ジョンストン (DD-557)

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DD-557 ジョンストン
就役直後のUSSジョンストン。 1943年10月27日シアトルにて撮影[1]。
就役直後のUSSジョンストン。
1943年10月27日シアトルにて撮影[1]
基本情報
建造所 ワシントン州シアトル・タコマ造船所
運用者 アメリカ合衆国の旗 アメリカ海軍
艦種 駆逐艦
級名 フレッチャー級駆逐艦
愛称 GQ ジョニー (GQ Johnny)[2]
艦歴
起工 1942年5月6日
進水 1943年3月25日
就役 1943年10月27日
その後 1944年10月25日サマール島沖海戦において戦没
要目
排水量 2,050 トン
全長 376フィート6インチ (114.76 m)
最大幅 39フィート8インチ (12.09 m)
吃水 17フィート9インチ (5.41 m)
主機 蒸気タービン
出力 6,000馬力 (4,500 kW)
推進器 スクリュープロペラ×2軸
最大速力 35ノット (65 km/h)
航続距離 6,500海里 (12,000 km)/15ノット
乗員 士官兵員273名
兵装 5インチ砲5門
20mm機関砲7門
40mm機関砲10門
爆雷軌条2基
爆雷投射機6基
21インチ魚雷発射管10門
レーダー SC 対空
FD火器管制
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ジョンストン (USS Johnston, DD-557) は、アメリカ海軍の駆逐艦フレッチャー級。艦名は南北戦争で活躍したジョン・V・ジョンストン英語版大尉に因む。本艦はジョンストンの名を持つ初めての艦であった。

1944年10月25日に発生したサマール島沖海戦で戦艦大和を含む強力な日本艦隊(栗田艦隊)を相手に果敢な戦闘を行ったことで知られる[3][4]。この海戦で、「ジョンストン」は第十戦隊(矢矧[5]浦風磯風雪風野分)の集中砲火を浴びて沈没した[6][7]

艦歴[編集]

「ジョンストン」の就役式典におけるエヴァンズ艦長。

「ジョンストン」は1942年5月6日にワシントン州シアトルシアトル・タコマ造船所で起工し、ジョンストン大尉の親戚にあたるマリー・S・クリンガー夫人の手で1943年3月25日に進水、1943年10月27日にチェロキー族クリーク族の血を引くネイティブアメリカンであるアーネスト・E・エヴァンズ英語版少佐の指揮の下就役した[8]

「ジョンストン」が就役した日、エヴァンズ少佐はジョン・ポール・ジョーンズの言葉を引用して乗員に訓示を行った。

こいつは戦う船になろうとしている。私は茨の道を進まんとしているが、共に征くことを望まぬ者は今すぐ降りたほうがよい。
"This is going to be a fighting ship. I intend to go in harm's way, and anyone who doesn't want to go along had better get off right now."[8]

第二次世界大戦[編集]

マーシャル諸島の戦いで「ジョンストン」は1944年2月1日にクェゼリン環礁の沿岸を砲撃し、2月17日から22日にかけてエニウェトク環礁を砲撃。上陸部隊を直接支援し、いくつかの掩蔽壕を破壊、砲火の下で海岸沿いの防壁を確保した[8]

伊176撃沈[編集]

ソロモン諸島で哨戒任務中だった3月28日、「ジョンストン」はカロリン諸島カピンガマランギ環礁を砲撃した。海岸沿いの監視塔1棟といくつかの堡塁トーチカ防空壕を砲撃した。2日後、ブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾南東のモリリカ川河口部へ入り、その地域に激しい砲撃を浴びせた。その後、ブーゲンビル島沖合で対潜哨戒任務に加わった。5月16日、ブカ島北方にて哨戒中の駆逐艦「フランクス英語版(USS Franks, DD-554)」「ハガード英語版(USS Haggard, DD-555)」「ジョンストン」[8][注 1]は、哨戒機から「敵潜水艦発見」の報告をうけ、対潜掃蕩をおこなう[9]。これはブカ島輸送(もぐら輸送)のため行動中の日本海軍潜水艦伊176」であった[9]。各艦は協同して爆雷攻撃を実施、翌朝になり浮遊物を発見した[9]。これが「伊176」の最期であったと認定されている[9]

グアムの戦い[編集]

