犬鳴村

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犬鳴谷村
(いぬなきだにむら)
旧集落が現存するダム建設前の空中写真(国土地理院 1961年撮影)[1]。 犬鳴ダムは、下部の幹線道路から北方向の盆地に沿うように建設される。
犬鳴谷村(吉川村)を再現した地図。水色の点線は、ダムによる水没範囲。現在の旧道は、犬鳴ダム管理出張所で行き止まりである。
座標: 北緯33度41分25秒 東経130度33分30.5秒 / 北緯33.69028度 東経130.558472度 / 33.69028; 130.558472
日本の旗 日本
都道府県 福岡県(旧:筑前国
鞍手郡
人口 (1889年)
 - 計 118人
現存状態 廃止
廃止理由 1889年、近隣村との合併
1994年、犬鳴ダム完成による集落消失

犬鳴谷村(いぬなきだにむら)は、1691年(元禄4年)から1889年4月1日(明治22年)まで福岡県筑前国鞍手郡に存在した村。現在の宮若市犬鳴にあたる。犬鳴村は誤用であり、正式には「犬鳴谷村」とよぶ。

地理[編集]

宮若市の犬鳴山西山には、遠賀川水系犬鳴川が流れている。その源流の谷川に沿って犬鳴谷村が形成されていた。この谷を本谷といい、主に集落はここに形成された。ここから「ゆずりは谷」、「薬研谷」、「人参谷」、「あなぐら谷」など多数の谷に枝分かれしている。

現在は犬鳴ダム建設によって、犬鳴谷村の殆どがダムの底に沈んでいる。

谷の一覧

犬鳴谷村に面した谷の一覧。

  • 薬研谷(やげん)
  • ゆずりは谷
  • 柚ノ木谷(ゆのき)
  • 下り谷(くだり)
  • 大鋸谷(おおが)
  • 人参谷(にんじん)
  • いちぎ谷
  • あなぐら谷
  • 落合谷(おちあい)
  • 辰谷(たつ)
  • 池の谷(いけの)
  • 往来谷(おうらい)
  • じいが谷
  • 砥石谷(といし)
  • 梅ノ木谷(うめのぎ)
  • 割谷(わり)
  • たたら谷

沿革[編集]

1691年元禄四年)、 福岡藩庁鞍手郡吉川庄犬鳴谷に存在していた藩有林の維持管理のため、御譜代組足軽(ごふだいぐみ あしがる)[2]数家(篠崎(しのざき)・藤嶌(藤嶋、ふじしま)・三浦(みうら)・赤星(あかほし)・渡邊(わたなべ)・水上(みなかみ)・安永(あんえい)・寶部(たからべ)などの各家)に移住を命じ、この年に犬鳴谷村が成立した(福岡藩は犬鳴谷村庄屋兼足軽組頭として篠崎文内を任命)[3]

犬鳴足軽各家は、苗字の公称、両刀の帯刀羽織の公的着用を許されていた士分扱いの上級足軽であったことが福岡藩文書に記してある。

ちなみに犬鳴足軽の俸給は、組頭を除いて平均六石三人扶持(ろくせきさんにん ふち)だったらしく、現米ではなく支給分を現金に換算して支払われていた(犬鳴足軽総員分の大繩地として隣村である脇田の一部が充てられていた)。犬鳴ダム奥には、世襲で庄屋兼足軽組頭(しょうやけん あしがる くみがしら)を勤めてきた篠崎家代々の墓石群が残っている。

犬鳴の各家には、福岡藩庁から貸与を受けていた御貸具足(おかしぐそく)・藩候紋入り陣笠(はんそうもんいり じんがさ)・鉄砲(てっぽう)・刀槍(とうそう)などが最近まで遺存していた。1868年(明治初年)、篠崎・渡邊の両家は士族、他の各戸は卒族に編入されたが、1872年(明治5年)卒族制廃止と同時に、犬鳴卒族は福岡県庁から強制的に平民籍に編入された。

犬鳴各戸の菩提所(ぼだいしょ)は、浄久寺(浄土宗・宮若市乙野)と東禅寺(曹洞宗・宮若市湯原)に2分される。最近の研究によると、御譜代組足軽の立場から、この2寺を菩提所としたとの説があり、浄久寺と東禅寺の過去帳に犬鳴の地名が見られるのは1693年1694年(元禄6、7年)からである。

