三康図書館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Ihimutefu (会話 | 投稿記録) による 2020年11月27日 (金) 11:34個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎外部リンク: 修正。)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

三康図書館
SANKO Research Institute
三康図書館が入っている明照会館
施設情報
正式名称 公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館
前身 財団法人大橋図書館
専門分野 総合、宗教・仏教
事業主体 公益財団法人三康文化研究所
開館 1966年(昭和41年)10月12日
所在地 105-0011
東京都港区芝公園4-7-4 明照会館1F
位置 北緯35度39分25.16秒 東経139度44分47.91秒 / 北緯35.6569889度 東経139.7466417度 / 35.6569889; 139.7466417座標: 北緯35度39分25.16秒 東経139度44分47.91秒 / 北緯35.6569889度 東経139.7466417度 / 35.6569889; 139.7466417
ISIL JP-1001291
統計情報
蔵書数 258,971冊(2017年度[1]時点)
来館者数 586人(2017年度[1]
公式サイト http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp
備考 閉架式、閲覧有料、館外貸出不可
地図
地図
プロジェクト:GLAM - プロジェクト:図書館
テンプレートを表示

公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館(さんこうぶんかけんきゅうじょふぞくさんこうとしょかん)は、東京都港区芝公園にある私立図書館である。

本項では、前身にあたる財団法人大橋図書館(おおはしとしょかん、1902年 - 1953年)についても解説する。

概要

1964年(昭和39年)に増上寺西武鉄道が共同で設立した、インド学仏教学に関する研究調査を行う公益財団法人三康文化研究所(さんこうぶんかけんきゅうじょ)の附属図書館であり、宗教・仏教関係書の専門図書館としての性格を持つ。その一方、1953年(昭和28年)に閉館した大橋図書館の旧蔵書18万冊余を受け継いで設立されたという経緯から、総合図書館としての性格も合わせ持っている。

大橋図書館は、博文館創立者の大橋佐平新太郎父子が1902年(明治35年)に設立した私立の公共図書館であり、その旧蔵書には、江戸時代の版本・写本[注釈 1]や、近代の児童書、学習参考書、博文館の発行雑誌など、多数の稀覯本が含まれている。また、戦時中の言論出版統制の中で閲覧禁止処分を受けた「憲秩紊本」1,189冊も含まれている[4][5]国際子ども図書館児童書総合目録の参加館の一つである[6]

名称

「三康」について、増上寺法主で三康文化研究所初代所長をつとめた椎尾弁匡は、「中国では儒道仏三教といい、日本では神儒仏といい、また三国仏教というところから、三康の名を定め」た、と説明している[7][8]。他に、増上寺の山号「三縁山」の「三」と、増上寺が徳川将軍家菩提寺であったことから、徳川家康の「康」をとってつけられたものとする説[9][5]、徳川家康ではなく堤康次郎(西武鉄道会長)の「康」だとする説もある[10]

利用案内

立地
増上寺の裏側、東京タワーの向かい側に位置する。
サービス
利用資格は16歳以上。入館料は1回100円(割安となる回数券もある)。一部の参考図書を除き閉架式。館外貸出不可。電子複写、写真撮影可。
開館時間
9時30分 - 17時(入館、閲覧請求、コピー受付は16時30分まで)
休館日

年に1回程度、ロビーにおいて館蔵書を利用した「ミニ展示」、蔵書紹介を行っている[11]

蔵書のインターネット検索は可能だが、2016年末の時点では、検索できる資料は全体の約29%に過ぎないため、カード目録・冊子目録を併用する必要がある[12]

コレクション

旧大橋図書館蔵書18万冊自体が一大コレクションを構成している。戦前の児童書・絵本・雑誌を多数所蔵しているほか、大衆文芸書などの「読み捨て」扱いされた本や、パンフレット類なども廃棄せずに所蔵しているのが特徴[4]

旧大橋図書館蔵書内の特殊コレクションとして、以下のものがある[13]

