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=== ブルジュ アル アラブとジュメライグループ ===
=== ブルジュ アル アラブとジュメライグループ ===
[[ブルジュ・アル・アラブ]]は、'''1999'''年12月に操業を開始。ドバイ政府観光・商務局の5段階の格付けによると「5つ星」の最高級ホテルではあるが、通称「7つ星ホテル」と呼ばれる世界で最も豪華なホテルである。'''シェイク・モハメッド'''が評判に相応しい実に象徴的な建物を建設するように概要を簡単に説明したのに応え、WS アトキンス社がデザインしてアラビア船の帆の形になったホテルである。ホテルは、1997年にシェイク・モハメッドが設立して前ドラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレスが事業を進めたホテル管理会社のジュメイラによって管理された最初の不動産物件であるジュメイラビーチホテルの建設場所から離れた沖の人工島に建設された。実際には両方のホテルで同時に操業が開始されたが、人工島の増設に2年の歳月がかかり、ブルジュアルアラブのホテルの建物を地盤に建造し完成するまで3年の歳月が費やされている。
[[ブルジュ・アル・アラブ]]は、'''1999'''年12月に操業を開始。ドバイ政府観光・商務局の5段階の格付けによると「5つ星」の最高級ホテルではあるが、通称「7つ星ホテル」と呼ばれる世界で最も豪華なホテルである。'''シェイク・モハメッド'''が評判に相応しい実に象徴的な建物を建設するように概要を簡単に説明したのに応え、WS アトキンス社[http://www.atkinsglobal.com/en-gb/locations/middle-east/united-arab-emirates/dubai<sub>英語版</sub>]がデザインしてアラビア船の帆の形になったホテルである。ホテルは、'''1997'''年にシェイク・モハメッドが設立して前ドラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレスが事業を進めたホテル管理会社のジュメイラによって管理された最初の不動産物件であるジュメイラビーチホテルの建設場所から離れた沖の人工島に建設された。実際には両方のホテルで同時に操業が開始されたが、人工島の増設に2年の歳月がかかり、ブルジュアルアラブのホテルの建物を地盤に建造し完成するまで3年の歳月が費やされている。<br />

有名なジュメイラ海岸の沿岸と増進するドバイの都市から280メートル離れたアラビア湾の海上に造られた人工島にそびえ立ち、象徴的な超高層ビルで、現在建築の最高傑作であり、また世界で最も豪勢なホテルである。アラビアのダウ船の優美な帆を模してデザインされた。高さは321メートル。ドバイ市から20キロ以内に位置する。ドバイの海岸線を見下ろす。夜には水と炎を表す演出された照明で照らされ、個性的で、比類のない素晴らしく印象的なホテルである。
有名なジュメイラ海岸の沿岸と増進するドバイの都市から280メートル離れたアラビア湾の海上に造られた人工島にそびえ立ち、象徴的な超高層ビルで、現在建築の最高傑作であり、また世界で最も豪勢なホテルである。アラビアのダウ船の優美な帆を模してデザインされた。高さは321メートル。ドバイ市から20キロ以内に位置する。ドバイの海岸線を見下ろす。夜には水と炎を表す演出された照明で照らされ、個性的で、比類のない素晴らしく印象的なホテルである。<br />
ジュメイラビーチホテル3がジュメイラグループによって最初に運営された不動産物件で、1997年にシェイク・モハメドにより立ち上げられたホテル運営会社である。前トラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレス4が長として率いた。実際には2つのホテルは同時に建設が始まったが、ブルジュ アル アラブは島の上に建設を開始するまで3年の月日を要した。その後のジュメイラグループの国際的な展開は2004年にドバイホールディングの傘下企業となった後に推進されて著しく進み、10か国で22のホテルを含む[7]

[[ジュメイラビーチホテル]]がジュメイラグループによって最初に運営された不動産物件で、'''1997'''年に'''シェイク・モハメド'''により立ち上げられたホテル運営会社である。前トラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレスが長として率いた。実際には2つのホテルは同時に建設が始まったが、ブルジュ アル アラブは島の上に建設を開始するまで3年の月日を要した。その後のジュメイラグループの国際的な展開は'''2004'''年にドバイホールディングの傘下企業となった後に推進されて著しく進み、10か国で22のホテルを含む。


