村上世彰

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むらかみ よしあき
村上 世彰
生誕 (1959-08-11) 1959年8月11日(58歳)
国籍 日本の旗 日本
職業 実業家
著名な実績 自身のホームページ(2015年12月4日開設)に「株式会社TSIホールディングスに対する10年以上に渡る長期投資について」を掲載。 村上財団のホームページ(2016年10月15日開設)
子供 村上絢
公式サイト 村上財団のホームページ(2016年10月15日開設)

村上 世彰(むらかみ よしあき、1959年8月11日 - )は、シンガポール在住の投資家大阪府大阪市出身。

人物[編集]

M&Aコンサルティングを核とする村上ファンドを創設した人物。大学卒業後、通商産業省(現経済産業省)に入省し公務員として約16年勤務する中で、日本経済の永続的な成長のためにはコーポレート・ガバナンスが大切であることを実感し、自らがプレーヤーとなって変えていこうと決意して40歳を目前にファンドを立ち上げる[1]現金や遊休優良資産を抱えていながら有効活用していない上場会社株式を取得し、日本の株主の(もしくは一般化された日本人像として)多くが経営関与には消極的な中で、積極的に株主提案を行い企業価値の向上を計り、株主を軽視する経営者に対しては株主総会などで経営陣を批判・叱咤することなどから、「もの言う株主」として注目を集めた。投資対象とした会社の株を購入した上で、利益の上がる事業に専念させて会社の株主価値向上を目指す投資手法を採った。代表的な案件に、東京スタイルニッポン放送阪神電鉄などがある。投資規模が拡大の一途をたどる最中、ファンド設立から6年後、いまだ法的解釈は賛否両論あるものの、ニッポン放送株式のインサイダー取引の容疑で逮捕された。 主義主張に「企業にとってのお金は人間の身体でいうなら血液、企業成長にはお金(血液)の流れが大切であり、流れが滞ると企業の健康に悪い影響が出る」というものがある[1]

村上ファンドと近い時期に、同じく積極的な経営手法で注目された元ライブドア社長堀江貴文と関連して語られることも多い。

ニックネームは「せしょう」または「せいしょう」。世彰を本来の「よしあき」でなく、音読みさせて「せしょう」と読む人が多いためだという(一種の有職読み)。小学校・中学校時代は、世彰ではなく「せいしょう」と呼ばれていた為、本名の呼び名を知らない人もいた。

コーポレートガバナンス・コードやスチュワードシップ・コード、伊藤レポートといった上場企業機関投資家に対する指針が国によって示された中、自身が持ち続けてきた上場企業のあるべき姿についての信念も単行本の形で世に出すことを決意し、2017年6月、自著『生涯投資家』(文藝春秋)を上梓。

経歴[編集]

M&Aコンサルティング設立前[編集]

主に中華民国(台湾)との貿易を営んでいた華僑貿易商である在日台湾人の村上勇の次男として大阪道頓堀界隈に生まれる。台湾生まれの父は「華僑とインド人のハーフ」といわれる[2]大阪市立道仁小学校を卒業。なお、小学生の頃には、すでに株取引のキャリアはスタートしていたという話がある。これは、父親が、小遣いの支払いを廃止する代わりに、100万円の現金を渡したことに端を発するもので、この資金を元手に、株式市場で小遣いを捻出していたとされる。 小学校時代はとても元気で活発な性格で、所謂ガリ勉タイプではなく、近所の友達ともよく遊んでいたという。学校では教師の間違いを指摘するなどしていた。

その後、灘中学校・高等学校に進学。高校時代はせんだみつおの弟子になることが夢であり、「せんだの人生には偽りがない」という文章を文集に残している。また、高校時代に後にパートナーとなる丸木強と出会っている。しかし学校に行っても学校行事には参加せず、校内の割り当て仕事(たとえば掃除当番)も「試験や受験が近づいたら、学校に行くよりも家で勉強する方が効率がいい」「掃除なんかやっている暇があれば、自分だけ先に帰って勉強したい」との理由で不参加を通していた[3]

高校では220人中200番まで成績が下がったこともあった[3]。教科は理系科目が得意であったが、文系科目が苦手なために1年間の浪人生活を経験。1979年、東京大学文科1類(法学部進学課程)に進む。