水哉文庫
元大橋図書館長坪谷善四郎(号は水哉)の旧蔵書。137冊。
水蔭作品手沢本集書
江見水蔭の著作および関連書。239冊。
杉村兄弟文庫
杉村楚人冠の早逝した3人の子が収集した詩歌・翻訳文学など。和書255冊、洋書11冊。
杉村随筆文庫
杉村楚人冠旧蔵の隨筆書。208冊。

旧大橋図書館蔵書以外のコレクションとしては、以下のものがある。

内田文庫
元三康文化研究所幹事で元裁判官の内田護文旧蔵の法律書[13]。3,970冊[12]
椎尾文庫
増上寺法主で三康文化研究所初代所長をつとめた椎尾弁匡旧蔵の仏教書[14]。9,537冊[12]
増谷文庫
宗教学者増谷文雄旧蔵の宗教・仏教書[15]。2,210冊[12]
湯山文庫
13,780冊、雑誌356タイトル[16]
竹田宮家文庫
竹田宮家旧蔵書。歴史・地誌・軍事関係書を多く含む[15]。8,416冊[12]

歴史

大橋図書館

大橋図書館
九段下時代の大橋図書館
施設情報
正式名称 財団法人大橋図書館
専門分野 総合
事業主体 財団法人大橋図書館
開館 1902年(明治35年)6月15日
閉館 1953年(昭和28年)2月19日
所在地 東京市麹町区上六番町44番地(1902年 - 1923年)
東京市麹町区九段1丁目3番地(1926年 - 1949年)
東京都新宿区若宮町38番地(1950年 - 1953年)
統計・組織情報
蔵書数 183,993冊(1942年時点)
貸出数 538,630冊(1942年)
来館者数 317,873人(1942年)
年運営費 79,903円(1942年)
館長 石黒忠悳(1902年 - 1917年)
坪谷善四郎(1917年 - 1944年)
吉谷専吉(1944年 - 1945年)
小谷誠一(1948年 - 1949年)
公式サイト http://sanko-bunka-kenkyujo.or.jp
備考 蔵書数等については、来館者数がピークとなった1942年の数字を示した[17]
地図
地図
プロジェクト:GLAM - プロジェクト:図書館
テンプレートを表示
全ての座標を示した地図 - OSM
全座標を出力 - KML

本館の前身となった大橋図書館は、1902年(明治35年)に、当時日本有数の出版社であった博文館の創設15周年記念事業として、博文館の創立者である大橋佐平新太郎父子が設立した私立公共図書館である。「大橋」は創立者の姓に由来する。

目黒区立大橋図書館(1970年開館)とは無関係である。

麹町時代(1902-1923)

1887年(明治20年)に博文館を創設した大橋佐平は、1893年(明治26年)に欧米を視察した際、文化施設としての図書館の重要さを認識し、石黒忠悳上田万年田中稲城らの協賛を受けて図書館の設立を計画した。大橋は博文館創設15周年を迎える1902年に計画を公表する予定だったが、胃癌を発病したため、1901年(明治34年)2月、「図書館設立の趣旨」を発表し、文部省に寄付金12万5000円をもって図書館設立のための財団法人設立を出願した。なお、この「趣旨」は、当時博文館社員だった高山樗牛が起草したものとされる。しかし、大橋佐平は計画公表から間もない1901年11月に死去し、事業は佐平の子で、2代目社長となった大橋新太郎に受け継がれる[18]。なお、大橋佐平は死去1月前に定めた家憲「大橋共全会規約」によって、財団法人大橋図書館については「大橋家ノ子孫ハ該財団法人ノ協議員ト共ニ永遠ニ其大成ヲ期スベシ」としていた[19]

図書館は麹町区上六番町44番地(現在の千代田区三番町北緯35度41分28.4秒 東経139度44分29.5秒)の大橋家私邸(旧川上操六邸、現在の東京家政学院大学千代田三番町キャンパス附近)内に設立された[注釈 2]。開館時の建物(1902年6月7日竣工)は、建坪約112坪(延べ建坪267坪)、本館は木造2階建で、2階に普通閲覧室(168席)、1階に新聞雑誌閲覧室(100席)が置かれていた[21]。2階には女性専用の婦人室も設けられていた[22]。また、書庫は煉瓦造3階建で、15万冊が収容可能とされていた[21]

