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* [[1910年]](明治44年)神奈川県横浜市久保町(現神奈川県[[横浜市]][[西区 (横浜市)|西区]]久保町)に転居。
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* [[1916年]](大正5年)横浜市立尋常西前小学校(現[[横浜市立西前小学校]])卒業。卒業と同時に東京木挽町2丁目(現銀座2丁目)にあった質店の山本周五郎商店に[[徒弟]]として住み込む。
* [[1916年]](大正5年)横浜市立尋常西前小学校(現[[横浜市立西前小学校]])卒業。卒業と同時に東京木挽町2丁目(現銀座2丁目)にあった質店の山本周五郎商店に[[徒弟]]として住み込む。
* [[1923年]](大正12年)[[徴兵検査]]を受けるも、眼力が問題となり[[丙種合格]]で免れる。同年9月1日の[[関東大震災]]によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。
* [[1923年]](大正12年)[[徴兵検査]]を受け、眼力が問題となり[[丙種合格]]で免れる。同年9月1日の[[関東大震災]]によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。
* [[1924年]](大正13年)再び上京。帝国興信所(現[[帝国データバンク]])に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である[[日本魂社]]に転籍。
* [[1924年]](大正13年)再び上京。帝国興信所(現[[帝国データバンク]])に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である[[日本魂社]]に転籍。
* [[1926年]](大正15年・昭和元年)『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。同年10月20日、脳溢血で母とく死去。
* [[1926年]](大正15年・昭和元年)『[[文藝春秋 (雑誌)|文藝春秋]]』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。10月20日、脳溢血で母とく死去。
* [[1928年]](昭和3年)千葉県浦安町(現[[千葉県]][[浦安市]])に転居。同年10月日本魂社を勤務不良で解雇。
* [[1928年]](昭和3年)千葉県浦安町(現[[千葉県]][[浦安市]])に転居。10月日本魂社を勤務不良で解雇。
* [[1929年]](昭和4年)東京虎ノ門に転居。
* [[1929年]](昭和4年)東京虎ノ門に転居。
* [[1930年]](昭和5年)宮城県出身の土生きよいと結婚。
* [[1930年]](昭和5年)宮城県出身の土生きよいと結婚。
* [[1931年]](昭和6年)東京馬込東に転居。[[空想部落]]と称された[[馬込文士村]]の住人となる。
* [[1931年]](昭和6年)東京馬込東に転居。空想部落と称された[[馬込文士村]]の住人となる。
* [[1934年]](昭和9年)6月26日、[[中風]]で父逸太郎死去。
* [[1934年]](昭和9年)6月26日、[[中風]]で父逸太郎死去。
* [[1943年]](昭和18年)第17回[[直木賞]]に『日本婦道記』が推薦される辞退。
* [[1943年]](昭和18年)第17回[[直木賞]]に『日本婦道記』が選ばれる辞退。
* [[1945年]](昭和20年)3月9日[[東京大空襲]]の日に[[膵癌|膵臓癌]]で妻きよい死去。
* [[1945年]](昭和20年)3月9日[[東京大空襲]]の日に[[膵癌|膵臓癌]]で妻きよい死去。
* [[1946年]](昭和21年)自宅(当時)の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]に転居。
* [[1946年]](昭和21年)自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市[[中区 (横浜市)|中区]]に転居。
* [[1961]](昭和36年)[[文藝春秋読者賞]]に『青べか物語』が推薦される辞退。
*1959年(昭和34)『樅の木は残った』が[[毎日出版賞]]に選ばれる辞退する
* [[1961年]](昭和36年)[[文藝春秋読者賞]]に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
* [[1967年]](昭和42年)2月14日、当時仕事場として使用していた旅館間門園別棟で[[肝炎]]と[[心臓衰弱]]のため死去。享年65(63歳で死去)。墓所は[[神奈川県]][[鎌倉市]]の鎌倉霊園。[[戒名]]恵光院周嶽文窓居士。
* [[1967年]](昭和42年)2月14日、当時仕事場として使用していた旅館間門園別棟で[[肝炎]]と[[心臓衰弱]]のため死去。享年65(63歳で死去)。墓所は[[神奈川県]][[鎌倉市]]の鎌倉霊園。[[戒名]]恵光院周嶽文窓居士。



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山本 周五郎(やまもと しゅうごろう、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本小説家。本名、清水三十六(しみず さとむ)。

年譜

  • 1903年(明治36年)山梨県北都留郡初狩村(現・山梨県大月市初狩町下初狩)にて父清水逸太郎、母とくの長男として誕生。
  • 1907年(明治40年)初狩村が明治40年の大水害で壊滅的被害を受け、一家で北豊島郡王子町豊島(現東京都北区豊島)に転居。
  • 1910年(明治44年)神奈川県横浜市久保町(現神奈川県横浜市西区久保町)に転居。
  • 1916年(大正5年)横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町2丁目(現銀座2丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
  • 1923年(大正12年)徴兵検査を受け、眼力が問題となり丙種合格で免れる。同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。その後豊橋、神戸に転居。
  • 1924年(大正13年)再び上京。帝国興信所(現帝国データバンク)に入社。文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。
  • 1926年(大正15年・昭和元年)『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。10月20日、脳溢血で母とく死去。
  • 1928年(昭和3年)千葉県浦安町(現千葉県浦安市)に転居。10月日本魂社を勤務不良で解雇。
  • 1929年(昭和4年)東京虎ノ門に転居。
  • 1930年(昭和5年)宮城県出身の土生きよいと結婚。
  • 1931年(昭和6年)東京馬込東に転居。空想部落と称された馬込文士村の住人となる。
  • 1934年(昭和9年)6月26日、中風で父逸太郎死去。
  • 1943年(昭和18年)第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退。
  • 1945年(昭和20年)3月9日東京大空襲の日に膵臓癌で妻きよい死去。
  • 1946年(昭和21年)自宅の筋向いに住んでいた吉村きんと再婚。横浜市中区に転居。
  • 1959年(昭和34)『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
  • 1961年(昭和36年)文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
  • 1967年(昭和42年)2月14日、当時仕事場として使用していた旅館間門園別棟で肝炎心臓衰弱のため死去。享年65(63歳で死去)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名恵光院周嶽文窓居士。

