苗木城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
|
苗木城 (岐阜県) |
|
|---|---|
大門跡より本丸を望む
|
|
| 通称 | 霞ヶ城 赤壁城 |
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 不明 |
| 築城主 | 遠山直廉 |
| 主な城主 | 遠山氏 森氏 川尻氏 |
| 廃城年 | 1871年(明治4年) |
| 遺構 | 石垣、堀、井戸、門部材 |
| 指定文化財 | 国の史跡 |
| 再建造物 | 天守建物(柱組) |
| 位置 | 北緯35度30分47.52秒 東経137度29分6.94秒 |
苗木城(なえきじょう)は、岐阜県中津川市にあった城。別名は霞ケ城。苗木藩の藩庁が置かれた。国の史跡に指定されている。
目次 |
[編集] 歴史背景
- 鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏の初代遠山景朝には子が無く弟の遠山景村が遠山氏の二代目となる。
- 仁治2年(1242年)景村は木曽川北部の所領確立のため、木曽川左岸の西山戸から右岸の那木津戸に進出。那木津戸が当時、那木(苗木)と呼ばれた所で、遠山氏による木曽川北部進出の始まりとなった。
- 元弘(1331~1334年)遠山景長が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築く。
- 元弘(1331~1334年)~建武(1334~1336)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築く。
- 1526年(大永6年)遠山昌利が植苗木から高森山に館を移す。
- 戦国時代の天文年間(1532年) 遠山直廉が高森に苗木城を築く。
- 織田信長没後、豊臣方の森長可に城を落とされ、城主遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。
- 関ヶ原の戦いが起こると、友忠の子遠山友政は豊臣方の河尻秀長から苗木城を奪い取った。戦後この功が家康に認められ、遠山氏は再びこの地に返り咲き、苗木藩主として幕末まで苗木の地を治めた。
[編集] 城沿革
- 天文年間、遠山直廉により築城される。
- 天正11年(1583年)、本能寺の変後、森長可に攻められ落城。城代として河尻秀長が入った。
- 慶長5年(1600年)
- 以後、1871年(明治4年)に廃城となるまで、遠山氏十二代の居城として用いられた。
- 1981年(昭和56年)、国の史跡に指定された。
[編集] 遺構
本丸・二の丸・三の丸などの石垣や大矢倉跡・風吹門跡・綿倉門などの門跡、堀が残っている。天守台や大矢倉の石垣、馬洗岩など巨大な自然石が複数箇所で利用されているのが大きな特徴。菱櫓台の下に千石井戸と呼ばれる井戸が残る。大手口道は長さ500m、高低差150mあり「四十八曲り道」といわれている。建築物としては、大手門の扉と柱が残り、中津川市苗木遠山史料館にて展示されている。
[編集] 伝説
「赤壁城」の別名があり、城の壁は白漆喰ではなく赤土がむき出しになっていたと伝えられる。その理由については、木曽川に住む竜が白い色を嫌い、何度漆喰を塗り直しても嵐を起こしてはぎ取ってしまったという話が残されている。
また、中部日本新聞(後の中日新聞)夕刊に1960年代前半に掲載されていた「ふるさとの童話」という記事にも同じような物語が紹介された。苗木城は美しい白壁の城として完成したが、一夜明けると漆喰が全部落ちて赤土が露出している。何度塗りなおしても、朝になると同じ事であった。殿様は、犯人を見届けてやろうと、一人で夜の天守閣で見張っていた。すると、夜空が掻き曇って雨風が出て来たかと思うと、恐ろしい大きな竜が現われ、熱い息を城に吐きかけると、たちまち壁が落ちてしまったという。
実際には、苗木藩が経済的に弱体で漆喰を塗る経費が捻出できなかった、というのが真相である。