ソロモン諸島での3か月の哨戒任務の後、「ジョンストン」はグアムの戦いに参加する準備のためマーシャル諸島へ向かった。7月21日、グアム島砲撃のため戦艦「ペンシルバニア」と会合。「ジョンストン」は7月29日までに4,000発以上の砲弾を発射した。その正確な砲撃は敵の重砲陣地を沈黙させ、多くの掩蔽壕や建物を破壊した。続いてペリリューの戦いで航空支援を行う護衛空母を護衛した[8]

フィリピンの戦い[編集]

アドミラルティ諸島ゼーアドラー湾で補給の後、「ジョンストン」はレイテ島の戦いレイテ島レイテ湾上空の制空権を確保する護衛空母群を護衛するために10月12日に出撃した。10月20日からは上陸部隊への砲撃支援を行ったほか、物資輸送を行う敵の車列を撃破した。「ジョンストン」はクリフトン・スプレイグ少将の旗艦「ファンショー・ベイ」以下護衛空母6隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦4隻と共に第77.4.3任務隊(通称「タフィ3」)を構成した[10]。タフィ3はトーマス・スプレイグ少将の第77.4任務群に属する3つの護衛空母部隊の1つであった[11]

サマール島沖海戦[編集]

1944年10月25日の夜明け後、上空警戒機の1機が栗田健男中将率いる日本の中央艦隊[注 2]が接近中であるという警報を発した[13]。「タフィ3」に真っすぐ向かっていたのは、栗田中将(旗艦「大和」)[14]が指揮する第二艦隊第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊)であった[15][16]。この日の栗田艦隊は

という合計23隻の艦隊編成であった[20][21]

T・スプレイグ少将は「どの艦にせよ、5分間の大口径砲をくらって生き延びる艦はいそうになかった」と回想する[22][23]。「ジョンストン」の砲術士官であったロバート・C・ヘーゲン大尉は後に「我々は投石器を持たない少年ダビデのような気分だった」[注 10]と述べている。ジョンストンをふくめ7隻の駆逐艦は米軍護衛空母6隻と日本艦隊の間をジグザグ航行しつつ、護衛空母を隠すため2,500ヤード (2,300 m) 以上前方に煙幕を展開した[24]

我々が煙幕を張り始めても、日本側は我々に砲弾を放ち始め、ジョンストンは水柱の間をジグザグ航行しなければならなかった…我々は最初に煙幕を張り、最初に発砲し、最初に魚雷を放った駆逐艦だった…[8]
砲弾が降り注ぐ中で煙幕を張るタフィ3の駆逐艦。

栗田長官ふくめ第一遊撃部隊は、目標が低速のアメリカ軍護衛空母群だったにもかかわらず、敵を高速を発揮する正規空母機動部隊と誤認した[25][26]。まず戦艦で射撃を実施、高速の巡洋艦を突出させて敵空母に有効な打撃をあたえ、第二水雷戦隊と第十戦隊の投入は見合わせることにした[27]。米空母群はスコールに逃げ込み、警戒の駆逐艦は煙幕を展開して退却を掩護した[28]。米空母群が見えなくなったので、栗田艦隊の戦艦群はアメリカ側駆逐艦(日本側は巡洋艦と艦隊型駆逐艦と誤認)に目標を定めた[28]

最初の20分間、敵の大型艦が持つ大口径砲は「ジョンストン」の5インチ砲の射程外から攻撃していたため反撃できなかった。「ジョンストン」にむけ主砲弾を放ったのは、「大和」と「長門」と思われる[29]。命令を待つことなく、エヴァンズ中佐は陣形から離れると攻撃をかけるべく栗田艦隊にむけ真っすぐ突き進むように命じた[30]。東側にはさらに3隻の巡洋艦と数隻の駆逐艦が現れた[8]

距離が10マイル内に縮まるとすぐに、「ジョンストン」は一番近くにいた重巡洋艦「熊野」を砲撃した[29]。また重巡「羽黒」も「ジョンストン」と思われる艦から砲撃された[31]。羽黒側は「敵巡洋艦、敵駆逐艦」(駆逐艦と護衛駆逐艦の誤認)と交戦し、駆逐艦に対して7時15分に距離12,100mで三斉射を放ち、命中弾を観測したが煙幕で見失った[32]

