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聖書翻訳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

聖書翻訳(せいしょほんやく)は、聖書を様々な言語翻訳することである。ユダヤ教キリスト教も複数言語に跨って発展した宗教であり、その聖典である聖書をいかに翻訳するかは古来より大きな問題であり続けた。活版印刷の発明以来、ヨーロッパ各国でプロテスタント系の翻訳が盛んになり、その後ヨーロッパ諸国の海外進出に伴って世界各国語への翻訳が盛んに行われるようになった。またマルティン・ルターによる聖書翻訳とドイツ語の関係のように聖書翻訳が書記言語の確立、共通語の成立、言語ナショナリズムのきっかけになった言語も多い。

聖書翻訳の原典と底本

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聖書記者が書いたヘブライ語アラム語ギリシア語聖書の原典そのものは、現在地上に存在しないが、複数の写本が存在している。

旧約聖書

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ユダヤ教の聖典である「タナハ」、キリスト教で言うところの旧約聖書(以下、本項では「旧約聖書」と呼ぶ)の原著の大部分はヘブライ語で書かれ、一部「ダニエル書」、「エズラ記」、および「エレミヤ書」はアラム語で記述された。

歴史」の項でも述べることになるが、旧約聖書は紀元前3〜1世紀にギリシャ語に翻訳された。これは七十人訳聖書と呼ばれ、キリスト教世界では長らくこのギリシャ語テキストを旧約聖書の底本とみなしていた。しかしユダヤ教ではユダヤ戦争後に確立していったヘブライ語のマソラ本文を底本とした。この2者には取り扱っている文書に差異があり、本文も多少違っている。

5世紀になるとヒエロニムスが新旧約聖書のラテン語翻訳を行ったが、旧約聖書については七十人訳を基本としながらそれを遡るヘブライ語聖書を参照したと言われている。この翻訳は新約とともにラテン語標準訳ウルガタと呼ばれて長く西方教会で権威を持ち、他言語への聖書翻訳が行われるときもこのウルガタから翻訳されることも多かった。事実上の原典として扱われていたのである。

宗教改革ルターがドイツ語訳聖書を参照したとき、ウルガタが底本とした七十人訳を退け、マソラ本文を底本として扱った。

ウェストミンスター信仰告白などプロテスタント正統主義の歴史的な信仰告白は旧新約聖書66巻を告白しており、プロテスタントとローマ・カトリックでは旧約聖書に含まれる文書には差異がある。

原典復元作業である本文批評により、今日、旧約聖書の底本として多く用いられるのはドイツ聖書協会発行のビブリア・ヘブライカ・シュトゥットガルテンシアであり、日本語の新共同訳聖書はこれを用いている。ただローマ・カトリックから見ればいくつかの文書を欠くので、エキュメニズム新共同訳聖書では第二正典が『ギリシア語旧約聖書』(ゲッティンゲン研究所)などから補われている。

新約聖書

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新約聖書の原著は、概ねギリシア語で書かれているとされている。しかし、特定の巻はその一部もしくは全部がアラム語で書かれていた可能性をあげる学者も存在し、その根拠には「ヨハネによる福音書」のロゴスに関する有名な導入部がアラム語による賛美歌のギリシャ語訳ではないかと考えられていることがある。

新約聖書は、著書も文書の性格も異なる複数の文書から成り立っているが、その文書群が聖典として定義されるにあたっては、長い時間がかかった。アタナシオス298年 - 373年)によってあげられた27の文書が聖典として承認されたのは397年のカルタゴ教会会議であるが、『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』が聖典、つまり新約聖書の中に含まれるのかどうかについてはその後も議論が残った。

5世紀になるとヒエロニムスが当時としてはかなり徹底した新旧約聖書のラテン語翻訳改訂を行い、それはラテン語標準訳ウルガタと呼ばれて長く西方教会で権威を持った。他言語への聖書翻訳が行われるときもこのウルガタから翻訳されて事実上の原典として扱われ、カトリック教会では20世紀半ばまでそれが維持された。

