ジョンストン (DD-557)
| DD-557 ジョンストン | |
|---|---|
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就役直後のUSSジョンストン。 1943年10月27日シアトルにて撮影[1]。 | |
| 基本情報 | |
| 建造所 | シアトル・タコマ造船所 |
| 運用者 |
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| 艦種 | 駆逐艦 |
| 級名 | フレッチャー級駆逐艦 |
| 艦歴 | |
| 起工 | 1942年5月6日 |
| 進水 | 1943年3月25日 |
| 就役 | 1943年10月27日 |
| その後 | 1944年10月25日に戦没 |
| 要目 | |
| 排水量 | 2,700トン |
| 全長 | 376ft 6in(114.76m) |
| 最大幅 | 39ft 8in(12.1m) |
| 吃水 | 17ft 9in(5.4m) |
| 機関 | 蒸気タービン、2軸推進 60,000shp(45MW) |
| 最大速力 | 35ノット(65km/h) |
| 乗員 | 士官・兵員273名 |
| 兵装 |
5インチ砲5門 20mm機関砲7門 40mm機関砲10門 爆雷軌条2基 爆雷投射機6基 21インチ魚雷発射管10門 |
| レーダー |
SC 対空 FD火器管制 |
ジョンストン(USS Johnston,DD-557)は、アメリカ海軍の駆逐艦。フレッチャー級。艦名は南北戦争で活躍したジョン・V・ジョンストン大尉に因む。本艦は「ジョンストン」の名を持つ初めての艦であった。
ジョンストンは1944年10月25日に発生したサマール島沖海戦で、戦艦大和を含む強力な日本艦隊(栗田艦隊)を相手に果敢な戦闘を行ったことで知られる[2][3]。 この海戦で、ジョンストンは第十戦隊(矢矧[4]、浦風、磯風、雪風、野分)の集中砲火を浴びて沈没した[5][6]。
目次
艦歴[編集]
ジョンストンは1942年5月6日にワシントン州シアトルのシアトル・タコマ造船所で起工。命名元の親戚にあたるマリー・S・クリンガー夫人の手で1943年3月25日に進水し、1943年10月27日にチェロキー族とクリーク族の血を引くネイティブアメリカンであるアーネスト・E・エヴァンズ少佐の指揮の下就役した[7]。
ジョンストンが就役した日、エヴァンズ少佐はジョン・ポール・ジョーンズの言葉を引用して乗員に訓示を行った。
こいつは戦う船になろうとしている。私は茨の道を進まんとしているが、共に征くことを望まぬ者は今すぐ降りたほうがよい。
"This is going to be a fighting ship. I intend to go in harm's way, and anyone who doesn't want to go along had better get off right now."[7]
第二次世界大戦[編集]
マーシャル諸島の戦いで、ジョンストンは1944年2月1日にクェゼリン環礁の沿岸を砲撃し、2月17日から22日にかけてエニウェトク環礁を砲撃した。ジョンストンは上陸部隊を直接支援し、いくつかの掩蔽壕を破壊、砲火の下で海岸沿いの防壁を確保した[7]。
伊176撃沈[編集]
ソロモン諸島で哨戒任務中だった3月28日、ジョンストンはカロリン諸島カピンガマランギ環礁を砲撃した。海岸沿いの監視塔1棟といくつかの堡塁、トーチカと防空壕を砲撃した。2日後、ジョンストンはブーゲンビル島エンプレス・オーガスタ湾南東のモリリカ川河口部へ入り、その地域に激しい砲撃を浴びせた。その後、ブーゲンビル島沖合で対潜哨戒任務に加わった。5月16日、ブカ島北方にて哨戒中の駆逐艦フランクス(USS Franks, DD-554)、ハガード(USS Haggard, DD-555)、ジョンストン[7][注 1]は、哨戒機から「敵潜水艦発見」の報告をうけ、対潜掃蕩をおこなう[8]。これはブカ島輸送(もぐら輸送)のため行動中の日本海軍の潜水艦伊号第百七十六潜水艦であった[8]。各艦は協同して爆雷攻撃を実施、翌朝になり浮遊物を発見した[8]。これが伊176潜水艦の最期であったと認定されている[8]。
グアムの戦い[編集]
