フランスSS突撃大隊

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フランスSS突撃大隊
Französische SS-Sturmbataillon
創設 1945年4月24日
廃止 1945年5月2日
所属政体 ナチス・ドイツの旗 ドイツ国ナチス・ドイツ
所属組織

武装親衛隊

部隊編制単位 大隊フランスの旗 フランス人義勇兵約300名)
担当地域 ベルリン
主な戦歴 ベルリン市街戦
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フランスSS突撃大隊:Französische SS-Sturmbataillon)[注 1]は、第二次世界大戦独ソ戦)末期ドイツ国ナチス・ドイツ)の武装親衛隊フランス人義勇兵部隊(1945年4月末のベルリン市街戦ソビエト赤軍と交戦した武装親衛隊フランス人義勇兵1個大隊)。

1945年3月に東部戦線ポメラニアで壊滅した第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」(33. Waffen-Grenadier-Division der SS „Charlemagne“)の生存者の中で戦闘継続を希望した約300名の将兵で構成。アンリ・フネSS義勇大尉SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet)を指揮官として1945年4月末のベルリン市街戦に参加し、ベルリン市街南東~中央部(ノイケルン区テンペルホーフ区クロイツベルク区ミッテ区)における市街戦で赤軍戦車を50輌以上[注 2](資料・文献によっては60輌[3]、62輌[4])撃破した。

彼らと共にベルリンに到着し、現地で戦闘中の第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」師団長に就任したフランスSS部隊総監・元「シャルルマーニュ」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将SS-Brigf. Gustav Krukenberg)は戦後、ベルリン市街戦における武装親衛隊フランス人義勇兵の奮戦を次のように総括した[2][注 3]

フランス人たちがいなかったら、ロシア軍は8日早くベルリンを制圧していただろう・・・

背景[編集]

1945年3月 「シャルルマーニュ」師団壊滅・再編成[編集]

独ソ戦末期の1945年3月初旬から中旬の間、武装親衛隊第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」ポメラニア戦線で圧倒的多数のソビエト赤軍[注 4]と交戦し、師団の主要な将校(初代師団長、師団参謀長連隊長2名、大隊長多数、その他)を含む約5,000名の将兵を失って壊滅した。

ポメラニアで散り散りになった「シャルルマーニュ」師団の生存者は個人もしくはグループで行動し、それぞれ陸路や海路でドイツ本土への撤退を試みた。これらの生存者の中で最大のグループは、フランスSS部隊総監兼2代目師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将と歴戦のフランス人将校アンリ・フネSS義勇中尉に率いられていた行進連隊第Ⅰ大隊(Ier Bataillon / Régiment de Marche)であった。この行進連隊第Ⅰ大隊(将兵約800名)は3月中旬にバルト海沿岸部の都市ディフェノ(Dievenow、現ジブヌフ(Dziwnów))経由でドイツ北部へ撤退することに成功した。

1945年3月24日、先のポメラニア戦線で大損害を被った「シャルルマーニュ」師団の生存者はノイシュトレーリッツNeustrelitz)に移動し、師団司令部をカルピン(Carpinベルリンから約90キロメートル北に位置する町村)に設置。1個連隊規模に減少した「シャルルマーニュ」師団の将兵はカルピン周辺に駐屯し、訓練や対戦車障害物建設工事に従事して時を過ごした。

1945年4月24日未明 出撃命令通達[編集]

1945年4月16日朝、ソビエト赤軍オーデル川沿いに展開するドイツ第9軍第4装甲軍に対する大攻勢を開始した(ゼーロウ高地の戦い)。ベルリンの戦いの前哨戦であるこの戦いでドイツ軍部隊は後退しつつ頑強に抵抗したが、19日に赤軍はドイツ軍戦線を突破し、間もなくドイツ国の首都ベルリンBerlin)を包囲した。

1945年4月24日午前3時頃、ドイツ北部駐屯中の「シャルルマーニュ」師団のもとへ、赤軍包囲下のベルリンから複数の出撃命令がテレグラムで通達された。そのうちの1つの内容は次の通り[6][7]総統大本営から通達された出撃命令のうちの1つ(アドルフ・ヒトラー総統の署名入りテレグラム)の存在は、ヒトラーの個人副官オットー・ギュンシェSS少佐SS-Stubaf. Otto Günsche)によって戦後に証明された)[8]

« Division Charlemagne unter Ausnützung aller Verkehrsmöglichkeiten sofort Ei(n)satz Berlin. Meldung reich(s)kanzlei. Adolf Hitler. »シャルルマーニュ師団はあらゆる交通手段を用いて直ちにベルリンへ出撃せよ。総統官邸通知。アドルフ・ヒトラー

※ 原文は()内の文字が欠落している。

しかし、「シャルルマーニュ」師団の手元には師団将兵(この時点で約1,000名)全員に行き渡るほど十分な量の武器が無く、また、全員を輸送するほど十分な量の交通手段(車輌)も無かった。これらの事情により、赤軍包囲下のベルリンへ直ちに出撃可能な部隊は「シャルルマーニュ」師団の一部のみであった。

フランスSS突撃大隊の人数[編集]

1945年4月24日 ベルリンへの出発[編集]

1945年4月25日 ベルリンにおける最初の日々[編集]

1945年4月26日 ノイケルンの戦い[編集]

1945年4月27日[編集]

1945年4月28日[編集]

1945年4月29日[編集]

フランスSS突撃大隊の騎士鉄十字章受章者[編集]

第二次世界大戦最後の騎士鉄十字章[編集]

1945年4月29日、ベルリンミッテ区ベルリン地下鉄シュタットミッテ駅(U-Bahnhof Stadtmitte)に設置されている「ノルトラント」師団司令部の中で、「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将は不安感に苛まれていた。ベルリン防衛司令官ヘルムート・ヴァイトリング砲兵大将が催す作戦会議に参加せよとの命令も無く、師団司令部には無線機も設置されていないという状況の中、クルケンベルクが外界の情報を得るにはフランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉や、戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉から送られてくる伝令に頼るほかなかった。

そのようにしてもたらされた情報によって、クルケンベルクはフランス人義勇兵ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot)が市街戦中に合計8輌の赤軍戦車を撃破したことを知り、ヴォロを騎士鉄十字章受章者候補に推薦した。

1945年4月29日午後、シュタットミッテ駅構内の地下鉄車輌内において「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将は、「短いローソクのゆらめく光の中で」[9]ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長に騎士鉄十字章を授与した。クルケンベルクは戦後に著した回顧録の中で、1945年4月29日の出来事を次のように述べている[10]

第503SS重戦車大隊指揮官のヘルツィヒ少佐(SS少佐)(SS-Stubaf. Friedrich Herzig)も、モーンケSS少将から騎士鉄十字章を授与された。これらが今次大戦における最後の2つの騎士鉄十字章であった。

しかし、武装親衛隊騎士鉄十字章受章者について述べたErnst-Günther Krätschmerの著書 « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »(初版:1950年~第5版:2002年)によると、同じく1945年4月29日にウジェーヌ・ヴォロ武装伍長とフリードリヒ・ヘルツィヒSS少佐以外にも騎士鉄十字章を授与された者がおり、その中には

も含まれている[11]。戦後のクルケンベルクは、戦時中の公式勲記が存在しないことを理由にウジェーヌ・ヴォロ以外のフランスSS突撃大隊の将兵(ヴェーバー、フネ、アポロ)に対する騎士鉄十字章授与が本当になされたのかどうかを疑問視したが、ヴェーバー、フネ、アポロに対して騎士鉄十字章が授与されたことを示唆する記録として以下の説が現在までに伝わっている。