福岡県糟屋郡久山町にある天照皇大神宮(通称・伊野大神宮)の拝殿脇には1692年(元禄5年)に犬鳴足軽一同から寄進された御手洗石が苔むして現存している。

犬鳴谷村の年表

※1889年の合併以降に発足した吉川村時代の歴史も含む。

地名 村名 内容



1601年 黒田長政が国内巡見、鞍手郡犬鳴山見分[4]
1615年 藩命により犬鳴山に諸木を植える[5]
1615年

1623年
久原越(現:犬鳴峠)の道を開く[6]
1641年 年植林面積が五万坪に及ぶ[7]
1644年

1648年
犬鳴山から舟の櫓梶(ろかじ)、炭薪を多く切り出し、勘場という役所を立てて支配する[8]
1691年 御譜代組足軽数家、城下地行町(現:福岡市中央区地行)より犬鳴に移住。
篠崎文内、庄屋兼足軽組頭役を命じられる[9]



1691年 福岡藩庁により犬鳴谷村成立。
1696年 貝原益軒、甥の好古と共に犬鳴山に来る[10]
1703年 日原神社勧請[11]
1725年 裏判所・郡奉行・郡代・山奉行、犬鳴山見分[12]
1732年 享保の大飢饉により、若宮26箇所の村も含めて餓死者1193人に上った[13]
1748年 幕府より黒田藩朝鮮人参を送り、犬鳴山で栽培した[14]1762年に幕府へ献上[15]
1854年 犬鳴鉄山仕組始まる[16]
1864年
3月
犬鳴鉄山中止となる[17]
1864年
7月
犬鳴御別館建設が始まる。
1865年
5月
加藤司書中老を免じられる[18]
1865年
10月
加藤司書ら4人が切腹[19]
1865年
11月
犬鳴御別館完成[20]


1871年
11月14日
廃藩置県により筑前国が廃止し、福岡県が発足する。
1872年 学制発布により、犬鳴では3月より一般住宅を借りて学校教育を開始した[21]
1877年 西南戦争勃発。犬鳴から多数出征[22]
1885年 寺小屋式の借家を区より買い受けて、犬鳴小学校と称する。


1889年
4月1日
近隣の村落である乙野・脇田・小伏(こぶし)・縁山畑(へりやまはた)と合併し吉川村発足。
犬鳴は吉川村内の集落となる。
1913年 吉川村役場の解体資材を利用して犬鳴小学校を改築し、犬鳴尋常小学校と称する。
1920年 吉川尋常高等小学校と合併して、犬鳴分教所となる。
1928年 二番野~辰谷口の道路が完成。
1945年 第二次世界大戦が終わる。
1949年 犬鳴隧道やその他の道路工事が完了し、府県道福丸箱崎線開通。







1955年
3月1日
昭和の大合併により、吉川村若宮町に編入合併する。
住所表記は「若宮町大字犬鳴」。
1965年 木炭の生産が終了した。
1966年 犬鳴分校が吉川小学校に併合し、廃校となった。
1975年 新犬鳴トンネル開通。
1986年 犬鳴ダム建設のため、住民は脇田区へ集団移転する。
1987年
10月
日原神社を脇田に移転。
1994年 犬鳴ダムの完成により、旧集落の大部分が水没した。





2006年
2月11日
平成の大合併により、若宮町宮田町が対等合併し、宮若市となる。
旧集落があった場所の住所表記は「宮若市犬鳴」。

江戸時代後期頃まで犬鳴に居住していた脇田の寶部家(たからべ け)には西南戦争に出征した寶部乙吉(たからべ おときち)が熊本鎮台司令長官「谷干城」から与えられた感状が現存している。

1873年(明治6年)に福岡県嘉摩地方より勃発した筑前竹槍一揆(ちくぜんたけやりいっき)は、ほぼ旧筑前国一帯に波及した大一揆で、犬鳴周辺の村の農民は一揆勢に助力したりする者が多く、また戸長富豪などは一揆勢により襲撃されたが、士族および旧卒族の村であった犬鳴においては一揆による影響は皆無で、村民も一揆には助力しなかったと言う。