大学生活は、父の所有する東京都港区高輪の高級マンションから、ポルシェに乗って通学するという豪華なものであった。1983年東京大学法学部を卒業。東大法学部同期の友人に参議院議員林芳正伊藤芳朗弁護士(伊藤は灘高の1年後輩)などがいる。同年、通商産業省(現経済産業省)に入省。通産省時代に近未来小説「滅びゆく日本」を執筆するも、上司が反対したため出版には至らなかった。

通産省時代は在南アフリカ日本大使館一等書記官としてアパルトヘイト時代の南アに赴任。口が災いして左遷された結果だったと伝えられている[3]。通産省時代から、多くの上場企業の役員に会い、面会の度に有価証券報告書を読み込み、その会社の経営状況をイメージした上で話をしていたという。しかしながら面談相手の上場企業の役員には自身の会社の財務状況をよく理解していない人物が多かったことに驚き、日本企業はこのままではグローバルな競争に負けてしまうのではないかと危機感を持つ。対して90年代のアメリカでは株主が経営者を監視する仕組みとして、コーポレート・ガバナンスという言葉が当たり前のように使われていたことから日本でもコーポレート・ガバナンスの意識を高めることが日本経済全体の健全な発展のために必要だと強く信じ、今日にいたる[1]

M&Aコンサルティング設立後[編集]

1999年、「コーポレート・ガバナンスのルールを作る立場からプレイヤーになりたい」と生活産業局サービス産業企画官を最後に通産省を退官し、当時アメリカで一躍脚光を浴びていた経営者に改革を迫るアクティビストファンドの先駆者であるロバート・モンクス氏の、企業のあるべき姿を追い求めた理念追及主義のLENSファンドをロールモデルとして[1]、M&Aコンサルティングを設立。ケイマン諸島籍の投資信託として「MACジャパン・アクティブ・シェアオーバー・ファンド」を設定し、傘下の特別目的会社投資事業組合、MACアセットマネジメントなどの組織・企業を通じて日本企業への投資を開始する。代表的な案件としては、時価総額以上のネットキャッシュを保有するにもかかわらず、大きな経営改革を行わず放漫経営を続ける東京スタイルに配当・自己株式取得などを求めてプロキシーファイト(議決権争奪戦)を行った事例がある。またニッポン放送の案件では、フジサンケイグループにおいて圧倒的な存在感を放つフジテレビがニッポン放送の子会社となっており、ニッポン放送がフジテレビ筆頭株主として3割を超える株式を所有していたことから、上場企業として、いびつな親子上場は解消されるべきという思いから投資。結局ニッポン放送はフジテレビのTOBライブドアの買い進めによって上場廃止が決定、そこから3年を経た2008年10月、グループは認定持ち株会社体制に移行した。阪神電気鉄道では本業の鉄道事業の利益水準が他の私鉄に比べて低かったことから、大きな改善と改革の可能性に期待して投資。さらに、自身が生まれ育ち、交通事情を熟知している大阪で、阪神電鉄グループの再編にその他の私鉄も巻き込み、利便性を第一として路線の整理、運営の統合を目指すべきだと考えていたという。将来の改革に向けての交渉を進める中、阪急から阪神に対するTOBが発表された。その直後、東京地検特捜部からニッポン放送株式のインサイダー取引の疑惑で自身に対して呼び出しが行われたことから、阪急側の構想の妥当性について異議を唱えることができないままTOBに応じることとなった[1]。のち、2006年5月10日シンガポールへの進出を発表した。

2006年3月から同年6月までソフトブレーン社外取締役を務めた。

村上ファンドライブドアから重要情報を得てニッポン放送株を買っていた」というインサイダー取引の疑惑がマスコミで騒がれ始め、東京地検特捜部の捜査の動きがマスコミに流れはじめるが本人は疑惑を否定。2006年6月5日、11時に東京証券取引所で記者会見を行い、これまでの姿勢から一転ライブドアの当時の取締役などから重要な情報を「聞いちゃった」と告白した、東京地検特捜部の取調べに対する調書にサインをしたことを明らかにし、証券取引法違反(インサイダー取引)の容疑を全面的に認めたが、それは意図的なものではなくあくまでも過失だったと主張した。(後に、ファンドと社員を守るため、自身の過失であったと記者会見で述べざるを得なかったとしている[1]。)また、ファンドマネージャーの職を退くと共に証券業に今後関わらない意向も表明した。その後同日17時前、東京地検特捜部の捜査によって逮捕勾留された。

逮捕後[編集]

その後、2006年6月23日、証券取引法のインサイダー取引容疑で起訴される(村上ファンド事件)。東京地検特捜部の主張によると、一連の取引で得た利益は30億円で、インサイダー取引としては過去最高額である。

