三田尻中関港

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三田尻中関港
Mitajiri-Nakanoseki port.JPG
三田尻中関港遠景(三田尻地区)
所在地
日本の旗 日本
所在地 山口県防府市
詳細
管理者 山口県
種類 重要港湾
統計
統計年度 2009年度
貨物取扱量 5,870,000トン
コンテナ数 52,920個
主要輸出品目 完成自動車など
主要輸入品目 自動車部品、化学薬品など

三田尻中関港(みたじりなかのせきこう)は、山口県防府市にある山口県管理の港湾。隣接する三田尻港と中関港を総称して呼ばれる。港湾法上の重要港湾港則法上の特定港に指定されている。

歴史[編集]

関ヶ原の戦い以後、毛利氏の御船手組(毛利水軍)が防府を拠点とするに当たって三田尻の地を軍港・商港として整備したのが始まり。参勤交代の経路として萩城から防府まで整備された萩往還の終着点として、長州藩(萩藩)の海の玄関口となった。また、江戸時代に長州藩はを増産する「三白政策」を実施しており、これらの商取引の為に活用された。特に三田尻は、防長2ヶ国の製塩の半分を占める規模(塩業者201軒、塩の生産36万石)を誇り、播磨国赤穂に次ぐ国内第2位の大製塩地となった[1]。この頃には廻船業が発達したこともあり、西廻り航路(北前船)によって塩などが山陰北陸東北まで出荷されていた[1]

産業の変化により、1960年昭和35年)までには防府市内の製塩業は終焉を迎え得たものの、水資源の豊富な近隣の塩田跡に工場群が進出するのにあわせ、工場生産品を輸出する港湾として設備の拡充が続けられた。昭和初期より三田尻地区への工場誘致運動が活発化しており、1933年(昭和8年)には福島人絹[2]が、翌1934年(昭和9年)鐘淵紡績(旧カネボウ)が進出して、工場が設立された。1959年(昭和34年)6月に重要港湾となり、1964年(昭和39年)には「周南工業整備 特別地域」の指定を受けている[3]。さらに、自動車メーカーのマツダが主力工場の一つを防府市に設置して1982年(昭和57年)9月より操業を始め、近年では中関地区を中心に自動車の輸出港としての活用がめざましい。

主な施設[編集]

三田尻港に停泊する「ニューのしま」

いずれも商港(工業港)であるが、三田尻港からは防府市野島への高速艇による旅客航路がある。

三田尻地区(築地地区)[編集]

カネボウ向けなどの資材・製品の取引が主であったが、昨今は、トヨタ自動車の車両輸送基地としての役割も担っている。 また、2009年平成21年)2月には三田尻部分が「みなとオアシス三田尻」として仮登録され(2015年7月に正式登録[4])、築地にある水産総合交流施設「潮彩市場防府」を中核として、周辺の緑地帯や大型商業施設及び歴史的観光拠点と連携した港環境の整備が検討されている。


中関地区[編集]

水深12メートルの岸壁を持つことから、自動車運搬船の入港を可能としており、マツダ防府工場が生産している完成自動車の輸出が行われている。また、水深7.5メートルの岸壁とガントリークレーン1基(2000年設置)を持つ中関コンテナターミナル[3]には、中国上海などとのコンテナ定期航路も設けられコンテナ貨物の取引も増えている。

取扱貨物量[編集]

2009年の主な取扱貨物量は以下のとおり[3]

  • 港湾取扱貨物量:587万トン(輸出427万トン、輸入15万トン、移出71万トン、移入75万トン)
  • コンテナ取扱個数:52,920個(空コンテナ20,861個、外貿29,274個、内貿2,785個)

参考[編集]

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b 三田尻塩田の歴史 - 防府市
  2. ^ 現在の日東紡績の前進である福島紡績が防府に設立した株式会社。第二次世界大戦期には東洋紡績と合併して軍需工場となった。(山口県を中心とした産業発展の歴史(昭和編Ⅰ) (PDF) - 中国電力 エネルギア総合研究所 エネルギア地域経済レポート No.449 2011年12月 )
  3. ^ a b c 三田尻中関港 (PDF) - 宇部港湾・空港整備事務所
  4. ^ 「みなとオアシス三田尻」正式登録のお知らせ (PDF)”. 国土交通省中国地方整備局 (2015年7月14日). 2015年10月3日閲覧。

外部リンク[編集]