活版印刷が発明されると、聖書のギリシャ語やヘブライ語が盛んに出版されるようになり、特に新約聖書は16世紀に出版されたエラスムステクストゥス・レセプトゥスが広く知られるようになった。宗教改革ルターティンダルはウルガタではなくて原語からの聖書翻訳を目指したが新約聖書については、この テクストゥス・レセプトゥスを用いている。

テクストゥス・レセプトゥスはその後も多くの翻訳で底本として用いられてきたが、そのテキストには問題が多々あることが指摘され続け、正文批判や聖書学が進んできた結果、今日では翻訳の底本として使われることは無い。

今日、新約聖書の底本として用いられるのはネストレ・アーラントの校定本であり、特にその第26版はそのまま聖書協会世界連盟(UBS)のギリシア語新約聖書の修正第三版に採用されている。

重訳

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写本の底本が確立している今日、重訳が堂々と行われることはあまりないが例外もある。たとえばエルサレム・フランス聖書考古学学院が発行したフランス語のエルサレム聖書はその学問的正確さと豊富な注釈から注目を集め、英語などに重訳されている。大胆な意訳で有名なリビングバイブルは、それ自体がアメリカ標準訳 (ASV) 聖書からの重訳である上に、さらに別の言語へ重訳されている。

また、聖書協会やこれに類する組織が世界各国で膨大な数の言語への聖書翻訳を推し進めてきたが[注 1]、それら全てがギリシャ語やヘブライ語からの真正直な翻訳と考えるのは無理があり、実質的にはNRSV、TEV (GNB)、CEBといった、既存の英語訳聖書からの重訳であろうということは指摘されてきた[要出典]エホバの証人が世界各国で翻訳している新世界訳聖書は英語訳のNWT、1981年版を基礎として各言語ごとに、その国の支部委員たちが独自に重訳したものになっている。2013年以降は理解しやすい翻訳として、意訳された改訂版が出され、二種類が存在するようになった。

翻訳の方法論

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翻訳の問題点

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ある宗教が複数の言語に跨って広がっていくと、その経典あるいは聖典を翻訳しようという動きもでるのだが、そこには困難な問題が生じることがある。翻訳一般の問題として、語彙体系も社会環境も異なれば、原語から翻訳語へ正確に語句が対応しているとは限らず、対応する語句が存在しない、あるいはどういう語句を当てても意味がズレることは多々ある。16世紀のイエズス会による日本布教で、仏教用語を借用して教義を説明したためにキリスト教が仏教の一派であると一部に誤解されたことなどはその一例であろう。また文法体系が異なれば原語で表現できていたニュアンスが翻訳語の中ではどうしても正確に表現できないことも生じる。

翻訳者が一つの訳文を選択するに当たっては、翻訳者の判断とその前提となる原典解釈が必須であるが、その「正しい」解釈をめぐって時には教団内で深刻な対立が生じることもある。宗教改革時にプロテスタント側がカトリック教会の認めない聖書翻訳を行って対抗し、その翻訳を拠りどころにしてプロテスタント教会を成立させていったことはその典型例であろう。

ローマの信徒への手紙』16章1節に登場するフィベ英語版のように、通例は「執事助祭」と訳すべき身分「diaconos」が、新共同訳聖書において「奉仕者」と訳された例もある[1]。これは、女性が聖職者に就くことを認めないカトリック教会側の翻訳委員の意向が働いた結果とされる[1]

