李白

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李白
李白肖像
誕生 701年
死没 762年10月22日
宣州当塗県
職業 詩人
ジャンル
代表作 李太白文集
ウィキポータル 文学
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李白
各種表記
繁体字 李白
簡体字 李白
拼音 Lǐ Bái
ラテン字 Li3 Pai2
和名表記: り はく
発音転記: リー・バイ
英語名 Li Bai
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李 白(り はく、拼音: Lǐ Bái701年長安元年) - 762年10月22日宝応元年9月30日))は、中国盛唐の時代の詩人である。太白(たいはく)。は青蓮居士[1]。唐代のみならず中国詩歌史上において、同時代の杜甫とともに最高の存在とされる。奔放で変幻自在な詩風から、後世に『詩仙』と称される。

李白と杜甫は盛唐の詩を最高の水準に到達せしめた功労者であり、お互いよき友人でもあったが、その詩的世界はかなり対面的な面がある。李白が浪漫主義の代表者であるとすれば、杜甫は現実主義の代表者であった。これには二人の家庭環境のほか、李白が杜甫よりも十年以上早く生まれていることも影響している。同じく秋を歌っても李白は清秋、杜甫は悲秋と表現し、酒を詠じても李白は緑酒、杜甫は濁酒の語彙を選ぶことが多い。

出自

李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明である。『旧唐書』本伝の記述では東魯の出身とするが、の王琦などをはじめ、通説はこれを誤りとする。

李陽冰の「草堂集序」および范伝正の「唐左拾遺翰林学士 李公新墓碑」、さらにこれらを踏まえたとされる北宋欧陽脩新唐書』などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王李暠の九世孫とする。李白の先祖は、末の時代、何らかの事情で西域東トルキスタンのあたりに追放され[2]、姓を変えてその地で暮らしていたが、中宗神龍年間、西域から(現在の四川省)に移住し、李白の誕生とともに李姓に復したという。

20世紀になると、陳寅恪らが李白を西域の非漢民族の出身とする新説を出した。日本の研究者でも松浦友久などが、李白の父が「李客」と呼ばれ、正式の漢人名を持ったという形跡がないこと、また後年の李白が科挙を受験しなかったことなどを根拠にこの説を支持している。

現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省綿陽市江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。

いずれにしても、遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられている。

生涯

李白墨筆画
酔った李白高力士に靴を脱がせて恨みを買ったという。

「草堂集序」「新墓碑」『新唐書』などが伝えるところによると、李白の生母は太白(金星)を夢見て李白を懐妊したといわれ、名前と字はそれにちなんで名付けられたとされる。5歳頃から20年ほどの青少年期、蜀の青蓮郷を中心に活動した。伝記や自身が書いた文章などによると、この間、読書に励むとともに、剣術を好み、任侠の徒と交際したとある。この頃の逸話として、益州長史の蘇頲にその文才を認められたこと、東巌子という隠者と一緒に岷山に隠棲し、蜀の鳥を飼育し共に過ごしながら道士の修行をし、山中の鳥も李白を恐れず手から餌をついばんたこと、峨眉山など蜀の名勝を渡り歩いたことなどが伝わる。

725年開元13年)、25歳の頃、李白は蜀の地を離れ、以後10数年の間、長江中下流域を中心に、洛陽太原・東魯などの中国各地を放浪する。自然詩人孟浩然との交遊はこの時期とされ、名作「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」が作られている[3]732年、32歳の時、安陸の名家で、高宗宰相であった許圉師の孫娘と結婚し、長女李平陽と長男李伯禽という2人の子が生まれている。740年、孔巣父ら5人の道士と徂徠山(現在の山東省泰安市)に集まり、「竹渓六逸」と呼ばれることもあった。また730年あるいは737年の頃に、長安に滞在して仕官を求めたというのが近年の研究から通説となっている。

742年天宝元年)の秋、友人元丹丘の尽力により、玄宗の妹で女道士となった玉真公主(持盈法師)の推薦を得て長安に上京した[4]。玄宗への謁見を待つため紫極宮(老子廟)に滞在していた折り、当時の詩壇の長老である賀知章の来訪を受け、この時彼から名高い「謫仙人」の評価を得ている。このように宮廷で有力な影響力を持つ2人の推薦を得て、同年の冬、李白は宮廷の翰林供奉(天子側近の顧問役)として玄宗に仕えることになる。以後の3年間、李白は朝廷で詩歌を作り、詔勅の起草にもあたった。この時期、楊貴妃の美しさを牡丹の花にたとえた「清平調詞」三首などの作品が作られ、宮廷文人として大いに活躍している。だが、抜群の才能を発揮する一方で、杜甫が「李白一斗 詩百篇、長安市上 酒家に眠る。天子呼び来たれども 船に上らず、自ら称す 臣は是れ 酒中の仙と」(「飲中八仙歌」)と詠うように、礼法を無視した放埒な言動を続けたことから宮廷人との摩擦を引き起こし、744年宦官高力士らの讒言を受けて長安を離れることとなった。