文化[編集]

人口[編集]

犬鳴谷村は、犬鳴川源流の谷川に沿って形成されており、地理的に大きく3つに区分されている。谷川の上流には6世帯、日原神社の周辺に13世帯あり、その中心に犬鳴分校と犬鳴店があったため、学業や買い物など村の中心的役割を担っていた。下流域には9世帯あり、この辺りには観音滝やお地蔵様が祀られている。1986年2月(昭和61年)時点では、総世帯数28戸あった。

庄屋時代以前の村組織に関する文献は残っておらず不明である。鞍手郡誌によると1868年(明治元年)は31戸、1877年(明治10年)は28戸、昭和初期頃は45戸、1953年(昭和28年)は40戸、その後は離村者が増えたため、ダム工事直前までには28戸まで減少した[23]

1872年(明治5年)明治政府の命令で福岡県が編纂を開始した『福岡県地理全誌』犬鳴谷村の頁には戸数31戸の内、士族3戸・平民(旧卒族)28戸、人口141人男80人女61人、職分(農業)男35人女28人(工人)男2人女1人(雑業)男12人女4人(雇人)男1人女1人と記してある。

総数 [戸数: R10.png 、人口: G10.png ]

1839年
(天保10年)
戸数不明
G100.pngG10.pngG10.pngG10.pngG10.pngG01.pngG01.pngG01.png 143人
1872年
(明治5年)
R10.pngR10.pngR10.pngR01.png 31戸
G100.pngG10.pngG10.pngG10.pngG10.pngG01.png 141人
1875年
(明治8年)
戸数不明
G100.pngG10.pngG10.pngG10.pngG10.pngG01.png 141人
1877年
(明治10年)
R10.pngR10.pngR05.pngR01.pngR01.pngR01.png28戸
G100.pngG10.pngG10.pngG05.pngG01.png 126人
1889年
(明治22年)
R10.pngR10.pngR01.pngR01.pngR01.pngR01.png 24戸
G100.pngG10.pngG05.pngG01.pngG01.pngG01.png 118人

教育[編集]

犬鳴分校の児童と教職員の記念写真(大正10年撮影)

1872年(明治5年)には犬鳴谷村唯一の教育機関として、民家を借りた寺子屋式の小さな学校が設立され、1885年11月(明治18年)に犬鳴小学校という名称が付けられた。しかし初代の犬鳴小学校は老朽化が著しくボロボロであった。そのため1912年から1914年(大正元年~2年)にかけて吉川村役場を解体したときに出てきた材木を利用して改築し、立派な校舎に建て替えられた。校舎には玄関教室1部屋、宿直室、便所があり、グラウンドにはすべり台鉄棒ブランコが備え付けられた。1920年10月(大正9年)には、吉川尋常高等小学校と合併し、犬鳴分教場と改名された。しかし学制発布の影響もあり、1966年(昭和41年)に吉川小学校に併合され、90年余りの歴史をもった犬鳴小学校は、1966年3月31日(昭和41年)をもって閉校となった。閉校理由としては、犬鳴小学校の児童数が減少したためである。またさらには犬鳴谷村に国鉄バス路線ができて交通の便が良くなたっため、児童を吉川小学校に収容して教育効果を向上させる事由もあるためである[24]

宗教[編集]

日原神社
日原神社の本殿 斜めから.jpg
所在地 旧:鞍手郡犬鳴字下り谷192
移転後:宮若市脇田912付近
位置 北緯33度41分37.9秒
東経130度35分6.4秒
座標: 北緯33度41分37.9秒 東経130度35分6.4秒
主祭神 大国主命
大山祇命
管原道真
市杵島姫命
神体 山の神
天満宮
ふくっつぁま
社格 村社
創建 1703年
テンプレートを表示

