犬鳴峠

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福岡県道21号標識
犬鳴峠の位置
犬鳴峠の位置
犬鳴峠の
位置
犬鳴峠の位置
新犬鳴トンネル

犬鳴峠(いぬなきとうげ)は、福岡県宮若市と同県糟屋郡久山町との境を跨ぐである。

犬鳴峠という名前は側に位置する犬鳴山から来ている。由来は諸説あり、文献『犬鳴山古実』には「この山を犬啼と呼ぶのは谷の入口には久原へ越える道筋に滝があり、昔 狼が滝に行き着いたが、上に登れないことを悲しんで鳴いていた」と記されている。他にもこの犬鳴山はとても深いため、でも超えることが難しく泣き叫んだため犬鳴山と命名された説がある。他にも、律令時代稲置(いなぎ)の境界線に位置していたことから、次第に「いんなき」と変化していった説がある。筑前方言で犬は「イン」と呼ぶため、犬鳴峠は「インナキとうげ」とも呼ばれる[1]

犬鳴隧道(トンネル)工事は明治十七、八年頃(1884~1885)に糟屋郡及び鞍手郡連合会の決議において着手されたが技術の未熟さと莫大な工事費を要するために中止となったが、昭和二年(1927)十一月糟屋郡及び鞍手郡各町村会に於いて決議され、各町村長の署名捺印をもって県当局に犬鳴道路の陳情をした。犬鳴トンネル掘削工事については糟屋、鞍手両郡関係町村民一体となって幾多の努力を重ね、昭和二十四年(1949)十一月三日府県道福丸箱崎線(福岡県道21号線)が遂に開通した。翌年八月十日には国鉄バス(現JR九州バス)路線となり、直方~博多を結ぶ初めての路線バスが運行した。その後26年を経過した昭和五十年には変貌著しい社会のニーズに応えるために新犬鳴トンネルが開通し、実質的な福岡と北九州を結ぶ幹線道路となっている。

※犬鳴峠の軍用道路説はまったく根拠が無い。それは旧犬鳴トンネル口道路記念碑の碑文を見ても明らかである。

地理・交通[編集]

久山町の東端部および宮若市の西端部にあたり、峠の北側に犬鳴山(583.7メートル)がある。糟屋郡の久山町・篠栗町、古賀市・福津市側と宮若市側を分かつ犬鳴連峰を越える峠の一つで、福岡市直方市を結ぶ福岡県道21号福岡直方線が通る。同道路はヘアピンカーブが連続し、狭いトンネルをくぐる交通の難所であったが、1975年に新犬鳴トンネルが開通した後は道幅も広がっている。なお、周辺は山間部なので大雨や積雪などの影響で通行止めになることもある。

筑豊地域の中で福岡都市圏に寄りに位置し、北九州市・直方市と福岡市との近道として利用されることや、宮若市にはトヨタ自動車九州本社である宮田工場が存在する関係などで、交通量は非常に多く、大型トラックダンプカーなども多数通行している。

公共交通機関としては、宮若市・久山町・粕屋町を経由して福岡市と直方市を結ぶJR九州バスの路線(直方線)が犬鳴峠を越えて運行されており、新犬鳴トンネルの両端出口付近に停留所が設けられている。停留所名は宮若市側が「犬鳴口」、久山町側が「白木橋」である。

犬鳴山を挟んで峠と反対側に山陽新幹線が通っているが、峠近くの区域はすべてトンネル(福岡トンネル)内となっている。新犬鳴トンネル入口の銘板には「新犬鳴トンネル」(全長:1,385m)と記されている。

峠の約2km北東、宮若市側では1970年から犬鳴ダムの建設が進められ、1994年に完成した(完成当時は若宮町)。ダム湖は「司書の湖」という愛称がつけられ、展望台レストランなど観光整備もされている。また峠の入口には、温泉地である脇田温泉も存在する。