== 家族 ==
== 家族 ==

2015年11月10日 (火) 05:47時点における版

ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム
محمد بن راشد آل مكتوم
ドバイ首長国アミール
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム(2008年)
在位 2006年1月5日 - 在位中
別号 アラブ首長国連邦第4代副大統領首相

出生 (1949-07-15) 1949年7月15日(74歳)
休戦海岸ドバイ
配偶者 ヒンド・ビント・マクトゥーム
  ハヤー・ビント・アル=フセイン
子女
家名 マクトゥーム家
父親 ラーシド
宗教 イスラム教スンナ派
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ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームアラビア語: محمد بن راشد آل مكتوم, ラテン文字転写: Muḥammad bin Rāshid al Maktūm英語: Mohammed bin Rashid Al Maktoum1949年7月15日 - )は、ドバイ首長国アミール(首長)。アラブ首長国連邦副大統領首相(在任:2006年2月11日 - )も兼任する。世界でも有数の競走馬オーナーブリーダーでもあり、その場合は英語読みに近いシェイク・モハメッド(あるいはモハメド英語: Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い。なお、この場合の「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は、一種の称号である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記される。

経歴

ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥームラテン文字転写:Muḥammad bin Rāshid al Maktūm、英語:Mohammed bin Rashid Al Maktoum、19497月15日 - )は、ペルシア湾に面したアラビア半島の南西端の地域に位置し、東にオマーン、南にサウジアラビアと隣接し、同時にカタールおよびイランと海上の軍事境界線を共有する7つの首長国からなるアラブ首長国連邦を構成するドバイ首長国のアミール(首長)であり、またアラブ首長国連邦の副大統領と首相を兼任する(在任2006211日‐)。

1949年7月14日、有名なドバイクリーク近くに位置するシンダガ地区[2]に住居のあったアル・マクトゥーム家に生まれる。シェイク・ラシド・ビン・サイード・アル・マクトゥーム殿下の4人の息子の第3子である。兄弟は、シェイク・ラーシド殿下、シェイク・ハムダン殿下、シェイク・ラシド殿下。

競馬に情熱を注ぐ世界でも有数の競走馬オーナーブリーダーでもあり、英語読みに近いシェイク・モハメッド(あるいはモハメド、英語:Sheikh Mohammed)の名で紹介されることが多い。「シェイク」(標準アラビア語では「シャイフ」)は一種のアラビアの称号であり、アラブの指導者という意味がある。アラブ族、家族または村の首長または頭である。日本の報道などではムハンマド・ビン・ラシド・マクトムと表記されることもある。乗馬をこよなく愛し、またその競馬愛好家ぶりは特に有名で、アラビアの最も注目に値する種族の1つであるバニ・ヤス[1]連邦に属する部族[3]の血筋を引いており、馬は子供の頃から人生の一部となっている。熱心な騎手で、マクトゥーム家が所有する厩舎ゴドルフィンの設立者である。首長国6か国で世界最大の競走馬の生産、育成およびサラブレッド種雌馬の繋養業務を営むグループ企業のダーレーグループの所有者でもある。2012年に競走馬のメヂィ・デュポン160 kmに騎乗し、世界馬術選手権(長途騎乗FEI世界エンデュランス)決勝戦へと導く。

2006年211日に副大統領と首相に就任して以来、アラブ首長国連邦政府の主な改革に乗り出し、20074月にアラブ首長国連邦の連邦政府戦略を始める。2010年に、アラブ首長国連邦を2021年までに「世界で最も良い国の1つ」にすることを目的としたアラブ首長国連邦ビジョン[4][5]に着手する。精力的で権力に富む統率力を具体化し、誓約を交わして行動し実行する。卓越し、優れたものだけを強く求める。 現在、豪華なビジネス目標[6]に向けてドバイの転換を図る責任を負っている。エミレーツ航空(アラビア語: الإمارات 、英語: Emirates)やドバイ・ポーツ・ワールド(港湾管理会社、アラビア語: موانئ دبي العالمية‎、英語: DP World、Dubai Ports World)および高級ホテルチェーンのジュメイラ・インターナショナル(ジュメイラ グループ)を含む多数の主要企業の立ち上げおよび経営だけではなく、世界都市(グローバルシティ)にドバイを成長させる計画の重鎮である。その大部分はマルチ型多角経営や投下資本を有する持株会社のドバイ・ホールディング(Dubai Holding)により保持されており、現在、会社の99.67パーセントの株式を所有している。 これまでテクノロジーパークおよびエコノミック フリーゾーン(ジュベル・アリ・フリーゾーン)のドバイ インターネットシティ、ドバイ・メディア・シティ、ドバイ国際金融センター、パーム・アイランドおよび象徴的なブルジュ・アル・アラブの建設を含むドバイの多数の経済的転換プロジェクトの構築を監督した。また、世界で2番目に高い(328 m。世界一高いビルはドバイのローズタワーで333 mである)超高層ビルであるブルジュハリファの建築を指揮している。

アラビア生まれの詩人としても評価されている。

若年期と教育

シェイク・モハメドは、ラーシド・ビン・サイード・アル=マクトゥーム 英語版 の4人の息子の3男である(ドバイを統治するアル=マクトゥーム[2]の一員であり、統率者を務めるアル=ファラジ英語版部族の子孫に当る)。アル=マクトゥーム家は、バニ・ヤス連邦に属する部族の一派であるアルブ・ファラーサの血筋を引き、当連邦は現アラブ首長国連邦における大部分の期間を通じて支配的権力を握る部族連邦であった。ドバイの統治者としてのアル=マクトゥーム家の在位期間は、1833年に始まる。当時のほとんどの移民地域と同様に連邦は実に小さい町であったが、アル=マクトゥーム家の到来により変貌を遂げ、ドバイは世界各国から旅行者やビジネス経営幹部を惹きつける大都市の1つとなっている[3]

母親は、シェイク・ラティファ・ビント・ハムダン・アル⁻ナヒヤーン(アブダビの統治者であるシェイク・ハムダン・ビン・ザイド・アール=ナヒヤーンの娘)。両親の下でシェイク・モハメドは幸福な子供時代を過ごす。両親のシェイク・ラーシドシェイ・ラティファ、ドバイの統治者であった祖父の故シェイク・ラーシド・ビン・マクトゥーム・アル=マクトゥーム殿下は愛情を降り注ぎ、結束の強い家族の絆を満喫した。シェイク・モハメドと兄弟は、従弟たちや首長国のドバイの主要な貿易に携わる上流階級に属する家族に気取らない自然な遊び友達を見つけた。伝統的な子供ゲームの熱狂的な参加者で、特に家の中庭周囲の砂の上でするボール蹴りを最も好んだ。身体的能力を存分に有する行動的な子供で、常に動き回り、ゲームをして遊び、周囲の世界に好奇心が旺盛だった。祖父のシェイク・ラーシドと親しく、よく隣りに座っているのが見られた。4歳の時から個人的に家庭教師が付き、アラビア語とイスラム教義(イスラム教)について学ぶ。1955年にデイラ地区[4]にある小さい小学校のアルアハメディア校で正式な教育を受け始め、古代アラビア語、英語、数学、地理および歴史を勉強する。10歳の時にアルシャーブ校に移り、2年後にドバイ中等学校に進学する。1966年、従兄弟のモハメド・ビン・ハリファ・アル=マクトゥームと共に英国のベル教育委託機関の英語スクールに出席。学業に優れていた。その後、英国南東部ハンプシャー州のアルダーショットの町にあるモンス士官幹部養成学校(後のサンドハースト王立陸軍士官学校)で学び、上級下士官に昇級。イギリス連邦の士官候補生の首席学生として評価され、名誉の剣が贈呈されて卒業した。また、パイロットの訓練を受けるためにイタリアへも行っている。

1968年1月、ドバイ首長のシェイク・ラーシドとアブダビ首長のシェイク・ザイードがドバイとアブダビ間にある砂漠のアルゴウ・エル・セディラ(Argoub El Sedira)で初めて2首長国での連邦結成に関して会談を行ったときに若くして出席。休戦協定締結国家からの撤退要請を目的とした英国への通知に続き、アラブ首長国連邦の結成に合意した。引き続き連邦の体制確立に力を尽くし、1971年12月2日に6首長国の代表がアラブ首長国連邦の結成を謳う暫定憲法に署名してアラブ首長国連邦が新しく建国され、その際に最初の国防大臣に就任した。

国務大臣

シェイク・モハメドは、軍事分野および他の内政問題において抜け目がないことで有名である。 軍事訓練を終えてドバイに戻ると、父親からドバイ警察および後のアラブ首長国連邦軍の傘下となる国防軍(陸海空軍、防空軍、準軍事組織の警察軍を含む連邦軍は国防軍と呼ばれ、アブダビ、ドバイ、ラアス・アル=ハイマの3首長国は首長国軍を保有しており、UDF(アラブ首長国連邦軍)から地域コマンドと呼ばれている)の長官に任命される。アラブ首長国連邦の結成後に不確実で不安定な期間が続き、新しい国境の両側に位置する地所を巡って部族間の小戦闘が生じた。1972年1月24日、シャールジャ首長国の国外追放になったサクァ・ビン・スルターン・アル=カースィミ前首長英語版が、統治者ハリド・ビン・ムハンマド・アル=カースィミに反抗し、反徒のクーデターを率いた。続くアラブ首長国連邦軍と、そのほとんどがラアス・アル=ハイマからアラブ首長国連邦に入国したエジプトの雇い兵から成るサクァ軍との間の激しい銃撃戦後、サクァの降伏を受諾する。シェイク・ハリドはその戦闘で殺害され、現在のシャールジャの首長は兄のスルターン・ビン・ムハンマド・アル=カースィミが継承し統治している。シェイク・モハメドは、世界で最も若い国防大臣であるという事実にかかわらず、1年も経たないうちにアラブ‐イスラエル紛争(中東戦争)の間に割り当てられた重大な責任に取り組み、その間に国家の連邦国防軍を結成しようとしていた。

1973年に、アムステルダムのスキポール空港(アムステルダム・スキポール空港)離陸後に成田空港へ向かう予定だった日本航空404便がハイジャックされドバイに着陸した。この日本赤軍メンバーである丸岡修らによるドバイ日航機ハイジャック事件で、長期化した交渉に関与した。ハイジャック機種は747-246B で123人の乗客と22人の乗組員が乗っていた。女性の犯人の一人が所持していた手榴弾が爆発し、犯人は死亡。フライトのチーフパーサが怪我をした。ハイジャックの首謀者は、管制塔に自らをエル・カサールと称し、パレスチナ解放機構の名の下に飛行機をハイジャックしたと声明を出す。数か国の中東諸国が404便の着陸を拒否し、最終的にドバイに着陸した。ハイジャック犯人グループとの人質解放では成功しなかったが(犯人グループは最終的にリビアで投降後に国外逃亡し、同機は爆破している)、後にオランダKLM航空861便英語版の3人のハイジャック犯人との交渉では247人の乗客および8人の乗務員の解放で成功しており、人質のバランスを調整し、安全な移動の保障の代わりに飛行機を引き渡した。更に、アラブ首長国連邦軍は1976年に最初の国際任務を引き受け、レバノン内戦時にレバノンに軍の派遣を指令し、問題を抱えた当地の平和維持の使命の下にアラブ国防軍に参加している。

In 2006年にオーストラリアでシェイク・マクトゥーム・ビン・ラーシド・アル=マクトゥームが死亡し、ドバイの皇太子だったシェイク・ムハンマド・ビン・ラーシド2006年1月4日にドバイの統治者となった。1月5日に最高評議会の議員がアラブ首長国連邦の副大統領に任命。2月11日に、アラブ首長国連邦大統領のシェイク・ハリファ・ビン・ザイード・ナヒヤーンシェイク・ムハンマド・ビン・ラーシド殿下を首相に指名した。シェイク・ムハンマド殿下と内閣議員がアブダビのアル・バティーン宮殿でシェイク・ハリファ殿下の面前で宣誓を行った。ドバイを世界地図に載せることで歴史を作り、賢い優れた指導者として国家に比類のない方向付けを行った。 2007年4月17日にアラブ首長国連邦政府戦略の地図を公開。持続維持が可能な開発・発展を達成し、更に効果的に連邦資金を投資し運用するものであった。最も注目に値する達成は2007年のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム基金[5]の立ち上げである。

ビジネスキャリア

20世紀初頭までにドバイは着実に国家として確立され、人口は 10,000人に達する。デイラ地区は、約1600軒の家に、主にアラブ人、また現在のイラン、パキスタンおよびアフガニスタンの一部の地域から移住してきたイラン人パレスチナ人バルーチスターン人が居住し、その時点で最も人口密度が高い地区だった。

