古代エジプト人の魂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

この項目では古代エジプト人たちの霊魂観について解説する。古代エジプト人たちは人間霊魂が5つの部分からなると信じていた――「レン」、「バー」、「カー」、「シュト」、「イブ」である。これら魂の構成要素の他に人間の体「ハー」があり、これは時には複数形で「ハウ」と呼ばれ、体の各部の集まりをおおよそ意味した。他の魂には「アーク」、「カイブト」、「カート」があった。

イブ(心臓)の計量。中央左がアヌビス、その右の怪物がアメミット。秤の左右には心臓と「マアトの羽根」。

イブ(心臓)[編集]

jb (F34) "心臓"
ヒエログリフで表示
F34

エジプト人の魂の重要な部分の1つと考えられていたのが「イブスペイン語版」(jb)、「心臓」であった。イブ[1][2]もしくは形而上学的な心臓は、妊娠時に母親の心臓から取られた一滴の血から形成されたものであると信じられていた[3]

古代エジプト人たちにとっては、脳ではなく心臓が感情、思考、意志、意向の座であった。このことはエジプト語における「イブ」という語を含む多くの表現によって裏付けられる。幸福を意味する「アウト・イブ」は文字通りには心臓に幅があることであり、疎外を意味する「カク・イブ」は文字通りには心臓が断ち切られたことである。ウォーリス・バッジはこの語を「アブ」と音訳している。

古代エジプトの信仰においては、心臓は来世にとっての鍵であった。心臓は死後も冥界において生き続け、その所持者に有利もしくは不利な証言をするのであるとされていた。「心臓の計量」の儀式において、心臓がアヌビスと神々によって調べられるのであると考えられていた。もし心臓が「マアトの羽根」よりも重ければ、心臓はただちに怪物アメミットに食べられてしまう。このためミイラ作りで内臓を除去する際にも心臓だけは残しておいた[4]

シュト(影)[編集]

人間の影である「シュトドイツ語版」(šwt)は常に存在するものであった。人間は影なしには存在できず、影もまた人間なしには存在できないと信じられており、従って、影はそれが現す人間の何がしかを含んでいるとエジプト人は憶測していた。この理由から、人間や神々の像はそれらの影であると言い表されることもあった。

影はまた完全に黒く塗られた小さな人間の形として、 死や、アヌビスの僕の姿として視覚的に表現されもした。

レン(名前)[編集]

魂の一部分として、「レンドイツ語版」(rn「名前」)が出生時に人間に与えられ、これはその名前が話される限りは生き続けるのであるとエジプト人は信じていた。名前を保護するための努力がなされ、また数多くの書き物に名前を入れることが行われていたのはこのためである。例えば、『死者の書』の派生作品である『呼吸の書』の一部は名前の生存を確保するための手段であった。名前を囲み保護するためにしばしばカルトゥーシュ(魔法の縄)が用いられた。逆に、アメンホテプ4世のような死んだ国の敵の名前は一種の「ダムナティオ・メモリアエ」としてモニュメントから壊して取り外された。しかしながら、時として、新しいモニュメントを建造せずに経済的に後継者の名前を挿入する場所を作るために名前が外されてしまうこともあった。名前が多くの場所で使われれば、その名前が後まで残り、読まれ話される可能性も大きくなった。

バー(魂)[編集]

bȝ (G29)
ヒエログリフで表示
G29
bȝ (G53)
ヒエログリフで表示
G53

バードイツ語版」(b3)はいくつかの側面において現代の西洋の宗教的な「魂」の概念に最も近いものであるが、これはまた個人を独自のものとするあらゆるものでもあり[5]、「個性」の概念に類似したものでもあった。この意味では、生命を持たない物体もまた独自の性質である「バー」を持ち得、実際に古王国ピラミッドはしばしばその主の「バー」であると呼ばれていた。(現代の)魂と同様に、「バー」は体が死んだ後も生き続ける人間の一側面であるとエジプト人たちは信じており、墓から飛び立ち来世で「カー」と合流する人頭の鳥として描かれることもあった。

コフィン・テクスト英語版においては、死後に発生したバーの一形態は身体を持ち、飲食し、性交も行うとされていた。ルイス・ヴィコ・ザブカール英語版は、ギリシアや後期のユダヤ教やキリスト教やイスラム教で考えられている魂とは違い、バーは人間の一部ではなく人間そのものであったと主張している。純粋に非物質的な存在という概念はエジプト人の思考には実になじみのないものであったので、キリスト教がエジプトに広まった時にはこれを表すためにギリシア語「プシューケー」が借用され、「バー」という言葉は用いられなかった。「バー」の概念は古代エジプト人の思考に極めて固有のものであったので、これは翻訳されるべきではなく、人間の存在状態の1つであるとして脚注か括弧書きで解説すべきものであるとザブカールは結論付けている[6]

