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佐藤庄平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 佐藤庄平 八段
名前 佐藤庄平
生年月日 1933年1月14日
没年月日 (2005-11-09) 2005年11月9日(72歳没)
プロ入り年月日 1954年7月1日(21歳)
引退年月日 1971年3月31日(38歳)
棋士番号 63
出身地 新潟県西蒲原郡巻町(現・新潟市
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 原田泰夫九段
段位 八段
棋士DB 佐藤庄平
戦績
一般棋戦優勝回数 1回
順位戦最高クラス B級1組(4期)
2016年12月27日現在
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佐藤 庄平(さとう しょうへい、1933年1月14日 - 2005年11月9日)は、将棋棋士原田泰夫九段門下。棋士番号は63。

新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市の一部)の生まれ。

棋歴

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若くして病気に悩まされた棋士である。

師匠かつ同郷の先輩である原田とは10歳違いであり、1949年に佐藤が6級で原田門に入門したとき、原田はまだ26歳であった。プロ入りは1954年の7月、棋士番号は63であり、その直後(約1か月後)にプロ入りしたのが史上初の「中学生棋士」・加藤一二三である。

第12期(1957年度)C級2組順位戦と第13期(1958年度)C級1組順位戦で連続昇級を勝ち取り、B級2組へ昇級。しかし、第15期(1960年度)は病気でB級2組を休場。

第20期(1965年度)B級2組順位戦で9勝3敗(2位)の成績を収め、自己最高のB級1組へ昇級。さらには、続く第21期(1966年度)で、終盤まで加藤一二三・内藤國雄とA級昇級を争う。しかし、最後の2局を病気で不戦敗し、脱落する。

以降は、第22期と第23期で2年連続休場し、第24期では7つの不戦敗を含む0勝12敗でB級2組へ降級。第25期(1970年度)でB級2組を休場した所で引退した。

棋風

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  • 居飛車党で、相掛かり系や矢倉が多い。相手が振り飛車で来ると、持久戦ではなく急戦の形で対抗する。
  • 攻めの棋風であり、特に、を敵陣の前に繰り出し、飛車は縦に使い、激しいの突き合いをするという、破壊力のある縦の攻めに特徴がある。

人物

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昇段履歴

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  • 1949年 6級 = 奨励会入会
  • 1951年 初段
  • 1954年7月3日 四段 =プロ入り (奨励会三段昇段後13勝1敗により)
  • 1958年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
  • 1959年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
  • 1966年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
  • 1971年 引退
  • 1981年11月17日 八段(贈八段 = 「将棋の日」表彰)

主な成績

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棋戦優勝

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優勝合計1回

在籍クラス

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順位戦・竜王戦の在籍クラスの年別一覧
開始
年度
(出典)順位戦
出典[2]
(出典)竜王戦
出典[3]
名人 A級 B級 C級 0 竜王 1組 2組 3組 4組 5組 6組 決勝
T
1組 2組 1組 2組
1954 9 C215
1955 10 C206
1956 11 C206
1957 12 C202
1958 13 C112
1959 14 B212
1960 15 B210
1961 16 B213
1962 17 B210
1963 18 B205
1964 19 B211
1965 20 B207
1966 21 B113
1967 22 B104
1968 23 B113
1969 24 B220
1970 25 B221
順位戦、竜王戦の 枠表記 は挑戦者。右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。
順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 )
順位戦の「F編」はフリークラス編入 /「F宣」は宣言によるフリークラス転出。
竜王戦の 太字 はランキング戦優勝、竜王戦の 組(添字) は棋士以外の枠での出場。

著書

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王将ブックス「駒落ちシリーズ」
  • 二枚落ち必勝法(北辰堂、1967年)
  • 飛香落ち必勝法(〃)
  • 飛車落ち必勝法(〃)
  • 角落ち必勝法(〃)
  • 香落ち必勝法(〃)

以上5件は、「DELUXE版」として1986 - 1988年に再出版されている。

ほか
  • 実戦型詰将棋(1973年、永岡書店)
  • 寄せ方の基本(1976年、光風社書店)

共著

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 将棋雑学ゼミナール(将棋世界2016年12月号付録)
  2. ^ 名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。
  3. ^ 竜王戦」『日本将棋連盟』。

外部リンク

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