ヴィルヘルム・ヴェーバーに対する騎士鉄十字章授与[編集]

モーンケSS少将による勲章授与[編集]

ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉、ヴィルヘルム・モーンケSS少将、パウル・パシュールSS大尉(SS-Hstuf. Paul Pachur:クルケンベルクSS少将の第1補佐)の目撃証言に基づく記録(Charles Georgenの著書)によると、1945年4月29日、ヴェーバーSS中尉は市街戦で負傷し、総統官邸の地下(総統地下壕)にある野戦病院へ搬送された。「前線から下がってきた将校の大多数のように」ヴェーバーもこの時、総統官邸の地下に司令部を置く「Z」地区(官庁街)防衛司令官モーンケSS少将に戦況を詳しく説明した。ヴェーバーの報告を聞いた後、モーンケは陸軍人事局(Heerespersonalamt (HPA))責任者ヴィルヘルム・ブルクドルフ歩兵大将Gen.d.Inf. Wilhelm Burgdorf)のもとへ赴き、フランスSS突撃大隊の将校・下士官数名に対する騎士鉄十字章授与の約束をとりつけた。

同日、ブルクドルフは書類にサインし、モーンケに勲記と勲章を手渡した。こうして、推薦が認められてから数時間も経たないうちにモーンケはヴェーバーに騎士鉄十字章を授与した[10][12]

異説[編集]

Saint-Loup « Les Hérétiques »(Presses de la Cité, 1965)の記述によると、ヴェーバーSS中尉は1945年4月30日早朝に負傷し、親衛隊全国指導者地下壕を経て総統地下壕に運ばれた。

その際にヴィルヘルム・モーンケSS少将は、ウジェーヌ・ヴォロ騎士鉄十字章を授与されたことをヴェーバーに知らせ、さらに貴官(ヴェーバー)とアンリ・フネフランソワ・アポロも騎士鉄十字章を授与されたと伝えた。そしてモーンケは、騎士鉄十字章授与に関する書類をグスタフ・クルケンベルクSS少将が受け取ることになっていると付け加えたが、結局クルケンベルクのもとに書類は届かなかった(Saint-Loupは、この書類は道中で紛失したか、もしくは最初から送られなかったためにクルケンベルクのもとへ届かなかったと説明している)[10][注 5]

アンリ・フネに対する騎士鉄十字章授与[編集]

口頭での授与約束[編集]

Jean Mabire « Mourir à Berlin »(Fayrad, 1975)の記述によると、1945年4月29日午後、「ノルトラント」師団スカンディナヴィア人SS中尉[注 6]がフランスSS突撃大隊本部を訪問した。この「類稀なお隣さん」(フランス人義勇兵たち)への賞賛の意を込めて、スカンディナヴィア人SS中尉はその場にいた者たちにワインボトルをプレゼントした。その際に彼はフランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉の補佐アルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Alfred Douroux)に対し、「フネ大尉は騎士鉄十字章の授与が約束されている」とささやいた。

もっとも、フネに対する騎士鉄十字章の授与はまだ公式に発表されていなかったため、スカンディナヴィア人SS中尉はこの知らせをフネ自身には伝えなかった(しかし、ドゥールーは終戦の直前にこの知らせをフネに伝えた)。それからフネは戦後に至るまで、騎士鉄十字章を授与されたことに関する情報は何も聞かされなかった[10][注 7]

異説[編集]

フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長(W-Hscha. Pierre Rostaing)の回顧録 « Le prix d'un serment »(La Table Ronde, 1975)p200の記述によると、1945年4月29日、ベルリン市街の図書館の地下室において大隊長アンリ・フネはロスタンのために一級鉄十字章の授与式を執り行ったが、その時のフネはグスタフ・クルケンベルクSS少将から授与された騎士鉄十字章を首に佩用していたという(ただし、この記述は裏付けが取れていない)[15]

総括[編集]

1945年4月29日、フランスSS突撃大隊戦術学校のフランス人義勇兵ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長は、「ノルトラント」師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将から直々に騎士鉄十字章を授与された(騎士鉄十字章授与が約束された武装親衛隊フランス人義勇兵(ヴォロ、フネ、アポロ)のうち、ベルリン市街戦の混乱状態の中で実際に騎士鉄十字章を授与された人物はウジェーヌ・ヴォロ武装伍長のみ)[16][17]


そして、1945年4月29日に負傷した戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に対してはベルリン官庁街・総統官邸防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将が騎士鉄十字章を授与したが、この公式勲記(受章証書)が存在していないために戦後のクルケンベルクはヴェーバーに対する騎士鉄十字章授与を疑問視した。さらに、フランスSS突撃大隊指揮官アンリ・フネSS義勇大尉と戦術学校第2分隊長フランソワ・アポロ武装曹長に対する騎士鉄十字章授与は口頭での授与約束であり、こちらも公式勲記が存在していない。そのため、彼らに対する騎士鉄十字章授与の事実を証明することは不可能であるが、「フネとヴェーバーとアポロベルリン市街戦騎士鉄十字章を受章した」が現在の通説である[14][注 8]

1945年4月30日[編集]

1945年5月1日[編集]

1945年5月2日 戦闘終了[編集]

編成[編集]

大隊長(Commandeur)[編集]

歴代大隊長
就任 離任 氏名・階級
1945年4月24日 1945年5月2日(捕虜 アンリ・フネSS義勇大尉 SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet

大隊の編成[編集]

フランスSS突撃大隊の各部隊の指揮官および、氏名が判明している隊員の一覧[18]

大隊本部(État Major)[編集]

大隊長 フランスの旗 アンリ・フネSS義勇大尉(SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet

  • 大隊副官 ナチス・ドイツの旗 ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉(SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt)
  • 第1補佐 フランスの旗 ジャック・フランツSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Jacques Frantz)
  • 第2補佐 フランスの旗 アルフレッド・ドゥールー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Alfred Douroux)
  • 本部小隊長 フランスの旗 リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長(SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart)
隊員
  • フランスの旗 ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet)
  • クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard)(大隊書記フラマン人。5月2日午後のベルリン脱出時は第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長のグループに同行
  • ナチス・ドイツの旗 フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink)(大隊書記)
  • フランスの旗 ギイ・ラコンブSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Guy Lacombe:通称「ビク」(« Bicou »))[19]
  • フランスの旗 ロジェ・ロベルティSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Roger Roberti)(伝令)
  • ナチス・ドイツの旗 マックス・ヴァルターSS伍長(SS-Uscha. Max Walter)[20]通訳
  • フランスの旗 ピエール・ミレSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Pierre Millet)(伝令班長)
  • フランスの旗 ジョルジュ・クーテュラン(Georges Couturin)
  • その他

第1中隊(1ère compagnie)[編集]

中隊長 フランスの旗 ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Jean-Clément Labourdette)

  • 補佐 フランスの旗 ジャン・コサールSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. Jean Cossard)
  • 補佐 フランスの旗 ジャン=マリ・クロアジル武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jean-Marie Croisile)
  • 第1小隊長 フランスの旗 アンドレ・ブルミエSS義勇連隊付上級士官候補生(SS-Frw. StdObJu. André Boulmier)
  • 第2小隊長 フランスの旗 マクシム・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Maxime de Lacaze)
  • 第3小隊長 フランスの旗 ジャック・ル・メニャン・ド・ケランガSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Jacques Le Maignan de Kérangat)
隊員
  • フランスの旗 アルベール・ロブラン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Albert Robelin)(第?小隊第?分隊長
  • フランスの旗 クロード・クランSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Claude Cren)(第1小隊第3分隊長)
  • フランスの旗 ルフェーヴル武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Lefeuvre)
  • フランスの旗 ガブリエル・ジェラール武装伍長(W-Uscha. Gabriel Gerard)
  • フランスの旗 ジャン=ルイ・ピュエクロンSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jean-Louis Puechlong)
  • その他