犬鳴峠の古称は久原越えと言われ、江戸時代初期、元和年間(1615年-1623年)に道が開かれたと言う事であるが、江戸時代より昭和初期ごろまで地元民からは重要視されていない峠道であったらしい。古老の言によると、犬鳴峠は非常な悪路であったため利用者はほとんどなく、地元、吉川村の住民は福岡、博多へ行くときは猫峠を越えて篠栗に出ていたという。また犬鳴住民も犬鳴峠は避け、現在は登山道になっている古賀市清滝に抜ける薦野峠を使用していたという。猫峠、薦野峠は江戸時代より昭和初期ごろまで地元民にとって生活上、重要な幹線道路であったという。江戸時代より糟屋宗像郡などからやって来る行商人は早朝、家を出立し猫峠、薦野峠を越え吉川村の集落などで夕刻ごろまで商取引をした後、集落の中で懇意にしている家に一泊し、朝早く峠を越え帰途についたという。宿泊代は売れ残り商品で済ませていた。犬鳴にも行商人が定宿にしていた家があり、そういった関係から宗像、糟屋郡の住民と婚姻などの縁組が多かったそうである。宮若市側、旧犬鳴トンネル脇にある林道奥は犬鳴の地籍ではなく、脇田の地籍である。

犬鳴隧道・旧道[編集]

宮若市側の犬鳴隧道入口。入口左に記念碑。

犬鳴隧道(いぬなき ずいどう、通称:旧犬鳴トンネル)は明治十七、八年頃(1884~1885)に糟屋郡と鞍手郡連合組合会の決議において工事が着手されたが工事技術の未熟さと莫大な工事費を要したため中止となり、昭和二十四年(1949)十一月三日大幅に遅れて完成した。翌年の八月に国鉄バス博多直方の運行が開始された。[2]。全長を示したプレート腐食が進み付いて解読不能なため、正確な距離は不明である。地図上の長さでは、おおよそ150メートルある。トンネル開通当時でも、峠全体が深山幽谷かつ薄気味悪い場所でもあるため、車の通行が極めて少ないとされている[3]。よく旧犬鳴トンネルと称されるが、銘板には「犬鳴隧道」と彫られており、国土地理院の地図でも「犬鳴隧道」の名称で記載されている。しかし宮若市役所文献では新旧区別のために犬鳴トンネルと称するなど、両方一概とされている面もある。

旧犬鳴トンネル口道路記念碑

府縣道福丸箱崎線開通記念碑

(道路記念碑裏面碑文) 文明者依交通開宜哉前筑鞍手郡犬鳴之嶮藩政時代通福岡唯一之要路也雖然峻坂三里羊腸老樹鬱葱昼尚暗可比蜀桟道人馬之来往危険至極多劬労犬猿亦以欲趣此峻坂悲鳴之故有此地名焉時恰遇明治之昭代郡民総皆出夫改修此峻坂年次爾来望平坦通路甚切也於此大正十三年以来挙郡一致要請県道編入遂至昭和二年有十箇年計画重要県道許可焉其後工事着々進捗仝八年更至見内務省指定県道請願許可仝十七年得鉄道々営路線隧道開鑿之確矣施工三閲年玆以昭和二十四年十一月三日挙開通式嗚呼快哉郡民百年之大望成就矣是可謂国家之息恵挙郡協力寶也今有志相謀建碑以欲後世徴于以撰文乃勒梗概云爾

