ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ
| ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ | |
|---|---|
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1972年 | |
| 基本情報 | |
| 出身地 |
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| ジャンル | ジャズ・ロック、ポップ・ロック、R&B、サイケデリック・ロック |
| 活動期間 | 1967年 - 1981年、1984年 - |
| レーベル |
コロムビア・レコード ABCレコード ライノ・エンタテインメント ソニー・レコード モバイル・フィデリティ ウーンデッド・バード・レコード |
| 公式サイト |
bloodsweatandtears |
| メンバー |
Brad Mason Jonathan Powell Keith Paluso Glenn McClelland Dylan Elise Ken Gioffre Ric Fierabracci Julian Coryell Michael Boscarino |
ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ[注釈 1](Blood, Sweat & Tears、BS&T)は、アメリカで1960年代後半から1970年代にかけて活躍したロック・バンドである。
シカゴとともに、ブラス・セクションを導入したロック・バンドの先駆的存在として知られる。
バンド名はジョニー・キャッシュが1963年に発表したアルバムのタイトル[注釈 2]をそのまま拝借したもの。
来歴
[編集]1967年初頭、ブルース・プロジェクトに在籍していたアル・クーパー(ボーカル、キーボード)は窮屈になった同バンドを辞した。彼はセッション・バンドを結成するためにボビー・コロンビー(ドラムス)に相談してメンバー募集をほぼ一任し、追ってブルース・プロジェクトを抜けたスティーブ・カッツ(ギター)を加えクーパーの名でいくつかの音楽番組とコンサートで終了する予定だったが、経費増大でコンサートの渡航費用には届かなかった。そこでカッツは、このセッション・バンドから新しいバンドを結成してクーパーの持つ構想実現を進めることを助言する。
同年コロムビア・レコードとの契約を得て、アレンジでは高名でのちのブラス・ロックの大立者となったジェイムズ・ウィリアム・ガルシオ[注釈 3]にプロデュースを依頼したが断られたため、ジョン・サイモンを起用した。
1968年2月21日、クーパーの見聞と体験からストリングスやホーン・セクションのアレンジを多様化し、一部でカッツがリード・ボーカルをとるファースト・アルバム『子供は人類の父である』(Child Is Father to the Man)を発表。同アルバムは冗長なサイケデリック・ロックを追随せず、ビッグバンドや欧州のポップスなどを範としボサノヴァなどを取り入れフォーク・アーティストの楽曲を含み、発表当時[1][注釈 4]より後世の評価が高いものとなった。
契約期間満了などによりランディ・ブレッカー(トランペット)、ジェリー・ワイス(トランペット)が脱退する。主要メンバーだったクーパーも音楽に関する意見の違いからカッツとコロンビーによって排除された。クーパーの後任としてローラ・ニーロを勧誘したがこれは実現せず、デヴィッド・クレイトン・トーマス(David Clayton-Thomas)らが加入。バンドの初心は失われたが、以後ロックとジャズを融合させ、リズム・セクションに重厚なホーンを加えたサウンドを強調し人気を博した。コロンビーの類いまれなるドラミング・センス[注釈 5]により、ミュージシャンたちからも注目され支持されるようになる。メンバー全員が大学卒というインテリバンドで、コロンビーはニューヨーク市立大学シティカレッジ卒のMBA取得者だった。
1968年、ガルシオをプロデューサーに起用してセカンド・アルバム『血と汗と涙』を発表。同アルバムは全米アルバムチャートで7週連続1位、シングルカットされた「スピニング・ホイール」「ユーヴ・メイド・ミー・ソー・ヴェリー・ハッピー」「アンド・ホエン・アイ・ダイ」はいずれもBillboard Hot 100で2位を記録した。第12回グラミー賞で最優秀アルバムなど4部門を受賞し[1]、彼等はブラス・ロックの中心的バンドとなった。1969年8月にはウッドストック・フェスティバルに出演。1970年6月から7月にかけて東側諸国のユーゴスラビア、ルーマニア、ポーランドでコンサートを開催。1971年2月、初来日して日本武道館でコンサートを行なった[2]。
クレイトン・トーマスの力強い個性的なボーカルもバンドの魅力の一つだったが、BS&Tはあたかも自分のワンマンバンドであるかのような彼[注釈 6]のふるまいにメンバーの多くが反発して脱退した。ロックがビッグビジネス化する前の時代ゆえ、脱退者の多くは音楽ではなく実業界に転出してしまった。コロンビーは後にコロムビア・レコードの副社長になった。
メンバーはオリジナルから大幅に代わっており新曲の発表もないものの、2004年までクレイトン・トーマスを中心に活動。彼の脱退後もアメリカや世界各地でライブ活動などを行っている。
2023年、ドキュメンタリー映画"What the Hell Happened to Blood, Sweat & Tears?"[3]が公開された。
ディスコグラフィ
[編集]スタジオ・アルバム
[編集]- 子供は人類の父である - Child Is Father to the Man (1968年、Columbia)
- 血と汗と涙 - Blood, Sweat & Tears (1968年、Columbia)
- ブラッド・スウェット&ティアーズ3 - Blood, Sweat & Tears 3 (1970年、Columbia)
- B, S&T:4 - B, S & T; 4 (1971年、Columbia)
- ニュー・ブラッド - New Blood (1972年、Columbia)
- ノー・スエット - No Sweat (1973年、Columbia)
- ミラー・イメージ - Mirror Image (1974年、Columbia)
- ニュー・シティー - New City (1975年、Columbia)
- More Than Ever (1976年、Columbia)
- ブランド・ニュー・デイ - Brand New Day (1977年、ABC)
- ニュークリア・ブルース - Nuclear Blues (1980年、MCA LAX Records)
ライブ・アルバム
[編集]- イン・コンサート - In Concert (1976年、Columbia) ※1975年録音
- Live (1994年CD発売、Avenue Records) ※1980年10月12日、ロサンゼルス・The Street Scene録音
日本公演
[編集]出典[2]。
- 1971年
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- 2月11日 大阪・フェスティバルホール、13日 東京・日本武道館
- 1976年
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- 5月6日 東京・東京厚生年金会館
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 「ブラッド・スウェット & ティアーズ」「ブラッド・スエット & ティアーズ」の表記もある。
- ^ 1940年5月13日にイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、庶民院で行なった演説の中でドイツとの戦いを鼓舞して発した名言Blood, toil, tears, and sweat(「血と苦労と涙と汗しか与えることができません」)に基づいた。
- ^ 1967年にバッキンガムズのプロデューサーとして「マーシー・マーシー・マーシー」などのヒット曲の制作に携わった。
- ^ 第11回グラミー賞のBest Contemporary-Pop Performance - Vocal Duo or Groupの候補に選ばれた。
- ^ ドラミングのレコーディングは、その当時から名スタジオ・ミュージシャンだったバーナード・パーディによる演奏だったとパーディ本人が広言していたが、数々のライブでコロンビー本人のプレイであることが明らかとなっている。
- ^ メンバーの中で唯一、大卒ではなかった。
出典
[編集]- ^ a b “www.grammy.com”. 2025年10月11日閲覧。
- ^ a b “www.setlist.fm”. 2025年10月18日閲覧。
- ^ “www.imdb.com”. 2025年10月19日閲覧。