2006年6月26日に、保釈東京地裁に認められ、保釈金5億円を小切手で支払い保釈された。村上本人は、「家族や社員が心配だから」として早期の保釈を望んでいたとされている。

2006年9月15日東京地検、東京地裁、村上の弁護人の3者により公判前整理手続が行なわれた。村上は当初、ライブドアによるニッポン放送株大量買い占め情報を堀江貴文前社長から聞きニッポン放送株193万株を買い付けたというインサイダー取引の容疑の起訴事実について、「聞いちゃったかと言われれば・・・聞いちゃってるんですねぇ」と認めていたという。しかし、この日には、村上は買い占め情報を知った時期を「ライブドアが取締役会で正式決定した後」と述べ、起訴事実を一転・全面否認した。

2006年11月30日に初公判。村上は起訴事実を否認、その後も一貫して無罪を主張し続けた。2007年6月12日に結審し、村上は「反省すべき点は多かったが、意図的に法を犯すことはしていない」と改めて否認した。

東京地裁(高麗邦彦裁判長)は同年7月19日、村上に対して懲役2年、罰金300万円、追徴金11億4900万円(求刑:懲役3年、罰金300万円、追徴金11億4900万円)の実刑判決を言い渡した。インサイダー取引事件での実刑判決は異例であり、また追徴金の額も史上最高である。村上側はこの判決に対して即日控訴の手続きをとった。なお閉廷後直ちに村上は拘束されたが、追加の保釈金2億円を再び小切手で支払い釈放された。この頃から村上は活動の本拠地をシンガポールへ移動するが、毎月のように日本へ戻って指示を飛ばすようになった[4]。2007年5月、中間支援団体チャリティ・プラットフォーム(チャリ・プラ)を創設。「日本の資金循環」という視点から、上場企業におけるコーポレート・ガバナンスを追求してきた傍ら、社会的課題に取り組む非営利団体にも、必要とされる資金が行き届いていない現状に問題意識を抱き、ファンドの解散を機に、自ら取り組むことを決意。NPOが継続的に資金を集められる仕組みづくりに、創設者、アドバイザー、支援者として取り組み、自身の関連会社を通じて10億円を超える資金支援も行った。チャリティ・プラットフォームは、日本のNGO活動におけるのリーダー的な存在であるピースウィンズ・ジャパン大西健丞とともに、緊急災害に即応するCivicForceを立ち上げた。そのほか、非営利団体へのクラウドファンディングを行うJustGivingをイギリスからライセンスを得て立ち上げるなど、既存団体の支援のみならず、社会貢献事業におけるインキュベーション活動も積極的に支援した[1]

2007年12月26日NPOに寄付する中間支援団体チャリティ・プラットフォーム(チャリ・プラ)の理事に就任[5]。(2011年の東日本大震災では震災翌日からCivicForceが現地に入り活動し多くの命を救う。また村上自身は震災後すぐに南三陸町へ行き、炊き出しボランティアとして、1000個ほどのハンバーグを自ら焼き、また友人知人に声を掛けて現地への支援物資の収集や運搬のサポートを行うなど、積極的な支援活動を行った[1]。) 一方では、2008年10月に村上ファンド関係者が入手したレノの共同経営に参加[4]

2009年2月3日東京高裁は懲役2年執行猶予3年を言い渡した。罰金300万円と追徴金約11億4900万円はそのままとした。 なお法人として同罪に問われた投資顧問会社MACアセットマネジメント」は、一審判決は罰金3億円だったのを罰金2億円とした。村上・MACアセットマネジメント各被告側は即日上告の手続きをとった。

2010年、レノは自社株買いにより村上との資本関係を解消した。法的整理を検討していたゼクスから、入居者救済と実父が入居していたこともあり、高級老人ホーム3箇所を約100億円で買収した[6]

2011年6月7日、最高裁第1小法廷桜井龍子裁判長)は上告を棄却し、懲役2年執行猶予3年、罰金300万円と追徴金約11億4900万円の有罪判決が確定した[7]。一方、村上は同年5月、シンガポールに新会社「CARON」を設立、兄の世博(元三菱商事勤務)が永住権を取得して役員に就任[4]

表舞台への復帰[編集]

2013年頃からは、ファンドマネージャーではなく、200億円とも目される個人資産をバックにした[8]投資家として、本人名義およびC&I Holdings・南青山不動産といった投資会社名義で株式投資を再開。(一部の報道ではこれらの会社を指して「新生・村上ファンド」と呼ぶこともある[9]

