見性院 (山内一豊室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
見性院
見性院

見性院(けんしょういん、1557年弘治3年)- 1617年12月31日元和3年12月4日))は、戦国時代から江戸時代にかけての女性。土佐国高知藩祖・山内一豊正室。名は「千代」とも「まつ」ともいわれるが、定かではない。

目次

[編集] 出自

出自は諸説あり、『寛政重修諸家譜』の記述により浅井氏家臣の若宮友興の子説が有力とされてきたが、慈恩寺蔵の美濃郡上八幡城主・遠藤氏の系図に、遠藤盛数の女が山内一豊室であるとの記載があったことなどから、遠藤盛数の子説も有力になってきている。「まつ」の名は、討ち死にした若宮友興の娘「おまつ御両人」に宛てた浅井長政の安堵状が存在することによるが、このまつは一豊ではなく山内家臣の五藤為重に嫁いだことが明らかになっている。一方「千代」の名は、後述する新井白石が『藩翰譜』に記したエピソード中に出てくるが、こちらは一豊の養子となった忠義の実母の名と混同したとも言われ定かではない。なお、NHK大河ドラマ功名が辻』では、司馬遼太郎の原作小説に従い「千代」とされた。

父が遠藤盛数(永禄5年(1562年)死去)とすれば、母は東常慶の娘で兄は後に八幡藩主になる遠藤慶隆である。しかし、見性院の幼時は戦に明け暮れる日々で母(天正10年(1582年)死去)とともにあちらこちらの家を転々としていたらしい。

山内家には『東常縁筆古今集』はじめ、東家から伝わる貴重な古今集がいくつかあった。これらは見性院が京都にも携えてきて愛用した和歌集だったが死去に当たり養子の土佐藩主山内忠義に形見として渡すよう、育て子の湘南宗化を通じて遺言したものである。また見性院が、遠藤盛数の孫遠藤亮胤を山内家に仕官させるよう言い残したことも盛数の子説の根拠である。 

[編集] 内助の功

一豊に持参金を渡す図
小林清親画)
山内千代の像
山内一豊と千代 婚礼の地」の碑
岐阜公園岐阜市

常山紀談[1][2]4巻[3]「山内一豊馬を買れし事[4]」による嫁入りの持参金または臍繰りで一豊の欲しがった名馬(鏡栗毛)を購入し、主君織田信長馬揃えの際に信長の目に留まり加増された話(類話に『治国寿夜話』)やまな板代わりにを裏返して使い倹約した話など、「内助の功」で夫を支えたエピソードで有名である。歴史上においては、関ヶ原の戦いの前哨戦において石田三成挙兵を伝えた「笠の緒の密書」が有名である。司馬遼太郎は「千代がいなければ一豊が国持ち大名になるなどありえなかった」と言い小説『功名が辻』の題材に捉えた。

千代紙の命名の由来ともされている。これらの話は江戸時代中期の新井白石『藩翰譜』や室鳩巣『鳩巣小説』などから人口に膾炙したものであるが、真偽については必ずしも詳らかではない。

一豊と千代のエピソードは、第二次世界大戦以前の日本において、賢妻のモデルとして教科書などに多く採り上げられた。戦後では小説やドラマの題材となっている。それらを含めた見性院を題材とした作品は、山内一豊を題材にした作品を参照のこと。

[編集] 子と余生

一豊との間には娘(与祢)が1人生まれたが、天災(天正大地震)により幼くして失い、それ以降は子供には恵まれていない。なお、育て子として、「拾」のちの妙心寺住職の湘南宗化がいる。この拾は、与祢姫の供養のための妙心寺参りの門前、あるいは山内家の京都屋敷で見性院に拾われたとの言い伝えがある。

一豊は弟・康豊の子・忠義を土佐山内家跡目養子にしていた。見性院は夫・一豊が慶長10年(1605年)秋に亡くなると、康豊に忠義を後見させて半年後には土佐を引き払い、湘南宗化のいる京都の妙心寺近くに移り住んで、そこで余生を過ごした。晩年は、母から贈られた『古今和歌集』『徒然草』などの和歌集を熱心に読んで過ごしたとされる。死去に際しては宗家がその最期を看取り、本人の遺言により、料紙箱や所有している和歌集が山内忠義へ贈られた。これらの和歌集は、後に幕府に献上されている。

元和3年(1617年)、山城国京都)で死去。享年60。奇しくも夫・一豊の享年と同じ年齢であった。墓所は高知県高知市の山内家墓所。京都妙心寺にも山内一豊夫妻の廟所がある。

[編集] 見性院が登場する作品

[編集]

[編集] 関連項目

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス