神龍 (航空機)

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神龍(じんりゅう)は、大日本帝国海軍太平洋戦争中に試作した特別攻撃機略符号は与えられていない。

経緯[編集]

1944年昭和19年)11月、海軍艦政本部から逓信省航空局航空試験所に対して必要条件が提示され、12月に計画が纏められた。機体の設計は航空試験所の榊原茂樹技師を主務者として行われ、製造は美津野グライダー製作所が行なった。

1945年(昭和20年)5月末に試作機1機が完成、7月中旬に茨城県石岡町大日本滑空工業専門学校にてロケットエンジンを搭載しない状態で曳航発航による飛行試験を行い、その際に機体に異常振動が発生したことを受け、垂直尾翼の増積が行われた。続いて霞ヶ浦飛行場にてエンジンを搭載した状態で無人での飛行試験を行ったが、この時はエンジン停止後に墜落している。その後、海軍は神龍の量産開始を命じ、本土決戦に備え特別攻撃隊のパイロットの訓練が通常のグライダーを用いて行われていたが、実戦投入前に終戦の日をむかえたため、特に戦果はない。8月15日の終戦までに製造されたのは試作機4機で、終戦後の8月20日に完成した5号機を含めても計5機のみだった。

飛行試験時のテストパイロットだった楢林寿一飛行士は「操縦が難しい神龍は特攻(体当たり)には不適」といった旨の報告を試験責任者に対して行っており、さらに神龍に燃焼時間30秒のロケットエンジン6基とロケット弾を装備して攻撃機化することを提案した。また、生存したパイロットは、後世、「当たったとしても戦車だから5、6人くらいしか巻きぞえにできないし、上空から向かって行っても戦車に撃ち落とされていただろうから、お国のためとはいえ、納得がいかない。なぜこのような乏しい作戦を立てるのか」といった旨のコメントを残している。

神龍の実機は現存していないが、神龍の操縦訓練を受けたパイロットの友人が戦後個人的に製作した実物大レプリカが、香川県さぬき市の羽立峠に展示されている[1]

設計[編集]

神龍は直線を多用した簡易な設計の木製グライダー型飛行機であり、操縦席は開放式で、降着装置として3本の橇(スキッド)を有する。桜花と同様の燃焼時間10秒の火薬式ロケット3基によって30秒間飛行できたが、飛行特性は悪かった。特攻用の武装として胴体内に100kg爆弾を搭載している。

当初は山岳地帯の洞窟からの発進が計画されていたが、最終的には分解された状態でトラックによって敵の予想上陸地点から2 - 3 km地点まで運ばれ、組み立てられて離陸。ロケットのうち2基を用いて高度200 mまで上昇した後に、最後のロケットに点火し目標に対して体当たり攻撃を行うといった運用に落ち着いている。想定された攻撃目標は、本土決戦に際して上陸してきたアメリカ軍の戦車揚陸艇、特にM4中戦車や新型重戦車として出現が警戒されていた「M1重戦車」(M26パーシングの誤伝)だった。なお、無動力での飛行試験時には九五式一型練習機が曳航機を務めている。

なお、神龍(神龍一型)のテスト飛行後に、航続距離の延長などを目論んで「神龍二型」の開発計画が開始されたが、実現せずに終わっている。二型は固体ロケットブースターの再装填によって同時期のドイツ空軍で開発されていたBa 349と同程度の120秒程度の航続時間を持つ、デルタ翼カナードを有する戦闘攻撃機として開発されていた(秋水#各型も参照)。武装は攻撃用ロケット弾の装備を予定していた。

諸元(一型)[編集]

  • 全長:7.6 m
  • 全幅:7.0 m
  • 全高:1.8 m
  • 自重:220 kg(ロケットエンジン非搭載時)
  • 最大離陸重量:600 kg(ロケットエンジン非搭載時)
  • エンジン:固体燃料ロケットエンジン × 3(合計推力:400 kg)
  • 最大速度:300 km/h
  • 巡航速度:110 km/h
  • 上昇限度:400 m
  • 航続距離:4 km
  • 武装:100 kg爆弾 × 1(内蔵)
  • 乗員:1名

脚注[編集]

参考[編集]

関連項目[編集]