徳川忠長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Dirty mac (会話 | 投稿記録) による 2021年1月24日 (日) 03:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎改易の理由)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

 
徳川忠長
徳川忠長像(大信寺蔵)
時代 江戸時代前期
生誕 慶長11年(1606年
死没 寛永10年12月6日1634年1月5日
改名 国千代(幼名、国松・門松丸・北丸殿)→忠長
別名 駿河大納言
戒名 峰巌院殿前亜相清徹暁雲大居士
墓所 群馬県高崎市通町の大信寺
官位 従四位下参議左近衛権中将
従三位権中納言従二位権大納言
幕府 江戸幕府
甲斐甲府藩主 → 駿河駿府藩
氏族 駿河徳川家
父母 父:徳川秀忠、母:浅井長政の三女)
兄弟 千姫珠姫勝姫長丸初姫家光
忠長和子
異父姉:豊臣完子、異母弟:保科正之
正室:昌子織田信良の娘)
テンプレートを表示

徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代前期の大名。極位極官が従二位大納言で、領地が主に駿河国だったことから、通称駿河大納言(するがだいなごん)。徳川家康の孫にあたる。

生涯

幼少期

慶長11年(1606年)、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の三男として江戸城西の丸にて生まれる。幼名は国千代(国松)。誕生日は5月7日説(『徳川幕府家譜』)、6月1日説(『慶長見聞録案紙』)、12月3日説(『幕府祚胤伝』)など諸説がある。5月7日は異母弟保科正之の、12月3日は異母兄長丸の誕生日が誤伝したと考えられ、また曲直瀬玄朔の『医学天正記』には6月1日生まれの「大樹若君様」(将軍の若君)への診療記録があることから6月1日説が有力と考えられており、『大日本史料』では諸説を紹介しつつ6月1日生まれとして章立てしている[1]。乳母として朝倉局土井利勝妹、朝倉宣正妻)が附けられたという。

父の秀忠や母の江は、病弱で吃音があった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗・才気煥発な国千代(国松)を寵愛していたといい、大伯父である織田信長に容姿が似ていたのも理由の一つとされている。それらに起因する竹千代擁立派と国千代擁立派による次期将軍の座を巡る争いがあったが、この争いはのち、春日局による家康への直訴により、竹千代の後継指名で決着したという。

徳川秀忠より松平姓(庶子扱される)を与えられ、松平を称す。徳川姓が許されていた叔父の徳川義直徳川頼宣には宗家に後継が絶えた際には将軍職を継承することが定められていたが、この時点の忠長にはまだそれがなかった。

元和2年あるいは4年(1616年/1618年)の9月に甲府23万8000石を拝領し、甲府藩主となる(『甲斐国志』)。のち信濃小諸藩も併合されて領地に加えられた。藩主就任に際し、朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次ら附家老を中心とした家臣団が編成され(『武徳編年集成』)、のちに武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らがこれに加えられた。元服前かつ幼少の国千代が実際に入府することはなく、藩の運営はこれら家臣団や代官衆により行われた。

しかし元和4年(1618年)10月9日、国千代は父を喜ばせるべく、自らが撃ち取った鴨で作られた汁物を父・秀忠の膳に供して最初は喜ばせたものの、その鴨は兄の竹千代が居住する西之御丸の堀で撃ち取ったものだということを知らされると、「江戸城は父・家康が修築され、後には竹千代に渡さなければならない所である。国千代の身で兄である竹千代の住んでいる西の丸に鉄砲を撃ち込む事は、天道に背き、父・家康への配慮も無いことで、たとえ悪意無くとも将軍となる竹千代への反逆に等しい」と、逆に秀忠の怒りを買ってしまう。秀忠は箸を投げ捨ててその場を退出するほどだった(新井白石藩翰譜』)。

元服後

元和6年(1620年)9月に元服し、金地院崇伝の選定により忠長とする。元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し権中納言に任官。同年11月7日に織田信良の娘・昌子と婚姻。

寛永元年(1624年)7月には駿河国遠江国の一部(掛川藩領)を加増され、駿遠甲の計55万石を知行し[注釈 1]、この頃より隣国の諸大名等からは「駿河大納言」という名称で呼ばれる様になる。しかし、忠長は自分が将軍の実弟である事を理由に満足せず、大御所である父・秀忠に「100万石を賜るか、自分を大坂城の城主にして欲しい」という嘆願書を送るも、呆れた彼から要求を無視され、この頃より忠長は父に愛想を尽かされ始める。また、忠長の要求を知った家光からも、かつて祖父・家康が敵対した豊臣家が所有し、大坂の陣で落城させた大坂城を欲しようとしている彼に、謀反の意思があるのではないかと疑われる様になり、幕臣達も諸大名に持て囃される忠長の姿を「まるで将軍が二人いるようだ」と評し、神経を尖らせていく。

寛永3年(1626年)に権大納言となり、後水尾天皇二条城行幸の上洛にも随行する。これと前後して忠長は弟で後の会津松平家開祖となる保科正之に葵紋の入った家康の遺品を与えたり、正之に松平への復姓を薦めたりしたと『会津松平家譜』には記されている。しかし、最大の庇護者と言える存在であった母・江が死去したのを機に、忠長は深酒に耽るなどの問題行動が目立ち始め、彼自身も気付かぬ内に家光との確執を深めていくことになる。