第七戦隊司令官・白石萬隆少将座乗の熊野は煙幕を出入りする巡洋艦と駆逐艦(ジョンストン等の誤認)を砲撃しようとしたが、効果的な射撃はできなかった[33]魚雷の射程内に入り込む5分間、「ジョンストン」は200発以上の弾を敵に発射し、それから水雷士官ジャック・K・ベックデル大尉の指揮の下で魚雷攻撃を敢行[34]。10本の魚雷を全て発射すると[35]、反転し濃い煙幕の向こうへ退避した[29]。「大和」は主砲と副砲を併用して「〇七二五敵大巡一隻撃沈」を記録するが、これは煙幕に入った「ジョンストン」を誤認したと思われる[29][36]

午前7時24分、魚雷1本が「熊野」の艦首部分に命中した[36][37]。艦首を失った「熊野」は最大速力14ノットとなり、落伍した[33]。第七戦隊司令官は旗艦を「熊野」から重巡「鈴谷」に変更した[注 11][33]。 健在の重巡4隻(第五戦隊〈羽黒、鳥海〉[38]、第七戦隊〈筑摩、利根〉[39])はアメリカ軍駆逐艦や空襲に対処しつつ、ひきつづき米空母群を追撃した。第五戦隊は大型巡洋艦(ジョンストンと推定)と交戦しつつ米空母群を追撃した[40]

この頃、「ジョンストン」には「大和」主砲の46cm砲弾と副砲の15.5cm砲弾[29]、あるいは「羽黒」の20cm砲弾がふりそそいでいた[41]。6インチ砲弾が後部煙突に1発、艦橋に2発が命中し[42]、続いて戦艦「金剛」からの14インチ砲弾3発も被弾した[29]。「ジョンストン」の先任将校は「まるで子犬がトラックにひきつぶされるようであった」と回想している[41]。日本側の砲弾は徹甲弾だったので駆逐艦の薄い装甲に命中しても突き抜けてしまい爆発しなかったが、「損傷なし」というわけにはいかなかった[43]。14インチ砲弾は左舷の機関歯車とタービン、後部ボイラーにそれぞれ命中し左舷推進軸が停止した[44]。この損傷により速力は17ノットに低下した[43]。さらに操舵機と5インチ砲3基への動力が失われ、ジャイロコンパスは役に立たなくなった。低く垂れこめたスコールが現れたため、「ジョンストン」は逃げ込んで数分間応急修理と復旧作業を行った[43]。艦橋内は死傷者が横たわり血の海となっていた。エヴァンズ中佐は破片によって上半身が傷だらけになり、さらに左手の指2本を失ったが、傷口を自らハンカチで覆うと駆け付けた救護班に対し、自身に構わず他の負傷者を看るように命じ指揮を継続した[45]

7時50分、T・スプレイグ少将は駆逐艦に対して魚雷攻撃を命じた[46]。「ジョンストン」は機関に損傷を受けていたが、他の駆逐艦を砲撃で援護しつづけた[47]。煙幕から現れた時、危うく駆逐艦「ヒーアマン (USS Heermann, DD-532)」と衝突しそうになった[48]。8時20分、煙幕から抜け出た「ジョンストン」は左舷方向わずか7,000ヤード (6,400 m) の距離に「金剛」を発見し、それに向かって45発の5インチ砲弾を浴びせかけ上部構造物に複数の命中を記録した。「金剛」からの主砲による反撃は全て外れた[49]

つづいて「ジョンストン」は敵巡洋艦に砲撃されている護衛空母「ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)」を確認し、砲撃を「ガンビア・ベイ」から遠ざけるべく巡洋艦に攻撃をかけ、重巡洋艦に対して4発の命中を記録した[8][50]。米空母群に接近した第五戦隊(羽黒、鳥海)の周辺には着色された巨大な水柱が立ち[注 12]、この頃に被弾した「鳥海」は落伍した[52]