人物

ペンネームの由来

ペンネーム「山本周五郎」の由来として(他のペンネームとして、俵屋宗八・横西五郎・清水清・清水きよし・土生三・佐野喬吉・仁木繁吉・平田晴人・覆面作家・風々亭一迷・黒林騎士・折箸闌亭・酒井松花亭・参々亭五猿を用いた)、自身の出世作となった『須磨寺附近』を発表する際に本人の住所「山本周五郎方清水三十六」と書いてあったものを見て、文藝春秋が誤って山本周五郎を作者名と発表した説があるが、以前にも山本周五郎をペンネームとして使用していた形跡があり定かではない。

しかしながら雇主であった店主の山本周五郎は、自らも酒落斎という雅号を持ち文芸に理解を持っていた。その為、周五郎を文壇で自立するまで物心両面にわたり支援し、正則英語学校(現正則学園高等学校)、大原簿記学校にも周五郎を通わせている。ペンネームにはそのことに対する深い感謝の念が込められていたと思われる。

作風

作風は時代小説、特に市井に生きる庶民や名も無き流れ者を描いた作品で本領を示す。

また伊達騒動に材を求めた『樅ノ木は残った』や、由井正雪を主人公とした『正雪記』などの歴史小説にも優れたものがある。

山本の小説に登場する人物は、辛酸を嘗め尽くし、志半ばで力尽きてしまうものが少なくないが、かれらに、生きる上でのヒントとなる、含蓄のある台詞を吐かせる、というのも山本の作風である。

『日本婦道記』で第17回直木賞に推されるも辞退し、直木賞史上唯一の授賞決定後の辞退者となった、直木賞を受賞辞退した裏には、一説に賞を主催する文藝春秋菊池寛との不和が挙げられる。

担当した雑誌編集者は数多いが、その中では、博文館の雑誌『少年少女譚海』の編集者で後に名物編集長として知られた井口長次(『桃太郎侍』の山手樹一郎の本名)、朝日新聞社の担当記者だった木村久邇典などが知られる。

特に木村は、山本の没後は生涯にわたり、多くの評伝・作品研究を書き、『全集』(全30巻、新潮社)を編み、埋もれた作品を発掘し新潮文庫で再刊する等を行った。代表作に『山本周五郎』(上下巻、新版アールズ出版)、他にも『書簡にみる山本周五郎像』(未來社)など20数冊を刊行。また数多の作品に登場する人物たちの台詞を集め、箴言集『泣き言はいわない』(新潮文庫、改版2009年)を出している。なお類書に、清原康正編『山本周五郎のことば』(新潮新書、2003年)がある。

他に担当者の回想に、文藝春秋の編集者だった大河原英与『山本周五郎最後の日』(マルジュ社)がある。功績をたたえ1988年から、新潮社などにより山本周五郎賞が発足した。

逸話

  • 尋常小学校の学生時分のこと、国語の宿題に作文が課された。その作文に山本は、級友の某とあれこれ楽しく遊んだことを書き、提出した。翌日、それぞれの作文が教室に掲示されると、山本の作文に登場する当の本人の某が「山本の作文は嘘だ。俺は山本と遊んだことなどない」と言い放ち、室内が騒然となった。詰め寄る級友たちの前に、なすすべもなく立ち竦んでいると、担任がやってきた。事の次第を聞き及び、文章を読み返した担任は一言、「三十六(周五郎の本名)。こうも見事に嘘が書けるのは素晴らしい。お前は将来小説家になれ」と言ってくれた。
  • 若い頃に植物学者の牧野富太郎の元に取材に行き、何気なく「雑木林」という言葉を使ったところ、「どんな花にも、どんな木にもみな名前がある。雑木林というのは人間の作った勝手な言葉だ」と咎められた。感心した山本は、それ以降、植物の名前を積極的に憶えるようになった。
  • 山本は、中原中也太宰治を高く評価していた。代表作のひとつ『虚空遍歴』の主人公である中藤沖也は中原がモデルであると言われている。
  • 山本の本名三十六は、明治36年生まれであったことから来ている。彼自身はあまり気に入っていない名前であったらしい。

受賞歴

  • 1926年 - 『須磨寺附近』で第1回文藝春秋懸賞小説。
  • 1959年 - 『樅ノ木は残った』で第13回毎日出版文化賞

主な作品

関連作品

映画

テレビドラマ

ほか多数

舞台

  • 夢ごころ (名鉄・東宝提携特別公演 / 名鉄ホール)
  • 川霧の橋 (宝塚歌劇月組公演)
  • TRUTH (1999年・2005年 / 演劇集団キャラメルボックス)- 『失蝶記』(日日平安収録)が原案
  • まつさをな (2007年 / 演劇集団キャラメルボックス)- 『みずぐるま』(おさん収録)が原案
  • 赤ひげ (2008年1月劇団俳優座 / 俳優座劇場 )
  • 赤ひげ / さぶ / 柳橋物語 / こんち午の日 / 季節のない街 ほか(前進座)

関連項目

外部リンク