寛永3年(1626年)7月、家光の上洛が決まった際に、大井川に船橋を掛けるが、幕府の防衛線において重要拠点の場所である大井川に無許可で施工したことが問題視され、逆に家光の不興を買ってしまうこととなる。さらに駿府では武家屋敷造成の為に寺社を郊外に移そうとして反対され、家光との関係にさらに大きな摩擦を生じた。

寛永7年(1630年)11月、浅間神社付近にある賎機山で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近で行なった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ殺す事自体が禁止されており、更にこの浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した、徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そのような場所で猿狩りを行うのは将軍家の血を引く者といえど許されない事であったが、止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と、田畑を荒らす猿を駆除するという理由で反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は1240匹もの猿を殺したとされている。更にその帰途の際に乗っていた駕籠の担ぎ手の尻を脇差で刺し、驚いて逃げ出したところを殺害する乱行に及び、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。

寛永8年(1631年)12月、小姓の小浜七之助と共に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長は寺で休息していたが、火を焚くよう命じられていた彼が、薪が雪で濡れていて火が付けられなかった事に癇癪を起こし、手打ちにしてしまう。事態を知って悲憤に駆られた七之助の父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまうこととなり、これを理由として甲府への蟄居を命じられる。その際に秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、許されなかった。

寛永9年(1632年)の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたがこれも許されなかった。一説では忠長秀忠本人からも面会を拒絶されたとしている。

改易とその後

秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、加藤忠広改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に安藤重長に預けられる形で上野国高崎逼塞の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。

寛永10年12月6日(1634年1月5日)、幕命により高崎の大信寺において切腹した[2]享年28。墓は43回忌にあたる延宝3年(1675年)になって大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、切腹に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。

家族関係

正室は織田信良の娘・昌子が定説となっているが、高崎市極楽寺には忠長の墓碑と共に「承應三年正月廿一日 二世神女淸月彌勒院內儀松譽春貞大姉 德川忠長正室 俗名 吉井庚子 五十五才」と記された墓碑がある。供養塔が鎌倉市の薬王寺、京都市左京区金戒光明寺にある。

側室は、大信寺の過去帳に忠長側妾で院殿がついている人が3人ほどいることから、その存在が推測されるが、詳細は不明[3]

子には松平長七郎(長頼)がいると伝えられているが、これは従兄弟松平忠直が配流先でもうけた永見長頼のことではないかと考えられ、実子の存在は史料の上では確認されていない。

改易の理由

改易の理由として、加藤忠広の改易に関与した(『藩翰譜』)、大坂城と畿内55万石の所領を求めた(『寛永小説』)等の説が江戸中期からあり、『徳川実紀』に載る家光との後継者争いの逸話と併せて、家光による計画的な排除とする説がある。

しかし、当時の細川忠利や島津家江戸家老の伝聞や観察によれば、改易は彼個人の乱行が原因とされる。上述の猿狩りなどの他に、寛永8年(1631年)2月2日、酒に酔った忠長は、家臣の小浜光隆の子や御伽の坊主を殺害、その上翌日に殺害した者を呼び出す行動に出たとしている。その後も傅役の内藤政吉を甲冑姿で追い回す、殺害した禿を唐犬に食わせる、腰元に酒を飲ませて責め殺すなどといった狼藉に及んだとされる。3月末には、忠長の乱行を恐れた側近は彼に近づかなくなり、幼い2人の子供が仕えるのみとなった。忠利は忠長のこれらの行為は酒乱ではなく発狂によるものとしている。

忠長の一連の行動を知った秀忠は即座に彼を勘当、処分を家光に一任している。家光は酒井忠世・土井利勝等を再三遣わし、2人しかいない兄弟と更生を促して忠長もこれに同意し、4月後半には一時平静を取り戻した。しかし結局は回復せず、前述のように5月18日に甲府蟄居が命じられた。しかし家光はなおも蟄居の状態で駿府への帰還を認めており、忠長も上記のように誓詞を提出したが行状は悪化し、ついに寛永9年10月20日に改易と高崎への逼塞が決定した[4]

年譜

鎌倉・薬王寺にある徳川忠長供養塔

※日付=旧暦

  • 慶長11年:生誕
  • 元和4年(1618年)- 1月11日 甲斐国甲府藩20万石藩主
  • 元和6年(1620年)- 8月22日 従四位下参議左近衛中将
  • 元和9年(1623年)- 7月27日 従三位中納言
  • 寛永元年(1624年)- 駿河・遠江・甲斐3国で知行55万石
  • 寛永3年(1626年)- 8月19日 従二位権大納言
  • 寛永8年(1631年)- 5月 甲府へ蟄居仰付
  • 寛永9年(1632年)- 10月20日 改易
  • 寛永10年(1633年)- 12月6日 幕命により配流地の上野国高崎で自害、享年28

主な家臣

演じた人物

映画

テレビ作品

脚注

注釈

  1. ^ この際に小諸藩領は領地から外されている。

出典

  1. ^ 福田千鶴『江の生涯』〈中公新書〉2010年、174-176頁。 
  2. ^ 塩川 2007, p. 120.
  3. ^ 郷土雑誌『上州路』1989年9月号
  4. ^ 『静岡県史 通史編3 近世一』

参考文献

  • 平山優「江戸幕府確立期の甲斐とその支配」『山梨県史 通史編3 近世1』山梨日日新聞社、2006年。 
  • 飯沼関弥『会津松平家譜』1938年。 
  • 塩川友衛『小諸藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2007年。 

関連項目

  • 徳川御三家
  • 島津忠恒(島津家久) - 慶長末年頃、まだ実子がいなかったときに忠長を養子にしようと画策した。