長安を去った李白は、洛陽もしくは梁園・宋州(現在の河南省開封市商丘市)で杜甫と出会って意気投合し、1年半ほどの間、高適を交えて山東・河南一帯を旅するなど彼らと親しく交遊した。また阿倍仲麻呂とも親交があり、754年には、前年に仲麻呂が日本への帰国途中、遭難して死去したという知らせ(誤報)を聞き、「晁卿衡を哭す」を詠んでその死を悼んでいる。

安史の乱勃発後の757年至徳2載)、当時、李白は廬山に隠棲していたが、玄宗の第16子の永王李璘の幕僚として招かれた。だが永王は異母兄の粛宗が玄宗に無断で皇帝に即位したのを認めず、粛宗の命令を無視して軍を動かしたことから反乱軍と見なされ、将軍の皇甫侁と高適の追討を受けて斬られた。李白も捕らえられ、潯陽(現在の江西省九江市)で数カ月獄に繋がれた。その後、崔渙・宋若思(宋之問の甥で、李白の旧友宋之悌の子)の助力により釈放され、宋若思の幕僚となるが、結局は粛宗の朝廷側から夜郎(現在の貴州省北部)への流罪とされた。配流の途上の759年乾元2年)、白帝城付近で罪を許され、もと来た道を帰還することになる。この時の詩が「早に白帝城を発す」である[5]。赦免後の李白は、長江下流域の宣州(現在の安徽省南部)を拠点に、再び各地を放浪し、762年宝応元年)の冬、宣州当塗県県令李陽冰の邸宅で62歳で病死した。有名な伝説では、船に乗っている時、酒に酔って水面に映る月を捉えようとして船から落ち、溺死したと言われる。

李白には上記の「捉月伝説」以外にも様々な伝説が伝わり、後世『三言』などの小説において、盛んに脚色された。

家族

李白の家族に関する記述は少ない。先述の通り、李白は許夫人との間に2人の子をもうけたが、夫人とは後に死別したとされる。その後、南陵の劉氏を娶ったが、これは後に離婚したと考えられている。さらに東魯の某氏を側室に迎え、その間に末子の李天然を儲けたと言う。また50歳を過ぎて、洛陽で中宗の宰相であった宗楚客の孫娘の宗氏を継室として娶ったという。

  • 許氏 - 高宗期の宰相の許圉師(許紹の末子)の孫娘。
  • 劉氏 - 南陵の名家の娘。
  • 某氏 - 姓は不詳、東魯の人。李天然の生母以外は不詳。
  • 宗氏 - 中宗期の宰相で詩人の宗楚客(? - 710年、字は叔敖)の孫娘。

子女

  • 李伯禽(? - 792年?) - 幼名は明月奴。生母は許氏。父の後を継ぐ。
  • 李天然 - 幼名は頗黎。生母不詳(東魯の某氏の娘)。
  • 李平陽 - 生母は許氏、伯禽の同母姉。嫁ぎ先で間もなく早世。

詩の特徴

李白の詩は、六朝以来の中国詩歌の世界を集大成したものとされる。「蜀道難」「将進酒」「廬山の瀑布を望む」「横江詞」などに見るダイナミックでスケールの大きい豪放さ、「玉階怨」「静夜思」の清澄で繊細な世界、「山中にて俗人に答ふ」「月下独酌」「山中にて幽人と対酌す」などに見える飄逸で超俗的な雰囲気など、詩の内容は多彩で変化に富んでいるが、総じて変幻自在で鮮烈な印象をもたらす点が特徴的である。得意とする詩型は、絶句雑言古詩であり、とりわけ七言絶句にすぐれる。

主な版本

唯一現存する李白の真筆(北京故宮博物院所蔵)
  • 宋蜀本『李太白文集』 - 30巻。北宋期の刊本を南宋初期に覆刻したもので、現存する最古の版本。静嘉堂文庫蔵。清の繆曰芑が校正重刊したものがあり、これは「繆本」と呼ばれる。
  • 『景宋咸淳本李翰林集』 - 30巻。代に覆刻された南宋咸淳5年の刊本を、清の光緒34年に影印刊行したもの。上の「宋本」とは別系統のテキストで、分類・編次が異なる上、本文にも異同がある。
  • 『分類補注李太白詩』 - 25巻。別名『分類補注李太白集』。南宋の楊斉賢の集注本にの蕭士贇が補注を加えたもの。現存する最古の注釈書。詩が題材と表現の形式によりつぎの21類に分けられる。古風、楽府、歌吟、贈、寄、留別、送、酬答、遊宴、登覧、行役、懐古、閑適、懐思、感遇、写懐、詠物、題詠、雑詠、閨情、哀傷[6]
  • 『李太白文集輯註』 - 36巻。別名『李太白全集』。清の王琦による注釈書。上の『分類補注本』や明の胡震享の『李詩通』などの先行する注釈書・関連資料を集大成したもの。