第2中隊(2ème compagnie)[編集]

中隊長 フランスの旗 ピエール・ミシェルSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel)

  • 第1小隊長 フランスの旗 マルセル・アルディSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Marcel Hardy)
  • 第2小隊長 フランスの旗 ジャン=フィリップ・ネロニSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. Jean-Philippe Neroni)
  • 第3小隊長 フランスの旗 マルク・モングール武装曹長(W-Oscha. Marc Montgour)
隊員
  • フランスの旗 ルネ・ビローSS義勇連隊付士官候補生(SS-Frw. StdJu. René Billot)
  • フランスの旗 レイモン・ブリュアSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Raymond Bruhat)
  • フランスの旗 ベルナール・フォーデ武装伍長(W-Uscha. Bernard Fodé)(第3小隊第?分隊長)
  • フランスの旗 ジャン=フランソワ・ラプロー武装伍長(W-Uscha. Jean-François Laplaud)(第3小隊フォーデ分隊)
  • フランスの旗 P=J・リシャール武装伍長(W-Uscha. P.-J. Richard)
  • フランスの旗 H・サヴィヤン武装伍長(W-Uscha. H. Savouillan)
  • フランスの旗 ディスパンSS義勇二等兵(SS-Frw. Schütze Dispans)
  • フランスの旗 ジャック・ロンジエ武装二等兵(W-Gren. Jacques Ronzier)
  • その他

第3中隊(3ème compagnie)[編集]

中隊長 フランスの旗 ピエール・ロスタン武装上級曹長(W-Hscha. Pierre Rostaing)

  • 補佐 フランスの旗 ジャン・デュムラン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jean Dumoulin)
  • 第1小隊長 フランスの旗 ラウル・ジノー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Raoul Ginot)
    • 補佐 フランスの旗 ジャン・マラルディエ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu.[注 9] Jean Malardier)
  • 第2小隊長 フランスの旗 ガストン・ボムガルトネ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Gaston Baumgartner)
    • 補佐  ローラント・フェルファイリー武装曹長(W-Oscha. Roland Verfaillie)フラマン
  • (第3小隊長 フランスの旗 ジャック・シャヴァン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jacques Chavant))

 ※ フランスSS突撃大隊第3中隊第3小隊は「シャルルマーニュ」師団の駐屯地カルピンCarpin)からベルリンへ進む途中で輸送車輌が故障し、行軍を断念してカルピンへ引き返した(ベルリン市街戦に参加できなかった)。

隊員
  • フランスの旗 ピルザン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Pilsin)
  • フランスの旗 ギイ・デデュー武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Guy Dedieu)
  • フランスの旗 ナルシス・デデュー武装曹長(W-Oscha. Narcisse Dedieu)
  • フランスの旗 グザヴィエ・アラン武装伍長(W-Uscha. Xavier Allain)
  • フランスの旗 ドラルー武装伍長(W-Uscha. Delarue)
  • フランスの旗 フランソワ・ド・ラニュリアンSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. François de Lannurien)(第?小隊第?分隊長)[注 10]
  • フランスの旗 カロン武装兵長(W-Rttf. Caron)
  • フランスの旗 ジャック・エヴラルSS義勇兵長(SS-Frw. Rttf. Jacques Evrard)(主計(元衛生兵))※ 5月1日夜~2日未明のベルリン脱出時は戦術学校指揮官ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に同行
  • フランスの旗 バルフィーユ武装上等兵(W-Strmm. Barfeuille)(第1小隊第2分隊所属)
  • フランスの旗 ジョゼフ・ティリエ武装二等兵(W-Gren. Joseph Tillier)
  • フランスの旗 アルボネル(Arbonnel)
  • フランスの旗 ロスフェルダー(Rosfelder)アルザス人[23]
  • その他

第4中隊(4ème compagnie)[編集]

中隊長 フランスの旗 ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)

  • 第1小隊長 フランスの旗 フィーゼルブラン武装伍長(W-Uscha. Fieselbrand)
  • 第2小隊長 フランスの旗 ベリエ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Bellier)
  • 第3小隊長 フランスの旗 ポール・ソヴァージョ武装伍長(W-Uscha. Paul Sauvageot)
隊員
  • フランスの旗 ルロア武装伍長(W-Uscha. Leroy)
  • フランスの旗 ガストン・クーロンSS義勇上等兵(SS-Frw. Strmm. Gaston Coulomb)
  • その他

戦術学校(Kampfschule[編集]

指揮官 ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber

  • 第1小隊長 フランスの旗 ピエール・ブスケSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Pierre Bousquet
  • 第2小隊長 フランスの旗 ジャン・エメ=ブランSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jean Aimé-Blanc)
  • 第3小隊長 フランスの旗 ジェラール・フォントネーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Gérard Fontenay)[注 11]
隊員
  • フランスの旗 フランソワ・アポロ武装曹長(W-Oscha. François Appolot)(第2分隊長)
  • フランスの旗 ジュール・ブーコーSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jules Boucaud)
  • フランスの旗 ロベール・ヴァサールSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Robert Vassard)
  • フランスの旗 ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長(W-Uscha. Eugène Vaulot)(第6分隊長)
  • フランスの旗 ルイ・ラヴェスト武装上等兵(W-Strmm. Louis Lavest)
  • フランスの旗 クロード武装二等兵(W-Gren. Claude)
  • フランスの旗 ピエール・ペルッシ武装二等兵(W-Gren. Pierre Pellucci)
  • その他

所属不明の隊員(Affectation inconnue)[編集]

将校
  • フランスの旗 エメ・ベルトーSS義勇少尉(SS-Frw. Ustuf. Aimé Berthaud)※ 一説によると戦術学校所属
  • フランスの旗 ロジェ・デュジェネ武装少尉(W-Ustuf. Roger Dugenest)


士官候補生
  • フランスの旗 ベルタン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Bertand)
  • ナチス・ドイツの旗 ブロックSS連隊付上級士官候補生(SS-StdObJu. Block)
  • フランスの旗 コステ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Coste)
  • フランスの旗 モーリス・ギャラボス武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Maurice Garrabos)
  • フランスの旗 ジャン・ド・ラカーズ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Jean de Lacaze)※ 第1中隊第2小隊長マクシム・ド・ラカーズの兄弟
  • フランスの旗 ミシェル・ルブラン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Michel Lebrun)
  • フランスの旗 ピエール・メッセ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Pierre Maisse)
  • フランスの旗 ピフェトー武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Piffeteau)
  • フランスの旗 レイモン・プポン武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Raymond Poupon)
  • フランスの旗 ボネ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Bonnet)
  • フランスの旗 ジャン=ルイ・ド・ブージュ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Jean-Louis de Bouge)※ 本名不明
  • フランスの旗 マリウス・ヴェレ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Marius Velet)
  • フランスの旗 ダニエル・ヴォアテュリエ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Daniel Voiturier)
  • フランスの旗 ジョルジュ・ヴォアテュリエ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Georges Voituriez)


