ジョンストン (DD-557)

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DD-557 ジョンストン
USS Johnston
就役直後のUSSジョンストン。
1943年10月27日シアトルにて撮影[1]
基本情報
建造所 シアトル・タコマ造船所
運用者  アメリカ海軍
艦種 駆逐艦
級名 フレッチャー級駆逐艦
艦歴
起工 1942年5月6日
進水 1943年3月25日
就役 1943年10月27日
その後 1944年10月25日に戦没
要目
排水量 2,700トン
全長 376ft 6in(114.76m)
最大幅 39ft 8in(12.1m)
吃水 17ft 9in(5.4m)
機関 蒸気タービン、2軸推進 60,000shp(45MW)
最大速力 35ノット(65km/h)
乗員 士官兵員273名
兵装 5インチ砲5門
20mm機関砲7門
40mm機関砲10門
爆雷軌条2基
爆雷投射機6基
21インチ魚雷発射管10門
レーダー SC 対空
FD火器管制
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ジョンストンUSS Johnston,DD-557)は、アメリカ海軍の駆逐艦フレッチャー級。艦名は南北戦争で活躍したジョン・V・ジョンストン英語版大尉に因む。本艦は「ジョンストン」の名を持つ初めての艦であった。

ジョンストンは1944年10月25日に発生したサマール島沖海戦で、強力な日本艦隊を相手に果敢な戦闘を行ったことで知られる。

艦歴[編集]

ジョンストンは1942年5月6日にワシントン州シアトルシアトル・タコマ造船所で起工。命名元の親戚にあたるマリー・S・クリンガー夫人の手で1943年3月25日に進水し、1943年10月27日にチェロキー族クリーク族の血を引くネイティブアメリカンであるアーネスト・E・エヴァンズ少佐の指揮の下就役した[2]

ジョンストンが就役した日、エヴァンズ少佐はジョン・ポール・ジョーンズの言葉を引用して乗員に訓示を行った。

こいつは戦う船になろうとしている。私は茨の道を進まんとしているが、共に征くことを望まぬ者は今すぐ降りたほうがよい。
"This is going to be a fighting ship. I intend to go in harm's way, and anyone who doesn't want to go along had better get off right now."[2]

第二次世界大戦[編集]

マーシャル諸島の戦いで、ジョンストンは1944年2月1日にクェゼリン環礁の沿岸を砲撃し、2月17日から22日にかけてエニウェトク環礁を砲撃した。ジョンストンは上陸部隊を直接支援し、いくつかの掩蔽壕を破壊、砲火の下で海岸沿いの防壁を確保した[2]

ジョンストンの就役式典におけるエヴァンズ艦長。

伊176撃沈[編集]

ソロモン諸島で哨戒任務中だった3月28日、ジョンストンはカロリン諸島カピンガマランギ環礁を砲撃した。海岸沿いの監視塔1棟といくつかの堡塁トーチカ防空壕を砲撃した。2日後、ジョンストンはブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾南東のモリリカ川河口部へ入り、その地域に激しい砲撃を浴びせた。その後、ブーゲンビル島沖合で対潜哨戒任務に加わった。5月15日、ジョンストンは日本海軍潜水艦伊176爆雷攻撃で沈めた[2]

グアムの戦い[編集]

ソロモン諸島での3か月の哨戒任務の後、ジョンストンはグアムの戦いに参加する準備のためマーシャル諸島へ向かう。7月21日、グアム島砲撃のため戦艦ペンシルバニアと会合。ジョンストンは7月29日までに4,000発以上の砲弾を発射した。ジョンストンの正確な砲撃は敵の重砲陣地を沈黙させ、多くの掩蔽壕や建物を破壊した。ジョンストンは続いてペリリューの戦いで航空支援を行う護衛空母を護衛した[2]

フィリピンの戦い[編集]

アドミラルティ諸島ゼーアドラー湾で補給の後、ジョンストンはレイテ島の戦いレイテ島レイテ湾上空の制空権を確保する護衛空母群を護衛するために10月12日に出撃した。10月20日からは上陸部隊への砲撃支援を行ったほか、物資輸送を行う敵の車列を撃破した。ジョンストンはクリフトン・スプレイグ少将の旗艦ファンショー・ベイ (CVE-70)以下護衛空母6隻、駆逐艦3隻、護衛駆逐艦4隻と共に第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を構成した。タフィ3はトーマス・スプレイグ少将の第77.4任務集団に属する3つの護衛空母部隊の1つであった[2]

サマール島沖海戦[編集]