ドバイを21世紀の主要大都市に変革する監督は世襲によって権力継承した3男のシェイク・モハメドにその責任が任され、2006年に統治者として兄から在位を引き継ぐ以前から現代ドバイの顔であった。1990年中頃から事実上の指導者としてドバイを統治し、驚異的な社会、文化および経済変化を遂げた期間にドバイに一貫性と持続性をもたらした。[6]

ドバイの石油の責任を一手に引き受けている。アラブ首長国連邦は世界で7番目に大きい石油埋蔵量を有するが、その大部分はアブダビに集中している。現在の産出レベルでは、埋蔵量は僅か次の世紀までしか持たないと考えられており、国は如才なく識見のある未来の石油に取って代わる別の産業[7]を検討している。ドバイは固有の先見の明もって新産業に取り組み、これはシェイク・モハメッドの見解と野心に縁るところが大きい。石油とガスの埋蔵量[8] は大きくないが、貿易のための近代的で効果的な経済構造基盤への融資、製造および観光に向けて資源が賢く運用されている。

2009年、ドバイ政府は政府系企業の債権者に債務返済繰り延べを要請し、世界株式相場が急落して世界経済に衝撃を与えた信用危機から回復し、経済破綻はムハンマドの決断と措置で回避できた。[9] [10]
現在、ドバイをペルシャ湾岸地域の商業および観光の中心地にする構想を立てている。エミレーツおよびドバイ空港はその第一歩であり、そうした事業に関して、「オープンスカイ」航空自由化協定(オープンスカイ)を採択し、豪華な観光産業を構築した。
シェイク・モハメドは、多数のビジネスの構築と急激な成長、およびドバイの主要な経済資産に対して責任を負っており、ドバイ・ワールドとドバイホールディングの2つの会社で多くの割合で株式数を保有している。

ドバイワールドは2006年7月2日に、ロジスティクス株式会社のドバイ ポーツ ワールド、政府系不動産開発業者のナキール不動産、政府系投資会社のイスティスマール ワールドを含む莫大な資産を一元管理する持株会社として事業を開始した。世界の100を上回る都市で5万人以上の従業員を擁し、当グループは米国、英国、南アフリカに不動産、ロジスティクス株式会社および他の投資会社を有する。2009年にドバイホールディングは、ホスピタリティ、ビジネスパーク、不動産、4つの事業部門を通じた電気通信事業を発展させ管理している。4つの部門には、ジュメイラ・インターナショナル、テコム/TECOM[11] インベストメンツ、ドバイ不動産グループおよびエミレーツ・テレコミュニケーションズ・コーポレーションが含まれる。部門を運営する会社の投資グループにはドバイグループとドバイインターナショナルキャピタルを含む。

[12]

また、不動産住宅開発業者、資産やイベント管理および投資会社のメラースホールディングの企業支配権を保有し、現在メラースは、ドバイでレゴランドボリウッド映画テーマパークを含む多くの小売り、ライフスタイルおよびテーマのある開発を発展させている。2015年9月8日、メラースは「メラース アル シーフ」のショーケースを発表し、アルシーフ地方と平行して文化および歴史地区のアル・ファヒディ歴史保護区内で具体化している観光発展計画を進める。メラース アル シーフの建造が開始され、2017年に完了するように計画されている。

ドバイ国際空港と世界初の最大級専用空港都市であるドバイ ワールド セントラル[13]の傘下企業としてアール・マクトゥーム国際空港の両方の開発を進めただけでなく、エミレーツ航空の設立に貢献している。更に、国有格安航空会社のフライドバイの建設の後ろ盾にもなっている。

2008年9月のリーマン・ショックによる金融危機で不動産ブームが縮小したことと相まって世界経済が悪化している中、2009年11月25日、ドバイ政府がドバイ・ワールドの債権者に対し、40億米国ドルを含む600億ドル近い全債務に関して返済期限を半年以上繰り延べる要請を出し、再度、世界的株価の下落を引き起こした。2012年12月12日発表の「ドバイ経済2012」のレポートによるとドバイ経済はドバイショックから回復したことを示している[14] が、この時期に多くの日本企業が中東地域から撤退している。