下士官・兵
  • ナチス・ドイツの旗 ルドルフ・ローゼンクランツSS曹長(SS-Oscha. Rudolf Rosenkranz)
  • フランスの旗 エルネスト・ギャリノン武装伍長(W-Uscha. Ernest Galinon)
  • フランスの旗 リオネル・ジャックSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Lionel Jacques)
  • フランスの旗 モーリス・マンフレディSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Maurice Manfredi)※ 参加?[注 12]
  • フランスの旗 アンドレ・ブルロー武装上等兵(W-Strmm. André Bourreau)
  • フランスの旗 ポール・オーバン武装二等兵(W-Gren. Paul Aubin)
  • フランスの旗 オードリィ武装二等兵(W-Gren. Audry)
  • フランスの旗 ブラエ武装二等兵(W-Gren. Blaes)
  • フランスの旗 ジャン=クロード・ドラージュSS義勇二等兵(SS-Frw. Schütze Jean-Claude Delage)
  • フランスの旗 シェヴァリエ(Chevalier)
  • フランスの旗 デュショ(Duchot)
  • フランスの旗 フュネル(Funel)
  • フランスの旗 ジョルジュ・ジェラン(Georges Gelin)
  • フランスの旗 ジョルジュ・ジアナ(Georges Giana)※ 5月2日のベルリン脱出時は大隊長アンリ・フネSS義勇大尉のグループに同行
  • フランスの旗 マズエ(Mazoué)ソルボンヌ大学教授の息子

その他[編集]

フランスSS突撃大隊将兵の個人戦車撃破数[編集]

ベルリン市街戦赤軍戦車を単独で撃破したフランスSS突撃大隊将兵の氏名および戦車撃破数の一覧[18]
氏名・階級 所属・役職 個人戦車撃破数 ベルリン市街戦で受章した勲章 ベルリン市街戦終了時の生死
ウジェーヌ・ヴォロ武装伍長
W-Uscha. Eugène Vaulot
戦術学校
第6分隊長
8[28][17] 騎士鉄十字章
Ritterkreuz
死亡
(5月2日明け方、ベルリン脱出戦で赤軍狙撃兵に撃たれて戦死[17]
ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉
SS-Ostuf. Wilhelm Weber
戦術学校指揮官 8[28]
(13)[29]
騎士鉄十字章
Ritterkreuz
生存
(4月29日に負傷するも、5月2日に赤軍の包囲網を突破してベルリン脱出に成功)[30]
フランソワ・アポロ武装曹長
W-Oscha. François Appolot
戦術学校
第2分隊長
6[28][31][32]
(5)[33]
騎士鉄十字章
Ritterkreuz
生存
(5月2日明け方、ベルリン脱出戦で赤軍の包囲網を突破できず、後にブランデンブルク門付近の建物の地下室で赤軍の捕虜[32]
アンリ・フネSS義勇大尉
SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet
大隊長 5[33][注 14] 騎士鉄十字章
Ritterkreuz
生存
(5月2日午後3時頃、ポツダム広場付近のベルリン地下鉄駅構内で赤軍の捕虜
セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生
W-StdJu. Serge Protopopoff
第4中隊長補佐
(中隊長代行)
5[34][35] 一級鉄十字章(追贈)
EK 1
死亡
(5月1日朝、赤軍迫撃砲攻撃を受けて戦死[35]
ジュール・ブーコーSS義勇伍長
SS-Frw. Uscha. Jules Boucaud
戦術学校 4[28][36] 一級鉄十字章
EK 1
クロード武装二等兵
W-Gren. Claude
戦術学校 4[28][37] 一級鉄十字章
EK 1
生存
(ただし、3輌目の敵戦車を攻撃中に脚と腕を負傷)[37]
ロジェ・アルベール=ブリュネSS義勇伍長
SS-Frw. Uscha. Roger Albert-Brunet
大隊本部 4[28][38] 一級鉄十字章
EK 1
死亡
(5月2日午後3時過ぎ、捕虜となった後の移送中に赤軍兵によって射殺[38]
フランソワ・ド・ラニュリアンSS義勇伍長
SS-Frw. Uscha. François de Lannurien
第3中隊
分隊長
3[28][注 15] 一級鉄十字章
EK 1
生存
(5月1日午後、崩れた壁の下敷きになって負傷し、ベルリン地下鉄シュタットミッテ駅にある救護所へ搬送)
オードリィ武装二等兵
W-Gren. Audry
3[39]
(2)[28]
一級鉄十字章[39]
EK 1
死亡
(4月29日午後、4輌目(3輌目)の敵戦車を攻撃中に重傷を負い、ベルリン地下鉄シュタットミッテ駅にある救護所へ搬送される途中で死亡)[39][40]
ピエール・ロスタン武装上級曹長
W-Hscha. Pierre Rostaing
第3中隊長 1[41][42] 一級鉄十字章
EK 1
生存
(5月2日夜、ポツダム広場付近で赤軍の捕虜
ジャック・ロンジエ武装二等兵[注 16]
W-Gren. Jacques Ronzier
第2中隊 1[43][44]
ベルナール・フォーデ武装伍長
W-Uscha. Bernard Fodé
第2中隊
第3小隊分隊長
1[44][45] 生存
(4月26日のノイケルンの戦いで敵中に孤立し、赤軍の捕虜
ジャン=フランソワ・ラプロー武装伍長
W-Uscha. Jean-François Laplaud
第2中隊
第3小隊
1[44][46] 生存
(4月26日のノイケルンの戦いで敵中に孤立し、民間人に変装してベルリン市街脱出)
ブラエ武装二等兵
W-Gren. Blaes
1[28][47] 死亡
(1輌目の敵戦車を撃破後、間もなく戦死[47]
ポール・オーバン武装二等兵
W-Gren. Paul Aubin
1[28][48] 生存[48]
(詳細不明)

フランス人以外の将兵[編集]

ベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵部隊として知られるフランスSS突撃大隊であるが、大隊には少数ながら何名かのフランス以外の外国籍の隊員が所属していた。

ドイツ人
ナチス・ドイツの旗 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber):戦術学校指揮官

 1918年3月19日ドイツ国帝政ドイツプロイセン王国ヴェストファーレン・ピヴィッツハイデ(Pivitsheide)生まれ。

 1937年に親衛隊特務部隊(後の武装親衛隊)へ志願入隊し、1939年9月のポーランド侵攻、1940年5月~6月の西方戦役、1941年6月のソビエト連邦侵攻作戦「バルバロッサ」、その後の東部戦線で活躍した実績を持つベテランのドイツ人将校。1944年秋、グスタフ・クルケンベルクSS少将に抜擢されて第5SS装甲師団「ヴィーキング」第9SS装甲擲弾兵連隊「ゲルマニア」からSS所属武装擲弾兵旅団「シャルルマーニュ」へ転属した。

 1945年2月末のポメラニア戦線では「シャルルマーニュ」師団司令部直属エリート歩兵中隊「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)を指揮して奮戦し、パンツァーファウストを用いた近接戦闘で赤軍戦車を多数撃破。1945年4月末のベルリン市街戦では「戦術学校」(Kampfschule)指揮官として単独で敵戦車8輌(もしくは13輌)を撃破し、1945年4月29日付でベルリン「Z」地区(官庁街)防衛司令官ヴィルヘルム・モーンケSS少将から騎士鉄十字章を授与された。
 ※ ただし、独ソ戦末期の混乱状態が原因でヴェーバーの騎士鉄十字章公式勲記(受章証書)はドイツ連邦公文書館に保存されていない。

 ヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(「シャルルマーニュ」師団に勤務したドイツ人将兵の中で唯一の騎士鉄十字章受章者)はベルリン市街戦を生き延びて終戦を迎え、1980年3月2日西ドイツヘッセン州ベンスハイムBensheim)で死去した[29]