銘曰 羊腸荊谷 虎貌巖顚 昔要害固 今交通填 遂裂地拓 忽補天穿 百年一夢 萬古十全 餘慶不尽 民衆長伝 昭和二十四年己丑歳晩秋

醉石

香月楽平 撰

筑水

谷 庫造

旧道は新トンネルへ付け替えられた後に閉鎖された旧トンネル経由の廃道と犬鳴ダムの建設により水没した部分の2箇所があるが、双方の距離は1km以上離れている。犬鳴峠関連で旧道と称する場合は主にダムとは直接の関連がない旧トンネル経由の廃道を指すが、誤解を避けるためこれらはそれぞれ別の区間として認識することが望ましい。旧道は不法投棄暴走族の溜まり場となったりするなどの問題が発生したことから、旧道と旧トンネルが共に閉鎖されている。旧トンネルの入り口はコンクリートのブロックで覆われており、そこに向かう旧道も柵で封鎖されている。閉鎖されている道路は道幅が狭く、一部では崖崩れなどで通行が非常に危険である。またトンネル内は素掘りになっており、上部から地下水が滴っているため、崩落の危険性もある。久山側は比較的旧トンネルにアクセスがしやすい状況にあったが、防犯上の理由により県道に面した旧道入り口は柵で封鎖され監視カメラが設置されている。無断立ち入りは警察に通報を行う旨の警告看板が設置されており、許可無く侵入した場合は法律条例等で処罰の対象となり得る。[4]。一方で宮若側旧道は車の通行が規制されているが、犬鳴山の藤七谷登山口から熊ヶ城に続く登山道が敷設されているため、登山者であれば通行は可能となっている[5][6][7]

犬鳴村伝説[編集]

「旧犬鳴トンネル近くに、法治が及ばない恐ろしい集落『犬鳴村』があり、そこに立ち入ったものは生きては戻れない」という都市伝説

この都市伝説に関しては諸説あるが、概ね以下の内容である。

  • トンネルの前に「白のセダンは迂回してください」という看板が立てられている。
  • 日本の行政記録や地図から完全に抹消されている。
  • 村の入り口に「この先、日本国憲法は適用しません」という看板がある。
  • 江戸時代以前より、激しい差別を受けてきたため、村人は外部との交流を一切拒み、自給自足の生活をしている。近親交配が続いているとされる場合もある。
  • 入り口から少し進んだところに広場があり、ボロボロのセダンが置いてある。またその先にある小屋には、が山積みにされている。
  • 旧道の犬鳴トンネルには柵があり、乗り越えたところに紐と缶の仕掛けが施されていて、引っ掛かると大きな音が鳴り、を持った村人が駆けつける。「村人は異常に足が速い」と続く場合もある。
  • 全てのメーカーの携帯電話が「圏外」となり使用不能となる。また近くのコンビニエンスストアにある公衆電話警察に通じない。
  • 若いカップルが面白半分で犬鳴村に入り、惨殺された。

これらの説について、そのような事実はない。犬鳴は江戸時代中期、元禄4年(1691年)以前に福岡藩庁が城下、地行町に居住していた御譜代組足軽に移住を命じ成立させた村落であり、激しい差別を受けていた等の事実はない。犬鳴にあった江戸時代中後期にかけての墓地群の改葬時(昭和40年頃)、多数の寛永通宝宝永通宝天保通宝文久永宝などの銅銭、糟屋郡須恵で製作された須恵焼の皿、茶碗や徳利、刀の残骸、鍔などが出土したということである。

江戸時代の地誌、筑前国続風土記、筑前國続風土記附録、筑前國続風土記拾遺、犬鳴を含めた吉川庄(旧若宮町の西半分にあたる地域=吉川村域)の総社である日吉山王宮の大宮司職・国井内膳が享保14年(1729年)に犬鳴の事を書き記した犬鳴山古実という地誌にも外部との交流を拒み自給自足の生活をしていた事や、江戸時代以前より激しい差別を受けていた事などは記してはいない。筑前国続風土記の著者である貝原益軒は元禄9年(1696年)に甥の好古と共に犬鳴を来訪している。住民の代々の菩提寺は犬鳴から数キロほどの所にある浄土宗曹洞宗の寺院であるが両寺の過去帳にも一般の檀家として記載してある。浄土宗寺院の本堂内には犬鳴檀家の祖霊位牌が安置してある御霊屋がある。