主な作品

秋浦歌 其十五(秋浦の歌 其の十五)
原文 書き下し文 通釈
白髮三千丈  白髪 (はくはつ)三千丈 私の白髪は秋浦より望む揚子江のように三千丈もあろう
縁愁似箇長 愁に縁りて箇(かく)の似(ごと)く長し 憂愁の末にこんなにも長くなってしまった
不知明鏡裏 知らず 明鏡の裏  明るく澄んだ水鏡の中
何處得秋霜  何れの処にか秋霜を得たる これほどに真っ白な秋の霜、一体どこから降ってきたのだろうか

 

早發白帝城(早に白帝城を出発す)
原文 書き下し文 通釈
朝辭白帝彩雲間 朝に辞す白帝 彩雲の間 朝早くに美しい色の雲がたなびいている白帝城を出発し
千里江陵一日還 千里の江陵 一日にして還る 千里離れた江陵まで一日でかえれるのだ[7]
兩岸猿聲啼不住[8] 両岸の猿声 啼いてやまざるに 両岸の哀しい猿声が啼きやまないうちに
輕舟已過萬重山 軽舟已に過ぐ 万重の山 軽やかな小舟は幾万に重なる山々の間を一気に通過してしまった

 

静夜思
原文 書き下し文 通釈
牀前看月光[9] 牀前 月光を看る 寝台の前に射し込む月の光をみる
疑是地上霜  疑らくは是れ地上の霜かと これは、地上に降りた霜ではないかと疑うほどだ
擧頭望山月[9]  頭を挙げて 山月を望み 頭をあげて山に上る月を望み
低頭思故郷  頭を低れて 故郷を思ふ また頭を垂れては故郷に思いをはせる

李白に関係する言葉・ことわざなど

馬耳東風
王十二から来た手紙への返信

出典・脚注

  1. ^ 号の由来は、従来、李白の出身地である「青蓮郷」にちなむ。楊慎『丹鉛続録』:「李白生於彰明県之青蓮郷,其詩云『青蓮居士謫仙人』是也。」とされていたがこれは誤り。近年では仏教用語としての「青蓮」(水蓮の一種。仏典に頻出し、仏の目に喩えられる)にちなむものであることが論証されている。松浦友久「李白における蜀中生活―客寓意識の源泉として―」(『李白伝記論―客寓の詩想―』研文出版、1994年所収)
  2. ^ 「草堂集序」には「中葉罪に非ずして、條支に謫居す」、『新唐書』では「罪を以て西域に徙(うつ)る」とある。
  3. ^ 通説では729年の作だが異説あり。
  4. ^ 『旧唐書』などに見える「会稽で友人となった道士呉筠の推薦を受け、長安を訪れた」という記述は、近年の研究(郁賢皓『李白叢考』)で否定されている。
  5. ^ 石川忠久のように、725年の初めて蜀の地を離れた時の作とする説もある。
  6. ^ 中国詩人選集第7巻李白上. 岩波書店. (1957.11-1958.10). ISBN 4-00-100507-7. OCLC 959654725. https://www.worldcat.org/oclc/959654725 
  7. ^ 白帝城から長江下流の江陵湖北省荊州市荊州古城:江陵古城)まで直線距離で250kmある。罪を得て夜郎に流される李白が、赦免されて江陵に戻る事ができるようになった嬉しさがあらわれている。
  8. ^ 兩岸猿聲啼不盡(啼いて尽きざるに)との異同があるが、教科書などでは“啼不住”が一般的である。
  9. ^ a b 宋蜀本『李太白文集』(静嘉堂文庫蔵)や清の王琦『李太白文集輯註』などに従う。なお『唐詩三百首』など中国の通行本の多くは第1句を「明月光」、第3句を「望明月」に作るが、これは明清以降の改変である。ノート:李白参照。

参考資料

洋書

  • Arthur WALAY 『THE POETRY AND CAREER OF LIPO』Unwin Hyman. 1951
岩波新書(1973年、新装復刊1988年、2019年ほか)、岩波書店〈評伝選〉、1994年

中国書

  • 王琦注『李太白全集』(全3冊、中華書局〈中国古典文学基本叢書〉、1977年)
  • 瞿蛻園・朱金城校注『李白集校注』(全4冊、上海古籍出版社、1980年)
  • 安旗主編『李白全集編年注釈』(全3冊、巴蜀書社、1990年)
  • 詹鍈主編『李白全集編年匯釈集評』(全8冊、百花文芸出版社、1996年)
  • 郁賢皓注訳『新訳 李白詩全集』(全3冊、三民書局〈古籍今注新訳叢書〉、2011年)
  • 郁賢皓校注『李太白全集校注』(全8冊、鳳凰出版社、2015年)
  • 郁賢皓主編『李白大辞典』(広西教育出版社、1995年)

和書

以下は評伝

関連項目