ソロモン諸島での3か月の哨戒任務の後、ジョンストンはグアムの戦いに参加する準備のためマーシャル諸島へ向かう。7月21日、グアム島砲撃のため戦艦ペンシルバニア (USS Pennsylvania, BB-38)と会合。ジョンストンは7月29日までに4,000発以上の砲弾を発射した。ジョンストンの正確な砲撃は敵の重砲陣地を沈黙させ、多くの掩蔽壕や建物を破壊した。ジョンストンは続いてペリリューの戦いで航空支援を行う護衛空母を護衛した[7]。
フィリピンの戦い[編集]
アドミラルティ諸島ゼーアドラー湾で補給の後、ジョンストンはレイテ島の戦いでレイテ島とレイテ湾上空の制空権を確保する護衛空母群を護衛するために10月12日に出撃した。10月20日からは上陸部隊への砲撃支援を行ったほか、物資輸送を行う敵の車列を撃破した。ジョンストンはクリフトン・スプレイグ少将の旗艦ファンショー・ベイ (USS Fanshaw Bay, CVE-70)以下護衛空母6隻、駆逐艦2隻、護衛駆逐艦4隻と共に第77.4.3任務群(通称「タフィ3」)を構成した[9]。タフィ3はトーマス・スプレイグ少将の第77.4任務集団に属する3つの護衛空母部隊の1つであった[10]。
サマール島沖海戦[編集]
1944年10月25日の夜明け後、上空警戒機の1機が栗田健男中将率いる日本の中央艦隊[注 2]が接近中であるという警報を発した[12]。「タフィ3」に真っすぐ向かっていたのは、第二艦隊司令長官栗田健男海軍中将(旗艦「大和」)[13]が指揮する第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊 )であった[14][15]。この日の第一遊撃部隊は、戦艦4隻(第一戦隊〈大和[注 3]、長門〉、第三戦隊〈金剛、榛名〉)、 重巡洋艦6隻(第五戦隊〈羽黒[注 4]、鳥海[注 5]〉、第七戦隊〈熊野、鈴谷、利根、筑摩〉)、 二個水雷戦隊(第二水雷戦隊〔軽巡洋艦〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉[注 6]、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉[注 7]、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型駆逐艦〈島風〉〕、 第十戦隊〔軽巡洋艦〈矢矧〉、第17駆逐隊[注 8]〈浦風、磯風、雪風〉、第4駆逐隊〈野分〉[注 9]〕)という合計23隻の艦隊編成であった[21][22]。
スプレイグ少将は「どの艦にせよ、5分間の大口径砲をくらって生き延びる艦はいそうになかった」と回想する[23][24]。 ジョンストンの砲術士官であったロバート・C・ヘーゲン大尉は後に「我々は投石器を持たない少年ダビデのような気分だった」[25]と述べている。ジョンストンをふくめ7隻の駆逐艦は米軍護衛空母6隻と日本艦隊の間をジグザグ航行しつつ、護衛空母を隠すため2,500ヤード(2,300m)以上前方に煙幕を展開した[26]。
我々が煙幕を張り始めても、日本側は我々に砲弾を放ち始め、ジョンストンは水柱の間をジグザグ航行しなければならなかった…我々は最初に煙幕を張り、最初に発砲し、最初に魚雷を放った駆逐艦だった…[7]
栗田長官ふくめ第一遊撃部隊は、目標が低速の米軍護衛空母群だったにもかかわらず、敵を高速を発揮する正規空母機動部隊と誤認した[27][28]。まず戦艦で射撃を実施、高速の巡洋艦を突出させて敵空母に有効な打撃をあたえ、第二水雷戦隊と第十戦隊の投入は見合わせることにした[29]。米空母群はスコールに逃げ込み、警戒の駆逐艦は煙幕を展開して退却を掩護した[30]。米空母群が見えなくなったので、栗田艦隊の戦艦群は米側駆逐艦(日本側は巡洋艦と艦隊型駆逐艦と誤認)に目標を定めた[30]。
最初の20分間、敵の大型艦が持つ大口径砲はジョンストンの5インチ砲の射程外から攻撃していたため反撃できなかった。ジョンストンにむけ主砲弾を放ったのは、大和と長門と思われる[31]。命令を待つことなく、エヴァンズ中佐は陣形から離れると攻撃をかけるべく栗田艦隊にむけ真っすぐ突き進むように命じた[32]。東側にはさらに3隻の巡洋艦と数隻の駆逐艦が現れた[7]。
距離が10マイル内に縮まるとすぐに、ジョンストンは一番近くにいた重巡洋艦熊野を砲撃した[31]。また重巡羽黒も、ジョンストンと思われる艦から砲撃された[33]。羽黒側は「敵巡洋艦、敵駆逐艦」(駆逐艦と護衛駆逐艦の誤認)と交戦し、駆逐艦に対して0715に距離1万2100mで三斉射を放ち、命中弾を観測したが煙幕で見失った[34]。
