ウィリー・カークランド

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ウィリー・カークランド
Willie Kirkland
ワシントン・セネタース時代
(1966年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 アラバマ州シェルビー郡
生年月日 (1934-02-17) 1934年2月17日(90歳)
身長
体重
186 cm
93 kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手
プロ入り 1953年
初出場 MLB / 1958年4月15日
NPB / 1968年4月6日
最終出場 MLB / 1966年9月26日
NPB / 1973年10月22日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

ウィリー・チャールズ・カークランドWillie Charles Kirkland , 1934年2月17日 - )は、アメリカ合衆国アラバマ州シェルビー郡出身の元プロ野球選手外野手)。

来歴・人物[編集]

サウスウエスト高校卒業後の1953年ニューヨーク・ジャイアンツと契約。球団がサンフランシスコに移転した1958年メジャー初昇格し、ウィリー・メイズウィリー・マッコビーと共にクリーンアップを打つ。この間の1960年オフに日米野球で来日すると、14試合出場するが、22打数1安打7三振と不振のまま終わった。本人も、日本の投手の変化球に付いていけなかった、と語っている[1]1961年に移籍したクリーブランド・インディアンス時代と合わせ、1959年から1962年まで4年連続20本塁打以上をマークした。その後はボルチモア・オリオールズ1964年)・ワシントン・セネタース1965年 - 1966年)でプレー。1967年はAAAのハワイ・アイランダーズ英語版で34本塁打を放つが、メージャー昇格はならなかった。

1968年春季キャンプ中の2月5日阪神タイガースへ入団。開幕から四番を任されるなど主軸打者に定着し、打率.247ながら37本塁打を放つ。2年目の1969年も26本塁打を放ったが、三振が133個を数えて当時の日本記録となる。1970年に就任した村山実選手兼任監督からはトレード要員と露骨に名指しされたが、ファンからは人気を集めた。特に対巨人戦になると活躍し、1969年には外国人史上初の1イニング2本塁打、1970年には1試合3本塁打を記録した。1973年11月8日に阪神を退団しそのまま引退した。

その後はデトロイトに移住し、ゼネラルモーターズに車両の整備員として就職[2]。現在は野球からは距離を置く生活で、インタビューにも対応していない。

エピソード[編集]

阪神の外国人野手としての6年の在籍は、ランディ・バースマット・マートンと並び最長となっている。

いつも「爪楊枝」をくわえてプレーをする姿が「木枯し紋次郎」に似ていることから「モンジロー」というニックネームが付けられた。これは元々リラックスのためチューインガムを噛みながらプレーしていたが、クロスプレーにより前歯を折ってしまい、義歯を入れたところガムがくっつくようになってしまったため[3]。なお口を傷つけないよう、爪楊枝は尖った方ではなく、柄の部分を噛み潰していた。また、ゲン担ぎとしてウサギの尻尾をポケットに入れていた[4]。これは26打席にわたって安打が出なかったときに友人の娘からプレゼントされ、ポケットに入れたら安打が出るようになったため[4]

外野を守る際、観客席から投げ込まれる物から身を守るために、ヘルメットを被った。これを見た巨人の柴田勲末次利光甲子園球場で真似をしたところ、逆に阪神ファンを刺激する結果となり、空き缶や中身の入った一升瓶を投げつけられた[4]

日本での最後の打席は、1973年10月22日の対巨人最終戦、9回裏2死から阪神最後の打者となり、高橋一三に三振し、この直後、阪神の惨敗とV逸(巨人の逆転V9を許す)に怒った観衆が暴徒と化してグラウンドに乱入した。

掛布雅之の前に、阪神で背番号31を着けていた選手でもある。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1958 SF 122 470 418 48 108 25 6 14 187 56 3 2 0 4 43 7 5 69 5 .258 .332 .447 .779
1959 126 511 463 64 126 22 3 22 220 68 5 3 0 3 42 3 3 84 6 .272 .335 .475 .810
1960 146 567 515 59 130 21 10 21 234 65 12 7 2 2 44 8 4 86 4 .252 .315 .454 .769
1961 CLE 146 585 525 84 136 22 5 27 249 95 7 0 4 7 48 4 1 77 3 .259 .318 .474 .793
1962 137 470 419 56 84 9 1 21 158 72 9 1 3 5 43 3 0 62 10 .200 .272 .377 .649
1963 127 478 427 51 98 13 2 15 160 47 8 2 2 3 45 5 1 99 8 .230 .303 .375 .677
1964 BAL 66 172 150 14 30 5 0 3 44 22 3 2 1 3 17 4 1 26 0 .200 .281 .293 .574
WHS3 32 110 102 8 22 6 0 5 43 13 0 0 2 0 6 0 0 30 1 .216 .259 .422 .681
'64計 98 282 252 22 52 11 0 8 87 35 3 2 3 3 23 4 1 56 1 .206 .272 .345 .618
1965 123 337 312 38 72 9 1 14 125 54 3 2 0 6 19 1 0 65 5 .231 .270 .401 .671
1966 124 182 163 21 31 2 1 6 53 17 2 0 2 1 16 3 0 50 3 .190 .261 .325 .586
1968 阪神 133 567 518 71 128 16 0 37 255 89 3 4 0 2 45 7 2 104 6 .247 .309 .492 .801
1969 130 536 496 57 122 17 0 26 217 66 1 6 0 0 36 2 4 133 8 .246 .302 .438 .740
1970 118 408 369 40 92 16 1 15 155 32 3 6 6 1 28 6 4 81 8 .249 .308 .420 .729
1971 110 332 292 23 64 12 0 14 118 27 0 2 9 0 29 3 2 65 3 .219 .294 .404 .698
1972 114 380 346 40 92 17 0 20 169 52 0 1 5 0 28 1 1 66 6 .266 .323 .488 .811
1973 98 280 252 23 61 5 0 14 108 38 0 0 2 1 24 4 1 55 7 .242 .309 .429 .738
MLB:9年 1149 3882 3494 443 837 134 29 148 1473 509 52 19 16 34 323 38 15 648 45 .240 .304 .422 .726
NPB:6年 703 2503 2273 254 559 83 1 126 1022 304 7 19 22 4 190 23 14 504 38 .246 .308 .450 .757
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録[編集]

NPB
その他の記録
  • 1イニング2本塁打:1969年8月14日、対読売ジャイアンツ19回戦(後楽園球場)、2回表先頭で金田正一から右中間へソロ、2死3塁で堀内恒夫から右中間へ2ラン ※史上6人目[5]

 

背番号[編集]

  • 29 (1958年 - 1960年)
  • 8 (1961年 - 1962年)
  • 27 (1963年)
  • 3 (1964年 - 同年途中)
  • 31 (1964年途中 - 同年途中、1968年 - 1973年)
  • 6 (1964年途中 - 1966年)

脚注[編集]

  1. ^ 『助っ人列伝』106頁
  2. ^ 消えたプロ野球選手「あれからの人生」 輝きは一瞬だったかもしれない。しかし、確かにあの時、輝いたのだ・・・
  3. ^ 『助っ人列伝 プロ野球意外史』107頁
  4. ^ a b c 『助っ人列伝』108頁
  5. ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」410ページ

参考文献[編集]

  • 文藝春秋編『助っ人列伝-プロ野球意外史-』文藝春秋〈文春文庫ビジュアル版〉、1987年

関連項目[編集]

外部リンク[編集]