犬鳴村

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旧集落が現存するダム建設前の空中写真(国土地理院 1961年撮影)[1]。 犬鳴ダムは、下部の幹線道路から北方向の盆地に沿うように建設される。

犬鳴村(いぬなきむら)は、明治二十二年(1889年)四月一日まで福岡県鞍手郡に存在した村。現在の宮若市犬鳴にあたる。

地理[編集]

  • 福岡県北西部に位置し、鞍手郡の最西端に存在していた。犬鳴峠登山道だが古賀市清滝に抜ける薦野峠,糟屋郡久山町猪野に抜ける猪野越えがある。

沿革[編集]

元禄四年(1691年) 古文献によると福岡藩庁は鞍手郡吉川庄犬鳴谷に存在していた藩有林の維持管理のため御譜代組足軽(御小姓与鉄砲足軽と言う説もある)数十名(篠崎・藤嶌・三浦・赤星・渡邊・水上・安永・寶部などの各家)に移住を命じ、この年に犬鳴谷村成立とある。(福岡藩は犬鳴谷村庄屋兼足軽組頭として篠崎文内を任命)犬鳴足軽団は苗字の公称、両刀の帯刀、羽織と袴の公的着用を許されていた士分扱いの上級足軽であったことが福岡藩文書に記してある。ちなみに犬鳴足軽の俸給は組頭を除いて平均六石三人扶持だったらしく現米ではなく支給分を現金に換算して支払われていた(犬鳴足軽総員分の大繩地として隣村である脇田の一部が充てられていた)犬鳴ダム奥には世襲で庄屋兼足軽組頭を勤めてきた篠崎家代々の墓石群が残っている。犬鳴の各家には福岡藩庁から貸与を受けていた御貸具足・藩候紋入り陣笠・鉄砲・刀槍などが最近まで遺存していた。明治初年、篠崎・渡邊の両家は士族、他の各戸は卒族に編入されたが、明治五年(1872年)卒族廃止と同時に犬鳴卒族は福岡県庁から強制的に平民籍に編入された。

犬鳴各戸の菩提所は浄久寺(浄土宗・宮若市乙野)と東禅寺(曹洞宗・宮若市湯原)に2分される。最近の研究によると御譜代組足軽の立場から、この2寺を菩提所としたとの説がある。

※福岡県糟屋郡久山町にある天照皇大神宮(通称・伊野大神宮)の拝殿脇には元禄五年に犬鳴足軽一同から寄進された御手洗石が苔むして現存している。

※明治5年(1872年)明治政府の命令で福岡県が編纂を開始した『福岡県地理全誌』犬鳴谷村の頁には戸数31戸の内、士族3戸・平民(旧卒族)28戸、人口141人男80人女61人、職分(農業)男35人女28人(工人)男2人女1人(雑業)男12人女4人(雇人)男1人女1人と記してある。

産業[編集]

  • たたら製鉄農林業などが主産業。製鉄幕末の頃の福岡藩営事業であり、元治元年(1864年)3月廃止。原材料砂鉄は宗像郡福間津屋崎などの海岸から採取しで犬鳴まで運搬されていたと言う。職工石見国から招き作業に従事させ、福岡藩直臣団である犬鳴住民とは接触を禁じていた。職工のは旅人墓と呼ばれ藩政時代は犬鳴住民とは一線を引かれていたためか、祟りがあると言われ住民は近寄る事をしなかった。墓は西山登山口の山裾に現在でもある。金山(かなやま)、多々良と言う当時を偲ばせる地名も残っていた。犬鳴谷は農耕不適地が多かったため、近隣の脇田・湯原・下などで農地を購入し農耕に従事していた家が多かったと言う。
  • 藩政時代は犬鳴住民の副業として木炭和紙製造が盛んで、和紙の方は現在の朝倉地方で生産されていた上座紙と共に鞍手紙と称され、幕府献上品となり福岡藩の名産物となった。なお、犬鳴には幕府から福岡藩へ下賜された朝鮮ニンジンの種を播き栽培したと言う畑跡もある。江戸時代中期、1748年寛延元年)幕府より福岡藩へニンジン種が下賜された時、栽培地の検討が行われ、藩医、白水幽水の犬鳴谷村が適地と言う意見で決定した。1762年宝暦12年)犬鳴谷で栽培された朝鮮ニンジンは幕府へ献上され、幕府御典医・井上交泰院その良品なるを称し、田沼主殿頭に示したと言う。小字名で人参谷の地名が遺っているし、別の所には畑跡も残存する。昭和40年代頃までは農林業に依存していたが、その後、農林業の衰退と共に福岡都市圏宗像地区などの会社官公庁勤務に従事する人が過半数を占めるようになった。