ナチス・ドイツの旗 ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉(SS-Ostuf. Hans-Joachim von Wallenrodt):フランスSS突撃大隊副官

 1914年8月27日ドイツ国帝政ドイツプロイセン王国ハノーファーHannover)生まれ。ポメラニア戦線敗退後の「シャルルマーニュ」師団(連隊)フランスSS部隊査察部の情報参謀(Ic)を務めていたドイツ人SS中尉

 ベルリン市街戦におけるアンリ・フネSS義勇大尉の副官(市街戦中は戦車破壊班1個、またはフネが不在の間のフランスSS突撃大隊の指揮を執るなどして活躍し、1945年4月29日付で一級鉄十字章を受章した)[49]

 ベルリン守備隊が赤軍に降伏した1945年5月2日、フォン・ヴァレンロートSS中尉は大隊長アンリ・フネのグループの一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流を試みて移動していたが、同日午後3時頃にフネのグループ全員と共にポツダム広場付近のベルリン地下鉄の構内で赤軍部隊に発見され、捕虜となった。

 その後、フォン・ヴァレンロートが生きて帰ってくることは無かった(フォン・ヴァレンロートの遺族は、彼はソビエト連邦領内の収容所で死亡したと推測している)[50]

 ※ Grégory Bouysseの著書では、ハンス=ヨアヒム・フォン・ヴァレンロートSS中尉は1945年5月2日にベルリンで死亡したとされている[49]



ナチス・ドイツの旗 ブロックSS連隊付上級士官候補生(SS-StdObJu. Block):フランスSS突撃大隊のドイツ人士官候補生

 生年月日・生誕地不明の武装親衛隊ドイツ人士官候補生。フランスSS突撃大隊の一員としてベルリン市街戦に参加し、4月29日の戦闘で死亡した[51]



ナチス・ドイツの旗 ルドルフ・ローゼンクランツSS曹長(SS-Oscha. Rudolf Rosenkranz):フランスSS突撃大隊のドイツ人曹長

 ドレスデンDresden)出身(生年月日は不明)。独ソ戦の当初はドイツ陸軍反共フランス義勇軍団LVF:ドイツ陸軍第638歩兵連隊)本部のドイツ人連絡員として勤務していた国防軍兵士であり、1944年9月1日、再編成に伴って反共フランス義勇軍団のフランス人将兵と共に武装親衛隊へ移籍。正確な日付は不明であるがSS曹長(SS-Oberscharführer)に任官した。

 「シャルルマーニュ」旅団/師団配属後もドイツ人将兵の1人として勤務を続け、1945年4月末のベルリン市街戦にフランスSS突撃大隊の一員として参加した[52]。その後の消息は不明。



ナチス・ドイツの旗 フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink):フランスSS突撃大隊本部ドイツ人書記官

 アルザス出身(生年月日は不明)のドイツ人SS伍長偽名は「フィンクラー」(Finkler)。ポメラニア戦線撤退後、カルピンCarpin)で再編成中の「シャルルマーニュ」師団司令部(1945年3月中旬~4月)で書記官を務めていた。

 1945年4月末のベルリン市街戦にフランスSS突撃大隊本部書記官として参加。しかし、フィンクはその事務的な役割よりも武器をとって戦闘に参加することを望んでおり、1945年4月26日のノイケルンの戦いの際には近くにいたヒトラーユーゲントの少年を捕まえて自身の職務(前線より比較的安全な大隊本部書記の仕事)を押し付け、フィンク本人は最前線で同僚クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard)と連携して赤軍部隊の進撃を阻止した[53][54]

 ベルリン守備隊が赤軍に降伏した1945年5月2日、フィンクは大隊長アンリ・フネSS義勇大尉のグループの一員としてベルリン脱出およびドイツ第12軍との合流を試みて移動していたが、ポツダム広場付近のベルリン地下鉄の構内で赤軍部隊に発見され、フネのグループの潜伏地点から約10メートル離れた場所で赤軍兵に捕縛された[54][55]。潜伏中のフネのグループが赤軍兵に発見される前に、フィンクは先に捕まった他の捕虜たちと共に地上へ連行されていった(その後の消息は不明)。



ナチス・ドイツの旗 マックス・ヴァルターSS伍長(SS-Uscha. Max Walter):フランスSS突撃大隊本部の通訳
 生年月日・生誕地不明。フランスSS突撃大隊本部でドイツ語フランス語通訳を務めていたドイツ人SS伍長。1945年4月末のベルリン市街戦中は大隊長アンリ・フネSS義勇大尉や「ノルトラント」師団グスタフ・クルケンベルクSS少将に随伴。市街戦で重傷を負い、戦後の1945年9月15日にベルリン市内のハレ(Halle)病院で死亡した[20]


ルクセンブルク
ルクセンブルクの旗 クラインSS曹長(SS-Oscha. Klein):戦術学校先任曹長
 ルクセンブルク国籍を持つSS曹長「シャルルマーニュ」旅団訓練期間中にヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉に選ばれて「名誉中隊」(Compagnie d'Honneur)の中隊先任曹長(Spieß)に就任[56]し、1945年4月末のベルリン市街戦にも「戦術学校」(旧称:名誉中隊)の先任曹長として参加した[20][57]。その後の消息は不明。


フラマン人ベルギー王国フランデレン地域出身者)
ローラント・フェルファイリー武装曹長(W-Oscha. Roland Verfaillie):第3中隊第2小隊長補佐

 1922年7月18日ベルギー王国フランデレン地域イーペルIeper / Ypres)生まれ。偽名は「ファンデルファイレ」(Vanderfaille)。独ソ戦ドイツ国防軍武装親衛隊に所属した外国人義勇兵の中で、1941年末のモスクワの戦いと1945年4月末のベルリンの戦いの両方に参加した経験を持つ非常に珍しい人物(おそらくフラマン人義勇兵としては唯一の事例)。

 1941年、フランス国籍の取得を目的としてドイツ陸軍反共フランス義勇軍団LVF)に志願。フェルファイリーは当時のフランスのいくつかの親独的ファシズム政党のいずれにも所属していなかったものの、高い知力と屈強な体格(身長182cm)の持ち主であることから入隊審査を難なく通過(第245番目の義勇兵として入隊)。反共フランス義勇軍団(ドイツ陸軍第638歩兵連隊)第Ⅰ大隊本部通信小隊の一員として1941年末のモスクワの戦いを経験した後、1942年の時点では第Ⅰ大隊第2中隊の一員として白ロシアで対パルチザン戦に従事した。

 1944年9月、再編成に伴って武装親衛隊へ移籍。後に第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」第58SS所属武装擲弾兵連隊本部の通信小隊に所属した。

 1945年4月末のベルリン市街戦ではフランスSS突撃大隊第3中隊第2小隊長ガストン・ボムガルトネ武装連隊付上級士官候補生(W-StdObJu. Gaston Baumgartner)の補佐を務めたが、4月26日のノイケルンの戦いで敵狙撃兵足首を撃ち抜かれて負傷した。

 戦後、ローラント・フェルファイリーはベルリン市街戦で生き残っていた少数のフランス人義勇兵たちと同様にフランスへ身柄を送還され、裁判にかけられた[58]。その後の消息は不明。



クラウデ・カパルト武装伍長(W-Uscha. Claude Capard):フランスSS突撃大隊本部書記官

 1927年生まれのフラマン人(生誕地は不明。ベルリン市街戦当時の年齢は18歳)。偽名は「カパン」(Capand)、「カプ」(Cap)、「カパール」(Cappard)、「カパー」(Kapar)。体格は小柄。