さらに、「ジョンストン」は日本の水雷戦隊が護衛空母群へ急速に接近しつつあるのを視認し、阻止を試みる[4][53]。この水雷戦隊は、第十戦隊司令官・木村進少将が指揮する軽巡洋艦「矢矧」(第十戦隊旗艦)と第17駆逐隊司令・谷井保大佐指揮下の陽炎型駆逐艦4隻(浦風、磯風、雪風、野分)であった[54][55]。8時48分、木村司令官は「空母二隻 我ヨリノ方位二一〇度二〇,〇〇〇米 我空母二隻ニ突撃ス」と報告し、各艦に魚雷戦の準備を命じた[56]。第十戦隊が魚雷を発射する前、「ジョンストン」は先頭の「矢矧」と交戦し12発の命中弾[注 13]を観測して進路を妨害すると[58]、後続する駆逐艦「浦風」(第17駆逐隊司令駆逐艦)と戦って命中弾を観測した[59]。「矢矧」は「ジョンストン」に対してまず8cm高角砲を発射し[60]、続いて「ジョンストン」の行動を魚雷発射とみて右舷側に回避行動をとった[61][56]。第十戦隊の右側への回避行動は第二水雷戦隊(司令官・早川幹夫少将)の進撃を妨げる結果となり[62][63]、二水戦は空母群への射点につくことができなくなった[64][65]。前述のように「ジョンストン」は既に魚雷を撃ち尽くしていたが、第十戦隊(矢矧)は「ジョンストンが魚雷を発射した」[61][66]と誤認したのである[58][65]。旗艦が回避行動をとったのをみて、後続の第17駆逐隊も「矢矧」同様に右側へ回避行動をとった[67]。態勢を立て直した「矢矧」は9時5分に魚雷7本を発射、続いて敵駆逐艦に砲撃をくわえ9時15分にに沈没したと記録している[56][65]。この駆逐艦は「サミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413)」であった[67]。交戦中、「矢矧」の右舷士官室に「ジョンストン」の主砲弾1発が命中した[64][67]。第17駆逐隊は9時15~23分までに距離1万mで魚雷約20本(浦風4、磯風8、雪風4、野分推定4)を発射したが[68]、命中しないか[69][70]、艦砲射撃や艦載機の銃撃で爆破された[71][72]。第十戦隊は「エンタープライズ型空母撃沈1、沈没確実1、駆逐艦撃沈3」を報告した[59][73]

「ジョンストン」は被弾によって2番砲が破壊され、3番砲直下にも命中弾を受けた[1]。動力が失われているため揚弾機は使えず、1発あたり54ポンド (24 kg) ある砲弾を乗員が弾薬庫から人力で担ぎ上げた[49]。艦橋は40mm機関砲用即応弾庫への被弾によってもたらされた火災と爆発によって惨状をさらしていた。艦尾に移り指揮を継続していたエヴァンズ中佐は、手動で舵を動かす乗員たちへ開け放ったハッチ越しに命令を叫んでいた。主砲塔の一つでは、一人の砲手が「もっと砲弾を!もっと砲弾を!」と叫んでいた。「ジョンストン」は、いまだ生き残っている5隻の護衛空母に日本の巡洋艦と駆逐艦が到達するのを防ぐため戦っていた[8]

奮闘する「ジョンストン」にも9時30分までには最期の時が訪れようとしていた[74]。「ヒーアマン」は護衛空母を守りながら南へ撤退し、護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦「ホーエル」は既に海面上になく[75]、「サミュエル・B・ロバーツ」は「矢矧」にとどめをさされて沈没した[67]。米空母群に魚雷を発射したあとの第十戦隊は、再び「ジョンストン」に狙いを定めた[76]。「矢矧」は15cm主砲を撃ちこんだ[5]。9時30分の時点で「ジョンストン」は沈没しかかっており、乗組員の一部は脱出しつつあった[76]。「矢矧」は「ジョンストン」を砲撃したあと、麾下駆逐艦に砲撃で処分するよう命じた[77][76]。第17駆逐隊(浦風、磯風、雪風、野分)は「ジョンストン」を包囲すると[71][72]、集中砲火を浴びせた[59][78]。同時刻、栗田部隊から落伍していた重巡「鈴谷」も距離18km先に日本側水雷戦隊(第十戦隊)と米軍防空巡洋艦らしき1隻との交戦を目撃、12.4kmに接近して20cm砲40発を発射した[79]。「鈴谷」側は、至近弾により目標の傾斜が増大するのを確認した[79]

9時45分にエヴァンズ艦長は総員退艦を令し、10時10分に「ジョンストン」は転覆した[58][59]。一隻の日本の駆逐艦が接近し、炎上する「ジョンストン」の艦体に止めの砲撃を加えた。生存者は、その駆逐艦が爆雷や機銃で彼らを殺傷するのではないかと心配し、実際に艦橋にいる艦長が対空砲の方を向いて何かを指示するのが見えた。だが生存者の予想に反し、艦長は漂流する生存者に向き直ると直立不動の姿勢で彼らに敬礼を送った[80]。また、その駆逐艦が通り過ぎる際に1人の乗員が何かを投げていった。誰かが手榴弾だと叫んだが、生存者の一人であったクリント・カーター(5番砲班長)が漂うその物体に近寄ってみたところアーカンソー州で製造されたトマトの缶詰であり、3年前の日米開戦直前に日本へ輸出されたものであった[81]。日本側の証言にも、駆逐艦「雪風」の艦長・寺内正道中佐が咄嗟に「ジョンストン」に対し発砲した機銃手(照準調整のため2射したのみで命中せず)に向け「酷いことをするな」と怒鳴り、攻撃中止を命じたことが伝えられている[82]。「雪風」艦橋にいた柴田正(砲術長)は「艦橋にいた我々は敵勇者の最後を弔って挙手の礼を捧げた」と回想している[83]。「雪風」は「ジョンストン」の兵が救命ボートを下しているすぐ傍をすれ違い、田口康生(航海長)は「お互いの顔まで見えた」と語った[84]

