スタンダール・リエージュ

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スタンダール・リエージュ
原語表記 Royal Standard de Liège
愛称 Les Rouches
Les Rôdjes
les Standardmen
le RSCL
Les Rouges et Blancs
Matricule 16
クラブカラー 赤と白
創設年 1898年
所属リーグ ジュピラーリーグ
所属ディビジョン 1部
ホームタウン リエージュ
ホームスタジアム スタッド・モーリス・デュフラン
収容人数 26,659
代表者 ベルギーの旗 ローランド・デュシャトレ
監督 イスラエルの旗 ガイ・ルゾン
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

スタンダール・リエージュ: Standard Liègeフランス語発音: [ˈstɑ̃.daʁ ˈljɛːʒ]〉)は、ベルギーリエージュを本拠地とするスポーツクラブ。正式名称はロワイヤル・スタンダール・ドゥ・リエージュRoyal Standard de Liège)。サッカー部門はジュピラーリーグに参加している。

オランダ語名はスタンダルト・ライク: Standard Luikオランダ語発音: [ˈstɑn.ˌdɑrt ˈlœy̯k]〉)、ドイツ語名はシュタンダルト・リュティヒ: Standard Lüttichドイツ語発音: [ˈstan.ˌdaʁt ˈlʏ.tɪç]あるいは[ˈʃtan.ˌdaʁt ˈlʏ.tɪç]〉)。

1963年に、ラグビーユニオン部門(スタンダール・ラグビー・クラブフランス語版)が設立された。女子サッカー部門を有しており、男子と区別することなくスタンダール・リエージュフランス語版と呼ばれている。

1898年創立。RSCアンデルレヒトクラブ・ブルッヘと並ぶベルギーの3指に入る名門クラブチームである。ベルギー南部のワロン地域を代表するクラブでもあり、リーグ優勝10回を誇る。また、ベルギーカップを6度制し、1981-82シーズンにはUEFAカップウィナーズカップ決勝に進出し、バルセロナに2-1で破れた。1921年より連続してベルギーリーグ1部に所属している(国内最長記録)。近年は常に上位争いの中にある。

ユニフォームの赤色から「Les Rouges(レ・ルージュ)」あるいは 「Les Rouches(レ・ルーシュ)」の愛称で呼ばれる。フランス語で赤を意味するrouge(ルージュ)は、リエージュのアクセントで発音された時、rouche(ルーシュ)のように聞こえる。また、ワロン方言では赤はrôdjeとなり、「Le Rôdjes」もスタンダールの選手に対する愛称である。

名称の変遷[編集]

ホームスタジアムで振られる旗(2009年)
  • 1898年: Standard Football Club (Standard FC)
  • 1899年: Standard FC Liégeois (Standard FCL)
  • 1910年: Standard Club Liégeois (Standard CL) (一部昇格に当ってFCリエージュ英語版との混同を避けるため)
  • 1923年: Royal Standard Club Liège (R. Standard CL)
  • 1952年: Royal Standard Club Liégeois (R. Standard CL)
  • 1972年: Royal Standard de Liège

歴史[編集]

創設[編集]

1898年にリエージュにある大学、コレージュ・サン=セルヴェ (Collège Saint-Servais) の学生により発足した。行政上の手続きミスにより記録上は1899年と残っている。Cointeでサッカーをしていた彼らは投票を行いクラブの名称を「スタンダール standard」に決定した。この名称は、当時フランスのパリで人気のクラブであったスタンダールAC英語版から取られている。クラブのカラーは赤と白が選ばれた[1]。20世紀初頭、ベルギースポーツ・アスレティック連盟に加盟していたスタンダールはムーズ川沿いのボヴリ・ベロドロームに移転した。スタンダールの永遠のライバル、FCリエージュもまた19世紀末までこの競技場を使用していた。1902-1903年シーズン、スタンダールはジュニアカテゴリーでの初めてのシーズンを過ごした。

1905年のリエージュ万国博覧会のためにボヴリ公園にパレ・デ・ボザールが建設されたため、1904年、クラブはウルト川英語版沿いのグリヴネ英語版への移転を余儀なくされた[1]。1909年、地主がサッカー選手を追い出したため、再びムーズ川沿いのスクレサンの草地を年300ベルギー・フランで借り、移転した。同年、クラブは一部に昇格した。リーグは第一次世界大戦によって1913-1914シーズンまで中断した。中断明けの1919-1920および1920-1921シーズン、スタンダールはプロモシオン(promotion、当時の2部)で過ごしたが、1920-1921には2部で優勝し、マリノワおよびアンデルレヒトと共に再び一部に昇格した[2]。その後は、降格することなく一部に留まるものの優勝はなく、降格の危機にさらされることもあった。

