ポツダム広場

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座標: 北緯52度30分34.4秒 東経13度22分36.0秒 / 北緯52.509556度 東経13.376667度 / 52.509556; 13.376667

ポツダム広場

ポツダム広場(ポツダムひろば、Potsdamer Platz)は、ベルリンミッテ区にある主要な広場で、また交差点でもある。

広場の名は近郊都市のポツダムにちなむ。19世紀初頭までは、ポツダムからベルリンを結ぶ街道がここでベルリン市を取り囲む都市城壁(Zollmauer)に設けられた関税門「ポツダム門」をくぐっており、門の外は各方面からの街道が集まる交差点になっていた。これが現在のポツダム広場に当たる。1838年、ベルリンとマクデブルクを結ぶ鉄道のポツダム駅が設けられると、ポツダム広場はベルリンの市内交通の中心地へと変貌していった。20世紀初頭にはベルリン市電の路線が集まるほか、周囲にはホテルやカフェが立ち並んだ。

戦前から冷戦期まで[編集]

1920年代30年代にかけて、ポツダム広場はヨーロッパ経済の中心地の一つだった。全盛期は1920年代でアレクサンダー広場とともにベルリンのナイトライフの中心だった。

ベルリンの多くの場所と同じように、第二次世界大戦の最後の年の激しい空襲と砲撃により建物の多くは破壊された。戦争終結後、占領軍(連合国)によってベルリンは分割され、ポツダム広場はアメリカ軍、イギリス軍、ソビエト軍の占領地域の境界になった。後に、東西陣営の冷戦時代には、ソビエト占領地域は東ベルリンと、西側占領地域は西ベルリンと呼ばれるようになった。ポツダム広場周辺のビルはいくつかは修復され再利用されていたが、廃墟のままの建物も多数残っていた。東ドイツの政府機関が入居していたかつての商業ビル・コロンブスハウスは、1953年東ベルリン暴動で反ソを訴える群衆に焼き打ちされ炎上した。

当初は東西ベルリン間は往来も盛んであったが、この通行の自由さを利用して東ドイツの国民が西ベルリンを通じて西ドイツへと亡命する事態が相次ぎ、東ドイツは国民の流出を止めるために西ベルリンの封鎖を考えるようになった。1961年8月に東ドイツ政府は東西ベルリン間の境界を封鎖した。これによりポツダム広場は市民にとって行くことができない境界になってしまった。1961年8月31日に都市の中をつらぬく境界線に沿ってベルリンの壁が構築され、ポツダム広場は二つに分断された。壁の周囲は無人地帯となり、残っていた廃墟も解体されて更地と化した。かつてのにぎやかな交差点は荒地になってしまったのである。

ベルリンの壁崩壊後[編集]

ポツダム広場の夜景

1989年ベルリンの壁が崩壊した。1990年7月にはロジャー・ウォーターズ西ドイツ分断終結を記念する巨大なチャリティーコンサートを空っぽのポツダム広場で開いた。

1990年以降、広場はベルリンの中心部からすぐという魅力的な場所のため、注目を集めた。ベルリン市はこの地域を4分割し、それぞれを開発するデベロッパーに売却した。再開発期間中はヨーロッパ最大の工事現場だった。

4つの地区のうち最大のものはダイムラー・ベンツが担当した(ダイムラー・クライスラー・アレアール、もしくはダイムラー・シティ)。レンゾ・ピアノによって基本計画が立てられ、個々のビルはこの基本計画にそって、それぞれ様々な建築家の設計で建てられた。この中にはハンス・コルホフによる「Potsdamer Platz No. 1」も含まれ、多数の法律事務所が入居している。

ドイツで初めての信号機とバーンタワー(ドイツ鉄道本社)

2番目に広い地区はソニーが担当し、ヨーロッパ本社を建設した。ヘルムート・ヤーンによる、ガラスと鉄からできた軽快な一枚岩のソニーセンターはベルリンにおける近代建築の最高峰の一つだとみなされている。ソニーセンターには、戦前のベルリンを代表するホテル「エスプラナーデ」に残されていたカイザーザール(皇帝の間)を取り込むかたちで保存しており、レストランとして利用されている。

今では1日に7万人がポツダム広場を訪れ、ポツダム広場はほぼ終日人であふれている。旅行者にとっては必ず行くべき場所になっているし、ベルリン市民にとっても最高のショッピングエリアである。また、3つの映画館と1つの映画学校、1つの映画博物館の40ヶ所のスクリーンがあり、2000年からは2月にベルリン国際映画祭が開かれている。

ギャラリー[編集]

外部リンク[編集]