 ベルリン市街戦でフランスSS突撃大隊本部書記官を務めていたが、その事務的な役割よりも武器をとって戦闘に参加する方を好み、4月26日のノイケルンの戦いではMG42機関銃手の1人として活躍。赤軍がフランスSS突撃大隊の火点(機関銃陣地)を潰そうとする度に素早く位置を変更して応戦し、同僚フィンクSS伍長(SS-Uscha. Fink)と連携して26日午後7時まで赤軍部隊の進撃を防ぎきり[53]、4月27日付で二級鉄十字章を受章した[59]

 1945年5月2日夜、フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長のグループと共にポツダム広場付近で赤軍捕虜となった。捕虜を射殺するために赤軍兵が捕虜一同を壁の前に立たせた時、カパルトはそれまでの勇気を失って泣き出したが、に酔った赤軍将校が赤軍兵を追い払って処刑を中止させたため土壇場で助かり、生きて終戦を迎えた[59][60]。その後の消息は不明。


(元)ロシア人
ロシアの旗(→ フランスの旗) セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生(W-StdJu. Serge Protopopoff):フランスSS突撃大隊第4中隊長補佐(後に中隊長代行)

 (生年月日不明。推定出生年は1920年代前半)フランス共和国の首都パリ生まれのロシア人(両親はロシア革命フランス亡命した白系ロシア貴族)で、フランスに帰化。祖父はロシア帝国最後の内務大臣アレクサンドル・プロトポポフАлександр Протопопов / Alexandre Protopopov)。

 フランス民兵団ドイツ陸軍反共フランス義勇軍団LVF)を経て1944年9月1日付で武装親衛隊へ移籍。1945年4月末のベルリン市街戦にはフランスSS突撃大隊第4中隊長補佐として参加し、中隊長ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の負傷後は第4中隊長代行として活躍。市街戦中に赤軍戦車を5輌撃破し、赤軍砲兵観測機を1機撃墜した。

 1945年5月1日朝、フランスSS突撃大隊第3中隊長ピエール・ロスタン武装上級曹長との会話中に飛来した赤軍の迫撃砲弾によって死亡。市街戦中に敵戦車5輌を撃破していた功績を讃えられ、プロトポポフは戦死後に一級鉄十字章を追贈された[35]

フランスSS突撃大隊の装備[編集]

武器・兵器[編集]

StG44
 元第57SS大隊(大隊本部、第1、第2、第4中隊)の将兵はほぼ全員が装備。ただし、第3中隊(元第58SS大隊第6中隊)の将兵でStG44を与えられた者は中隊全体の約3分の1の将兵のみであった[61]。なお、戦術学校の将兵がどの程度StG44を装備していたかは不明。

パンツァーファウスト
 ベルリン市街戦におけるフランス人義勇兵の主要武器の1つ。

MG42機関銃
 各中隊の分隊は少なくとも1挺のMG42機関銃を装備していた(何個かの分隊は2挺装備)[61]
 4月27日、第4中隊長代行セルジュ・プロトポポフ武装連隊付士官候補生は低速で飛来した赤軍砲兵観測機1機をMG42で撃墜した[62]。また、彼は4月28日~29日の間にはベルリン・ミッテ区のゲンダルメンマルクト(ジェンダルメンマルクト)(Gendarmenmarkt)にあるフランス大聖堂Französischer Dom)を前線の監視所・MG42機関銃陣地として使用した[63]

 4月28日、大隊の志願者がベルリン市街の建物の屋上で敵狙撃兵狩りを実施した際に使用。狙撃兵狩りに志願した大隊本部のロジェ・ロベルティSS義勇伍長によると、彼は「卵型手榴弾をポケットに詰め込み、柄付手榴弾を上着のボタン部分に吊り下げ、ベルトにも差し込んでいた」という[64]


なお、フランスSS突撃大隊は戦車対戦車砲榴弾砲迫撃砲といった重装備を所有していなかった[65](にもかかわらず、ベルリン市街戦で赤軍戦車を50輌以上撃破した)。

その他[編集]

  • フランスSS突撃大隊(活動期間:1945年4月24日~5月2日)を撮影した写真は確認されていない[注 17]

脚注・出典[編集]

脚注
  1. ^ 様々な文献で、1945年4月末のベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵部隊はしばしば「シャルルマーニュ」(Charlemagne)の名を冠して語られている(この部隊が第33SS所属武装擲弾兵師団「シャルルマーニュ」の生存者で構成されていたため)。具体的には、
    • Richard Landwehrの著書における名称: « SS-Sturmbatallion 'Charlemagne' »(SS突撃大隊「シャルルマーニュ」)
    • Tonny Le Tissierの著書における名称: « SS 'Charlemagne' Battalion »(SS「シャルルマーニュ」大隊)
    などと表記されている(フランス語版Wikipediaにおける記事名は « Bataillon Charlemagne » (シャルルマーニュ大隊))。 しかし、実際にこの大隊の指揮官としてベルリン市街戦に参加したアンリ・フネSS義勇大尉は、自身のベルリン市街戦の回顧録 « A Berlin Jusqu'au Bout »の中で、フランスSS突撃大隊に一切「シャルルマーニュ」の名を冠していない[1]
  2. ^ 第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」最後の師団長グスタフ・クルケンベルクSS少将が戦後に著した回顧録の中で、フランスSS突撃大隊がベルリンで撃破したソビエト赤軍戦車の数は「約50輌」とされているが、この数字は1945年4月29日時点での記録であり、4月29日以降に大隊が撃破した赤軍戦車の数が含まれていない(1945年5月2日にベルリン守備隊が降伏するまでにフランスSS突撃大隊が撃破した赤軍戦車の総数は確実に50輌を上回っている)[2]
     なお、Jean Mabireの著書 « Mourir à Berlin »(Fayard, 1975)p321(réédition : Grancher, 1995. p272)の記述によると、ベルリン市街戦の1週間のうちに武装親衛隊の将兵がベルリン市内で撃破した赤軍戦車装甲車の数は約800輌であったという。
  3. ^ 出典は « Historia » #32 p137[2]
  4. ^ 「シャルルマーニュ」師団ポメラニア戦線に到着して間もない1945年2月下旬の時点で直面したソビエト赤軍の兵力は、Saint-Loup の著書と(同書の記述を引用した)Richard Landwehrの著書によると次の通り。

    「シャルルマーニュ」師団の基幹部隊の1つ「第57SS所属武装擲弾兵連隊」(Waffen-Grenadier-Regiment der SS 57)がハマーシュタイン(Hammerstein、現ツァルネ(Czarne))周辺で直面した赤軍部隊は

    • 第57連隊第Ⅰ大隊の戦区:2個戦車軍団、10個狙撃師団(歩兵師団
    • 第57連隊第Ⅱ大隊の戦区:3個戦車軍団、15個師団

    であり、第57SS所属武装擲弾兵連隊の2個大隊は赤軍の5個戦車軍団と25個(歩兵)師団に直面していた。

     しかし、Robert ForbesはSaint-Loup(とRichard Landwehr)の説に対し、次の点を指摘して反論している[5]

    1945年2月下旬、ポメラニア戦線でノイシュテッティン(Neustettin、現シュチェチネク(Szczecinek):ハマーシュタインの西方20キロメートルに位置する町)の道路からバルト海沿岸部まで進撃する任務を帯びていたソビエト赤軍部隊は第19軍と第3親衛戦車軍団のみ。このうち、第19軍の編成は

