李陽冰

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李 陽冰(り ようひょう、生没年不詳、生年には開元年間(713-741年)説もある)は、中国代中期の書家は少温。

それまで忘れられていた篆書を用いた碑や刻石をものして一世を風靡し、篆書を書道の一書体として復活させた功績を持つ。

経歴[編集]

趙郡(現在の河北省)の出身という以外には詳しい経歴は不詳である。『新唐書』宰相世系表によると、「将作少監」の官にあったことが記されるほか、759年乾元2年)から762年宝応元年)、宣州当塗(現安徽省宣城市)の県令であった間、晩年の李白を庇護したことで知られ、『新唐書』李白伝にもその名が見える。李白の死に臨んで、彼から大量の詩稿を託され、詩集『草堂集』として編纂し、自ら序文を手がけている。

書歴[編集]

篆書との出会い[編集]

北宋代に朱長文によって書かれた書論書『続書断』によれば、李陽冰が篆書を学んだのは、始皇帝が権力誇示のために立てた「始皇七刻石」の一つ「嶧山刻石」(えきさんこくせき)からと言われている。そこから孔子の「呉季札墓誌」で筆法を磨いたという。また唐代初期に刻されたという「碧落碑」と呼ばれる小篆の碑を愛好して何日も何度も碑に見入り、とうとう碑のそばに泊まり込んでまで書法を学んだという話もある。

いずれも伝説の域を出ないが、かなり早い時期から篆書に傾倒し、その書法を徹底的に学んだのは確かであろう。

改革としての篆書復興[編集]

中唐の書道界は、「書聖」として神聖視されていた王羲之およびその息子の王献之、いわゆる「二王」の書風を守ろうとする保守派と、それを打ち破ろうとする張旭などの改革派とが対立していた。特に改革派では韓愈六朝時代以来の四六駢儷文を否定して古文復興運動を行い、二王の書を「俗書」と痛罵したのが代表的である。

これを受けて顔真卿が「顔法」と呼ばれる独自の書法を確立したのに対し、李陽冰は二王以前、すなわち篆書隷書の世界に戻る復古主義的な方向に向かい、代以来印と碑の額などに使われる以外はほとんど絶えていた篆書による書や石刻を復活させた。それも印章用や装飾用にアレンジされた書体ではなく、篆書の古碑や後漢代に編纂された篆書中心の字書『説文解字』を参照に、秦代に制定された本来の姿を踏まえた書法で書いたのである。

これにより李陽冰は篆書による書作をリードする存在となり、秦代の李斯と並ぶ篆書の名家とされて「二李」との称号を奉られたばかりでなく、三皇五帝時代の蒼頡とまで並べて絶讃され「篆虎」と呼ばれることになった。

李陽冰は、顔真卿と極めて昵懇の仲であった。顔の書いた碑には多く彼が篆額を書いており、顔の代表作である「顔氏家廟碑」の篆額も彼の手になるものである。また2人がそろって張旭の弟子であったという伝説があることからも、その親交ぶりがうかがえる。

後世への影響[編集]

李陽冰による篆書の復活は、それまで篆書に対し「印章用や装飾用の書体」程度の認識しか持っていなかった書道界に大きな影響を与え、書道に「篆書による書作」という分野が生まれることになった。

また分野の生みの親であるだけでなく、代に考証学の一部として行われた漢字研究と、それに伴い篆書による書作が広く行われるようになった際、その先駆けとなった鄧石如に多大なる影響を与えている。その後から篆書に興味を引かれて多くの書家が誕生したことを考えると、その存在は極めて大きいといえる。

作品[編集]

李陽冰は多字数の碑の他、少字数の篆額・銘文も多数ものしたが、その中には失われて伝わらないものも多い。

現在伝わるものとして代表的なものは、多字数のものとしては大暦2年(767年)に刻まれた墓碑「李氏三墳記」、少字数のものとしては大暦7年(772年)に現在の福建省省都・福州郊外の磨崖に刻まれた「般若台題記」がある。「般若台題記」は24字の少字数のものであるが、当時「四絶」と賞賛された彼の4つの代表作の中で真蹟として唯一残るものである。またまとまった作品ではないが、江蘇省・恵山の慧山寺にある「聴松」の石刻も彼の作品といわれている。いずれにせよこれらの作品群は、代の篆書による書道の実態を示すものとして貴重なものといえよう。

このほか後漢許慎による小篆を中心とした字書『説文解字』の校訂も行ったとされるが、散佚して現存しない。

参考資料[編集]

  • 尾上八郎・神田喜一郎・田中親美監修『書道全集』第10巻(平凡社刊)
  • 藤原楚水著『図解書道史』第3巻(省心書房刊)
  • 二玄社編集部編『唐 李陽冰 三墳記』(『書跡名品叢刊』第136巻、二玄社刊)