初期の栄冠[編集]

第二次世界大戦の直後、スタンダールの元選手で主将を務めたRoger Petitがクラブの事務総長となった。Petitは代表のPaul Henrardと協力し、スタンダールをまさにプロフェッショナルなクラブへと変革し、ベルギーサッカー界の頂点へと押し上げた。

1954年、ベルギーカップを制して初タイトルを手にし、1957-1958シーズンにはリーグ初制覇を果たした。1960年代から1970年代初頭は、数々の栄光を手にした。1958年から1975年の間に、スタンダールはリーグを6度、ベルギーカップを2度(5度の決勝進出)、リーグカッププロを1度制覇した。

1980年代: 絶頂期と衰退[編集]

オーストラリア人のエルンスト・ハッペルに率いられたスタンダールは、1981年のベルギーカップを制した。翌年、レイモン・ゲタルスが指揮を取ることとなった。これは、スタンダールの歴史上で最高かつ最悪なページの幕開けであった。「Raymond-la-science(科学者)」に率いられ、クラブはベルギーリーグを連覇、ベルギー・スーパーカップで2度の優勝(3度出場)、特に1982年のUEFAカップウィナーズカップでは決勝に進出した。決勝は1982年5月にバルセロナで、相手はFCバルセロナであった。スタンダールは1対2で敗れ、準優勝となった。1984年、これらの成果は、スタンダール-ワーテルスカイ事件の暴露によって汚された。バルセロナとの試合の数日前、ベルギーリーグにおける優勝を確かなものとし、バルセロナとの決勝の前に怪我なくプレーするため、スタンダールはTHORワーテルスカイのキャプテンRoland Janssenに近付き、リーグ最終戦での八百長を持ち掛けた。このスキャンダルにはエリック・ゲレツを含む数人の選手や監督のレイモン・ゲタルスが関与していた。ゲタルスは出場停止処分を逃れるためポルトガルへと移った。この事件の後、スタンダールはほとんどの選手を出場停止によって奪われた。クラブがこの痛手を取り替えすには長い年月を要した。

復活までの25年間[編集]

ホームスタジアム、スタッド・ドゥ・スクレサン(2005年)

1993年、スタンダールはベルギーカップで優勝し、リーグは2位で終えた。1995年にもリーグで2位につけた。1996年RFCセラン英語版を併合した。

1996年には、インタートトカップ決勝に進出しカールスルーエSCと対戦したが、2戦合計2対3で敗れた。

1998年、スタンダールはLucien D'Onofrioと彼の友人の実業家Robert Louis-Dreyfusによって破産から救済された。1999年と2000年、クラブはベルギーカップ決勝で2年連続敗れた。

6年後の2005-2006シーズン、スタンダールはリーグタイトルに近付いたが、アンデルレヒトに5ポイント差をつけられ2位に終わった。監督のドミニク・ドノフリオは、クラブを率いて上位の成績を残していたにもかかわらず、一部のファンから強い批判を受けた。

この年、リーグを2位で終えたことから、チャンピオンズリーグ予選3回戦からの出場資格を得て初出場したが、ブルガリアのステアウア・ブカレストに敗れて本戦出場は果たせなかった。

2006-2007シーズン、クラブは開幕からつまづき、監督のJohan Boskampは解任され、ミシェル・プロドームが就任した。この年、リーグはアンダレルヒトとゲンクに次いで3位で終えた。ベルギーカップでは決勝に進んだが、FCブルッヘに敗れた。UEFAカップでは第一ラウンドでFCゼニト・サンクトペテルブルク(優勝クラブ)に敗れた。

9度目、10度目のリーグ制覇[編集]

2007-2008シーズン、スタンダールは25年振り9度目のリーグ制覇を果たした。2008年4月20日、ホームでアンダレルヒトを2対0で破り、優勝が決定した。このシーズンの終わり、2008年5月26日に、監督のミシェル・プロドームは退任しゲントに移ることを発表した。アシスタントのManu FerreraとStan Van den Buijsもチームを去った。2008-2009シーズンは、ラースロー・ベレニが新たな指揮官となった。このルーマニア人監督は、まずアンダレルヒトとのベルギースーパーカップで勝利した。そして、クラブに連覇、10度目のタイトルをもたらした。このシーズンはアンダレルヒトと勝点および勝数で並んだため、リーグ戦終了後の2009年5月21日と24日にプレーオフが行われた。ブリュッセルで行われた第1戦は1対1で引き分け、ホームでの第2戦は1対0で勝利し優勝が決まった。