※江戸時代、吉川・中・山口地区(宮若市旧若宮町域)の年貢米や木炭などの林産物は宗像郡津屋崎の港に集積され、藩御用船によって福岡藩大坂蔵屋敷に運ばれていたと言う。 「出典:宗像郡の歩み」

村名の由来[編集]

  • 昔、ある猟師を連れて狩りに来ていた。その日はやけに犬が吠えるので、苛立った猟師は犬を射殺してしまう。その直後、猟師は黒竜らしき生き物に襲われた。そこで、猟師は犬が危険を教えてくれたことに気付き、犬を丁寧に供養した、というのが名前の由来。犬鳴ダムなども同様の由来である。この由来については、大阪犬鳴山に伝わる伝説と酷似しているので、それが間違って伝わったものと思われる。
  • 江戸時代の地誌などには犬鳴谷村と表記され、犬鳴村とはされていない。古文献によると犬鳴は1691年(元禄4年)成立の村落である。福岡藩庁は庄屋兼足軽組頭職に篠崎文内を任命、犬鳴へ派遣し、副として渡辺家が就任した。明治になり藩が消滅した時、篠崎、渡辺家は福岡県貫属士族となり他の犬鳴足軽は卒族として認められたが、明治5年の卒族廃止の時、平民に格下げになったと言うことである。糟屋郡久山町にある伊野大神宮には江戸時代中期、元禄5年9月に犬鳴足軽団から寄進された犬鳴山中と刻まれた御手洗石が遺っている。幕末、福岡藩中老職加藤司書は藩の許可を得て犬鳴に藩主別館を築き動乱に備え、犬鳴別館などを守備するため犬鳴入口である脇田構口、犬鳴峠、猪野越え、薦野峠に番所を設置、犬鳴足軽を配置し警戒にあたらせた。また藩主別館近くに楠木正成候を祀る神社を創建し御神体は正宗作の太刀だったと言う事である。怪奇談として藩政時代の頃、朝鮮ニンジン畑の監督と見廻りに向かう犬鳴足軽で藩庁から任命されたニンジン畑見廻役が山道で大蛇と遭遇し、を抜かし動けなくなったうえに、大口を開けた大蛇に飲み込まれそうになり、差していたで難を逃れ、山道を這いつくばって逃げ帰り、恐怖のあまり寝込んでしまい数日後には亡くなった。寝込んでいた足軽によると大蛇の口の中は、どんな理由からか白髪だらけだったと言う話。
村名の別の由来

その昔、脇田の山中へ二匹の犬を連れ猟に来ていた猟師は遭遇した大蛇に襲われてしまう。主人を救おうと犬たちは急いで村里に引き返し村民を連れてきたが、すでに猟師は飲まれていた。二匹の犬は村民と共に大蛇を退治し村民は腹から猟師を救出したものの猟師はすでに息絶えていた。二匹の犬は嘆き悲しみ、かわいがってくれた猟師を思い、一声、天に向かって鳴き叫び息を引き取った。脇田の村人が不憫に思い猟師ともども犬を埋葬、供養し石塔を建てた事から、この山を犬鳴と言うのが地名の由来。この石塔と言い伝えられる物は現在も犬鳴山中にあるが、存在地は非公開である。また犬鳴村役場の存在も聞いてはいない。犬鳴の各戸には御貸具足と言われる福岡藩庁から貸与された足軽具足、藩侯紋入り陣笠鉄砲、刀などが残っていたと言う。犬鳴の小字名で勘場と言う所(犬鳴ダム奥の親水公園一帯)は犬鳴足軽の人事管理および藩有林の運営事務を行うための勘定場があった所と言い伝えられる。地名で焔硝蔵と呼ばれていた所もあったが、この地は福岡藩庁が犬鳴足軽団に貸与していた鉄砲に使用する焔硝(火薬)を格納、管理していた蔵の跡地だと思われる。