2015年6月には、C&I Holdingsが投資先の黒田電気に対して自身を含む4名の社外取締役選任を求める臨時株主総会招集請求を行うなど[9]、かつての「もの言う株主」のポジションを取り戻しつつある。

2016年8月、一般財団法人村上財団を設立、長女村上絢が代表理事に就任した。チャリティ・プラットフォームの設立以降、様々なクラウドファンディングサイトが次々と立ち上がり、多くの人々が寄付に対して積極的に動くようになったことから、次に、自身が主体的な寄付者として日本の非営利団体の活動を応援すべく、ファミリー財団の設立に至った。寄付には、営利事業により得た収益から充てるとしている[1]

強制調査[編集]

2015年11月25日、証券取引等監視委員会により金融商品取引法違反(相場操縦)容疑で自宅や長女宅などが強制調査された [10]。これに対して12月「相場操縦をする意図も理由もないこと」「借名口座は使っていないこと」「空売り自体が市場に誤解を与えるものではないこと」を挙げて疑惑に反論した[11]。その後、2016年3月、村上側は「相場操縦罪は成立しない可能性が濃厚」との調査結果を監視委に提出した[12] 。この調査結果は、村上側の依頼により編成された第三者委員会(委員長=宗像紀夫 ・弁護士)が問題の株取引を調査し、大学教授ら専門家に意見を聞き、過去の相場操縦事件と比較するなどして検証を進めたという[13] 。第三者委員会委員長の宗像紀夫は元東京地検特捜部長、内閣官房参与。 また、強制調査を受けた長女村上絢は当時妊娠7カ月で、産休中で業務から離れており、嫌疑対象の時期を含め売買判断に全く関与していなかったにもかかわらず度重なる調査を受けたストレスから死産する[1]。これを契機に自身が再び表に出て自分の理念や信念ときちんと伝えなければならないと思い、自身が持ち続けてきた上場企業のあるべき姿についての信念を単行本の形で世に出すことを決意し[1]、2017年6月、自著『生涯投資家』(文藝春秋)を上梓。 2015年12月、2016年8月、2017年5月現在、強制調査の結論は出ていない。

著書[編集]

  • (赤石浩一、小川典文と共著)『市場「淘汰」されるサービス業·顧客「選択」されるサービス業-サービス·プロバイダーが市場原理と国際競争にさらされる時代 』 ダイヤモンド社、1999年2月、ISBN 4-478-50163-7
  • 村上世彰編著 / 大石邦弘ほか著『アウトソーシングの時代-2010年、33兆円市場を拓く事業群』 日経BP社、1999年4月、ISBN 4-8222-9114-6
  • (小川典文と共著)『日本映画産業最前線』 角川書店、1999年5月、ISBN 4-04-883576-9
  • 村上世彰著『生涯投資家』文藝春秋、2017年6月、ISBN 978-4-16-390665-2

脚注[編集]

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 村上世彰著『生涯投資家』文藝春秋、2017年6月、ISBN 978-4-16-390665-2
  2. ^ 週刊文春2006年6月15日号。
  3. ^ a b c 小山雄人「村上世彰の罪と罰 モラルなき友との四半世紀 」(『新潮45』2006年9月号)。
  4. ^ a b c 新生・村上ファンド その野望と内情―この先、村上氏はどう出るのか?」、週刊東洋経済 2013年2月9日号
  5. ^ 週刊東洋経済2008年2月16日号
  6. ^ 老人ホームを営む「村上ファンド」
  7. ^ “村上ファンド元代表の上告棄却”. J-CASTニュース. (2011年6月8日). http://www.j-cast.com/2011/06/08097842.html 2012年5月15日閲覧。 
  8. ^ 新生・村上ファンド その野望と内情”. 東洋経済オンライン (2013年2月11日). 2015年7月28日閲覧。
  9. ^ a b “新生”村上ファンド、再び表舞台に出た真意は?”. 会社四季報オンライン (2015年7月28日). 2015年7月28日閲覧。
  10. ^ 村上元代表を強制調査 アパレル株の株価操作の疑い 証券監視委
  11. ^ 村上ファンドは本当に「相場操縦」をしたのか
  12. ^ 村上ファンドのTSI株相場操縦罪、成立しない可能性濃厚=第三者委
  13. ^ 村上氏株取引『相場操縦に当たらず』 第三者委が報告書」(日本経済新聞 2016年3月25日)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]