遠藤盛数

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遠藤盛数
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 未詳
死没 永禄5年10月14日1562年11月10日
別名 六郎左衛門
氏族 遠藤氏
父母 父:遠藤胤好、母:
兄弟 盛数
東常慶の女
慶隆慶胤慶直見性院
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遠藤 盛数(えんどう もりかず、? - 永禄5年10月14日1562年11月10日))は、戦国時代の武将。美濃国初代八幡城主。通称六左衛門。遠藤胤好の次男である。妻は東常慶の娘。なお、山内一豊室は盛数の娘とも言われる(見性院参照)。

来歴[編集]

郡上郡の支配者東氏の一族で、木越城主の遠藤胤縁の弟。

天文9年(1540年)、遠藤胤基(胤縁の子)の子で、小多良郷和田会津(現郡上市)に要害を構える和田五郎左衛門の勢力拡大を恐れた、宗家当主で篠脇城主の東常慶と謀り、兄胤縁と共に五郎左衛門を暗殺した[1]

同年8月、越前朝倉義景が郡上に侵入した際は、兄胤縁と常慶に進言し決戦を決意させ、9月3日に篠脇城が攻撃されると、盛数は一隊を率いて朝倉勢の背後を突き多大な損害を与えた[2]

天文21年(1552年)、東氏の一族で福野城主の、河合七郎の勢力拡大を恐れた東常慶の命により、福野城を急襲して七郎一族を滅ぼした。それまで兄の木越城に同居していた盛数は、七郎の領地だった下川筋(現郡上市美並町)を与えられ、新たに鶴尾山城を築いた[3]

東常慶には実子常堯がいたが、悪逆非道だったため盛数が婿養子に迎えられ、弘治年間(1555年 - 1558年)に家督を譲られたとも言われる[4]。その一方で、常慶は常堯を遠藤胤縁の娘と縁組させようともしたが、胤縁は常堯の非道を理由に同意せず、娘を畑佐六郎右衛門に縁付かせた。これを恨んだ常堯は、永禄2年(1559年)8月1日に胤縁が東殿山城を訪問すると、家臣長瀬内膳に命じて鉄砲で射殺させた[5]。かねてより宗家に取って代わることを考えていた盛数は、兄の弔い合戦を大義名分に郡内の諸豪を募り、8月14日に兵を挙げた。一説には飛騨三木良頼の加勢も得て、八幡山山頂に布陣。10日間にわたる攻城戦の末、東殿山城を落城させ常慶を滅ぼした[6]。盛数はこのとき布陣した八幡山に、新たに八幡城を築いた[7]

盛数は胤縁の子胤俊に木越城主を継がせ、所領のうち半分を分与し、それ以後両家は「両遠藤」と言われた[8]。両遠藤は稲葉山城主斎藤龍興の配下となり、永禄4年(1561年)に織田信長の軍が西濃に侵攻した際は、関城長井道利の軍と連合して、森部(現安八郡安八町)で防戦した(森部の戦い)。翌永禄5年10月14日(1562年11月10日)、井ノ口(現岐阜市)で死去。子の慶隆が13歳で後を継ぎ、後に郡上藩初代藩主となった[9]

脚注[編集]

  1. ^ 「東常慶」『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年、173 - 174頁。 
  2. ^ 「朝倉勢の郡上侵攻」『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年、175 - 177頁。 
  3. ^ 「河合氏討伐」『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年、178 - 179頁。 
  4. ^ 「東氏の衰退」『明宝村史』 通史編上巻、明宝村、1993年、233頁。 
  5. ^ 「東殿山の戦い」『美並村史』 通史編上巻、美並村、1981年、201 - 203頁。 
  6. ^ 「東殿山の決戦」『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年、179 - 180頁。 
  7. ^ 「八幡城の創建」『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年、183頁。 
  8. ^ 「遠藤盛数と八幡城」『白鳥町史』 通史編 上巻、白鳥町、1976年、209頁。 
  9. ^ 「遠藤盛数」『郡上八幡町史』 上巻、八幡町役場、1960年、201頁。