    • 第134親衛狙撃軍団
    • 第40親衛狙撃軍団
    • 第8親衛機械化軍団
    • 第3親衛騎兵軍団(一時的に第19軍に配属)
    • その他支援部隊(いくつかの独立ロケット砲師団、砲兵師団)

    であり、第19軍の2個親衛狙撃軍団(第134、第40)はいずれも3個狙撃師団(歩兵師団)編成、第3親衛騎兵軍団は3個騎兵師団編成であった。それゆえ、ソビエト赤軍第19軍が前線に投入していた兵力は多く見積もっても9個師団であった(これを言い換えれば、赤軍は武装親衛隊の貧弱な1個フランス人義勇兵師団が展開している小さな戦区を9個師団で攻撃することが可能であった)。

    また、Saint-Loupは著書の別の箇所の記述で、1945年2月25日に赤軍は「シャルルマーニュ」師団に対して4個歩兵師団、2個戦車旅団、いくつかの砲兵連隊を展開させたと述べている(先に示していた赤軍の大兵力に比較すると、もっともらしい数字になっている)。

    Jean Mabire « La Division Charlemagne »(Fayard, 1974)p285, 293の記述によると、第57SS所属武装擲弾兵連隊第Ⅰ大隊が2月24日夜にハインリヒスヴァルデで直面した赤軍の兵力は2個連隊であり、第Ⅱ大隊が2月25日朝に直面した赤軍の兵力は約10,000名(貧弱な歩兵師団2個に相当)であったという。

     いずれにせよ、(1945年2月下旬~3月中旬のポメラニア戦線で)「シャルルマーニュ」師団(兵力7,000名以下、戦車榴弾砲といった重装備無し)が大量の戦車・砲兵・航空機の支援を受けたソビエト赤軍の大軍に直面したことは事実である[5]

  5. ^ 奇妙なことに、クルケンベルクの戦後の記述によるとヴェーバーは「戦争最後の日々」(ベルリン市街戦)の中で、今次大戦における通算5輌目の敵戦車を撃破したことにより「ドイツ十字章金章」を受章したという[10]
  6. ^ おそらくは第11SS義勇装甲擲弾兵師団「ノルトラント」デンマーク人将校クリステンセンSS中尉(SS-Ostuf. Christensen)[10]。ベルリン市街戦でクリステンセンSS中尉は「ノルトラント」師団第24SS装甲擲弾兵連隊「ダンマルク」第16中隊の残余とヒトラーユーゲントの貧弱な1個中隊から成る「クリステンセン」戦闘団(Kampfgruppe Christensen)を指揮していた[13]
  7. ^ 特筆すべきことに、フネは自身のベルリン市街戦の回顧録 « A Berlin Jusqu'au Bout » の中で、騎士鉄十字章受章に関して何も言及していない[14]
  8. ^ 再検証の結果、2012年度改訂版(第6版)でフランソワ・アポロはErnst-Günther Krätschmerの著書 « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS » から氏名・項目(紹介記事)が完全に削除され、騎士鉄十字章受章者として扱われなくなったが、アンリ・フネヴィルヘルム・ヴェーバーの氏名・項目は同書の本文中に残っている[11]
  9. ^ ジャン・マラルディエの階級を「曹長」(Oberscharführer)としている文献もあるが、実際の階級は「連隊付上級士官候補生」(Standarten-OberJunker)であった[21]
  10. ^ 文献によってフランソワ・ド・ラニュリアンの所属部隊は戦術学校や第1中隊とされているが、実際には第3中隊の分隊長としてベルリン市街戦に参加していた(所属中隊に関する情報が錯綜している理由として、市街戦の混戦の中では兵士が一時的に他の部隊に所属することもあり得たことが推測されている)[22]
  11. ^ 第二次世界大戦期のフランスジャーナリスト対独協力者で、1945年4月28日にベルリン市街戦の戦闘に巻き込まれて死亡したジャン・フォントノアJean Fontenoy)とは別人(ジャン・フォントノアは独ソ戦の間にドイツ陸軍反共フランス義勇軍団LVF)の宣伝部隊に所属していたこともあったが、武装親衛隊には所属していない)[24]
  12. ^ モーリス・マンフレディSS義勇伍長に関する記述は、文献・資料によって「1945年2月下旬~3月のポメラニア戦線で行方不明」説と「ポメラニア戦線から生還して1945年4月末のベルリン市街戦に参加」説に分かれている[25]
  13. ^ 高齢(1873年1月21日生まれ、当時72歳)のジャン・ド・マヨール・ド・リュペ司祭は前線勤務が不可能であり、1944年秋から終戦に至るまで主にヴィルトフレッケン演習場に留まっていた[27]
  14. ^ アントニー・ビーヴァー『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年)p517。ただし、ビーヴァーの著書以外の文献にはフネがベルリン市街戦で単独で敵戦車5輌を撃破したとする記述が無い。

  15. ^ フランソワ・ド・ラニュリアンSS義勇伍長がベルリン市街戦中に撃破した3輌目の赤軍戦車はIS-2(スターリン重戦車)(4月29日、大隊本部と第3中隊が陣取る建物に接近した敵戦車)[22]
  16. ^ フランスSS突撃大隊第2中隊の兵士ジャック・ロンジエ武装二等兵は、ベルリン市街戦に参加した武装親衛隊フランス人義勇兵の中で最初に赤軍戦車を撃破した人物[43]
  17. ^ Heinz Ertel / Richard Schulze-Kossens « Europäisch Freiwillige im Bild »(NATION EUROPA VERLAG, 2000)p244上部に記載されている写真(三色旗の盾章を左袖に着用した武装親衛隊の外国人義勇兵数名が談笑している写真)は
    Französiche Freiwillige verteidigen zuletzt Berlin im Mai 1945 / French volunteers defended Berlin to the very end in May 1945
    (1945年5月、最後までベルリンを守ったフランス人義勇兵たち)

    と解説されているが、この写真は1943年末~1944年初旬のウクライナチェルカースィ戦線(コルスン包囲戦)におけるSS突撃旅団「ヴァロニェン」ワロン人義勇兵を撮影した写真である。