  • 慶長6年(1601年)黒田長政国内巡見、鞍手郡犬鳴山見分(鞍手郡若宮記)
  • 元和元年(1615年)藩命により犬鳴山に諸木を植える(鞍手郡若宮記)
  • 元和年間(1615年~1623年)久原越(現・犬鳴峠)の道を開く(鞍手郡若宮記)
  • 寛永18年(1641年)植林面積五万坪に及ぶ(鞍手郡若宮記)
  • 貞享年間(1684年~1687年)犬鳴山から舟の櫓梶、炭薪を多く切り出し、勘場と言う役所を建てて支配する(犬鳴山古実)
  • 元禄4年(1691年)篠崎文内、犬鳴山に来、庄屋兼足軽組頭役を命じられる(犬鳴山古実)
  • 元禄9年(1696年)貝原益軒、甥の好古と共に犬鳴山に来る(新訂黒田家譜)
  • 享保12年(1725年)裏判所・郡奉行・郡代・山奉行、犬鳴山見分(犬鳴山古実)
  • 寛延元年(1748年)幕府より福岡藩へ朝鮮人参の種を下賜。福岡藩、犬鳴山で栽培。宝暦12年、幕府へ献上(新訂黒田家譜)
  • 安政元年(1854年)犬鳴鉄山仕組始まる(林政沿革調査資料)
  • 元治元年(1864年)犬鳴鉄山中止となる(林政沿革調査資料)
  • 元治元年(1864年)犬鳴谷別館建設につき福岡藩重臣・諸役人の見分あり(菊池六朔日記)
  • 元治元年(1864年)別館建設始まる(菊池六朔日記)
  • 元治2年(1865年)別館棟上、拝見人多し(菊池六朔日記・奇談日記)
  • 慶応元年(1865年)犬鳴谷別館完成(新訂黒田家譜)
  • 明治10年(1877年)西南戦争勃発。犬鳴から多数出征(藤嶋家文書)

江戸時代後期頃まで犬鳴に居住していた脇田の寶部家には西南戦争に出征した寶部乙吉が熊本鎮台司令長官「谷干城」から与えられた感状が現存している。

施設[編集]

※犬鳴に福岡藩が江戸時代後期、天保銭などの銭貨密造のために開坑したと言われる銅山跡がある。現在も巨大な坑口がそのまま残っている。

その他[編集]

  • 都市伝説犬鳴村伝説というものがあるが、この伝説に登場する犬鳴村は、実在した旧犬鳴村とは全く関係なく、そのような村は存在していない。犬鳴の通婚は宗像・糟屋地区が多く、村内で婚姻を繰り返していたわけではない。都市伝説で犬鳴村と誤解されているところは糟屋郡久山町大字柳ヶ原(柳ケ瀬ではない)と宮若市大字脇田字コイゲ(コスゲではない)で犬鳴とは歴史的に無関係である。柳ヶ原は現在、居住者はいないが、以前は最大で6軒の集落で茨木・荒巻・萩尾の3家が存在していた。それぞれ「本家」「分家」「隠居」「中」「下」「お茶屋」と言う屋号を持っていた。本家・分家・隠居・下は茨木姓、中が萩尾姓、お茶屋は荒巻姓だった。茨木家は江戸時代以来、山林の大地主で柳ヶ原だけではなく、オオイゲ・コイゲ(宮若市大字脇田)の地主だった。なお、柳ヶ原各家の菩提所は糟屋郡篠栗町津波黒の真光寺(浄土真宗西本願寺派)となっている。宮若市大字脇田字コイゲは、終戦後に開拓された開拓地であり、近年頃まで脇田在住の方が管理をされていた。また福岡県護国神社所有山林があることから山林内に神祠が祀られている。
  • 都市伝説で犬鳴は地図に無いだとされているが、これは正保年間(1644~1647)福岡藩が幕府に提出した国絵図には、犬鳴山について詳細に記録せず(山林古老伝)から想を得たものだと思われる。ただし、この年代頃には村落は存在していなかった。
  • 犬鳴村役場などは存在していなかった。藩政時代は庄屋兼足軽組頭職の篠崎家が中心的存在であり、明治の行政区画再編においての町村合併時には付近の村と共に吉川村となり、吉川村役場は脇田に存在していた。

※Yahoo!知恵袋において都城に住んでいると言うbananasmile_1992さんの犬鳴についての回答を見たことがあるが、驚くような画像が投稿されていた。犬鳴出身の母親の実家にあったと言う福岡藩庁からの御貸具足、福岡藩が開坑させた銅山跡の画像など。

脚注[編集]

  1. ^ 国土地理院の空中写真
  2. ^ 旧若宮町のあゆみ(年表)
  3. ^ 福岡藩犬鳴別館「宮若市指定文化財(史跡)」
  4. ^ 犬鳴ダムの観光案内板(西側一方通行道路) - ※創立日の記述が明治18年(1885年)と書かれており、吉川小学校公式ウェブサイトで書かれている明治15年(1882年)との矛盾有り
  5. ^ 宮若市立吉川小学校公式ウェブサイト - 沿革ページ
  6. ^ 宮若市役所-旧若宮町のあゆみ(年表)

関連項目[編集]