第七戦隊司令官白石萬隆少将座乗の熊野は煙幕を出入りする巡洋艦と駆逐艦(ジョンストン等の誤認)を砲撃しようとしたが、効果的な射撃はできなかった[35]。魚雷の射程内に入り込む5分間、ジョンストンは200発以上の弾を敵に発射し、それから水雷士官ジャック・K・ベックデル大尉の指揮の下で魚雷攻撃を敢行する[36]。ジョンストンは10本の魚雷を全て発射すると[37]、反転し濃い煙幕の向こうへ退避した[31]。大和は主砲と副砲を併用して「〇七二五敵大巡一隻撃沈」を記録するが、これは煙幕に入ったジョンストンを「巡洋艦撃沈」と誤認したと思われる[31][38]。
午前7時24分、魚雷1本が熊野の艦首部分に命中した[38][39]。艦首を失った熊野は最大速力14ノットとなり、落伍した[35]。第七戦隊司令官は旗艦を熊野から重巡鈴谷に変更した[注 10][35]。 健在の重巡4隻(第五戦隊〈羽黒、鳥海〉[40]、第七戦隊〈筑摩、利根〉[41])は米軍駆逐艦や空襲に対処しつつ、ひきつづき米空母群を追撃した。第五戦隊は大型巡洋艦(ジョンストンと推定)と交戦しつつ、米空母群を追撃した[42]。
この頃、ジョンストンには大和主砲46㎝砲弾と大和副砲の15.5㎝砲弾[31]、あるいは羽黒の20㎝砲弾がふりそそいでいた[43]。6インチ(約16㎝)砲弾が後部煙突に1発、艦橋に2発が命中し[44]、続いて戦艦金剛からの14インチ(36㎝)砲弾3発も被弾した[31]。ジョンストンの先任将校は「まるで子犬がトラックにひきつぶされるようであった」と回想している[43]。日本側の砲弾は徹甲弾だったので駆逐艦の薄い装甲に命中しても突き抜けてしまい爆発しなかったが、ジョンストンも「損傷なし」というわけにはいかなかった[45]。14インチ砲弾は左舷の機関歯車とタービン、後部ボイラーにそれぞれ命中し左舷推進軸が停止した[46]。この損傷により速力は17ノットに低下した[45]。さらに操舵機と5インチ砲3基への動力が失われ、ジャイロコンパスは役に立たなくなった。低く垂れこめたスコールが現れたため、ジョンストンは逃げ込んで数分間応急修理と復旧作業を行った[45]。艦橋内は死傷者が横たわり血の海となっていた。エヴァンズ中佐は破片によって上半身が傷だらけになり、さらに左手の指2本を失ったが、傷口を自らハンカチで覆うと駆け付けた救護班に対し、自身に構わず他の負傷者を看るように命じ指揮を継続した[47]。
7時50分、スプレイグ少将は駆逐艦に対して魚雷攻撃を命じた[48]。ジョンストンは機関に損傷を受けていたが、他の駆逐艦を砲撃で援護しつづけた[49]。煙幕から現れた時、危うくヒーアマン (USS Heermann, DD-532)と衝突しそうになった[50]。8時20分、煙幕から抜け出たジョンストンは左舷方向わずか7,000ヤード(6,400m)の距離に金剛を発見し、それに向かって45発の5インチ砲弾を浴びせかけ上部構造物に複数の命中を記録した。金剛からの主砲による反撃は全て外れた[51]。
つづいてジョンストンは敵巡洋艦に砲撃されている護衛空母ガンビア・ベイ (USS Gambier Bay, CVE-73)を確認し、砲撃をガンビア・ベイから遠ざけるべく巡洋艦に攻撃をかけ、重巡洋艦に対して4発の命中を記録した[7][52]。米空母群に接近した第五戦隊(羽黒、鳥海)の周辺には着色された巨大な水柱が立ち[注 11]、この頃に被弾した鳥海は落伍した[54]。
さらにジョンストンは日本の水雷戦隊が護衛空母群へ急速に接近しつつあるのを視認し、阻止を試みる[3][55]。この水雷戦隊は、第十戦隊司令官木村進少将が指揮する軽巡洋艦矢矧(第十戦隊旗艦)と第17駆逐隊司令谷井保大佐指揮下の陽炎型駆逐艦4隻(浦風、磯風、雪風、野分)であった[56][57]。0848、木村司令官は「空母二隻 我ヨリノ方位二一〇度二〇,〇〇〇米 我空母二隻ニ突撃ス」と報告し、各艦に魚雷戦の準備を命じた[58]。 第十戦隊が魚雷を発射する前、ジョンストンは先頭の軽巡洋艦矢矧と交戦し12発の命中弾[注 12]を観測して進路を妨害すると[60]、後続する陽炎型駆逐艦浦風(第17駆逐隊司令駆逐艦)と戦って命中弾を観測した[61]。 