松平信輝

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松平信輝
時代 江戸時代前期 - 中期
生誕 万治3年4月8日1660年5月16日
死没 享保10年6月18日1725年7月27日
改名 亀千代(幼名)→斎宮助→晴綱(初名)→信輝→宗見(法号)
戒名 神龍院殿天遊宗見大居士
墓所 埼玉県新座市野火止の平林寺
官位 従五位下、伊豆
幕府 江戸幕府
武蔵川越藩主→下総古河藩
氏族 大河内松平家
父母 父:松平輝綱
母:龍泉院(板倉重宗の十一女)
兄弟 主殿、惣左衛門、勘解由、信輝、鶴千代、輝貞、主税
布宇、寸和(酒井忠義室)、宴、大、陽
正室;貞照院井上正任の娘)
喜予、信祝

松平 信輝(まつだいら のぶてる)は、江戸時代前期から中期の大名武蔵川越藩の第3代藩主。のち下総古河藩の初代藩主。松平伊豆守系大河内松平家3代。

生涯[編集]

万治3年(1660年)4月8日、川越藩2代藩主松平輝綱の四男として武蔵で生まれた。3人の兄が早世したため嫡子となり、7月18日には井上正任の娘と婚約し、延宝7年(1679年)7月25日に結婚した。寛文12年(1672年)に従五位下・伊豆守に叙任される。延宝8年(1680年)に信輝と改名した。

寛文11年(1671年)12月に父が死去したため、翌年2月に家督を継いだ。このとき、弟の輝貞に5000石を分与したため7万石となった。

元禄7年(1694年)1月7日に下総古河に移封される。宝永6年(1709年)6月18日、家督を長男の信祝に譲って隠居した。享保10年(1725年)6月18日に死去、享年66。

人物・逸話[編集]

元禄3年(1690年)時点の全国大名の評判記である『土芥寇讎記』では、信輝は善智で邪智が無いが、「此ノ将耳遠キハ、何ヨリ大将之疵ナリ。襲ズンバ、祖父信綱ノ役儀ナリ共、勤メラルベキ程ノ器量ナルニ、可惜也」と信輝の耳が遠いことを惜しんでいる。信輝は武芸を尊び、家臣も武芸に励む人が多かった。公儀を大切にし、忠を専らと心がけたという[1]

一方で父の輝綱が死去してわずか13歳で要地川越を継承したとき、必ず国替えがあると家臣や世人は思っていた。しかし祖父・信綱の余慶のおかげで「たとい祖父信綱の忠勤を上に思食さるると雖も、当伊豆守(信輝)其の器に非ずんば、争か御膝下之城に差置せらるべきや」とある。つまり信輝には器量無く老中になれない大名であるにも関わらず、川越在城を許されたのは祖父の余慶のおかげというのである。なお、この『土芥寇驟記』成立の4年後に信輝は古河に移封された[2]

年譜[編集]

  • 万治3年(1660年)4月8日、松平輝綱の四男として誕生。幼名は亀千代。
  • 寛文12年(1672年)2月9日、川越藩主になる。弟の輝貞に5000石を分与。
  • 寛文12年(1672年)12月28日、従五位下・伊豆守に叙任。
  • 延宝4年(1676年)2月28日、前髪をとる。
  • 延宝7年(1679年)7月25日、井上正任の娘と婚姻。
  • 延宝8年(1680年)、名を晴綱から信輝に改める。(月日不詳)
  • 元禄7年(1694年)1月7日、下総古河に転封。
  • 宝永3年(1706年)8月8日、母龍泉院が死去。
  • 宝永6年(1709年)6月18日、致仕。隠居後は宗見と号する。

脚注[編集]

  1. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P266
  2. ^ 大野瑞男『松平信綱』(吉川弘文館、2010年)P266、P267