笠間城
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笠間城 (茨城県) |
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遠景
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| 通称 | 桂城 |
| 城郭構造 | 山城 |
| 天守構造 | 2重(不明) |
| 築城主 | 笠間時朝 |
| 築城年 | 承久元年(1219年) |
| 主な改修者 | 蒲生郷成 |
| 主な城主 | 笠間氏、宇都宮氏、蒲生郷成、牧野氏 |
| 廃城年 | 明治4年(1868年) |
| 遺構 | 空堀、石垣、土塁、井戸、移築櫓・門 |
| 指定文化財 | なし |
| 位置 | 北緯36度22分56.95秒 東経140度16分2.93秒 |
笠間城(かさまじょう)は、茨城県笠間市の佐白山にある城郭である。江戸時代には、笠間藩の藩庁が置かれた。
目次 |
[編集] 概要
鎌倉時代の承久年間に下野守護宇都宮頼綱の甥・笠間時朝によって築城されたと言われている。
天正18年(1590年)の小田原の役の際、笠間綱家が宗家の宇都宮氏に逆らい後北条氏に組したため、同戦役後宇都宮氏に攻められ笠間氏は滅亡した。その後、一時宇都宮氏が支配した後蒲生郷成が入城し、この郷成の手により織豊系城郭に改修されたと考えられている。
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦い後には松井松平家が入り、その後小笠原氏が入ったが改易されて、ついで戸田松平家が入り、そして永井氏が入った。その後、外様大名の浅野氏が2代、井上氏が2代、本庄氏が2代、再び井上氏が3代入った後、牧野貞通が入り、以後8代続いて明治維新を迎えた。
現在、山上の遺構は良く旧態を留めており、一部に後世の手が加えられているものの、石垣、堀等が残る。山麓居館部の保存状態は必ずしも良くないが、現在佐白山麓公園として整備され公開されている。天守櫓があった場所には佐志能神社が鎮座している。
建造物の遺構としては、本丸八幡台上にあった八幡櫓が真浄寺に移築され現存する。また、薬医門形式の城門2棟が、市内の民家に移築され現存する。
[編集] 歴史・沿革
- 元久2年(1205年)、宇都宮頼綱が一族の塩谷朝業を派遣し、笠間の地を占拠し進出した。
- 承久元年(1219年)、朝業の子の時朝が笠間の地に移り、佐白山に築城を開始した。
- 嘉禎元年(1235年)、笠間城完成。
- 天正18年(1590年)、当主綱家が宗家宇都宮氏の命に逆らい後北条氏に組し、小田原の役の後に宇都宮氏勢に攻められ落城、替わって宇都宮氏の支配するところとなった。
- 文禄元年(1592年)2月、宇都宮国綱の家臣玉生勝昌が笠間城主として入城する。
- 文禄2年(1593年)11月8日、玉生勝昌が没し、その子範昌が城代となる。
- 文禄4年(1595年)3月15日、玉生範昌が笠間城から岡本城に遷る。
- 慶長3年(1598年)、蒲生郷成が3万石で封じられ笠間城に入城、現在の形に城域を整備した。
- 慶長6年(1601年)、郷成が除封され、松平康重が替わって入城した。
- その後諸氏が封じられ城主は目まぐるしく入れ替わったが(詳細は笠間藩を参照)、永享4年(1747年)、牧野貞通が8万石で封じられ、以後牧野氏が明治維新まで笠間の地を治めた。
- 明治3年(1871年)の廃藩置県、明治6年(1873年)の廃城令により廃城処分とされ、建物は取り壊された。
[編集] 構造
佐白山山頂の天守曲輪を中心に、東から北に掛けての山腹に郭を重ねる。天守曲輪および大手道には、関東の城郭には珍しく、石垣が多用されている。天守曲輪には天守台が設けられ、2重の天守が築かれた。
主郭部は、天守曲輪から本丸、二の丸、大手門に掛けての郭群により構成されるが、北方の谷に面した尾根上にも、横堀を伴う複数の郭が存在する。また、本丸南方にも横堀が存在し、東端は竪堀となって山麓に向けて下る。居館は、佐白山の北東山麓に置かれた。
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
- 笠間城(笠間市公式ホームページ内)