高適

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
高適
各種表記
繁体字 高適
簡体字 高适
拼音 Gāo Shì
注音符号 ㄍㄠ ㄕˋ
広東語発音: Gou1 Sik1
テンプレートを表示

高 適(こう せき、生年不詳 ‐ 永泰元年1月23日765年2月17日))は、中国代の詩人。達夫[1]は忠。

略歴[編集]

滄州渤海(現河北省)の出身[2]李白と親交があり磊落な性質で家業を怠り、落ちぶれて梁・宋(現河南省)で食客となっていたが、発憤して玄宗の時に有道科に挙げられ、封丘尉の役職を授けられた。その後官職を捨てて河右に遊歴し、河西節度使哥舒翰に見いだされて幕僚となった。また侍御史となり、蜀に乱を避けた玄宗に随行した。粛宗の命で、江西采訪使・皇甫侁とともに皇弟である永王李璘の軍を討伐平定した。後に蜀が乱れるに及び蜀州・彭州の刺史となり、西川節度使となった。長安に帰って刑部侍郎・散騎常侍となり、代宗の代に渤海侯に封ぜられ、その地で没した。

[編集]

50歳で初めて詩に志し、たちまち大詩人の名声を得て、1篇を吟ずるごとに好事家の伝えるところとなった。吐蕃との戦いに従事したので辺塞詩も多い。詩風は「高古豪壮」とされる。李林甫に忌まれて蜀に左遷されて汴州を通ったときに李白杜甫と会い、悲歌慷慨したことがある。しかし、その李林甫に捧げた詩も残されており、「好んで天下の治乱を談ずれども、事において切ならず」と評された。『高常侍集』8巻がある。

邯鄲少年行
原文 書き下し文
邯鄲城南遊俠子  邯鄲城南 遊侠の子
自矜生長邯鄲裏  自ら矜る 邯鄲の裏に生長するを
千場縱博家仍富  千場 博を縦にして家仍ほ富み
幾度報讐身不死  幾度か讐に報ひて 身死せず
宅中歌笑日紛紛  宅中の歌笑 日に紛紛
門外車馬常如雲  門外の車馬 常に雲の如し
未知肝膽向誰是 未だ知らず 肝胆 誰に向かって是なるかを
令人却憶平原君 人をして却って 平原君を憶はしむ
君不見今人交態薄  君見ずや 今人 交態薄く
黄金用盡還疎索  黄金用い尽くさば 還た疎索たるを
以茲感嘆辞舊遊  茲を以て感嘆して 旧遊を辞し
更於時事無所求  更に時事に於て 求むる所無し
且與少年飲美酒  且らく少年と美酒を飲み
往來射猟西山頭  往来射猟せん 西山の頭(ほとり)

 

脚注[編集]

  1. ^ 『郡齋読書志』や『唐才子伝』に仲武とあるのは、別人高仲武の名と混同した誤り
  2. ^ 『新唐書』巻143による。

関連項目[編集]