1944年10月25日の夜明け後、上空警戒機の1機が栗田健男中将率いる日本の中央艦隊が接近中であるという警報を発した。「タフィ3」に真っすぐ向かっていたのは、大和以下戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻からなる強力なものであった。ジョンストンの砲術士官であったロバート・C・ヘーゲン大尉は後に「我々はパチンコのないリトル・デーヴィッドの気分だった[3]と伝えている。1分以内で、ジョンストンは6隻の護衛空母と日本艦隊の間をジグザグ航行しつつ、敵の砲手から護衛空母を隠すため2,500ヤード(2,300m)以上前方に煙幕を展開した。

我々が煙幕を張り始めても、日本側は我々に砲弾を放ち始め、ジョンストンは水柱の間をジグザグ航行しなければならなかった…我々は最初に煙幕を張り、最初に発砲し、最初に魚雷を放った駆逐艦だった…[2]
砲弾が降り注ぐ中で煙幕を張るタフィ3の駆逐艦。

最初の20分間、敵の大型艦が持つ大口径砲はジョンストンの5インチ砲の射程外から攻撃していたため反撃できなかった。命令を待つことなく、エヴァンズ中佐は陣形から離れると攻撃をかけるべく敵艦(駆逐艦7隻の列と続く軽巡洋艦1隻および3隻の重巡洋艦、それから4隻の戦艦)へ真っすぐ突き進むように命じた。東側にはさらに3隻の巡洋艦と数隻の駆逐艦が現れた[2]

距離が10マイル内に縮まるとすぐに、ジョンストンは一番近くにいた重巡洋艦熊野を砲撃し、数発の命中弾で損傷を与えた。魚雷の射程内に入り込む5分間、ジョンストンは200発以上の弾を敵に発射し、それから水雷士官ジャック・K・ベックデル大尉の指揮の下で魚雷攻撃を敢行する。ジョンストンは10本の魚雷を全て発射すると、反転し濃い煙幕の向こうへ退避した。煙幕からジョンストンが出て1分後、熊野に魚雷1本が命中し激しく炎上するのが見えた。熊野の艦首は完全に吹き飛ばされ、落伍していった[4]

この頃、ジョンストンには大和あるいは軽巡洋艦からの6インチ砲弾が艦橋に命中したのに続き、戦艦金剛からの14インチ砲弾3発を受けた。この結果、操舵機と5インチ砲3基への動力が失われ、ジャイロコンパスは役に立たなくなった。低く垂れこめたスコールが現れたため、ジョンストンは逃げ込んで数分間応急修理と復旧作業を行った[2]。艦橋内は死傷者が横たわり血の海となっていた。エヴァンズ中佐は破片によって上半身が傷だらけになり、さらに左手の指2本を失ったが、傷口を自らハンカチで覆うと駆け付けた救護班に対し、自身に構わず他の負傷者を看るように命じ指揮を継続した[5]

7時50分、スプレイグ少将は駆逐艦に対して魚雷攻撃を命じた。ジョンストンは被弾による機関へのダメージで隊形の維持が困難であり、また魚雷を全て使い果たしていたにもかかわらず、他の駆逐艦を砲撃で援護すべく移動した。煙幕から現れた時、危うくヒーアマン(DD-532)と衝突しそうになった[2]。8時20分、煙幕から抜け出たジョンストンは左舷方向わずか7,000ヤード(6,400m)の距離に金剛を発見し、それに向かって45発の5インチ砲弾を浴びせかけ上部構造物に複数の命中を記録した。金剛からの主砲による反撃は全て外れた[2][6]

ジョンストンはすぐに敵巡洋艦に砲撃されている護衛空母ガンビア・ベイ(CVE-73)を確認し、砲撃をガンビア・ベイから遠ざけるべく巡洋艦に攻撃をかけた。ジョンストンは重巡洋艦に対して4発の命中を記録、続けて日本の水雷戦隊が護衛空母群へ急速に接近しつつあるのを視認し阻止した。敵が魚雷を発射する前、ジョンストンは先頭の軽巡洋艦矢矧と交戦し命中弾を与え進路を妨害すると、後続する2隻目と戦った。敵が発射した魚雷は全て外れた[2][7]

ジョンストンは被弾によって2番砲が破壊され、3番砲直下にも命中弾を受けた[1]。動力が失われているため揚弾機は使えず、1発あたり54ポンド(24.5kg)ある砲弾を乗員が弾薬庫から人力で担ぎ上げた[8]。艦橋は40mm機関砲用即応弾庫への被弾によってもたらされた火災と爆発によって惨状をさらしていた。ジョンストンの艦尾に移り指揮を継続していたエヴァンズ中佐は、手動で舵を動かす乗員たちへ開け放ったハッチ越しに命令を叫んでいた。主砲塔の一つでは、一人の砲手が「もっと砲弾を!もっと砲弾を!」と叫んでいた。いまだジョンストンは、生き残っている5隻の護衛空母に日本の巡洋艦と駆逐艦が到達するのを防ぐため戦っていた[2]