出典
  1. ^ Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS »(Helion & Co., 2006) p407
  2. ^ a b c Forbes, p465
  3. ^ Hans Werner Neulen « An deutscher Seite : Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS »(Universitas Verlag, München, 1985)p112
  4. ^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
    • NATION EUROPA VERLAG, 2003.※ 第5版 p927
    • Edition Zeitgeschichte, 2012.※ 第6版 p782
  5. ^ a b Forbes, pp.274-275.
  6. ^ Jean Mabire « Mourir à Berlin »(réédition : Grancher, 1995)p38脚注
  7. ^ Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
    • NATION EUROPA VERLAG, 2003.※ 第5版 p926
    • Edition Zeitgeschichte, 2012.※ 第6版 p781
  8. ^ Forbes, p400
  9. ^ アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年)p516
  10. ^ a b c d e f Forbes, p448
  11. ^ a b Ernst-Günther Krätschmer, « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS » 初版~第5版:pp.912-934. / 第6版(2012年度改訂版):pp.771-783.
  12. ^ 渡部義之編 『【歴史群像】W.W.Ⅱ 欧州戦史シリーズVol.18 武装SS全史Ⅱ[膨張・壊滅編]』(学習研究社、2002年)p146
  13. ^ Wilhelm Tieke « BETWEEN THE ODER AND THE ELBE : The Battle for Berlin 1945 »(J.J. Fedorowicz, 2013)p206
  14. ^ a b Forbes, p449
  15. ^ Forbes, p446
  16. ^ ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) 『SS戦車隊・下』(大日本絵画、1994年)p282
  17. ^ a b c Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 »、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : Eugène VAULOT"
  18. ^ a b それぞれの氏名・階級はGrégory Bouysseの著書
    • « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »(lulu, 2011)
    • « Waffen-SS Français volume 2 »(lulu, 2011)
    • « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »(lulu, 2012)
    を参照。
  19. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Guy LACOMBE"
  20. ^ a b c Forbes, p409
  21. ^ « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »、"Addenda « Waffen-SS Français volume 2 » : Ex-LVF : Jean MALARDIER"
  22. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : François De LANNURIEN"
  23. ^ Forbes, Introduction ⅶ 参照
  24. ^ « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine »、"Chapitre I : LVF / 638ème Régiment d'Infanterie de la Wehrmacht : Officiers : Jean FONTENOY"
  25. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Sturmbrigade : Maurice MANFREDI"
  26. ^ ビーヴァー、p440
  27. ^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Officiers issus de la LVF : Jean De MAYOL De LUPÉ"
  28. ^ a b c d e f g h i j Tony Le Tissier « SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS »(Pen & Sword, 2010)p157
  29. ^ a b « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » Wilhelm WEBER"
  30. ^ Jean Mabire « Mourir à Berlin »(réédition : Grancher, 1995)p262脚注
  31. ^ Krätschmer, p930
  32. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Sous-Officiers et soldats issus de la Kriegsmarine, SK : Sous-officiers : François APPOLOT"
  33. ^ a b ビーヴァー、p517
  34. ^ Forbes, p453
  35. ^ a b c « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Aspirants : Serge PROTOPOPOFF"
  36. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés 1943-1944 : Sous-officiers : Jules BOUCAUD"
  37. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Soldats & Caporaux : CLAUDE"
  38. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats engagés en 1943-1944 : Sous-officiers : Roger ALBERT-BRUNET"
  39. ^ a b c « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Soldats & Caporaux : Audry"
  40. ^ Forbes, p442
  41. ^ Forbes, p416
  42. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Sous-officiers : Pierre ROSTAING"
  43. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Origine inconnue : Jacques RONZIER"
  44. ^ a b c Forbes, p413
  45. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Sous-officiers : Bernard FODÉ"
  46. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la Milice Française : Sous-officiers : Jean-François LAPLAUD"
  47. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Origine inconnue : BLAES"
  48. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Annexes I : Volontaires d'importance mineure, classés par catégorie (Sturmbrigade, LVF, Milice Française, Kriegsmarine/SK, origine inconnue): Origine inconnue : Paul AUBIN"
  49. ^ a b « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » Hans-Joachim von WALLENRODT"
  50. ^ Jean Mabire « Mourir à Berlin »(réédition : Grancher, 1995)p271
  51. ^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » BLOCK"
  52. ^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Quelques allemands non-officiers : Rudolf ROSENKRANZ"
  53. ^ a b Forbes, p423
  54. ^ a b « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Quelques allemands non-officiers : FINK"
  55. ^ Forbes, p463
  56. ^ Forbes, p217
  57. ^ « Waffen-SS Français volume 1 : officiers »、"Annexe I : Officiers allemands et suisses de la division « Chalremagne » : Quelques allemands non-officiers : KLEIN"
  58. ^ « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers et soldats issus de la LVF : Sous-officiers : Roland VERFAILLIE"
  59. ^ a b « Waffen-SS Français volume 2 »、"Aspirants, sous-officiers d'origine inconnue : Sous-officiers : Claude CAPARD"
  60. ^ Forbes, p464
  61. ^ a b Forbes, p401
  62. ^ Forbes, p434
  63. ^ Georges Bernage « BERLIN 1945 - L'agonie du Reich »(HEIMDAL, 2010)p125
  64. ^ Forbes, p441
  65. ^ Forbes, p439
  66. ^ Richard Landwehr, Jean-Louis Roba, Ray Merriam « THE “WALLONIEN”: The History of the 5th SS-Sturmbrigade and 28th SS Volunteer Panzergrenadier Division »(WEAPONS AND WARFARE Publications & SIEGRUNEN Magazine, 1992)p15

文献[編集]

フランスSS突撃大隊の将兵が著した回顧録[編集]

フランスの旗 フランス語
  • Henri Fenet « Die letzte Runde : Franzosen kämpfen um Berlin »(Unofficial Manuscripts ; Typescript, 1952)
  • Henri Fenet « A Berlin Jusqu'au Bout »« Historia » #32 掲載)
  • Pierre Rostaing « Le prix d'un serment : Le soldat français le plus décoré de l'armée allemande »
  • Jean Malardier « Combats pour l'Honneur : Bataillon d'assaut Charlemagne : 24 avril - 2 mai 1945 : mémento, souvenirs et réflexions d'un ancien Waffen-SS de la division Charlemagne... »(Éditions de l'Homme Libre, 2007)ISBN 978-2-9121045-3-3
  • François de Lannurien « Le sublime et la mort »(Éditions de l'Homme Libre, 2009)ISBN 978-2-912104-72-4
  • Louis Levast « Le soleil se couchait à l'est »(Éditions de l'Homme Libre, 2008)

フランスSS突撃大隊に関する文献[編集]

アメリカ合衆国の旗イギリスの旗カナダの旗 英語
  • Robert Forbes « FOR EUROPE : The French Volunteers of the Waffen-SS » U.K. : Helion & Company, 2006. ISBN 1-874622-68-X
  • Richard Landwehr « French Volunteers of the Waffen-SS » United States of America : Siegrunen Publications / Merriam Press, 2006. ISBN 1-57638-275-3
  • Tony Le Tissier « SS-Charlemagne : The 33rd Waffen-Grenadier Division of the SS » Great Britain : Pen & Sword, 2010. ISBN 978-1-84884-231-1
  • Wilhelm Tieke « BETWEEN THE ODER AND THE ELBE : The Battle for Berlin 1945 » Canada : J.J. Fedorowicz, 2013. ISBN 978-1-927332-03-0


ドイツの旗オーストリアの旗 ドイツ語
  • Ernst-Günther Krätschmer « Die Ritterkreuzträger der Waffen-SS »
  • Hans Werner Neulen « An deutscher Seite : Internationale Freiwillige von Wehrmacht und Waffen-SS » München, deutschland : Universitas Verlag, 1985. ISBN 3-8004-1069-9


フランスの旗 フランス語
  • Jean Mabire « Mourir à Berlin » réédition : Grancher, 1995. ISBN 978-2-7339-1149-5
  • Georges Bernage « BERLIN 1945 - L'agonie du Reich » HEIMDAL, 2010. ISBN 978-2-84048-262-8
  • Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 1 : officiers » lulu, 2011. ISBN 978-1-4475-9358-4 [1]
  • Grégory Bouysse « Waffen-SS Français volume 2 » lulu, 2011. ISBN 978-1-4709-2911-4 [2]
  • Grégory Bouysse « Légion des Volontaires Français, Bezen Perrot & Brigade Nord-Africaine » lulu, 2012. [3]


イタリアの旗 イタリア語
  • Massimiliano Afiero « Ritterkreuz » anno 2 numero 11 - Settembre 2010


日本の旗 日本語
  • アントニー・ビーヴァー(著), Antony Beevor(原著), 川上 洸(訳) 『ベルリン陥落 1945』(白水社、2004年) ISBN 4-560-02600-9
  • ヴィル・フェイ(著), Will Fey(原著), 梅本弘(翻訳) 『SS戦車隊・下』(大日本絵画、1994年) ISBN 4-499-22630-9

関連項目[編集]