欧州での戦いは、チャンピオンズリーグ予備予選3回戦のリヴァプール戦から始まった。ホームでの第1戦は引き分けた(0対0)が、アンフィールドでの第2戦は延長119分にディルク・カイトに得点され0対1で敗退した。UEFAカップにまわったスタンダールは、1回戦でエヴァートンと対戦した。イングランドでの第1戦で引き分け(2対2)た後、第2戦はアクセル・ヴィツェルミラン・ヨヴァノヴィッチのゴールで勝利し(2対1)、グループステージに進出した。グループステージではセビージャ(1対0)、サンプドリア(3対0)、パルチザン・ベオグラード(1対0)、シュトゥットガルト(0対3)と対戦し、3勝1敗のグループ首位で通過した。スタンダールは1982年のカップウィナーズカップ決勝以来、初めて欧州の冬シーズンに駒を進めた。ラウンド32ノックアウトステージではブラガと対戦し2戦合計1対4で敗退した。

リーグでの危機と欧州での成功[編集]

2009-2010シーズン、ミシェル・プラティニによる参加資格の変更により予選が免除され、チャンピオンズリーグのグループテージに初めて参戦した。グループではアーセナルオリンピアコスAZアルクマールと対戦した。オリンピアコスからグループステージ初勝利を挙げたものの、この1勝にとどまりグループは3位に終わり、ヨーロッパリーグの決勝トーナメントへとまわることとなった。その一方で、リーグでの不振によりラースロー・ベレニの退任が決まった。後任は3度目の指揮となるドミニク・ドノフリオとなり、ベルギーU-21代表監督であったJean-François de Sartがアシスタントコーチに就任した。この変化にもかかわらず、レギュラーシーズンは8位に終わり、新形式の優勝決定プレーオフへの進出を逃した。リーグ3連覇を逃したものの、ヨーロッパリーグ2009-2010では成功を収めた。ラウンド32ではレッドブル・ザルツブルクに2戦合計3対2、ラウンド16ではパナシナイコスに2戦合計4対1で勝利した。準々決勝のハンブルガーSV戦では、2戦合計5対2で敗退し欧州での挑戦を終えたが、メディアおよびファンから賞賛を受けた。

ドノフリオ体制における最後の栄冠[編集]

2010-2011シーズンはヨーロッパリーグへは不参加、リーグは6位で優勝決定プレーオフに進出した。プレーオフでは好調でレギュラーシーズンの勝点の半分との合計勝点51でゲンクと並んだが、スタンダールのシーズンからの勝点が四捨五入により0.5点加点されていたため、優勝はゲンクとなった。このシーズンはベルギーカップの決勝に進出、KVCウェステルローに2対1で勝利した。2011年6月23日、ベルギーの実業家ローランド・デュシャトレがクラブの株100%を取得し、新オーナーとなった。

転換期(2011-2012)[編集]

新オーナーの初年度、クラブはYoni Buyens、William Vainqueur、Geoffrey Mujangi Bia、イグナシオ・ゴンサレスを獲得した。チャンピオンズリーグ予選3回戦ではFCチューリッヒに敗退。ヨーロッパリーグではよく戦い、ハノーファー96FCコペンハーゲンFCヴォルスクラ・ポルタヴァと争ったグループリーグを首位で突破した。一方、国内では奮わず、欧州への切符には手が遠く、引き分けや負けを積み重ねていた。

攻撃面の補強のため、冬の移籍市場ではRami Gershon、ビルキル・ビャルナソンセルジュ・ガクペを獲得した。ヨーロッパリーグ決勝トーナメント1回戦を突破した後、ラウンド16ではグループステージで負けがなかったハノーファーに敗れた。国内リーグでは瀬戸際で優勝プレーオフに進出したが5位に終わり、次年度の欧州への切符を手にすることができなかった。シーズン最終戦、監督のJosé Rigaはファンに対して退任を発表した。後任にはオランダ人のロン・ヤンスが就任した。

デュシャトレ体制の2年目[編集]

2012年7月17日、リールセSKから日本代表ゴールキーパーの川島永嗣を3年総額60万ユーロで獲得することに合意した。川島はスタンダール初の日本人選手となった。川島に加えて、フレデリック・ビュロ(フランスリーグ・アンのSMカーン所属)、Astrit Ajdarević(スウェーデンの若手)、マーヴィン・オグンジミ(以前はゲンクに所属)、Dudu Biton(シャルルロワSC所属のアタッカー)、Yohan Tavares(ディフェンダー)を獲得した。スタンダールはまた、未来を見据えてマンチェスター・ユナイテッドエゼキエル・フライアーズなど若手を獲得していった。シーズンは勝点15中10を獲得し好調であったが、その後4連敗を喫した。ホームでアンダレルヒトに勝利したものの、RAECモンスとのワロンダービーでは敗れた。勝点33ポイント中13ポイントの12位の不振により、監督のロン・ヤンスは2012年10月22日に解任され、新監督にはミルチェア・レドニクが就任した。