1902年5月25日、大橋佐太郎は財団法人大橋図書館の設立を出願し、6月11日に許可された。大橋図書館は博文館創設15周年となる6月15日に開館式を開き、20日より一般公開を開始した。初代館長には石黒忠悳、主事には伊東平蔵がそれぞれ就任した[23]

設立当初の役員は以下の通りである[24]

東京における公共図書館としては、帝国図書館1872年開館、国立国会図書館の前身)、帝国教育会図書館(1887年開館、千代田区立千代田図書館の前身)についで古い[25]。なお、日本初の私立図書館とされることがあるが、誤りである[注釈 4]

目録にはデューイ十進分類法が採用された[26]

開館時の規則では、利用資格は満12歳以上、有料制で図書は1回金3銭、雑誌は1回1銭5厘(ただし、開館当初はさしあたり図書2銭・雑誌1銭に割引[27])、閉架式で資料の館外持出は禁止されていた。休館日は年末年始、各月末の館内整理日、紀元節(2月11日)、図書館設立記念日(6月15日)、曝書期(8-9月中のおよそ10日間)、天長節(11月3日)と定められており、それ以外は祝祭日も開館となっていた。開館時間は季節によって異なり、たとえば1月は9時 - 16時、7月は7時30分 - 17時となっていた[28]1903年(明治36年)8月1日より、夏季において雜誌閲覧室に限り21時までの夜間開館を実施[29]。閲覧者は初年度は一日平均198.1人であったが、1911年度(明治44年度)には286.8人に増加した[30]

1903年度から奨学閲覧券発行を開始し、成績優秀な児童に対する無料閲覧制度を開始した。1911年1月からは館外貸出も始めている[31]

1903年8月、日本文庫協会(日本図書館協会の前身)が大橋図書館において第1回図書館事項講習会を開催した。これが近代日本における図書館学教育の始まりとされている[32]

1907年(明治40年)9月、伊東平蔵主事が新設される東京市立日比谷図書館(翌1908年開館、千代田区立日比谷図書文化館の前身)の主事に転出したため、博文館編輯局長で理事兼協議員の坪谷善四郎が第2代主事に就任した。だが、坪谷は博文館の職務で多忙だったため、司書兼書記の横田茂次郎が実務に当たっている[33]。なお日比谷図書館は、東京市会議員でもあった坪谷の建議によって設立されたもので、大橋図書館から様々な形で影響を受けている[34][35]

1917年大正6年)9月6日、石黒が館長を辞任、坪谷善四郎が第2代館長に昇任した[36]1922年(大正11年)7月1日、鳥井熊一郎が主事に就任[37]

九段下時代(1926-1949)

開館当初2万5000冊余りだった蔵書は、その後順調に増加し、1923年(大正12年)8月末までに8万8304冊(他に未製本の雑誌約1万部)に達していた[38]。ところが、同年9月の関東大震災によって館舎が全焼し、蔵書のほとんど全てが失われてしまう。このとき、博文館が創業以来発行してきた図書・雑誌をはじめ、『帝国文庫』所収の黄表紙などの原本、尾崎紅葉大橋乙羽・寺田勇吉の旧蔵書、黒井悌次郎からの寄贈書などが失われている[39]。これによって図書館は存亡の危機に立たされたが、大橋新太郎の強い決意によって再建が決定された[40]

これより先、上六番町の館舎が手狭になっていたため、1922年(大正11年)11月、移転地として麹町区飯田町1丁目6番地(1933年の町名改正で九段1丁目3番地、現在の千代田区九段南九段会館の向かい、現在の九段ビル附近。北緯35度41分40.6秒 東経139度45分7.9秒)を決定、1923年7月までに土地の買収と立ち退き交渉を完了していた[41]。この九段下の地に、1925年(大正14年)から1926年(大正15年)にかけて新館が建設された。清水組の施工で、本館(建坪574.4坪)は地上3階・地下1階、書庫(建坪247.5坪)は地上5階・地下1階で、20万冊が収容可能とされていた[42]。1926年6月15日、創立25周年記念日に復興建築落成披露会を開催、6月20日より、再収集した約4万冊の蔵書をもって一般閲覧を再開した[43]

