が漂い、一発触発の状態だった。

戦争の勃発[編集]

1766年11月にマラーター王国宰相マーダヴ・ラーオは再びマイソール王国へ遠征を行い[3]1767年1月にその領土に侵攻した。これを第一次マイソール戦争の開戦とする場合がある[4]

3月4日、マラーター軍はマドゥギリを攻略し、5月に彼は帰還した[5]。そののち、マイソール王国のハイダル・アリーはこの脅威に対抗すべく、ニザーム王国のニザーム・アリー・ハーンと同盟を結んだ。

すでに、1766年11月にニザーム王国はイギリスと友好条約を結んでいたが、これを反故にする形となった[6]5月にイギリス側のジョセフ・スミスはこの同盟の情報を知った[7]

そして、8月にハイダル・アリーはカルナータカ地方政権の領土(タミル地方)に侵攻し、イギリスの拠点たるマドラスを目指した[8]。これが第一次マイソール戦争の開戦であったとする場合がある。

戦争の経過[編集]

戦端が開かれると、マイソール側の攻撃は想像以上は凄まじく、事態はイギリスの思うようには進まず、同盟軍は各個撃退されていった。イギリスの見積もりによると、マイソールとニザームの連合軍はおよそ7万であった。

同年9月21日、ハイダル・アリーはカーヴェーリパッティナムにいたジョゼフ・スミスを迎え撃つため、ティルヴァンナーマライでイギリス軍を破った(ティルヴァンナーマライの戦い)。このとき、季節はモンスーンに突入していた。

同年11月、ハイダル・アリーはモンスーンさながら、イギリスの籠城するアンブールを攻撃した(アンブール包囲戦[9]。城塞の守備隊は降伏しようとせず、12月にイギリスの援軍が到着するまで耐えた[10]

1768年初頭、ボンベイのイギリス東インド会社はマイソール王国の支配するマラバール海岸のを攻撃するため、遠征軍を派遣した。ハイダル・アリーはマンガロールに艦隊を編成しており、その指揮官ルトフ・アリー・ハーンがその迎撃にあたったが、2月にマンガロールは占領された[11][12]

一方、イギリスの圧迫を受けて不利に陥っていたニザーム王国は、同年2月23日に新たな友好条約を結ばざるを得ず、戦線を離脱していた。

だが、ハイダル・アリーの息子ティプー・スルターンは父の援助を得て、まもなくマンガロールを奪回した[13]。また、彼はイギリスに味方したマラバールのナイルら(カーストの一つ)に追徴税を課した[14]

とはいえ、ハイダル・アリー自身は北方のマラーター勢力と戦わなければならず、カルナータカ地方を離れなければならなかった[15]。その間、イギリスはマイソール側の占領地の多くを奪回した[16]

マラーターの指揮官ムラーリー・ラーオとイギリスのジョゼフ・スミスは連携を取り、8月にホースコーテで合流し[17]、彼らはマイソール領バンガロールの奪取を試みた[18]。同月8日、ハイダル・アリーはマラバール方面からバンガロールへと帰還し、22日ホースコーテのマラーターの陣に攻撃を仕掛けたが、大きな損害を出して敗退した[19]

その後、ハイダル・アリーはイギリスに対抗するため、バンガロールからグッラムコンダへと向かったが[20]、その際にイギリスとの講和を考えた。だが、イギリスと折り合いがつかず、ムハンマド・アリー・ハーンの扱いに関しても同様であった[21]彼は戦争が始まる以前からの両者の対立により、ムハンマド・アリー・ハーンを強く嫌っていた[22]

10月3日、ハイダル・アリーはグッラムコンダからバンガロールへと引き返すさなか、ホースコーテの近郊ムルバガルにいたイギリス軍を攻撃しようとした。翌4日、マイソール軍はムルバガルの救援に駆けつけたジョン・ウッド率いるイギリス側の援軍と戦闘になり、これに勝利した[23]

マドラスを襲うマイソール軍

11月22日から23日にかけて、マイソール軍はジョン・ウッドが逃げていたバガルールを攻め、追われたウッドはヴェンカタギリへと逃げざるを得なかった[24]

また、同月にハイダル・アリーは軍を二つに分け、ガーツ山脈に縦断して移動し、カルナータカ地方へと移動した。彼はイーロードゥへと向かう途中、イギリス側の捕虜を王国の首都シュリーランガパッタナへと送った[25]

そして、1769年3月末、ハイダル・アリーは6000の騎兵とイギリスの南インドの拠点であるマドラスを包囲し、マドラス城の城門まで攻め寄せた[26][27]

これに驚いたイギリスは戦争を終わらせるべく、マイソール側との交渉による事態の打開を図り 、4月3日に相互の占領地と捕虜の返還などを定めたマドラス条約を結んで講和した[28][29]

脚注[編集]

  1. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42
  2. ^ Duff, p. 652
  3. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42
  4. ^ Duff, p. 653
  5. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42
  6. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42
  7. ^ Wilks, p. 306
  8. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42
  9. ^ Wilks, p. 323
  10. ^ Wilks, p. 324
  11. ^ Sen, pp. 147–148
  12. ^ Wilks, p. 321
  13. ^ Wilks, p. 331
  14. ^ Bowring, p. 51
  15. ^ Bowring, p. 52
  16. ^ Bowring, p. 52
  17. ^ Wilks, p. 340
  18. ^ Wilks, pp. 341–342
  19. ^ Wilks, p. 342
  20. ^ Bowring, p. 53
  21. ^ Bowring, p. 53
  22. ^ Bowring, p. 53
  23. ^ Wilks, p. 346
  24. ^ Bowring, p. 55
  25. ^ Bowring, p. 56
  26. ^ Bowring, p. 57
  27. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p203
  28. ^ Bowring, p. 58
  29. ^ 辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』年表、p42

参考文献[編集]

関連項目[編集]