ライバル[編集]

スタンダード・リエージュの最大のライバルはRSCアンデルレヒトである。

タイトル[編集]

国内タイトル[編集]

  • リーグ: 10回
    • 1957-58, 1960-61, 1962-63, 1968-69, 1969-70, 1970-71, 1981-82 , 1982-83, 2007-08, 2008-09
  • カップ: 6回
    • 1954, 1966, 1967, 1981, 1993, 2011
  • リーグカップ: 1回
    • 1975
  • スーパーカップ:4回
    • 1981, 1983, 2008, 2009

国際タイトル[編集]

なし

過去の成績[編集]

  • 2004-2005 ジュピラーリーグ 3位
  • 2005-2006 ジュピラーリーグ 2位
  • 2006-2007 ジュピラーリーグ 3位
  • 2007-2008 ジュピラーリーグ 優勝
  • 2008-2009 ジュピラーリーグ 優勝
  • 2009-2010 ジュピラーリーグ 8位
  • 2010-2011 ジュピラーリーグ 6位
  • 2011-2012 ジュピラーリーグ 4位

現所属メンバー[編集]

2014年1月29日現在
No. Pos. 選手名
1 日本の旗 GK 川島永嗣
4 ガーナの旗 DF ダニエル・オパレ
6 ベルギーの旗 DF ローラン・シマン
8 オランダの旗 DF ロニー・スタム
10 ベルギーの旗 FW イゴール・デ・カマルゴ
11 フランスの旗 MF フレデリック・ビュロ
14 日本の旗 MF 小野裕二
15 ベルギーの旗 MF ジュリアン・デ・サル
17 ベルギーの旗 MF ヨニ・バイエンス
21 フランスの旗 MF ウィリアム・ヴァンクール
23 ベルギーの旗 FW ミッチー・バツフアイ
25 ブラジルの旗 DF カヌ
26 イスラエルの旗 DF タル・ベン・ハイム
No. Pos. 選手名
28 ベルギーの旗 GK ギヨーム・ウベール
29 ベルギーの旗 GK リュカ・ピラール
33 モロッコの旗 MF メフディ・カルセラ=ゴンサレス
36 ベルギーの旗 DF ディノ・アルスラナギッチ
37 ベルギーの旗 DF イェーレ・ファン・ダンメ
39 ナイジェリアの旗 FW イモー・エゼキエル
40 ベルギーの旗 MF ポール=ジョゼ・ムポク
44 ベルギーの旗 MF イブラヒマ・シセ
45 ベルギーの旗 MF フランソワ・マルケ
52 ベルギーの旗 FW ヤニス・ムボンボ
53 ベルギーの旗 MF デニ・ミロシェヴィッチ
56 ベルギーの旗 DF アリ・ヤサル
63 ベルギーの旗 MF ジョフリー・ムジャンギ・ビア
監督

レンタル移籍[編集]

in
No. Pos. 選手名
out
No. Pos. 選手名
8 スウェーデンの旗 MF アストリト・アイダレヴィッチ (チャールトン)
9 ルーマニアの旗 FW ゲオルゲ・ツクデアン (ディナモ・ブカレスト)
16 ベルギーの旗 GK アンソニー・モリス (シント・トライデン)
20 イスラエルの旗 FW ドゥドゥ・ビトン (アルコルコン)
30 フランスの旗 GK ヨアン・テュラム=ユリアン (チャールトン)
75 トルコの旗 MF アルパスラン・オズトゥルク (カスムパシャ)
No. Pos. 選手名
-- モンテネグロの旗 DF ネボイシャ・コソヴィッチ (ウーイペシュト)
-- ベルギーの旗 MF フランコ・ゼンナーロ (フォルトゥナ・シッタート)
-- 日本の旗 FW 永井謙佑 (名古屋グランパス)
-- ペルーの旗 FW イバン・ブロス (シント・トライデン)
-- オランダの旗 MF ダニー・ファーベーク (NACブレダ)
-- トルコの旗 MF アニル・コチ (チャールトン)

歴代監督[編集]

歴代所属選手[編集]

GK[編集]

DF[編集]

MF[編集]

FW[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b Le Royal Standard de Liège et son histoire”. Royal Standard de Liège (standard.be). p. 2. 2010年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月21日閲覧。
  2. ^ B. Dubois, Th. Evens, Ph. Leruth, 1892-1992 : La jeunesse centenaire. Livre officiel du Centenaire du Royal Football Club Liégeois. Bruxelles, Labor, 1992, pp. 276.

外部リンク[編集]