布引電気鉄道

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布引電気鉄道
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
千曲川橋梁跡(押出 - 布引)
路線総延長 7.6 km
軌間 1067 mm
電圧 600 V 架空電車線方式直流
停車場・施設・接続路線(廃止当時)
STR
国鉄信越本線
ABZrg
国鉄:小海線(佐久鉄道)
BHF exKBHFa
0.0 小諸
ÜWc2 ÜWor exBHF
1.1 花川
ÜWo+l ÜWc4 exBHF
2.8 押出
STR WASSERrg exWBRÜCKE
千曲川橋梁 千曲川
STR WASSER exBHF
4.0 布引
STR WASSER exBHF
6.3 布下
HST WASSER exSTR
滋野
STR WASSER exKBHFe
7.6 島川原

布引電気鉄道(ぬのびきでんきてつどう)は、大正から昭和にかけて長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)の小諸駅から北佐久郡北御牧村(現東御市)の島川原駅までの7.4kmを結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道会社である。

安易な計画が祟って数年で挫折した私鉄」として、雑誌などの記事でもしばしば引き合いに出される鉄道であり、鉄道趣味者における知名度は、現在においても意外に高い。

本項では、布引電気鉄道とほぼ同時期に近接地域にいて建設が計画され、当鉄道との路線共用を条件に免許交付を受けた佐久諏訪電気鉄道についても記述する。

目次

[編集] 概要

島川原発電所

川西地区の開発と布引観音への参詣輸送を目的に設立され、ガス[1]を動力に予定し、最初の名称は布引自働鉄道といった。小諸 - 望月間の免許を得て建設に取り掛かった。使用動力は布引鉄道設立までの間にガスを改め、蒸気を予定していたが、のちに電気に改め、社名も「布引鉄道」から「布引電気鉄道」に変更した。そして第一期区間となる小諸 - 島川原間を1926年12月1日に開業させた。

旅客輸送については沿線に人家が少ないことに加え折からの昭和金融恐慌世界恐慌の影響で営業成績は思わしくなく、当初の目的であった布引観音への参詣輸送と会社が主催した花火大会などは賑わいを見せていたが、それ以外の時期は閑散とした状態で、電車が42人乗りの設計であったにもかかわらず運転士車掌のみで運行していることが珍しくないことから、「始終(四十:しじゅう)二人乗り」「シジュウカラ(始終空)の小鳥電車」[2]などとも揶揄された。

しかし、1928年から1930年にかけては、島川原地区に建設が進められていた東信電気島河原発電所(現:東京電力島川原発電所)の資材輸送により利益を上げていた。駅に貨車が入りきらず、線路上で資材を下ろしたこともあったという[3]

発電所が完成するとわずかな旅客収入のみとなり、経営的には非常に厳しい状況となった。電気料金も支払いの遅れが目立つようになり、末期にはモーター故障と称してしばしば運休となることがあったが、実際には送電停止による運休だったといわれている。最終的には電気料金の支払いが不可能になり、運行を無期限で休止した。この際に、当時の鉄道省(のち運輸通信省運輸省、現在は国土交通省)に諮らずに運行休止したことが後に発覚、同省が鉄道免許を取り消した結果、廃線となるという異例の事態であった。

廃線直後、沿線住民や会社の幹部が無断で運行停止したとして、当時の社長を刑事告発し、結果的に社長が逮捕されるという泥仕合が展開され、最後は運行会社自体が解散するという、醜態と呼ばざるを得ない結末を迎えている。

[編集] 沿革

  • 1919年(大正8年) 小諸から本牧まで14.7kmの敷設免許を申請
  • 1920年(大正9年)10月30日 免許交付により布引鉄道設立
  • 1923年(大正12年) 布引電気鉄道と改称
  • 1926年(大正15年)12月1日 小諸 - 島川原間開業
    • この年に地方鉄道補助法による補助金申請を行なったが却下。
  • 1928年(昭和3年) 東信電気島川原発電所の工事開始
    • 完成まで貨物輸送は隆盛。
  • 1930年(昭和5年) 東信電気島川原発電所が完成
  • 1934年(昭和9年)6月1日 送電停止により運行停止
    • これまでにも何度か一時的な送電停止による運休はあった。
  • 1936年(昭和11年)10月28日 無認可の運行停止に対する処分として免許取り消しにより廃業