別の存在状態として、『日下出現の書』においてはバーはミイラへと戻り、肉体を持たない姿で墓の外での生活に参加するものとして描かれており、これはラーオシリスが夜毎に交わるという太陽神学を反映している[7]

バーの複数形である「バーウ」(b3w)は「威厳」「力」「名声」などのようなもの、特に神のそれを意味していた。神が人間のことに介入した場合、神の「バーウ」が仕事をしているのだと言われた[8]。この観点から、統治者は神の「バー」であると見做され、またある神は別の神の「バー」であると信じられていた。

カー(精霊)[編集]

kȝ (D28)
ヒエログリフで表示
D28

カードイツ語版」は生者と死者を分ける霊的な精髄を指すエジプト人の概念であり、カーが身体を離れる時にが起きるとされた。クヌム轆轤で子供達の体を造り、母達の体内へと挿入するのであるとエジプト人たちは信じていた。地域により、ヘケトもしくはメスケネトが各人のカーの創り手であると信じられており、誕生の瞬間に魂の一部としてカーを吹き込むことで生者とすると考えられた。これは他の諸宗教における精神の概念に類似している。

またカーは飲食によって維持されるのであるとも信じられていた。この理由から死者には飲食物が捧げられたが、ここで消費されるのは供物の中の「カーウ」(k3w)であり、物質的な部分ではなかった。エジプトの図像ではカーはしばしば王の2番目の姿として描かれており、このために初期の翻訳では「カー」は「分身」と訳されていた。

アク[編集]

アクのグリフ

アク」(Ꜣḫ 、「(魔術的に)有効なもの」)[9] は死者の概念であり、これは古代エジプト人の信仰の長い歴史の中で変化していった。

アクは思考と関連付けられていたが、それは心の働きとしてではなく、むしろ生きた統一体としての知性としてであった。アクはまだ来世でも1つの役割を演じた。カートが死ぬと、バーとカーは再結合してアクを甦らせるのである[10]。アクの復活は適切な葬送儀礼が執り行われ、継続的な捧げ物がなされる場合にのみ可能とされた。この儀礼は「セ・アク」、「(死者を生きた)アクにする」と呼ばれた。この意味では、新王国時代には(墓がもはや管理されなくなってしまうと)アクは一種の幽霊もしくは彷徨う「死者」にさえなった。アクは生者たちに害も益も及ぼすことがあり、状況によっては例えば悪夢、罪悪感、病気などを引き起こした。アクはまた祈りにより、もしくは墓の奉納堂に手紙を置くことにより生きている家族たちを助けるために呼び出すことができた。例えば、紛争に介入し、あるいは地上の事柄に良い方向の影響を及ぼすことのできる他の死者や神々に訴え掛け、あるいは罰を下したりなどをした。

アクの分離と、カーとバーの合体は、死後に適切な供物が捧げられまた適切で有効な呪文を知っていることによって引き起こされるが、再び死んでしまうという危険も付随していた。コフィン・テクスト英語版や『死者の書』のような葬祭文書は死者が「もう一度死なず」に「アク」となることを助けることを意図したものであった。

相互関係[編集]

死者の書』より「口開けの儀式」の場面

古代エジプト人たちは、人の「カー」が体を離れるときにが起きるのだと信じていた。「口開けの儀式」(wp r)と呼ばれるものを含む、死後に神官により執り行われる儀式は、飲食・呼吸・見聞などの死者の身体的能力を回復させる[11]だけでなく、バーを身体から解放することも意図していた。これによりバーは来世でカーと1つになりアク(3 「有効なもの」)となることができるようになるのである。

ジャコモ・ボリオーニの『宗教学の見地から見たカー』(Der Ka aus religionswissenschaftlicher Sicht)によれば、カーは人間存在における「自己」であった。

