ズボニミール・ボバン
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名前 | ||||||
愛称 | ゾロ・ズヴォーネ | |||||
ラテン文字 | Zvonimir BOBAN | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
クロアチア イタリア | |||||
生年月日 | 1968年10月8日(55歳) | |||||
出身地 | イモツキ | |||||
身長 | 183cm | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1978-1981 | NKムラチャイ・ルノヴィッチ | |||||
1981-1982 | ハイドゥク・スプリト | |||||
1983-1985 | ディナモ・ザグレブ | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1985-1991 | ディナモ・ザグレブ | 109 | (45) | |||
1991-2002 | ACミラン | 178 | (21) | |||
1991-1992 | → ASバーリ | 17 | (2) | |||
2001-2002 | → セルタ・デ・ビーゴ | 4 | (0) | |||
通算 | 308 | (68) | ||||
代表歴 | ||||||
1987 | ユーゴスラビア U-20 | 6 | (3) | |||
1988-1991 | ユーゴスラビア | 7 | (1) | |||
1992-1999 | クロアチア | 49 | (12) | |||
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ズヴォニミル・ボバン(クロアチア語: Zvonimir Boban、1968年10月8日 - )は、クロアチア・イモツキ出身の元サッカー選手。ポジションはミッドフィールダー。元クロアチア代表。
経歴
ユーゴスラビアのディナモ・ザグレブでプロデビューし、19歳にしてキャプテンを務めた[1]。1990年5月13日、クロアチアとセルビアの対立を背景にしたディナモ・ザグレブ対レッドスター・ベオグラードの試合で起こった暴動の際に、セルビア側の警官隊と乱闘を起こし、9か月間の出場停止処分を受け、ワールドカップ・イタリア大会に参加できなかった。
1991年、謹慎が解けると才能を見込まれてセリエAのACミランへ入団。1年間バーリへレンタル移籍した後、1992年ACミランに正式に加入、当初は外国籍枠に悩まされ、出場は限られた。1992-93年のチャンピオンズリーグ2次リーグの、ŠKスロヴァン・ブラチスラヴァ戦において直接FKを決め、ミランでの初得点を記録した[2]。1993-94年シーズンは徐々にレギュラークラスの選手となり、開幕戦のレッチェ戦で決勝ゴールを決めると[2]、32節のウディネーゼ戦ではボレーシュートを決めて勝利に貢献[2]、チームはその勝利で優勝を決めるなど、リーグ優勝とチャンピオンズリーグ優勝の二冠に貢献した。1994年のトヨタカップ、ベレス戦では決定機を逃し、チームは敗れた。ミランでは1995-96年、1998-99年のセリエA優勝にも貢献した。しかし怪我などで徐々に出番を失い、2001年よりセルタへ移籍したが、モストボイからレギュラーを奪えず、サブでの出場に限定され、シーズン途中に突如引退した[3][4][5]。
ユーゴスラビア代表では8試合に出場して1得点(フェロー諸島戦でクロスを足で流し込み得点)。1989年に行われた親善試合のブラジル代表戦では後半から途中出場してストイコビッチ、サビチェビッチ、プロシネチキと中盤を組み一緒にプレー。
ユーゴスラビアが解体し、クロアチア代表として臨んだUEFA EURO '96ではグループリーグのデンマーク戦でゴールを決めるなど[6]、ベスト8に進出し、褒賞金を孤児の教育費や戦火で荒廃した故郷の復興費にあてた。またワールドカップ初出場となった1998年のワールドカップ・フランス大会ではグループリーグの日本戦を除く6試合に出場、準々決勝のドイツ戦、3位決定戦となったオランダ戦でそれぞれ1アシストを決めるなど[6]、3位入賞に貢献した。1999年11月13日のフランス戦でのプレーが代表最後の試合となった[6]。代表チームでは51試合に出場、12得点を挙げた[7]。