1927年(昭和2年)11月23日、鳥井主事が死去。1928年(昭和3年)1月、日比谷図書館長今沢慈海の斡旋で、竹内善作が主事に就任[44]。竹内は1929年(昭和4年)より、デューイ十進分類法に代って独自の分類法を採用している[45]

1930年(昭和5年)11月、児童室を復旧し、学齢前からの児童入館を認める[45]

1939年(昭和14年)、新書庫(地上4階・地下1階)を増築し、約25万冊が収納可能となった[46]

利用者数は1942年度(昭和17年)がピークで、年間317,873人(1日平均954.6人)、利用冊数538,630冊(1日平均1,617.5冊、1人あたり1.7冊)に達している。蔵書数は1944年度(昭和19年)に19万122冊に達した[17]。利用者数が多かったのは、暖房などの設備が良かったためだという[47]

1944年5月5日、大橋新太郎が死去、財産は長男で博文館社長の大橋進一が相続した。ついで7月6日に坪谷館長が辞任、8月23日に竹内主事が退職[48]吉谷専吉が第3代館長に就任するが、終戦直後の1945年(昭和20年)9月13日に死去した[49]。その後、主事の小谷誠一1948年(昭和23年)11月13日に図書館長に就任しているが、翌1949年(昭和24年)11月20日に辞任している[50]

太平洋戦争での直接被害は受けていないが、職員不足などのため夜間開館の停止や臨時休館の増加などの影響を受けている[51]。戦時中、私立図書館では閲覧禁止図書(憲秩紊本)は没収されることになっていたが、竹内主事はカードを抜き、本を隠して没収を免れようとしたという[52]。それでも竹内主事退職後の1944年9月4日に「不良書」329冊を没収されるなどしている[53]。なお、戦後もGHQによって、中国・満洲・朝鮮・沖縄の地図が没収されることになり、1946年(昭和21年)3月に『満洲国地名大辞典』など29点と参謀本部地図746枚を没収されるなどしている[54][55]

新宿若宮町時代(1950-1953)

戦後、博文館の解体によって、大橋図書館は存亡の危機を迎えることになる。1947年(昭和22年)1月4日、博文館が公職追放令該当団体に認定された[56]。10月には博文館が廃業届を出し[57]、11月22日には大橋進一が公職追放の対象者となった[58]。また、戦後のインフレによって財団の基金が実質的に消失してしまったことも、経営危機を招いた原因として指摘されている[59]

その後、図書館の規模を縮小させ、館舎の賃貸収入によって経営を図る方針となり、1948年(昭和23年)8月15日から芸術・文芸・歴史に集中した専門図書館となった[60]。ところが1949年(昭和24年)9月、館舎が日本銀行に売却されることが決まり、9月8日をもって休館した[61]。9月22日、日銀に館舎が引き渡される[60]。なお、この旧館舎は、その後日本不動産銀行1957年4月1日開業)に譲渡されている。

当初は大橋家倉庫のある三番町に移転する予定であったが、11月10日、大橋進一の意向で、新宿区若宮町38番地(北緯35度41分55.7秒 東経139度44分17.7秒)にあった大橋進一の私邸への移転が決まる。1950年(昭和25年)3月3日再開[62]。個人宅のため図書館としては使い勝手が悪く、地下書庫は湿気も多く、良い環境ではなかったという[63]。またこの際、雑誌類5447冊が処分されている[64]