江戸時代末期 福岡藩中老加藤司書安政元年(1854年)に犬鳴日原鉄山、慶応元年(1865年)に有事の際の藩主の避難場所として犬鳴御別館を建造させ[8]、福岡藩の要所の一つとしていた為、日々多くの人の出入りがあったにも関わらず危険な集落の目撃談や原因不明の死亡者や行方不明者が出たという記述も無い事からそのような集落があったとは考えにくい。

犬鳴日原鉄山にまつわる話の中には製鉄に従事するたたら職人を石見国から招き 福岡藩御譜代組足軽である犬鳴村の住民との接触を禁じたが、住居や墓を犬鳴村内に置いた。墓は金山と穴蔵口と言われるところの2ヶ所にあり、この墓の中には文久二年(1862年)と同三年の年号銘や戒名が彫ってあるものがあり、子供の墓もある。犬鳴村の住民達には旅人墓(ロジン墓)と呼ばれるその墓に近付くと祟りがあるとして怖れられていたと言う。

実在した犬鳴村について[編集]

現在の宮若市の西端部にあたる区域に、かつて犬鳴村が実在した。鞍手郡に属したが、明治22年(1889年4月1日に町村制度が施行されるにあたり、周辺の4村(脇田・乙野・小伏・縁山畑)と合併して吉川村を発足させ、犬鳴村は吉川村の一集落となった。その後市町村合併が進められ、昭和30年(1955)3月1日吉川村は若宮町と対等合併した。平成18年(2006)2月11日の若宮町・宮田町の合併では「宮若市犬鳴」となり、現在も地名として残っている。

農林業などを主産業としていたが、産業を取り巻く事情の変化などにより廃れた。集落の中心地は犬鳴ダムの建設により、湖底に沈んだ。元居住者は周囲の集落へ移転。犬鳴の地名には現在一人だけ住民票を持つという居住者がいる。

先述の都市伝説とされる「犬鳴村と呼ばれる地域」とは全く関係がない。

ダム施工前に存在した犬鳴村(吉川村)の集落は、国土地理院の過去の航空写真で確認可能となっている[9]

事件・事故[編集]

1988年12月9日福岡県警は、田川郡方城町(現福智町)の犯行グループリーダーの少年(19歳、行商手伝い)を含めたグループ5人(16-19歳)を、殺人逮捕監禁容疑で逮捕した。調べでは、2人の少年が同年12月6日夕方に、田川市内で帰宅途中の工員(20歳、方城町)の軽乗用車を見つけて、「車を貸してくれ」と頼んだ。しかし断られたことに腹を立て、工員の車を奪った上で、仲間の家に工員を監禁した。その後、少年らグループ全員で、久山町の犬鳴隧道(旧犬鳴トンネル)まで連れ去った。その場で工員の手足を縛り、ガソリンをかけて焼殺した疑い[10]。その後、主犯は無期懲役判決を受けている。

2000年には犬鳴ダム死体遺棄事件が発生している。

峠周辺は交通の難所であり、冬場の積雪路面凍結が多いため、交通事故も多く発生している。

周辺で見られる主な動植物[編集]

周辺で見られる稀種植物

  • ナンゴクウラシマソウ
  • ヤマアジサイ
  • ジエビネ
  • キエビネ
  • ミヤマウズラ
  • シュンラン
  • アキチョウジ
  • カンラン
  • ムサシアブミ
  • タイリンアオイ
  • ヒトリシズカ
  • フタリシズカ
  • ヒメウラシマソウ
  • タンナトリカブト
  • ジンジソウ
  • ヤブムラサキ
  • ヤマボウシ
  • サイハイラン
  • フウラン
  • トチバニンジン
  • キンラン
  • ハンカイソウ
  • アヤメ
  • カノコソウ
  • コクラン
  • オニグルミ
  • リンドウ
  • オミナエシ
  • レイジンソウ
  • アケボノソウ 

参考文献[編集]

脚注[編集]

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出典[編集]

関連項目[編集]

座標: 北緯33度40分31.2秒 東経130度32分47.9秒