そして多くのジョンストンの生存者が生涯忘れられない光景を目にした。日本の駆逐艦の艦橋で、ひとりの士官が直前まで仇敵だったジョンストンが波間に沈んでいくのをじっと見ていた。その誇り高き船が姿を消した時、この日本の士官は手を帽子のひさしにあてて直立の姿勢をとった. . .敬礼したのだ。
"And many of Johnston’s survivors then witnessed something they would never forget. There on the bridge-wing of the Japanese destroyer, an officer stood watching as Johnston, his mortal enemy of just moments before, slipped beneath the waves. As the noble ship went down, this Japanese officer lifted a hand to the visor of his cap and stood motionless for a moment . . . salutin." — トマス・J・カトラー『The Battle of Leyte Gulf 23-26 October 1944』[85]

第17駆逐隊をふくめ日本艦隊は去っていったものの、2隻の救命ボートと2隻の筏に分乗した「ジョンストン」の生存者は長時間の過酷な漂流を強いられることになった。友軍のアヴェンジャー雷撃機が彼らを発見したものの、通報した位置が間違っていたため救助隊が全く異なる場所を捜索していたからであった。漂流中、「ジョンストン」の生存者はの襲撃や衰弱、体温より低い夜間の海水温による低体温症といった脅威に耐えねばならず、途中で力尽きる者もいた。自軍の生存者を探す日本の駆逐艦が接近してきたことが一度あったが、日本軍捕虜収容所における厳しい扱いの噂を聞いていたため息をひそめてやり過ごした。生き残った者は「ジョンストン」の沈没から3日後の早朝に歩兵揚陸艇(LCI)に発見され、救助のうえで病院船に収容された[86]

「ジョンストン」の全乗員327名のうち生還したものは141名だった。186名が戦死した[87]。そのうち約50名は戦闘によって命を落とし、45名が負傷により漂流中に死亡、艦長エヴァンズ中佐を含む残り92名は退艦したものの行方不明となった[8]

受章等[編集]

「ジョンストン」は生涯で合計6個の従軍星章英語版を受章し、「ジョンストン」を含む第77.4.3任務群はサマール島沖における勇敢な戦いから殊勲部隊章英語版を受章した。また戦死したエヴァンズ中佐は名誉勲章を授けられた[8]チェスター・ニミッツ提督は、著書『ニミッツの太平洋海戦史』でジョンストンを含めた米軍駆逐艦を以下のように評している。

およそ古今の海戦史上、スプレーグ隊のちっぽけな護衛隊の各艦のように、強大な相手に立ち向かって一歩も退かず、勇敢に英雄的に、その任務を完全に果たした海軍艦艇は断じてないであろう。 — チェスター・ニミッツ、C・W・ニミッツ、E・B・ポッター/実松譲、冨永謙吾(共訳)『ニミッツの太平洋海戦史』342ページ

後にギアリング級駆逐艦の1隻が「ジョンストン英語版 (USS Johnston, DD-821)」と名付けられ、アメリカ海軍を退役後は台湾海軍の「正陽 (DD-928) 」として2003年まで使用された。また、ディーレイ級護衛駆逐艦エヴァンズ (USS Evans, DE-1023)」及びアーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦アーネスト・E・エヴァンス英語版 (USS Ernest E. Evans, DDG-141)」は艦長のエヴァンズ中佐に因み命名された。

残骸の発見[編集]

2019年10月30日、実業家ポール・アレンが設立したバルカン社が、調査船「ペトレル」でフレッチャー級駆逐艦の残骸をフィリピン海の水深6,220mの海底で発見した旨発表した。記録された沈没位置、外観上の特徴(直前に沈没した同型艦「ホーエル」は迷彩塗装が施されていたが、「ジョンストン」は単色だった)から、「ジョンストン」のものであると推定された[88]