ところが、1950年12月15日付『読売新聞』が、大橋進一による財団法人大橋図書館の財産横領疑惑と、東京都教育庁が図書館に自発解散勧告を突きつけたことを大きく報じ、図書館の経営危機が表面化した。同記事によれば、8月に行われた都教育庁による財産検査で、旧館舎売却費5600万円のうち4200万円が使途不明となっているなどの杜撰な経営実態が明らかとなり、さらにその後、問題の5600万円を大橋進一が財団に無断で持ち出していたことが発覚した。事態を重く見た都教育庁は、大橋家が図書館の運営能力を失っていると判断し、蔵書の散逸を防ぐため、12月11日に自発的解散を勧告した。その後、蔵書の引き取り手として毎日新聞社日本大学、日比谷図書館などの名前が挙がるが、いずれも立ち消えとなっている[65]

この間も閲覧は続けられており、1951年(昭和26年)4月20日には、図書館法による公立図書館の無料化に合わせて閲覧料を無料化している[66]

1952年(昭和27年)11月、西武鉄道の堤康次郎が買収を打診[66]1953年(昭和28年)1月、大橋図書館存続のため加納久朗を委員長とする「大橋図書館振興委員会」(藤山愛一郎一万田尚登天野貞祐安井誠一郎らが参加)が設立される[67]。1953年2月17日、図書館の経営権が西武鉄道に譲渡され、この日が最後の開館日となった。2月19日閉館[66][68]。当初は身売りと移転にともなう一時的な閉館とされていた[67]が、結果的にはその後、再開まで13年半もかかることになる。

閉館のきっかけとなった、大橋進一による基金持ち出しについての詳細は明らかになっていない。経理上は、1962年度になって、前年度に根津育英会から寄付された4863万余円をもって相殺することで解決されている[69]

三康図書館

豊島園での再開計画

当初、西武鉄道では豊島園内の施設を改修して図書館に当てる計画で、1953年4月上旬には再開される見込みと報じられていた[67]。しかし、翌1954年(昭和29年)2月の時点でも、堤康次郎の衆議院議長就任(1953年5月)や西武百貨店の拡張事業などのために資金繰りがうまくゆかず、再開できないと報じられている[70]。1954年4月13日、財団事務所を豊島園内に移転[68]

芝公園地紛争と三康文化研究所の設立

三康文化研究所設立のきっかけとなったのは、芝公園の土地をめぐる西武鉄道と増上寺の紛争である。

芝公園地一帯は江戸時代には増上寺の寺領であったが、明治4年1月5日(1871年2月23日)の社寺領上知令[注釈 5]により国有地となり、そのうち徳川家墓地所27,080坪(約89,500平方メートル)のみが、明治4年9月の東京府告示によって徳川家に払い下げられていた。1948年(昭和23年)、増上寺は境内地を国から無償で譲与される。一方、西武鉄道は1950年(昭和25年)から数回に分けて、徳川宗家当主徳川家正から、徳川家の土地をホテル建設用地として買収した。ところがこの際、西武鉄道側が、徳川家所有地27,080坪のうち23,349坪(約77,200平方メートル)を買い取ったと主張したのに対し、関東財務局と増上寺は、徳川家所有地の実面積は20,233坪(約66,900平方メートル)だと主張した。すなわち6,847坪[注釈 6](約22,600平方メートル)分の食い違いが生じたのである。この原因は、関東財務局による国有財産の管理が杜撰で、実測が行われていなかったためだと推定される。1954年6月、西武鉄道が駐車場の建設工事を開始し、増上寺側がこれに抗議したため、問題が表面化する[71]

1957年(昭和32年)7月9日、西武鉄道社長小島正治郎(堤康次郎会長の娘婿)、徳川家正、増上寺法主椎尾弁匡の三者による和解契約書が交わされた。合意の内容は、西武の土地を芝公園1号地(現在の住所表記では芝公園4丁目8番、ザ・プリンス・パークタワー東京)と3号地(同・3丁目3番、東京プリンスホテル)、増上寺の土地を2号地(同・4丁目7番)にそれぞれ集約すること、西武が国際観光ホテルを建設すること、紛争になっていた土地を文化施設して共同利用することとし、共同で「財団法人三康文化研究所」と、幼稚園・小学校を経営する「学校法人三康学園」を設立すること、などであった。財団法人と学校法人の設立にあたっては、土地使用権を増上寺、建設資金を西武鉄道がそれぞれ提供し、両者から同数の理事を出す、と定められた。しかし、西武鉄道と増上寺の相互不信のため、財団法人の設立は大幅に遅れ、実際に設立されたのは7年後であった。なお、学校法人の設立はその後立ち消えになっているが、理由は不明である[72]