矢矧はジョンストンに対してまず8㎝高角砲を発射し[62]、続いてジョンストンの行動を魚雷発射とみて右舷側に回避行動をとった[63][58]。 第十戦隊の右側への回避行動は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将)の進撃を妨げる結果となり[64][65]、二水戦は空母群への射点につくことができなくなった[66][67]。 前述のようにジョンストンは既に魚雷を撃ち尽くしていたが、第十戦隊(矢矧)は「ジョンストンが魚雷を発射した」[63][68]と誤認したのである[60][67]。旗艦が回避行動をとったのをみて、後続の第17駆逐隊も矢矧同様に右側へ回避行動をとった[69]。 態勢を立て直した矢矧は0905に魚雷7本を発射、つづいて敵駆逐艦に砲撃をくわえ、0900に爆発し0915に沈没したと記録している[58][67]。この駆逐艦はサミュエル・B・ロバーツ (USS Samuel B. Roberts, DE-413)であった[69]。 交戦中、矢矧の右舷士官室にジョンストンの主砲1発が命中した[66][69]。第17駆逐隊は0915から0923までに距離1万メートルで魚雷約20本(浦風4、磯風8、雪風4、野分推定4)を発射したが[70]、命中しないか[71][72]、艦砲射撃や艦載機の銃撃で爆破された[73][74]。第十戦隊は「エンタープライズ型空母撃沈1、沈没確実1、駆逐艦撃沈3」を報告した[75][61]。
ジョンストンは被弾によって2番砲が破壊され、3番砲直下にも命中弾を受けた[1]。動力が失われているため揚弾機は使えず、1発あたり54ポンド(24.5kg)ある砲弾を乗員が弾薬庫から人力で担ぎ上げた[51]。艦橋は40mm機関砲用即応弾庫への被弾によってもたらされた火災と爆発によって惨状をさらしていた。ジョンストンの艦尾に移り指揮を継続していたエヴァンズ中佐は、手動で舵を動かす乗員たちへ開け放ったハッチ越しに命令を叫んでいた。主砲塔の一つでは、一人の砲手が「もっと砲弾を!もっと砲弾を!」と叫んでいた。いまだジョンストンは、生き残っている5隻の護衛空母に日本の巡洋艦と駆逐艦が到達するのを防ぐため戦っていた[7]。
奮闘するジョンストンにも、9時30分までには最期の時が訪れようとしていた[76]。ヒーアマンは護衛空母を守りながら南へ撤退し、ガンビア・ベイとホーエル (USS Hoel, DD-533)は既に海面上になく[77]、サミュエル・B・ロバーツは矢矧にとどめをさされて沈没した[69]。米空母群に魚雷を発射したあとの第十戦隊は、再びジョンストンに狙いを定めた[78]。矢矧は15㎝主砲を撃ちこんだ[4]。 0930の時点でジョンストンは沈没しかかっており、乗組員の一部は脱出しつつあった[78]。矢矧はジョンストンを砲撃したあと、麾下駆逐艦にジョンストンを砲撃で処分するよう命じた[79][78]。第17駆逐隊(浦風、磯風、雪風、野分)はジョンストンを包囲すると[73][74]、集中砲火を浴びせた[61][80]。 同時刻、栗田部隊から落伍していた重巡洋艦鈴谷も距離18km先に日本側水雷戦隊(第十戦隊)と米軍防空巡洋艦らしき1隻との交戦を目撃、12.4kmに接近して20㎝砲40発を発射した[81]。鈴谷側は、至近弾により目標の傾斜が増大するのを確認した[81]。
9時45分にエヴァンズ艦長は総員退艦を令し、10時10分にジョンストンは転覆した[60][61]。一隻の日本の駆逐艦が接近し、炎上するジョンストンの艦体に止めの砲撃を加えた。ジョンストンの生存者は、その駆逐艦が爆雷や機銃で彼らを殺傷するのではないかと心配し、実際に艦橋にいる艦長が対空砲の方を向いて何かを指示するのが見えた。だが生存者の予想に反し、艦長は漂流する生存者に向き直ると直立不動の姿勢で彼らに敬礼を送った[82]。また、その駆逐艦が通り過ぎる際に1人の乗員が何かを投げていった。誰かが手榴弾だと叫んだが、生存者の一人であったクリント・カーター(5番砲班長)が漂うその物体に近寄ってみたところアーカンソー州で製造されたトマトの缶詰であり、3年前の日米開戦直前に日本へ輸出されたものであった[83]。 日本側の証言にも、駆逐艦雪風の寺内正道艦長(中佐)が咄嗟にジョンストンに対し発砲した機銃手(照準調整のため2射したのみで命中せず)に向け「酷いことをするな」と怒鳴り、攻撃中止を命じたことが伝えられている[84]。雪風艦橋にいた柴田正(雪風砲術長)は「艦橋にいた我々は敵勇者の最後を弔って挙手の礼を捧げた」と回想している[85]。雪風はジョンストンの兵が救命ボートを下しているすぐ傍をすれ違い、田口康生(雪風航海長)は「お互いの顔まで見えた」と語った[86]。