奮闘するジョンストンにも、9時30分までには多数の被弾によって最期の時が訪れようとしていた。ヒーアマンは護衛空母を守りながら南へ撤退し、ガンビア・ベイとホーエル(DD-533)は既に海面上になく、サミュエル・B・ロバーツ(DE-413)も艦尾から沈みつつあった。日本側はジョンストンの周囲を半円状に回りながら集中砲火を浴びせ、唯一残っていた機関も破壊されたため完全に航行不能となった。9時45分にエヴァンズ艦長は総員退艦を令し、10時10分についにジョンストンは転覆した[2]雪風と思われる日本の駆逐艦が接近し、炎上するジョンストンの艦体に止めの砲撃を加えた。ジョンストンの生存者は、その駆逐艦が爆雷や機銃で彼らを殺傷するのではないかと心配し、実際に艦橋にいる艦長が対空砲の方を向いて何かを指示するのが見えた。だが生存者の予想に反し、艦長は漂流する生存者に向き直ると直立不動の姿勢で彼らに敬礼を送った。また、その駆逐艦が通り過ぎる際に1人の乗員が何かを投げていった。誰かが手榴弾だと叫んだが、漂うその物体に近寄ってみたところアーカンソー州で製造されたトマト缶詰であり、3年前の日米開戦直前に日本へ輸出されたものであった[9]

日本艦隊はその後すぐに反転して去っていったものの、2隻の救命ボートと2隻の筏に分乗したジョンストンの生存者は長時間の過酷な漂流を強いられることになった。友軍のアヴェンジャー雷撃機が彼らを発見したものの、通報した位置が間違っていたため救助隊が全く異なる場所を捜索していたからであった。漂流中、ジョンストンの生存者はの襲撃や衰弱、体温より低い夜間の海水温による低体温症といった脅威に耐えねばならず、途中で力尽きる者もいた。自軍の生存者を探す日本の駆逐艦が接近してきたことが一度あったが、日本軍捕虜収容所における厳しい扱いの噂を聞いていたため息をひそめてやり過ごした。生き残った者はジョンストンの沈没から3日後の早朝に歩兵揚陸艇(LCI)に発見され、救助のうえで病院船に収容された[10]

ジョンストンの全乗員327名のうち生還したものは141名のみであり、186名が戦死した。そのうち約50名は戦闘によって命を落とし、45名が負傷により漂流中に死亡、艦長エヴァンズ中佐を含む残り92名は退艦したものの行方不明となった[2]

その後[編集]

ジョンストンは生涯で合計6個の従軍星章を受章し、ジョンストンを含む第77.4.3任務群はサマール島沖における勇敢な戦いから殊勲部隊章を受章した。また戦死したエヴァンズ中佐は名誉勲章を授けられた[2]

後にギアリング級駆逐艦の1隻がジョンストン(DD-821)と名付けられ、アメリカ海軍を退役後は台湾海軍正陽(DD-928) として2003年まで使用されたほか、ディーレイ級護衛駆逐艦エヴァンズ(DE-1023)は艦長のエヴァンズ中佐に因み命名された。

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. ^ a b USS JOHNSTON (DD-557)”. navsource.org. 2018年12月2日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p Naval History & Heritage Command(2015)
  3. ^ 旧約聖書の「サムエル記」に登場するダビデゴリアテの戦いになぞらえたもの。
  4. ^ McDonald(2015), p47
  5. ^ McDonald(2015), p50-p52
  6. ^ McDonald(2015), p57
  7. ^ McDonald(2015), p58
  8. ^ McDonald(2015), p57
  9. ^ McDonald(2015), p63-p64
  10. ^ McDonald(2015), p65-p78

参考文献[編集]

  • "New York I (Gondola)". Dictionary of American Naval Fighting Ships. Navy Department, Naval History & Heritage Command. 23 July 2015. 13 April 2018閲覧.  この記述には、アメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっている記述を含む。
  • Cox, Robert Jon (2010). The Battle Off Samar: Taffy III at Leyte Gulf (5th Edition). Agogeebic Press, LLC. ISBN 0-9822390-4-1. 
  • Hornfischer, James D. (2004) The Last Stand of the Tin Can Sailors (1st Edition). Bantam Books 978-0-553-80257-3.
  • Kevin, McDonald (2015). Tin Can Sailors Save The Day ! (1st Edition). Paloma Books. ISBN 978-1-55571-786-5. 

外部リンク[編集]