同じく『ローマの信徒への手紙』16章7節に登場する、パウロに先んじてキリストに帰依したとされる傑出した使徒の名は、ギリシャ語訳聖書では Iouniān である。目的格であるこれを主格に復元した結果として、Iouniās(ユニアス)という男性名が通用していた[2]。しかし、アクセント記号中世になってから付けられたものであり、元々の聖書写本には存在しない[2]。むしろ、元の目的格を Iounían であったとすれば、主格は Iounia(ユニア英語版)という女性名になる[2]。そしてそもそも、「ユニア」という女性名が当時ありふれていたのに対し、「ユニアス」という男性名は当時ほとんど見当たらない[2]。よって長らく通用していた翻訳に対し、この Iouniān が「ユニア」という女性であったことは、現在ではほぼ疑いがなくなっている[3]

そもそも西方教会では民衆語(ヴァナキュラーな言葉)への翻訳を禁止していた時期があり(聖書翻訳の歴史の中世の項も参照)、民衆が自由に聖書解釈することに神経を尖らせていたが、それは宗教史的に見れば特異なことではない。たとえば、イスラームの聖典であるクルアーン(コーラン)は原語であるアラビア語から他言語への翻訳が禁じられ、翻訳されたとしてもそれはクルアーンの注釈書もしくは解説書であるとみなされていた[4]。タイの仏教社会でも、パーリ語経典を訳すことなくそのまま丸暗記させている[5]

聖典の翻訳禁止は、多くの人々にとっては外国語でしか聖典に接することができず、大変なストレスをかけることになるのだが、翻訳が引き起こすリスクはそれ以上に大きいと見なされることもあったのである。

逐語訳

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できる限り議論の余地がない正確な翻訳を行うために、原語と翻訳語の間で機械的な逐語訳のシステムを組上げてしまう例もある。漢文に訓点をつけて日本語に読み下す方法はこれに該当するし、サンスクリット語経典を逐語訳するための母国語表記法自体をそれに合わせて作り上げたチベット語訳経典の例もあるが[6]、少数例にとどまる。異なる言語間での逐語訳は、多くの場合不自然な翻訳文を引き起こすことになる。

そうはいっても逐語訳は聖典の翻訳論としては有力であり、多くの聖書翻訳(特に学問的正確さを追求する翻訳)は可能な限りの逐語訳が原則であった。当然のこととして、翻訳語としての文章には不自然な部分が発生し、それらは後に続く改訂翻訳の議論の対象となってきた。また、逐語訳であっても訳語の選択次第で翻訳文が意味するところは相当に異なったものとなり、そうした訳語についても大いに議論がなされてきた。

意訳

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逐語訳と対極にあるのが意訳である。たとえば新約聖書は2000年前のパレスチナ周辺を主な舞台としているが、時代も社会も異なる背景で書かれた文書は、たとえ逐語訳を行ったところで、その文章が意味するところは伝わり辛くなっている。そうであるならば、読者にとって正しく理解できるように意訳するべきだという立場が存在する。代表的なのはユージン・ナイダ動的等価翻訳理論であろう。つまり、文脈に応じて言葉は変えるが意味するところは同じになるように訳するということである。(これに対して逐語訳的方法は形式的等価翻訳と呼ばれる。)ナイダの理論は一時期 アメリカ聖書協会の翻訳事業を主導し、今日流通しているToday's English Bible:TEV(グッドニューズバイブル:GNBとも称する)やContemporary English Bible:CEBなどを生み出した。日本語では共同訳聖書の作業にあたってこの理論が指針として採用され、ナイダが来日して講演するなどしている。しかし、動的等価翻訳理論は翻訳者の判断で原文を大きく捻じ曲げているに過ぎないという批判もあり評価は分かれる。共同訳聖書でも批判が相次ぎ、作業をやり直した新共同訳聖書の翻訳委員会では動的等価翻訳を指針から外している。

もっと過激な意訳を志す立場も存在し、『リビングバイブル』(TLB)のように原文がそもそもどの程度の難易度の文章であったかどうかも度外視して、とにかく分かりやすく翻訳した聖書もある。学問的な正確さは二の次にされているから、聖書学者などからの評判は悪い。しかし、こうした聖書翻訳事業は「一人でも多くの人に分かりやすく神の言葉を届けることこそが重要だ」と考える立場の人々によって支えられてきた。前述のTEVやCEBはアメリカ聖書協会が発行し、安価で大量に配布されてきたし、世界中に作られた各国の聖書協会の多くがこの翻訳に準拠した各国語の聖書を作って、その国々で配布されてきたのである。