エジプト人たちは来世を通常の身体的な存在とかなり似たものと想像していた――が、そこには違いもあった。この新しい存在のモデルは太陽の行程であった。夜には太陽はドゥアト英語版(冥界)へと下る。そこで太陽はミイラとなったオシリスの体に会う。オシリスと太陽は互いによって再びエネルギーを得て、次の日の新しい生へと立ち上がる。死者にとっては、その体と墓は自分にとってのオシリスとドゥアトなのであった。この理由から、これらはしばしば「オシリス」と呼ばれた。この過程が機能するためには、バーが夜に戻ってきて、朝には新しい生へと立ち上がってゆけるよう身体にある種の保存を行うことが必要とされ、このため遺体はミイラとされた[12]。しかしながら、完全なアクは星辰として現れるとも考えられていた[13]末期時代になるまでは、太陽神との一体化は王族のみのもので、王族以外のエジプト人は太陽神と一体化するとは考えられていなかった[14]

来世へ行った人を助ける呪文を集めた『死者の書』はエジプト語では『日下出現の書』と呼ばれていた。これらの書物は「冥府でもう一度死なない」ようにし、またその人のことを「常に記憶しておく」ための呪文を含み、来世での破滅を避け、存在し続けることを助けるものであった。エジプト人の信仰においては死後にもう一度死ぬということが起こり得、この死は恒久的なものであった。

第18王朝州執政官ドイツ語版であったパヘリの墓にはこの存在の雄弁な記述があり、ジェームズ・ピーター・アレン英語版によりこう訳されている――

汝の生命は再び始まった、汝のバーは汝の神聖な体から隔離されることなく、汝のバーはアクと共にあり……汝は日毎に立ち上がり、夜毎に戻るであろう。夜には汝のために明かりが灯されるであろう、陽光が汝の胸に射す時まで。汝は告げられるであろう――「ようこそ、ようこそこの汝の生の家へ!」

脚注[編集]

  1. ^ Greater Things, Father
  2. ^ Britannica, Ib
  3. ^ Slider, Ab, Egyptian heart and soul conception
  4. ^ 吉村2005、96頁
  5. ^ 吉村2005、63頁
  6. ^ "A Study of the Ba Concept In Ancient Egyptian Texts.", p. 162-163, Louis V. Zabkar, University of Chicago Press, 1968 [1]
  7. ^ "Oxford Guide: The Essential Guide to Egyptian Mythology", en:James P. Allen, p. 28, Berkley, 2003, ISBN 0-425-19096-X
  8. ^ [Borghouts 1982]
  9. ^ Allen, James W.. Middle Egyptian : An Introduction to the Language and Culture of Hieroglyphs. Cambridge, UK: Cambridge University Press. ISBN 0-521-77483-7. 
  10. ^ EGYPTOLOGY ONLINE, 2009
  11. ^ 吉村2005、100頁
  12. ^ 吉村2005、92頁
  13. ^ Ancient Egyptian Religion: An Interpretation by Henri Frankfort, p. 100. 2000 edition, first copyright 1948. Google Books preview retrieved January 19, 2008.
  14. ^ 26th Dynasty stela description from Kunsthistorisches Museum Vienna

参考文献[編集]

関連文献[編集]

  • Allen, James Paul. 2001. "Ba". In The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt, edited by Donald Bruce Redford. Vol. 1 of 3 vols. Oxford, New York, and Cairo: Oxford University Press and The American University in Cairo Press. 161–162.
  • Allen, James P. 2000. "Middle Egyptian: An Introduction to the Language and Culture of Hieroglyphs", Cambridge University Press.
  • Borghouts, Joris Frans. 1982. "Divine Intervention in Ancient Egypt and Its Manifestation (b3w)". In Gleanings from Deir el-Medîna, edited by Robert Johannes Demarée and Jacobus Johannes Janssen. Egyptologische Uitgaven 1. Leiden: Nederlands Instituut voor het Nabije Oosten. 1–70.
  • Borioni, Giacomo C. 2005. "Der Ka aus religionswissenschaftlicher Sicht", Veröffentlichungen der Institute für Afrikanistik und Ägyptologie der Universität Wien.
  • Burroughs, William S. 1987. "The Western Lands", Viking Press. (fiction).
  • Friedman, Florence Margaret Dunn. 1981. On the Meaning of Akh (3ḫ) in Egyptian Mortuary Texts. Doctoral dissertation; Waltham: Brandeis University, Department of Classical and Oriental Studies.
  • ———. 2001. "Akh". In The Oxford Encyclopedia of Ancient Egypt, edited by Donald Bruce Redford. Vol. 1 of 3 vols. Oxford, New York, and Cairo: Oxford University Press and The American University in Cairo Press. 47–48.
  • Jaynes, Julian. 1976. The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind, Princeton University.
  • Žabkar, Louis Vico. 1968. A Study of the Ba Concept in Ancient Egyptian Texts. Studies in Ancient Oriental Civilization 34. Chicago: University of Chicago Press

関連項目[編集]