大河内信古

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
 
松平信古 / 大河内信古
Okōchi Nobuhisa.jpg
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政12年4月23日1829年5月25日
死没 明治21年(1888年11月27日
改名 理三郎(幼名)→間部詮信→松平信古
→大河内信古
別名 松峰
戒名 瑞雲院殿松峰宗秀大居士
墓所 埼玉県新座市野火止の平林寺
官位 従五位下、伊豆守、刑部大輔
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行大坂城代
主君 徳川家慶家定家茂慶喜
三河吉田藩主→豊橋藩知事
氏族 間部家大河内松平家
父母 父:間部詮勝、母:簾(松平康任の娘)
養父:松平信璋
兄弟 間部右京間部詮実大河内信古間部詮善間部虎之助
大河内正質菅沼定長杉浦正尹
間部詮道室賀正祥松平忠禎、常
通(市橋長和室)、正、泰、鉚(板倉勝弘室)
福聚(大沢基寿室のち浅野友三郎室)、薬
普(太田資美室)、誠
正室:房姫松平信順の娘、信璋の養女)
継室:鋹子溝口直溥の娘)
某、大河内信好大河内小三郎大河内信成
一子(大河内正敏妻)

大河内 信古(おおこうち のぶひさ)は、三河吉田藩の第7代(最後)の藩主。松平伊豆守大河内松平家11代。はじめ松平信古と名乗る。

生涯[編集]

文政12年(1829年)4月23日、越前鯖江藩間部詮勝の次男として江戸で生まれる。間部家時代は元服後に間部詮信を名乗った。嘉永2年(1849年)9月24日に吉田藩主松平信璋の没後婿養子に迎えられ、同26日に信古と名乗る。同年11月15日に家督を相続し、12月1日に家督の御礼として初めて将軍家慶・世子家定に拝謁する。その後奏者番寺社奉行を歴任する。

万延元年(1860年)5月に正室が男子を出産するが、母子ともに亡くなってしまう。信古は異姓養子であったため、大河内松平家の血縁の女性を継室に迎えることが求められ、文久元年(1861年)12月10日に松平信祝の娘の血を引く[1]越後新発田藩溝口直溥の娘・鋹子を継室に迎えた。

文久2年(1862年)6月30日に大坂城代に登用され大坂に向かうが、この時に継室の同伴を願い出て許されている。大坂城代在任中は幕末の動乱期であり、約200年ぶりの将軍上洛生野の変、第一次長州征討など様々な難問が山積していた時期であった。

慶応元年(1865年)1月に江戸に召し出され、2月15日に溜間詰格となる。溜間詰は特定の親藩譜代数家が世襲するもので、重要事について幕閣の諮問を受ける地位であった。これに老中を永年勤めて退任した大名が1代限りで溜間詰格として加わることがあった。したがって、老中を経験していない信古が任命されたのは異例の抜擢と言える。

慶応3年(1867年)12月13日、将軍慶喜に合流するため幕府の軍艦翔鶴丸品川沖を発する。途中暴風雨に見舞われ、同月25日にようやく天保山沖に到着する。しかし慶応4年(1868年)1月3日に鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れ、慶喜がひそかに大坂を脱出すると信古も大坂を離れ、陸路を経て吉田城へ帰城する。それまで吉田藩は穂積清軒らの佐幕派と勤王派に分かれていたが、間もなく新政府軍に加わり、家名も「松平」から「大河内」に復姓した。

新政府側についた吉田藩は、鳥羽・伏見で旧幕府軍を指揮した大河内正質(信古の実弟)が藩主であった上総大多喜藩の領知人民を預けられ、さらには江戸を追放された信古の実父・間部詮勝の護送役も命じられた。

明治4年(1871年)7月14日に廃藩となると東京谷中へ移住し、1884年(明治17年)7月8日に子爵を叙爵した[2]1888年(明治21年)11月27日に死去。享年60。

人物[編集]

絵画を好み、吉田藩御用絵師稲田文笠に師事した。松峰という画号を持ち、多くの作品を残している。

年表[編集]

※ 日付は1871年(明治4年)まで旧暦。

  • 1849年嘉永2年)11月15日、家督相続し、三河国吉田藩主となる。
  • 1853年(嘉永6年)3月30日、幕府奏者番に就任。
  • 1859年安政6年)2月13日、寺社奉行を兼帯。
  • 1862年文久2年)6月30日、大坂城代に異動し、従四位下に昇叙。伊豆守如元。
  • 1864年元治元年)12月22日、刑部大輔に転任(同年11月10日、老中に松前崇広が就任したことにより、内規により転任)。
  • 1865年慶応元年)2月15日、大坂城代を免じ、溜間詰格となる。
  • 1868年(慶応4年)2月、松平の家名を大河内に変更。
  • 1869年明治2年)6月19日、吉田藩知事に就任。
    • 8月7日、吉田の地名を豊橋に変更し、豊橋藩となる。
  • 1871年(明治4年)7月14日、豊橋藩は廃藩となり、藩知事退任。
  • 1884年(明治17年)7月8日、子爵の爵位を授かる。

栄典[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 松平信祝―留姫(溝口直温正室)―溝口直信……溝口直溥―鋹子
  2. ^ 『官報』第308号、明治17年7月9日。
  3. ^ 『官報』第1351号「叙任及辞令」1887年12月28日。

参考文献[編集]

  • 日本史籍協会編・続日本史籍協会叢書『増補幕末明治重職補任 附諸藩一覧』東京大学出版会
  • 児玉幸多監修・新田完三編『内閣文庫蔵・諸侯年表』東京堂出版
  • 東京大学史料編纂所「維新史料綱要データベース」
  • 大日本近世史料『柳営補任』
  • 『豊橋市史』第2巻・第6巻


日本の爵位
先代:
叙爵
子爵
吉田大河内家初代
1884年 - 1888年
次代:
大河内信好