[編集] 路線

[編集] 路線データ

  • 路線距離:小諸 - 島川原間7.42km
  • 軌間:1067mm
  • 駅数:5
  • 複線区間:なし(全線単線
  • 電化区間:全線(600V直流電化

[編集] 運行状況

1930年4月1日改正当時

  • 運行本数:小諸 - 嶋川原間日16往復(6:30 - 21:00、その他夜間に2往復不定期便あり)
  • 全線所要時間:27分
  • 全線通し運賃:24銭

[編集] 駅一覧

小諸駅 - 花川駅 - 押出駅 - 布引駅 - 布下駅 - 島川原駅

布引駅、島川原駅は国鉄との連絡運輸対象駅

[編集] 接続路線

[編集] 廃線跡

千曲川の橋脚などがいまだに残存している。

[編集] 輸送・収支実績

年度 乗客(人) 貨物量(トン) 営業収入(円) 営業費(円) 益金(円) その他損金(円) 支払利子(円)
1927 70,722 1,225 16,284 36,263 ▲ 19,979 雑損110 25,077
1928 130,321 3,005 42,448 41,732 716 22,228
1929 122,951 9,988 35,329 40,350 ▲ 5,021 23,362
1930 94,570 6,172 27,227 24,698 2,529 11,209
1931 66,879 898 11,093 23,966 ▲ 12,873 10,407
1932 42,838 73 5,163 16,725 ▲ 11,562 11,426
1933 57,821 2,191 7,712 11,121 ▲ 3,409 4,222
1934 19,277 670 13,764 14,282 ▲ 518
  • 地方鉄道補助法による補助の申請をしたが省線と並行しており、さらに遊覧鉄道とみなされ許可されなかった「失われた鉄道・軌道を訪ねて」114頁
  • 鉄道統計資料、鉄道統計各年度版より

[編集] 車両

開業にあわせて筑摩電気鉄道(後の松本電気鉄道浅間線)から4輪単車の電車3両(デハ1-3)と電動貨車1両(デワ1)を譲り受け、運行休止まで使用した。廃止後はすべてブローカーの手に渡っている。

[編集] 佐久諏訪電気鉄道

1919年1月12日には「佐久諏訪電気鉄道」として信越本線田中駅中央本線茅野駅を結ぶ鉄道の免許申請が出されている。製糸業者からの出資を目論み諏訪湖南岸を通り、中央本線岡谷駅までも計画していたがこちらは免許が下りていない。

この時、既に免許を受けていた布引電気鉄道とルートが重なるため、路線の共用(相互乗り入れのことと思われる)を条件に免許を受けることになった。

急峻な山岳地帯を越える厳しい条件のルートであり、全通させるまでの建設費が莫大になることは避けられなかった。工事は第一期着工区間として、諏訪から豊平までの区間の工事が始められたが、資金繰りは苦しく、強引に工事を進めたことにより地権者との間に不信感が広まった上、用地買収代金の未払いなどにより行き詰まり、1927年には会社は破産宣告を受けてしまった。その後工事再開を目論んだものの、資金調達の目途が立たないまま、1931年に免許が取り消され、2年後に会社解散となった。佐久と諏訪を結ぶ鉄道という、壮大な計画は崩れ去ったのである。

[編集] 注釈

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  1. ^ 「瓦斯」は当時日本で鉄道動力に導入が検討されつつあったガソリンエンジンを指した「ガソリン(瓦斯倫)」の誤りの可能性もあるが文献により異同あり。気体としてのガスを鉄道車両の燃料とした事例は、1934年に流山鉄道(現・流鉄流山線)が木炭ガス発生器搭載気動車を導入したのが日本での最初である。
  2. ^ 運行開始した当初から乗客がほとんどおらず、小鳥の四十雀にかけた「シジュウカラ電車」と揶揄された不採算路線の事例には、ほかにも池田鉄道などがある。
  3. ^ もっとも昭和4年度には1万トン近くの貨物量を記録したが、旅客収入の1/3以下であった「挫折した地方小鉄道」139頁

[編集] 参考文献

  • 今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』6 北信越、新潮社2008年ISBN 978-4-10-790024-1
  • 谷口良忠「失われた鉄道・軌道を訪ねて/布引電気鉄道」、『鉄道ピクトリアル』通巻433号1984年6月号。
  • 山田俊明「挫折した地方小鉄道」、『鉄道ジャーナル』通巻196号1983年6月号。