第17駆逐隊をふくめ日本艦隊は去っていったものの、2隻の救命ボートと2隻の筏に分乗したジョンストンの生存者は長時間の過酷な漂流を強いられることになった。友軍のアヴェンジャー雷撃機が彼らを発見したものの、通報した位置が間違っていたため救助隊が全く異なる場所を捜索していたからであった。漂流中、ジョンストンの生存者は鮫の襲撃や衰弱、体温より低い夜間の海水温による低体温症といった脅威に耐えねばならず、途中で力尽きる者もいた。自軍の生存者を探す日本の駆逐艦が接近してきたことが一度あったが、日本軍の捕虜収容所における厳しい扱いの噂を聞いていたため息をひそめてやり過ごした。生き残った者はジョンストンの沈没から3日後の早朝に歩兵揚陸艇(LCI)に発見され、救助のうえで病院船に収容された[87]。
ジョンストンの全乗員327名のうち生還したものは141名だった。186名が戦死した[88]。そのうち約50名は戦闘によって命を落とし、45名が負傷により漂流中に死亡、艦長エヴァンズ中佐を含む残り92名は退艦したものの行方不明となった[7]。
その後[編集]
ジョンストンは生涯で合計6個の従軍星章を受章し、ジョンストンを含む第77.4.3任務群はサマール島沖における勇敢な戦いから殊勲部隊章を受章した。また戦死したエヴァンズ中佐は名誉勲章を授けられた[7]。チェスター・ニミッツ提督は、著書『ニミッツの太平洋海戦史』でジョンストンを含めた米軍駆逐艦を以下のように評している。
後にギアリング級駆逐艦の1隻がジョンストン (USS Johnston, DD-821)と名付けられ、アメリカ海軍を退役後は台湾海軍の正陽 (DD-928) として2003年まで使用されたほか、ディーレイ級護衛駆逐艦エヴァンズ (USS Evans, DE-1023)は艦長のエヴァンズ中佐に因み命名された。
参考文献[編集]
- 生出寿 『砲術艦長黛治夫 海軍常識を覆した鬼才の生涯』 光人社〈光人社NF文庫〉、1996年6月(原著1988年)。ISBN 4-7698-2124-7。
- 木俣滋郎 『日本水雷戦史』 図書出版社、1986年3月。
- 駆逐艦雪風手記編集委員会 『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』 駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。
- 佐藤清夫 『駆逐艦「野分」物語 若き航海長の太平洋海戦記』 光人社NF文庫、2004年1月(原著1997年)。ISBN 4-7698-2408-4。
- 重本俊一,他 『陽炎型駆逐艦』 潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター 『ニミッツの太平洋海戦史』 恒文社、1962年12月。
- 福田幸弘 『連合艦隊 ― サイパン・レイテ海戦記』 時事通信社、1981年7月(原著1983年)。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 海軍捷号作戦(2) フィリピン沖海戦』第56巻、朝雲新聞社、1972年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 『戦史叢書 潜水艦史』第98巻、朝雲新聞社、1979年6月。
- ドナルド・マッキンタイヤー著、大前敏一訳 『Leyte レイテ 連合艦隊の最期・カミカゼ出撃』第5巻、サンケイ新聞出版局〈第二次世界大戦ブックス〉、1971年3月。
- "New York I (Gondola)". Dictionary of American Naval Fighting Ships. Navy Department, Naval History & Heritage Command. 23 July 2015. 13 April 2018閲覧.
この記述には、アメリカ合衆国内でパブリックドメインとなっている記述を含む。 - Cox, Robert Jon (2010). The Battle Off Samar: Taffy III at Leyte Gulf (5th Edition). Agogeebic Press, LLC. ISBN 0-9822390-4-1.