この三康文化研究所設立のため、旧大橋図書館蔵書が利用されることになったのである。1957年8月11日、芝公園2号地2番地に三康文化研究所が設立され、大橋図書館はその附属図書館となることになった。11月22日、財団法人大橋図書館は財団法人三康図書館と改称し、翌年1月から芝公園の研究所本館に大橋図書館旧蔵書の搬入を開始した。1959年(昭和34年)12月25日、財団事務所を豊島園内から三康文化研究所内に移転。1960年(昭和35年)3月、図書館書庫が完成する[68]。財団法人申請前にもかかわらず西武鉄道が準備を急いだのは、ホテル着工の条件を整えるために既成事実を作るためだったといわれる[73][注釈 7][注釈 8]

1964年(昭和39年)6月15日、財団法人三康図書館は解散を決議。6月30日、三康文化研究所が財団法人の認可を受ける。9月1日、財団法人三康図書館の残余財産が三康文化研究所に引き渡される[8]。このとき引き継がれた資料は18万603冊であり、旧大橋図書館蔵書のほとんどが散逸せずに引き継がれたことになる[74]。11月13日、開所式[68]。所長には椎尾弁匡、研究指導員には中村元(東京大学文学部長)ら、在室研究員には石上善應大正大学助教授)・小野泰博(大正大学講師)・峰島旭雄(早稲田大学助教授)がそれぞれ就任した[8]。なお、堤康次郎は同年4月に没している。

開館後

1966年(昭和41年)10月12日、財団法人三康文化研究所附属三康図書館が開館した[68]

1979年(昭和54年)4月10日、増上寺の境内整備計画にともない、芝公園4丁目7番4号に新設された明照会館に移転[68]

2013年(平成25年)4月1日、公益法人制度改革にともない、財団法人三康文化研究所は公益財団法人に移行した[75]

脚注

注釈

  1. ^ 国書総目録』で「大橋本」と記載されている典籍は、すべて関東大震災で焼失している。現在所蔵されている古典籍は、震災以後に収集されたものである[2][3]
  2. ^ この土地は、化物屋敷という噂があって安値で売りに出されていたものを、大橋佐平が一笑に付して1900年(明治33年)に買い取ったものである[20]
  3. ^ 出典(坪谷 1942, pp. 18-20)では「帝国大学文学部長」となっているが、明らかな誤りなので訂正した。
  4. ^ たとえば石井研堂『改訂増補明治事物起源』は大橋図書館を「私立図書館の始めなり」とするが、実際にはそれ以前に設立された私立図書館は数十館にのぼる(そもそも、帝国教育会図書館も私立である)。図書館の定義にもよるが、現存する図書館としては、1874年開館の八戸書籍縦覧所(八戸市立図書館の前身)が最も古い。私立図書館として存続している図書館に限っても、成田図書館(現・成田山仏教図書館1901年設立、1902年2月1日開館)の方がわずかに古い。
  5. ^ 明治4年正月5日太政官布告社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外上地被仰出土地ハ府藩県ニ管轄セシム」(法令全書)。大西 2006, pp. 235–236、およびその出典(“白アリは巣食う 国有財産の実態 (17) 増上寺の土地争い”. 毎日新聞: 朝刊7面. (1956年7月16日) )では「明治三年十二月太政官布告」となっているが、誤りと思われる。
  6. ^ 大西 2006, p. 236、およびその出典(“白アリは巣食う 国有財産の実態 (17) 増上寺の土地争い”. 毎日新聞: 朝刊7面. (1956年7月16日) )では「六千七百四十七坪」となっているが、計算ミスと思われる。
  7. ^ 当初は1号地にホテルを建設する予定だったが、地元の反対運動のためいったん中止された。1964年9月1日、3号地に東京プリンスホテルが開業した。
  8. ^ 財団法人設立前に「三康文化研究所」名義で発行された書籍に、『池田内閣誕生まで』(1960年)、『世界を動かす人々』(1961年)、堤康次郎『苦闘三十年』(1962年)、堤康次郎『太平洋のかけ橋』(1963年)がある。