2001年、リーガ・エスパニョーラのセルタに移籍したが、シーズン終了を待たずして現役引退を表明し、2002年10月7日には引退試合が催された。引退試合には親交のある元テニスプレイヤーのゴラン・イワニセビッチも出場していた[8]。
現役引退後は、イタリアの放送局で解説者を務めた[9]。その後、2016年からは国際サッカー連盟(FIFA)の副事務局長に就任。
2019年6月、古巣ACミランの要請を受け、チーフ・フットボール・オフィサー(CFO)として17年ぶりに古巣ミランへ復帰を果たした。現役時代に同僚であったスポーツディレクターのパオロ・マルディーニと共にクラブの再建を託されたが、即戦力を獲得して現有戦力を強化する方針であったボバンとマルディーニに対し、CEOのイヴァン・ガジディスは若手育成を方針を掲げるなど両者は対立、報道によれば監督兼スポーツディレクターとしてラルフ・ラングニックの招聘を巡って両者の確執は決定的なものとなり、ついにボバンがメディアでカジディスら経営陣を批判するなど確執が顕在化した。2020年3月、ACミランはボバンとの契約解除を発表し、わずか9ヶ月でミランを去ることになった。
人物
「チェスは生活の一部」と語るほどのチェス愛好家、また大変な読書家でもある[10]。さらに大学で歴史を学び博士号を取得するなど、高い知識、見識を備えた人物と見られ、クロアチア国内で大きな人気を集める[9]。このことから次代のクロアチアサッカー協会のトップを担うと期待されているが、本人は幾度となくその誘いを断っている[9]。
また、前述の暴動の当事者である自らを「純粋な愛国主義者」を称し[10]、サッカーについては「人間の人文、宗教、愛情、芸術などによって、数多くの特徴を備えている」とクロアチア人としての境遇を踏まえて語っている[10]。
ユーゴスラビア紛争の際には「私は100人の政治家にできないことをできる」と自身の表現力を表現した[要出典]。
また父が経営するレストランがザグレブにある[11]。
タイトル
- 1987 FIFAワールドユース選手権 優勝(ユーゴスラビア代表)
- 1992-1993 セリエA 優勝(ACミラン)
- 1993-1994 UEFAチャンピオンズリーグ 優勝
- 1993-1994 セリエA 優勝
- 1994 UEFAスーパーカップ 優勝
- 1995-1996 セリエA 優勝
- 1998 FIFAワールドカップ 3位(クロアチア代表)
- 1998-1999セリエA 優勝(ACミラン)
脚注
- ^ Legend of Calcio: Zvonimir Boban
- ^ a b c “Boban Milan All Goals”. 2020年8月13日閲覧。
- ^ “Zvonimir Boban”. acmilan-online.com. 2011年6月10日閲覧。
- ^ “Boban to call it a day”. The Sunday Herald. (2001年10月14日) 2011年6月10日閲覧。
- ^ “Boban retires”. BBC. (2001年10月16日) 2011年6月10日閲覧。
- ^ a b c “Boban National team”. 2020年8月13日閲覧。
- ^ “Boban”. Croatian Football Federation. 2022年3月1日閲覧。
- ^ World News Network (2002年10月8日). “Goran Ivanisevic scores goal for Croatia”. 2010年9月13日閲覧。
- ^ a b c 「あの名手はいま」『ワールドサッカーダイジェスト』9月16日号、日本スポーツ企画出版社、2010年、p.102。
- ^ a b c 金子義仁『ワールドサッカーすごいヤツ全集』フットワーク出版、1999年、p.8-15頁。ISBN 4-87689-330-6。
- ^ 宇都宮徹壱『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』みすず書房、2004年、p.239頁。ISBN 4-622-03389-5。
外部リンク
- A.C. Milan - Zvonimir Boban(英語)
- FIFA主催大会での出場記録 - 国際サッカー連盟
- クロアチア代表としての出場記録 - クロアチアサッカー協会
- 出場記録 - national-football-teams.com