- Hornfischer, James D. (2004). The Last Stand of the Tin Can Sailors (1st Edition). Bantam Books. ISBN 978-0-553-80257-3.
- Kevin, McDonald (2015). Tin Can Sailors Save The Day ! (1st Edition). Paloma Books. ISBN 978-1-55571-786-5.
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和19年10月1日~昭和19年10月31日 捷号作戦戦時日誌(4)第10戦隊』。Ref.C08030039400。
- 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 第17駆逐隊戦闘詳報』。Ref.C08030589300。
- 『昭和18年2月1日~昭和19年10月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030146600。
- 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(1)』。Ref.C08030577600。
- 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(2)』。Ref.C08030577700。
- 『昭和19年10月22日~昭和19年10月28日 軍艦矢矧捷1号作戦戦闘詳報(3)』。Ref.C08030577800。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 『戦史叢書98巻』(1979)478頁「付録第二、日本海軍潜水艦喪失状況一覧表」では「伊176の撃沈はハガードとフランクスの爆雷攻撃」とし、ジョンストンの艦名は記載されていない。
- ^ 連合軍側は栗田艦隊のことを「中央隊」[11]と呼称する。
- ^ 第一戦隊司令官宇垣纏中将座乗。この日の大和は第二艦隊旗艦と第一戦隊旗艦を兼ねる。
- ^ 第五戦隊旗艦だった重巡妙高は前日の空襲で損傷、戦場を離脱[16]。橋本信太郎第五戦隊司令官は羽黒に将旗を掲げていた。
- ^ 10月23日、米潜水艦の襲撃で所属していた第四戦隊が壊滅[17]、健在の鳥海は第五戦隊の指揮下に入っていた。
- ^ 第2駆逐隊所属の駆逐艦清霜は[18]、損傷と戦艦武蔵救助のため別動中。
- ^ 第31駆逐隊所属の駆逐艦朝霜と長波は[19]、重巡高雄を護衛して別動中。
- ^ 第17駆逐隊所属の駆逐艦浜風は[20]、損傷と戦艦武蔵救助のため別働中。
- ^ 第4駆逐隊所属の駆逐艦野分は、本作戦では第17駆逐隊司令の指揮下で行動。満潮、朝雲、山雲は第一遊撃部隊第三部隊(西村部隊)に所属して別働。
- ^ 重巡鈴谷は米軍機の爆撃により機関部に損傷を受け、最大発揮速力23ノットに低下していた。
- ^ サマール沖海戦開始直後、米護衛空母群は日本戦艦の主砲弾が着色弾であり、水柱が各種の色で染まっていたと記録している[53]。ホワイトプレーンズ乗組員は「彼等はテクニカラーで射撃している」と叫んだという。
- ^ 一連の交戦において、ジョンストンの矢矧に対する砲撃は、矢矧士官室に1発命中[59]。
出典[編集]
- ^ Leyte 1971, pp. 137-138勇敢なタフィ隊の駆逐艦
- ^ a b サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 292-294日本駆逐艦の雷撃
- ^ a b #矢矧捷号(3)p.3(0925より0934まで)「艦首駆逐艦我ニ對シ砲撃 我砲戰ヲ開始ス/我主砲彈命中ス/今左九〇度ニ傾斜シツヽアリ(五五七号)/左九〇度ノ鳥海ニ對シ「我矢矧」」
- ^ Leyte 1971, p. 141aジョンストンの終末
- ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 342a-344駆逐艦の第二次反撃
- ^ a b c d e f g h i j k DANFS-Johnston 2015.