出典

  1. ^ a b 平成29年度事業報告書” (pdf). 三康文化研究所. 2018年8月4日閲覧。
  2. ^ 三康図書館について”. 三康図書館. 2017年12月31日閲覧。
  3. ^ 『国書総目録』所蔵者略称等一覧”. 国文学研究資料館. 2016年8月15日閲覧。
  4. ^ a b 酒川 1993, p. 111.
  5. ^ a b 馬場, 飯澤 & 古川 2000, p. 399.
  6. ^ 児童書総合目録について”. 国立国会図書館. 2016年8月15日閲覧。
  7. ^ 椎尾辨匡「創刊の辞」『三康文化研究所年報』第1号、三康文化研究所、1966年12月25日。 
  8. ^ a b c 大西 2006, p. 242.
  9. ^ 酒川 1993, p. 110.
  10. ^ “三つの図書館”. 朝日新聞: 朝刊26面. (1973年11月22日) 
  11. ^ 三康図書館について”. 三康図書館. 2017年12月31日閲覧。
  12. ^ a b c d e 平成29年度事業計画書” (pdf). 三康文化研究所. 2017年12月31日閲覧。
  13. ^ a b 馬場, 飯澤 & 古川 2000, p. 400.
  14. ^ 馬場, 飯澤 & 古川 2000, pp. 399–400.
  15. ^ a b 和田純; 土田宏成 (2011年). “国立公文書館アジア歴史資料センター委託調査 「日本所在の主要アジア歴史資料」(第3次調査)”. 国立公文書館アジア歴史資料センター. pp. 93-94. 2016年8月15日閲覧。
  16. ^ 平成28年度事業計画書” (pdf). 三康文化研究所. 2017年12月31日閲覧。
  17. ^ a b 三康図書館 2006, pp. 18–19.
  18. ^ 坪谷 1942, pp. 2-7.
  19. ^ 永濱 1991, p. 34.
  20. ^ 坪谷善四郎『大橋佐平翁伝』栗田出版会、1974年10月15日、99-100頁。 
  21. ^ a b 坪谷 1942, pp. 11, 21.
  22. ^ 網野菊『ゆれる蘆』講談社文芸文庫、1994, p169
  23. ^ 坪谷 1942, pp. 年表3-4.
  24. ^ 坪谷 1942, pp. 18-20.
  25. ^ 坪谷 1942, pp. 59-66.
  26. ^ 坪谷 1942, p. 55.
  27. ^ 坪谷 1942, p. 52.
  28. ^ 坪谷 1942, pp. 46-50.
  29. ^ 坪谷 1942, pp. 74.
  30. ^ 坪谷 1942, pp. 77.
  31. ^ 是枝 2009, p. 38.
  32. ^ 坪谷 1942, pp. 66-72.
  33. ^ 坪谷 1942, pp. 219.
  34. ^ 坪谷 1942, pp. 80-90.
  35. ^ 吉田昭子「東京市立日比谷図書館構想と設立経過 : 論議から開館まで」『Library and information science』第64号、三田図書館・情報学会、2010年。ISSN 0373-4447http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00003152-00000064-0135 
  36. ^ 坪谷 1942, p. 年表12.
  37. ^ 坪谷 1942, p. 年表15.
  38. ^ 坪谷 1942, pp. 162.
  39. ^ 坪谷 1942, pp. 153-159.
  40. ^ 坪谷 1942, pp. 160.
  41. ^ 坪谷 1942, pp. 145-152.
  42. ^ 坪谷 1942, pp. 171-177.
  43. ^ 坪谷 1942, pp. 176-177.
  44. ^ 坪谷 1942, pp. 288.
  45. ^ a b 是枝 2009, p. 42.
  46. ^ 坪谷 1942, pp. 248-251.
  47. ^ 是枝 2009, p. 43.
  48. ^ 三康図書館 2006, pp. 2–3.
  49. ^ 三康図書館 2006, pp. 2, 5.
  50. ^ 三康図書館 2006, pp. 11–12.
  51. ^ 三康図書館 2006, pp. 2–5.
  52. ^ 是枝 2009, pp. 46–47.
  53. ^ 三康図書館 2006, p. 3.
  54. ^ 森 1993, p. 37.
  55. ^ 三康図書館 2006, pp. 5–6.
  56. ^ 昭和22年1月4日閣令・内務省令第1号「公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する件の施行に関する件」。
  57. ^ 三康図書館 2006, p. 10.
  58. ^ 資格審査結果公告第19号”. 官報. (1946年11月22日) 
  59. ^ 是枝 2009, p. 55.
  60. ^ a b 森 1993, p. 38.
  61. ^ 三康図書館 2006, p. 12.
  62. ^ 森 1993, pp. 38–39.
  63. ^ 是枝 2009, p. 49.
  64. ^ 森 1993, pp. 39.
  65. ^ 森 1993, pp. 39–43.
  66. ^ a b c 森 1993, p. 43.
  67. ^ a b c “再出発する大橋図書館”. 朝日新聞: 7面. (1953年2月27日) 
  68. ^ a b c d e f 三康図書館 2006, p. 15.
  69. ^ 森 1993, p. s44.
  70. ^ “資金難で開館行悩み 豊島園が引受けた大橋図書館”. 朝日新聞: 朝刊8面(東京版). (1954年2月21日) 
  71. ^ 大西 2006, pp. 235–238.
  72. ^ 大西 2006, pp. 238–242.
  73. ^ 大西 2006, pp. 240–241.
  74. ^ 森 1993, p. 44.
  75. ^ 内閣府大臣官房公益法人行政担当室 (2013年4月19日). “【公示】公益財団法人三康文化研究所〔移行認定〕”. 公益法人information. 2016年8月15日閲覧。