2021年3月31日、アメリカの海洋調査企業・カラダン・オーシャニック社(Caladan Oceanic)の深海探査艇リミティング・ファクター」がフレッチャー級駆逐艦の艦首から艦橋までの115mに及ぶ残骸を新たに発見した[89]。艦首にはハルナンバーの「557」が残っていたため、正式に「ジョンストン」のものと確認された。残骸は水深21,180 ft (6,460 m) で発見され、2022年6月25日に「サミュエル・B・ロバーツ」が水深6,900mで発見されるまで、史上最も深い位置で発見された船だった[90][91][92]。カラダン・オーシャニック社が公表したビデオには、「ジョンストン」の艦首[93]、艦橋[94]、銃座[95]、魚雷発射管[96]が確認できる。

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 『戦史叢書98巻』(1979) 478頁「付録第二、日本海軍潜水艦喪失状況一覧表」では「伊176の撃沈はハガードとフランクスの爆雷攻撃」とし、ジョンストンの艦名は記載されていない。
  2. ^ 連合軍側は栗田艦隊のことを「中央隊」[12]と呼称する。
  3. ^ 第一戦隊司令官・宇垣纏中将座乗。この日の「大和」は第二艦隊旗艦と第一戦隊旗艦を兼ねる。
  4. ^ 第五戦隊旗艦だった重巡「妙高」は前日の空襲で損傷、戦場を離脱[17]橋本信太郎第五戦隊司令官は「羽黒」に将旗を掲げていた。
  5. ^ 10月23日、米潜水艦の襲撃で所属していた第四戦隊が壊滅[18]、健在の「鳥海」は第五戦隊の指揮下に入っていた。
  6. ^ 第2駆逐隊所属の駆逐艦「清霜」は[19]、損傷と戦艦「武蔵」救助のため別動中。
  7. ^ 第31駆逐隊所属の駆逐艦「朝霜」と「長波」は[18]、重巡「高雄」を護衛して別動中。
  8. ^ 第17駆逐隊所属の駆逐艦「浜風」は[19]、損傷と戦艦「武蔵」救助のため別働中。
  9. ^ 第4駆逐隊所属の駆逐艦「野分」は、本作戦では第17駆逐隊司令の指揮下で行動。「満潮」「朝雲」「山雲」は第一遊撃部隊第三部隊(西村部隊)に所属して別働。
  10. ^ 旧約聖書サムエル記」に出てくる、少年ダビデ投石器で巨漢ゴリアテを倒したという話になぞらえたもの。
  11. ^ 鈴谷はアメリカ軍機の爆撃により機関部に損傷を受け、最大発揮速力23ノットに低下していた。
  12. ^ サマール沖海戦開始直後、アメリカの護衛空母群は日本戦艦の主砲弾が着色弾であり、水柱が各種の色で染まっていたと記録している[51]。ホワイトプレーンズ乗組員は「彼等はテクニカラーで射撃している」と叫んだという。
  13. ^ 一連の交戦において、「ジョンストン」の「矢矧」に対する砲撃は、士官室に1発命中[57]

出典[編集]

  1. ^ a b USS JOHNSTON (DD-557)”. navsource.org. 2018年12月2日閲覧。
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  5. ^ a b #矢矧捷号(3)p.3(0925より0934まで)
  6. ^ Leyte 1971, p. 141aジョンストンの終末
  7. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 342a-344駆逐艦の第二次反撃
  8. ^ a b c d e f g h i j k DANFS-Johnston 2015.
  9. ^ a b c d 戦史叢書98巻 1979, p. 478付録、伊176
  10. ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 338–345付記、米軍の戦闘状況
  11. ^ ニミッツ 1962, p. 338.
  12. ^ マッキンタイヤー『Leyte』(1976)24頁など。
  13. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 284–285突然の遭遇
  14. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 298-301突如、米空母と遭遇
  15. ^ ニミッツ 1962, p. 336サマール沖海戦
  16. ^ Leyte 1971, pp. 119–123水平線上に栗田艦隊
  17. ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』513-514頁
  18. ^ a b 木俣滋郎『日本水雷戦史』509-510頁
  19. ^ a b 木俣滋郎『日本水雷戦史』515-516頁
  20. ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 297挿図第28、Y12索敵配備
  21. ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 249–250.
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  30. ^ Leyte 1971, p. 128.
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参考文献[編集]

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外部リンク[編集]