- ^ a b c d 戦史叢書98巻 1979, p. 478付録、伊176
- ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 338-345付記、米軍の戦闘状況
- ^ ニミッツ 1962, p. 338.
- ^ マッキンタイヤー『Leyte』(1976)24頁など。
- ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 284-285突然の遭遇
- ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 298-301突如、米空母と遭遇
- ^ ニミッツ 1962, p. 336サマール沖海戦
- ^ Leyte 1971, pp. 119-123水平線上に栗田艦隊
- ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』513-514頁
- ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』509-510頁
- ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』515-516頁
- ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』509-510頁
- ^ 木俣滋郎『日本水雷戦史』515-516頁
- ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 297挿図第28、Y12索敵配備
- ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, pp. 249-250.
- ^ Leyte 1971, p. 126.
- ^ ニミッツ 1962, p. 339.
- ^ 旧約聖書「サムエル記」に出てくる、少年ダビデが投石器で巨漢ゴリアテを倒したという話になぞらえたもの。
- ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 340.
- ^ Leyte 1971, pp. 127-128栗田中将判断を誤る
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 517-518
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- ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 257.
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- ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 332a全軍突撃下の第十戦隊の戦闘/まず駆逐艦一隻を仕留める
- ^ 戦史叢書56巻 1972, pp. 332b-334米空母群を追跡、駆逐艦に阻止される
- ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, p. 333.
- ^ #矢矧捷号(3)p.2「敵砲撃ノ弾着近トナル 主砲之ニ對シ砲撃開始ス/敵空母飛行機発進中/再ビ弾着近トナル屡挟叉サル 一ハ士官室ニ命中ス/魚雷発射用意 敵空母二隻ハエンタープライズ型」
- ^ a b c 戦史叢書56巻 1972, p. 344.
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- ^ #矢矧捷号(3)p.1「〇八四九| | | |左三〇度驅逐艦ニ對シ高角砲打始ム」
- ^ a b #矢矧捷号(3)p.1「〇八五〇|矢| |旗|我群稍右ニ廻避ス|敵駆逐艦魚雷発射スルヲ認ム」
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 520-521.
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- ^ #十七駆戦闘詳報pp.11-12「〇九一五|浦風(四本)磯風(八本)雪風(四本)野分(発射本数不明)ノ順ニ発射(以下略)」
- ^ 野分物語 2004, pp. 260-262.
- ^ サイパン・レイテ海戦記 2004, p. 266.
- ^ a b Leyte 1971, p. 141b.
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- ^ 戦史叢書56巻 1972, p. 337.
- ^ #十七駆戦闘詳報p.12「〇九三〇|敵艦(五五七号)大火災航行不能乗員ハ海中ニ飛込ツツアリ(以下略)」
- ^ ニミッツ 1962, p. 341.
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- ^ #十七駆戦闘詳報p.26「(司令官)10S|二五日〇九三七 10S|砲撃ニ依リ駆逐艦ヲ處分セヨ|〃(信号)」
- ^ #S1802十七駆日誌(4)p.9(昭和19年10月25日項)
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- ^ McDonald 2015, p. 65-78.
- ^ Leyte 1971, p. 141b=.