ともあれ意訳と逐語訳を二つの極として、今までに行われてきた聖書翻訳のほとんどはこの二つの立場をケースバイケースで使い分けてきたといってよい。

注釈について

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翻訳で考慮するべきなのは、注釈や解説によって翻訳文で表現しきれない部分を補うという考え方である。しかし聖書翻訳においては注釈や解説がつかない場合も多い。有名な例では欽定訳聖書はロンドン主教の進言によって注釈をつけなかった。注釈をつけると、各教派の意見がまとまらなくなり宗教対立を再燃させることを懸念した結果だろうといわれている(英語訳聖書の欽定訳の項を参照)。聖書を世界中に普及させることに貢献した英国外国聖書協会もその基本綱領に「註や註解なしで聖書を広く普及させること」を目指し[7]、結果として相当数の部数の翻訳聖書は注釈をもっていない。プロテスタントにはルター以来の「聖書のみ」という伝統があり、神の言葉はそのままで人々に届くはずであるという考え方の下、こうした注釈の無い翻訳が理由づけられてもいた。

これとは対照的にカトリック教会は、カトリック教会の教導なしに信徒が勝手に聖書を解釈することは危険であるという立場をとり[注 2]、カトリック系の翻訳は一般的に注釈を含む。特にエルサレム聖書(英語、フランス語)やフランシスコ会訳(日本語)は大量の注釈と解説を含んでいることで有名である。

1960年代以降、カトリックとプロテスタントの共同訳作業が始まると、たとえば日本語の新共同訳聖書のように聖書協会も注釈を含む聖書を出版するようになった。

歴史

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古代

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ユダヤ教トーラモーセ五書)の翻訳は最初のバビロン捕囚のときに始まった。アラム語ユダヤ人の共通語になったからである。多くの人々がアラム語しか話せずヘブライ語が理解できなくなる中で、一般人が祖先の人々と同じようにトーラを理解できるように翻訳されたのがタルグームである。

紀元前3世紀になると、その頃でもほとんどのトーラはヘブライ語で書かれていたが、多くのユダヤ人がエジプトに集まってくるようになった。そこではアレクサンダー大王が彼の名前に因んでアレクサンドリアを造っており、一時期はユダヤ人人口がこの都市で3番目に多くなった程である。ユダヤ人はお互いにアラム語で会話していたし、きちんとした聖書のギリシャ語翻訳も行われてこなかったのだが、プトレマイオス2世の治世になって、ヘブライ語とギリシャ語(コイネー)の両方に堪能なユダヤ人が多数雇用された(文献によって15人とも70人とも言われている)。彼らが行った翻訳が今日よく知られている七十人訳聖書セプトゥアギンタ訳とも)である。

ローマ帝国期には様々な翻訳があり、オリゲネス182年 - 251年)は六欄対照旧約聖書Hexapla、ギリシャ語:sixfold)で旧約聖書の6つの異版を並列表記している。ここには 2世紀のギリシャ語訳であるシノペのアキラ(アキューラスとも)やSymmachus the Ebioniteなどが含まれる。

新約聖書は性格を異にする様々な文書からなっており、その文書がほぼ確定したのは4世紀末のことであったが、個々の文書のラテン語翻訳はそれより以前から行われていた。ラテン語翻訳でもっとも有名なのはヒエロニムス340年頃 - 420年)によるウルガタ(標準ラテン語訳聖書)であり382年から420年の間に訳された。当初、ヒエロニムスはそれまでのラテン語の翻訳を改訂していたのだが、最終的にはすべての翻訳を退けて新約聖書については原語のギリシア語へと遡り、旧約聖書については七十人訳聖書ではなく原語のヘブライ語へと遡った。このヒエロニムスよりも以前のラテン語訳聖書は今日一括りにして古ラテン語聖書と呼ばれる。