犬鳴谷村では、日原神社(ひわらじんじゃ)が信仰の対象とされてきた。日原神社は1703年に勧請され、犬鳴分校のすぐ側、字勘場の割谷に沿った高台に鎮座しており、その両側には巨大なスギヒノキが連なっていた。境内には元々山中にあった「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」が合祀されている。山の神は皿山に祀られていたもので、大山祇命祭神とされている。天満宮は犬鳴御別館の裏山に祀られ、祭神は菅原道真である。毎月25日の夕方には小豆飯おにぎりをお供えしてお参りしていた。ふくっつぁまは、福地神社(福間町旦ノ原 ※当時の地名)に祀られていたもので、いつ犬鳴に勧請されたかは不明である。これは毎年12月13日の夜にお参りして小豆飯をお供えしていた[25]

また犬鳴ダム建設計画による水没を避けるため、1987年10月より宮若市脇田に移転された[26]。本殿と鳥居は、犬鳴谷村時代とほぼ同じ形でしっかり復元されている。「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」の小祠は新しく作り直されているものの、外見は継承されている。

産業[編集]

  • 昭和40年代頃まで、木炭製造や農林業などが主産業であった。犬鳴谷は農耕不適地が多かったため、近隣の脇田・湯原・下などで農地を購入し農耕に従事していた家が多かった。
  • 藩政時代は犬鳴住民の副業として木炭和紙製造が盛んで、和紙の方は現在の朝倉地方で生産されていた上座紙と共に鞍手紙と称され、幕府献上品となり福岡藩の名産物となった。なお、犬鳴には幕府から福岡藩へ下賜された朝鮮ニンジンの種を播き栽培したと言う畑跡もある。江戸時代中期、1748年寛延元年)幕府より福岡藩へニンジン種が下賜された時、栽培地の検討が行われ、藩医、白水幽水の犬鳴谷村が適地と言う意見で決定した。1762年宝暦12年)犬鳴谷で栽培された朝鮮ニンジンは幕府へ献上され、幕府御典医・井上交泰院その良品なるを称し、田沼主殿頭に示したと言う。小字名で人参谷の地名が遺っているし、別の所には畑跡も残存する。昭和40年代頃までは木炭製造や農林業に依存していたが、その後、木炭販売不振や農林業の衰退などと共に福岡都市圏宗像地区などの会社官公庁勤務に従事する人が過半数を占めるようになった。

※江戸時代、吉川・中・山口地区(宮若市旧若宮町域)の年貢米や木炭などの林産物は宗像郡津屋崎の港に集積され、藩御用船によって福岡藩大坂蔵屋敷に運ばれていたと言う。 「出典:宗像郡の歩み」

施設・遺構[編集]

遺構の場所については、本記事上部にある犬鳴谷村の地図を参照。

  • 犬鳴御別館(福岡四十七万三千百石) - 1865年慶応元年)に福岡藩庁によって建設された、福岡藩の最後のである[27][28]2018年時点では城跡石碑が残っており、犬鳴ダムの北側に位置する。
  • 犬鳴小学校 - 1885年に犬鳴谷村の民家を借用して創立した。1920年に吉川尋常小学校と合併し、犬鳴分教所として置く。1966年に吉川小学校と合併して廃校となった。現在は犬鳴ダムの西側一方通行道路に犬鳴分校跡として残っている[29][30][31]。吉川小学校も2016年をもって廃校となった[32]
  • 犬鳴店 - 1912年(大正元年頃)、犬鳴谷村住民のひとりが店を開いた。日用雑貨、食料品、酒、タバコ、菓子、魚の干物などが販売されていた。犬鳴谷村唯一の商店であり、地元住民に重宝されてきた。
  • 犬鳴日原鉄山跡 - 1854年安政元年) 福岡藩により建設。
  • 犬鳴高麗人参畑跡 - 1748年(寛延元年) 幕府より福岡藩へ高麗人参の種を下賜。犬鳴の人参谷・桂木谷・梅木谷にて栽培。JR博多駅あたりにかつて人参町といわれる町名があったが、ここは人参会所があったところで、人参会所は福岡藩営で犬鳴谷産高麗人参(朝鮮人参)の入札場だった。
  • 犬鳴勘定役所跡 - 犬鳴の藩有林管理および犬鳴足軽の人事管理のため福岡藩により設けられていた役所跡
  • 日原神社 (福岡県宮若市) - かつて犬鳴分校近くにあった神社である。「山の神」、「天満宮」、「ふくっつぁま」の3つの神様が祀られていた。
  • 犬鳴足軽墓群 - 犬鳴山中の各所にあったが、現在は篠崎家及び藤嶌(藤嶋)家の墓のみが残っている。
  • 寶部安則の炭焼き窯跡 - 犬鳴の木炭製造場であり、現在も窯跡が残っている。

