郡上八幡城

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郡上八幡城
岐阜県
郡上八幡城
郡上八幡城
通称 積翠城、郡城
城郭構造 平山城
天守構造 4層5階模擬木造
築城主 遠藤盛数
築城年 1559年(永禄2年)
主な改修者 遠藤常友
主な城主 遠藤氏、青山氏
廃城年 1871年
遺構 石垣
指定文化財 岐阜県史跡
郡上市有形文化財(模擬天守)
再建造物 模擬天守
位置 北緯35度45分11.82秒
東経136度57分41.23秒

郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)は、岐阜県郡上市八幡町にある城。

目次

[編集] 概要

戦国時代末期、郡上一円は篠脇城を居城とする東氏(とうし)によって支配されていた。その後東氏は郡上八幡の町を挟んで反対側にある東殿山(とうどやま)に東殿山城を構えたが、永禄2年(1559年)八幡山の上に砦を築いた遠藤盛数により滅ぼされた。遠藤氏は東殿山城を奪って郡上一円を支配したもののこの城を好まず、東殿山城を攻撃した時の砦跡に城を築いた。これが郡上八幡城の起源である。

その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放された。慶隆追放後一時稲葉貞通が城主となり、この際に天守や二の丸などが建造されている。その後関ヶ原の戦いの功により再び慶隆が城主となり、以来廃藩置県まで郡上藩の藩庁となる。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以下井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となる。廃城の翌年、石垣のみを残し取り壊された。

現在の天守は、大垣城(当時)を参考に1933年(昭和8年)模擬天守としては全国的にも珍しい木造で造られた。石垣が岐阜県史跡に、天守が郡上市有形文化財に指定され、内部は歴史資料館などとして利用されている。山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。

日本100名城の選定対象となるものの、検討の結果、選定されなかった。

[編集] 現存する建物遺構

二の門は競売にかけられ、使用されたが、その後、門扉部分が美並村根村の宝樹庵の庫裡御堂の正面の戸として移築され現存する。その他、本丸御殿の部材が善光寺に、城郭の部材が愛宕町の民家に、それぞれ用いられたと伝わるが、いずれも原型を留めていない。

[編集] ギャラリー

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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