4世紀になって、ウルフィラス311年? - 382年)は新約聖書をゴート語に翻訳。続いて5世紀にはメスロプ・マシュトツ361年 - 440年)によりアルメニア語訳の聖書が成立。また同じ時期にシリア語訳、コプト・エジプト語訳、ゲエズ語訳(古典エチオピア語訳)、グルジア語訳が成立している。

中世

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中世を通じて、聖書翻訳の活動は衰退した。この時代はラテン語が西方教会の共通言語でありラテン語のウルガタが聖書の標準であるが、この言語が通じるのはごくわずかな教養人のみで、一般大衆には馴染みがない。多数の読み書きできない人たちは聖書に直接触れる機会はあまり無く、少数の教養人は新しい翻訳を求めなかった。

聖書は普通のものになりすぎてはいけない、すべての人に読まれるべきではない、安全に読むにはそれなりの学習が要求される、そういう確信のもとに何世紀もの時間が過ぎていくのだが、翻訳が行われなかった訳ではない。たとえばベーダ・ヴェネラビリス673年 - 735年)による「ヨハネによる福音書」の古英語への翻訳は現存していないものの有名である。古高ドイツ語の「マタイによる福音書」は748年のものとされ、古代教会スラヴ語への翻訳は9世紀末に行われた。

900年頃のアルフレッド大王849年 - 899年)が公布した法律の前文などには数々の聖句、例えばモーセの十戒モーセ五書などが引用されており、そうした聖句が民衆語に訳されていたことが覗われる。また990年頃、四つの福音書が西サクソン古英語方言で書かれており、これらは「ウェセックスゴスペルス」として知られている。

1199年にローマ教皇インノケンティウス3世1161年 - 1216年)は、カタリ派およびヴァルド派を異教とし、非公認の聖書を禁止した。1234年にはトゥールーズフランス)およびタラゴナスペイン)の教会会議はそのような翻訳聖書の所持を禁じた。このようにヨーロッパの中世では民衆語(ヴァナキュラーな言語)への翻訳が抑圧された時代だとされているが、いくつかの民衆語翻訳は許されていたという証拠もある。

しかし、重要な中英語の聖書翻訳であるウィクリフの聖書(1383年)はウルガタに基づいていたが、1408年のオックスフォードの教会会議で禁書とされた。15世紀半ばにはハンガリーのフス派聖書が、1478年にはバレンシアカタルーニャ語方言による翻訳が現れた。このように様々な民衆語への翻訳活動とそれに対する反動が14世紀から15世紀にかけて現れる。

民衆語翻訳に反対する立場に従えば、ラテン語で1000年間十分うまくやってきたのに、新たな翻訳で聖書を台無しにしてしまうことが問題とされた。霊感を受けてウルガタを訳した ヒエロニムスは聖なる翻訳者であり、ウルガタ自体が正典化されていたのである。ヒエロニムスの翻訳を批判することは不敬罪と冒涜に値し、原典テキストへの批判と同等であるとみなされた。このようにウルガタは他の翻訳を排除するための拠り所とされてきたのである。

15世紀の文芸復興で古典と古典語研究が流行し、批判的かつ厳密なギリシャ語学が再び日の目を見た。加えて持ち運び可能な活版印刷の発明が、原語のギリシャ語聖書を広く流布させることに貢献した。グーテンベルクが最初の仕事としてラテン語ウルガタ聖書を印刷したのは1455年のことである。エラスムスや人文学者達はウルガタ聖書への評価を見直し、彼が校訂した原語のギリシャ語のテキストを出版して広めることで、ウルガタの正統性を揺さぶった。文芸復興と印刷機の発明が、各国で聖書翻訳の新たな機運を作りだしたのである。