※犬鳴に福岡藩が江戸時代後期、天保銭などの銭貨密造のために開坑したと言われる銅山跡がある。現在も巨大な坑口がそのまま残っている。

村名の由来[編集]

  • 昔、ある猟師が犬を連れて狩りに来ていた。その日はやけに犬が吠えるので、苛立った猟師は犬を射殺してしまう。その直後、猟師は黒竜らしき生き物に襲われた。そこで、猟師は犬が危険を教えてくれたことに気付き、犬を丁寧に供養した、というのが名前の由来。犬鳴ダムなども同様の由来である。この由来については、大阪犬鳴山に伝わる伝説と酷似しているので、それが間違って伝わったものと思われる。
  • 江戸時代の地誌などには犬鳴谷村と表記され、犬鳴村とはされていない。古文献によると犬鳴は1691年元禄4年)成立の村落である。福岡藩庁は庄屋兼足軽組頭職に篠崎文内を任命、副として渡邉家が就任した。明治になり藩が消滅した時、篠崎、渡邉両家は福岡県貫属士族となり他の犬鳴足軽は卒族として認められたが、1872年(明治5年)の卒族廃止の時、平民に格下げになったと言うことである。糟屋郡久山町にある伊野大神宮には江戸時代中期、1692年9月(元禄5年)に犬鳴足軽団から寄進された犬鳴山中と刻まれた御手洗石が遺っている。幕末、福岡藩中老職加藤司書は藩の許可を得て犬鳴に藩主別館を築き動乱に備え、犬鳴別館などを守備するため犬鳴入口である脇田構口、犬鳴峠、猪野越え、薦野峠に番所を設置、犬鳴足軽を配置し警戒にあたらせた。また藩主別館近くに楠木正成候を祀る神社を創建し御神体は正宗作の太刀だったと言う事である。怪奇談として藩政時代の頃、朝鮮ニンジン畑の監督と見廻りに向かう犬鳴足軽で藩庁から任命されたニンジン畑見廻役が山道で大蛇と遭遇し、腰を抜かし動けなくなったうえに、大口を開けた大蛇に飲み込まれそうになり、差していたで難を逃れ、山道を這いつくばって逃げ帰り、恐怖のあまり寝込んでしまい数日後には亡くなった。寝込んでいた足軽によると大蛇の口の中は、どんな理由からか白髪だらけだったと言う話。
村名の別の由来

その昔、脇田の山中へ二匹の犬を連れ猟に来ていた猟師は遭遇した大蛇に襲われてしまう。主人を救おうと犬たちは急いで村里に引き返し村民を連れてきたが、すでに猟師は飲まれていた。二匹の犬は村民と共に大蛇を退治し村民は腹から猟師を救出したものの猟師はすでに息絶えていた。二匹の犬は嘆き悲しみ、かわいがってくれた猟師を思い、一声、天に向かって鳴き叫び息を引き取った。脇田の村人が不憫に思い猟師ともども犬を埋葬、供養し石積塚を築いた事から、この山を犬鳴と言うのが地名の由来。この石積塚と言い伝えられる物は現在も犬鳴山中にあるが、存在地は非公開である。また犬鳴村役場の存在も聞いてはいない。犬鳴の各戸には御貸具足と言われる福岡藩庁から貸与された足軽具足、藩侯紋入り陣笠鉄砲、刀などが残っていたと言う。犬鳴の小字名で勘場と言う所(犬鳴ダム奥の親水公園一帯)は犬鳴足軽の人事管理および藩有林の運営事務を行うための勘定場があった所と言い伝えられる。地名で焔硝蔵と呼ばれていた所もあったが、この地は福岡藩庁が犬鳴足軽団に貸与していた鉄砲に使用する焔硝(火薬)を格納、管理していた蔵の跡地だと思われる。

その他[編集]