参考文献

大橋図書館

  • 三康図書館復刻版『大橋図書館四十年史』編集委員会 編『復刻版『大橋図書館四十年史』別冊付録――大橋図書館開館100年記念』博文館新社、2006年4月20日。 
  • 坪谷善四郎『大橋図書館四十年史』博文館、1942年9月5日。NDLJP:1122718 
  • 坪谷善四郎『復刻版 大橋図書館四十年史』博文館新社、2006年4月20日。ISBN 4-86115-150-3 
  • 永濱薩男「大橋図書館のこと」『名著サプリメント』第4巻、第6号、名著普及会、1991年8月1日。 
  • 森睦彦「大橋図書館の閉館事情」『東海大学紀要 課程資格教育センター』第2号、東海大学出版会、1993年3月30日。ISSN 0916-9741NAID 110000479621 
  • 是枝英子「大橋佐平と大橋図書館」『大倉山論集』第55号、大倉精神文化研究所、23-63頁、2009年3月17日。ISSN 0471-5152 

三康図書館

  • 石川武敏「探訪記: 三康文化研究所附属三康図書館」『参考書誌研究』第41号、国立国会図書館、1992年3月25日。ISSN 2189-2768NDLJP:3051343 
  • 大西健夫 著「プリンスホテルの生成」、大西健夫; 斎藤憲; 川口浩 編『堤康次郎と西武グループの形成』知泉書館、2006年3月30日、225-248頁。ISBN 4-901654-68-3 
  • 酒川玲子「三康図書館」『図書館雑誌』第87巻、第2号、日本図書館協会、110-111頁、1993年2月。ISSN 0385-4000 
  • 馬場萬夫; 飯澤文夫; 古川絹子『東京都の図書館 23区編』東京堂出版、2000年9月30日、399-400頁。ISBN 4-490-20415-9 

外部リンク