宗教改革と初期近代

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1521年マルチン・ルターはローマ教皇から破門されると、ワルトブルク城に匿われた。彼はそこで新約聖書をギリシャ語からドイツ語に翻訳し、それを1522年9月に印刷している(今日、ルター訳聖書と言われているものはその後に改訂を重ねた1534年の訳である)。また、ウィリアム・ティンダル1494年または1495年? - 1536年)は聖書の英語翻訳を志すが受け入れられず、イギリス国外で翻訳・印刷した英語訳聖書(1526年)をイギリス国内に送り込むのだが、捕らえられて死刑になる。また1531年には改革派にとって重要なチューリッヒ聖書が現れている。これらの聖書は宗教改革において重要な役割を果たした。カトリック教会でも1523年ルフェーヴル・デタープル1450年? - 1536年)の翻訳聖書が現れているがこれは基本的にウルガタに依存していた。

英語圏では、欽定訳聖書が1611年に成立するとこれが標準訳としての地位を確立した。ドイツではルター訳聖書が標準訳となり、両者とも近代英語と近代ドイツ語の成立に当たって深い影響を与えた。その他の言語の聖書翻訳の歴史については「翻訳の一覧」の項目を参照されたい。

新世界の言語への翻訳についてはイエズス会 の宣教活動が17世紀の翻訳活動の大部分を主導したが、その後はプロテスタントの宣教活動に徐々に取って代わられていくことになる。

プロテスタントの宣教と各国語への翻訳

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1804年にイギリスで発足した英国外国聖書協会は、当初はウェールズ語の安価な聖書普及を目指していたが、すぐに規模と目的が急拡大した。類似組織と共に世界中に支社を作り、様々な言語への聖書翻訳と印刷・出版・配布の事業を行うようになったのである。「聖書は史上最大のベストセラー」という言い方がされる場合があるが、それはこの聖書協会が軍隊・病院・刑務所といった施設に聖書を大量に配布し、安価な値段で販売したことの結果である。ことに主導権をとったのは英国外国聖書協会アメリカ聖書協会であり、それぞれ19世紀と20世紀を代表する経済大国の聖書協会であるが、共に英語を使用する国家でもあることから、両世紀の聖書翻訳では英語翻訳が大きな影響力を世界中の他言語の翻訳に及ぼしていくことになる。たとえば、日本語訳聖書では明治元訳聖書が欽定訳聖書AV、大正改訳聖書がRV、口語訳聖書がRSV、共同訳聖書が動的等価翻訳理論を適用したTEBというように英語訳聖書に対応した改定が行われている。

また、20世紀後半以降にアメリカで勢力を増したファンダメンタリズムと福音主義の諸教派は聖書協会系の聖書を退け、聖書無誤謬の立場からNIVを翻訳し、これに準拠させる形で各国語への翻訳と配布を盛んに行っており、彼ら自身の主張によれば「世界で最も普及した聖書」となったという。

この項目に関しては「言語別聖書の一覧」および 英語訳聖書#現代の翻も参照されたい。

カトリック系の聖書翻訳

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宗教改革以降、聖書翻訳を推し進めていたプロテスタントに対してカトリック側も聖書翻訳を行うようになるのだが、「ウルガタ」ラテン語聖書からの翻訳という一線は常に守られていた。たとえば、1582年のドゥエ・ランス聖書はウルガタからの翻訳である。