都市伝説との関係[編集]

  • 都市伝説犬鳴村伝説というものがあるが、この伝説に登場する犬鳴村は、実在した旧犬鳴谷村とは全く関係なく、そのような村は存在していない。犬鳴の通婚は宗像・糟屋地区が多く、村内で婚姻を繰り返していたわけではない。都市伝説で犬鳴村と誤解されているところは糟屋郡久山町大字柳ヶ原(柳ケ瀬ではない)と宮若市大字脇田字コイゲ(コスゲではない)で犬鳴とは歴史的に無関係である。柳ヶ原は現在、居住者はいないが、以前は最大で6軒の集落で茨木・荒巻・萩尾の3家が存在していた。それぞれ「本家」「分家」「隠居」「中」「下」「お茶屋」と言う屋号を持っていた。本家・分家・隠居・下は茨木姓、中が萩尾姓、お茶屋は荒巻姓だった。茨木家は江戸時代以来、山林の大地主で柳ヶ原だけではなく、オオイゲ・コイゲ(宮若市大字脇田)の地主だった。なお、柳ヶ原各家の菩提所は糟屋郡篠栗町津波黒の真光寺(浄土真宗西本願寺派)となっている。宮若市大字脇田字コイゲは、終戦後に開拓された開拓地であり、近年頃まで脇田在住の方が管理をされていた。また福岡県護国神社所有山林があることから山林内に神祠が祀られている。
  • 都市伝説で犬鳴は地図に無い村とされているが、これは正保年間(16441647年)福岡藩が幕府に提出した国絵図には、犬鳴山について詳細に記録せず(山林古老伝)から想を得たものだと思われる。ただし、この年代頃には村落は存在していなかった。

その他の補足[編集]

  • 藩政時代は庄屋兼足軽組頭職の篠崎家が中心的存在であり、明治の行政区画再編においての町村合併時には付近の村と共に吉川村となり、吉川村役場は脇田に存在していた。

脚注[編集]

  1. ^ 国土地理院の空中写真
  2. ^ (御小姓与鉄砲足軽(おこしょうよてっぽう あしがる)と言う説もある)
  3. ^ 古文献および篠崎家墓碑銘文(享保十四年)
  4. ^ 鞍手郡若宮記
  5. ^ 鞍手郡若宮記
  6. ^ 鞍手郡若宮記
  7. ^ 鞍手郡若宮記
  8. ^ 犬鳴山古実
  9. ^ 犬鳴山古実・享保14年篠崎家墓碑銘文
  10. ^ 新訂黒田家譜
  11. ^ 下日吉宮資料
  12. ^ 犬鳴山古実
  13. ^ 安永博人文書
  14. ^ 黒田家譜
  15. ^ 新訂黒田家譜
  16. ^ 林政沿革調査資料
  17. ^ 林政沿革調査資料
  18. ^ 黒田家譜
  19. ^ 黒田家譜
  20. ^ 黒田家譜
  21. ^ 犬鳴尋常小学校 学校要覧資料
  22. ^ 藤嶋家文書
  23. ^ 犬鳴 犬鳴川治水ダム関係文化財調査報告 1 p24
  24. ^ 犬鳴 犬鳴川治水ダム関係文化財調査報告 1 p148-152
  25. ^ 犬鳴 犬鳴川治水ダム関係文化財調査報告 1 p61
  26. ^ 日原神社境内の石碑
  27. ^ 旧若宮町のあゆみ(年表)
  28. ^ 福岡藩犬鳴別館「宮若市指定文化財(史跡)」
  29. ^ 犬鳴ダムの観光案内板(西側一方通行道路) - ※創立日の記述が明治18年(1885年)と書かれており、吉川小学校公式ウェブサイトで書かれている明治15年(1882年)との矛盾有り
  30. ^ 宮若市立吉川小学校公式ウェブサイト - 沿革ページ
  31. ^ 宮若市役所-旧若宮町のあゆみ(年表)
  32. ^ ★旧吉川小学校(平成28年度末で閉校)

参考文献[編集]

  • 犬鳴 犬鳴川治水ダム関係文化財調査報告 1 福岡県教育委員会 平成2年3月31日発行

関連項目[編集]