1943年になってローマ教皇ピウス12世回勅「ディヴィノ・アフランテ・スピリトゥ」(Divino Afflante Spiritu)を出し、原語のヘブライ語やギリシア語のから聖書翻訳行うことを促した。こうして、ようやくギリシャ語・ヘブライ語からの各国語聖書翻訳が開始されることになる。一番有名なのは エルサレム・フランス聖書考古学学院を中心にフランス語圏カトリック系研究者たちが総力をあげて翻訳したエルサレム聖書であろう。1948年から順次出版されて1956年に一冊にまとめられたものであり、豊かな注釈と解説を含むこの翻訳は学問的にも高く評価されて英語やドイツ語に重訳されたほどである。アメリカでは1970年に新アメリカ聖書(NAB)が出版されて、これも高く評価された。また、日本ではフランシスコ会が原語から日本語への翻訳を行い、これは「フランシスコ会訳聖書」という名前で知られている(1978年に完成)。カトリック側からこうした本格的な聖書翻訳が現れるようになり、共同訳事業が始まるようになるのである。

正教会の聖書翻訳

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正教会奉神礼では、プロテスタント教会礼拝またはカトリック教会ミサのように、信者が聖書朗読に参加することはなく、一般的にいって聖書全書(旧約・新約)を読むあるいは求める需要は比較的少ない。しかし、神品(聖職者)あるいは聖書専門家による聖書翻訳は綿々とおこなわれてきて、上の参照をギリシャ語ロシア語英語日本語の例で見られたい。

共同訳聖書

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1962年から1965年にかけて行われた第2バチカン公会議はカトリック教会の進む方向を大きく転換させた会議であるが、その中では聖書研究の重要性が強調され、各国語への翻訳が推奨され、さらに エキュメニズム(教会帰一運動)への取り組みが確認された。これを受けて、世界各国でプロテスタントとカトリック教会の共同訳聖書事業が始まることになる。

もっとも、早いものはフランスにおいて行われた「フランス語共同訳聖書」(TOB)であり、第2バチカン公会議より先行して着手されていた。総勢113人の学者が動員されて翻訳に当たった。正教会からの参加者もいたが、正教会はこの翻訳を正式に採用はしていない。日本では1978年の「共同訳聖書」とその翻訳をやり直した1987年の新共同訳聖書がこれに該当する。イギリスでも1989年の改訂英語聖書(REB)にカトリック教会から公式のメンバーが参加しており、共同訳に近づいている。アメリカではやはり1989年の新改訂標準訳聖書(NRSV)にカトリックから数名、正教会、ユダヤ教から各1名のメンバーが参加しているが、共同訳というところまでは至っていない。

聖書翻訳にたずさわってきた団体

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近世になって、世界のあらゆる言語への聖書翻訳・出版にたずさわってきた個人以外の団体には、各宗派に属する部署以外に、おもなもので次のようなものがある。

脚注

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注釈

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  1. ^ 2005年時点で、SILインターナショナルがあげている6,900の言語の中の2,400もの言語に聖書は翻訳されている。内訳はアフリカでは680の言語、アジアでは590、オセアニアでは420、ラテンアメリカカリブ海では420、ヨーロッパで210、北アメリカで75である。
  2. ^ たとえばカトリック中央協議会『カトリック教会のカテキズム』(2002年)の85節「書きもの、あるいは口伝による神のことばを権威をもって解釈する役目は、キリストの名で権威を行使する教会の生きた教導権だけに任されています」、113節「聖書は、文字通りに読むよりも、教会の心で読むほうがまさっています」、119節「聖書解釈に関するこれらすべてのことは‥(中略) ‥教会の判断のもとにおかれています」

出典

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  1. ^ a b 荒井 1988, pp. 204–205.
  2. ^ a b c d 荒井 1988, pp. 214–215.
  3. ^ 荒井 1988, pp. 216–217.
  4. ^ 井筒俊彦『コーラン(上)』岩波文庫、1957年、p.299
  5. ^ 青木保『タイの僧院にて』中公文庫、1979年
  6. ^ 渡辺照宏『お経の話』岩波新書、1967年、pp.70-71
  7. ^ 田川建三『書物としての新約聖書』1997年、p.501

参考文献

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  • 荒井献『新約聖書の女性観』岩波書店〈岩波セミナーブックス〉、1988年。 

関連項目

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外部リンク

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