主要ビジネス

エミレーツ航空の設立

シェイク・モハメッドは、1970年代を通じドバイ国防軍長官とアラブ首長国連邦国防大臣としての役割を務めると同時に、ドバイのエネルギー資源を監視し、ドバイ民間航空の責任者も務めた。1985年3月にドバイ「オープンスカイ」ポリシーに関してバーレーン国営航空会社ガルフ・エアと対立後、エミレーツと名付けた新航空会社の設立と同時に、英国の実業家のマーライス・フラナガン英語版氏に当時のドバイ国営航空会社旅行代理店 DNATA英語版の創業およびCEOの任務に就かせたのは上述のドバイ民間航空の職務であった。リースされた2機の機材とボーイング737型機、エアバス300-B4型機でドバイから最初の路線を開設。航空会社の設立予算は約1000万ドル(フラナガンが航空会社設立に必要であると申請した金額)で、就航飛行は1985年10月25日に行われた。設立時に自身より若い叔父のアフマド・ビン・サイードを新会社の会長にする。更に施設と機械材料に約7500万ドルが提供されたが、エミレーツは世界の主要な航空会社の1つとなる会社の華々しい発展を通してドバイ政府からの出資助成金を受け取ることは一切なく、配当金で借金を返還したとしている。[15][16]

1989年、最初のドバイ航空ショーに着手し、空軍のアクロバット飛行チーム「アル・フルサン(Al-Fursan)」をはじめとする各国のチームによる曲芸飛行や各社の戦闘機による展示飛行などが行われ、2年毎に開催される。2013年にはそのイベントは1,000社以上の展示にまで発展し、ジェット航空機の発注額が1620億ドル(約20兆円)にのぼり、エミレーツは航空史上最大級の航空機発注を行ってエアバス380型機50機とボーイング777X型機150機で合計990億ドルの発注を発表した。2014年にはハイデラバード航空ショーでの初披露のために380をインドに運搬し、世界のトップブランドを選ぶ英国の調査会社「ブランド・ファイナンス社」による2014年「ブランド・ファイナンス・グローバル500」で「世界で最も価値あるエアラインブランド」に3年連続で選ばれ、翌年の2015年にはトップ200社の中にランクインた。2015年11月8日に開幕したドバイ航空ショーでは、これまでの初日恒例のジェット旅客機の大型発注の続出は見られず航空機業界への投資家は販売ブームの終結と見ている一方、エミレーツ航空は140機を発注。欧州、アジア、アフリカの中間にある地理的優位性を生かして世界シェアの拡大を目指す。

ドバイ ポーツ ワールド

1991年、ジュベル・アリ港、フリーゾーン(ジュベル・アリ・フリーゾーン)、ラーシド港を合併し[17]、ドバイ港湾公社を結成する。1999年には、ドバイ ポーツ インターナショナルを設立し、海外企業の買収や経営契約を検討する。ドバイ ポーツ インターナショナルは、2005年にドバイ・ポーツ・ワールドを結成するためにドバイ港湾公社に組み入れられる。2006年に当会社は英国の船舶会社であるP&Oを70億ドルで買収。これに関して米国の多数の政治家やロビイストが、P&Oの買収の一部として同社により運営されていた全米の6か所の港湾の安全保障に関して懸念を呈し、後に投資の自由か米国のインフラ防衛のどちらを優先するかというドバイ ポーツ ワールド論争に繋がった。その後、ドバイ ポーツ ワールドは問題となった港湾を売却した。[18]

採算の取れるグローバル企業のドバイポーツ ワールドは、現在、世界で最大の港湾ターミナル運営を行う巨大港湾会社の1つとなっている。6か国に亘って60以上のターミナルを運営し、収益の80パーセントはコンテナの取扱いによるものであり、それにはインディア、アフリカおよび中東の新し発展就航を含む。

ブルジュ アル アラブとジュメライグループ

ブルジュ・アル・アラブは、1999年12月に操業を開始。ドバイ政府観光・商務局の5段階の格付けによると「5つ星」の最高級ホテルではあるが、通称「7つ星ホテル」と呼ばれる世界で最も豪華なホテルである。シェイク・モハメッドが評判に相応しい実に象徴的な建物を建設するように概要を簡単に説明したのに応え、WS アトキンス社英語版がデザインしてアラビア船の帆の形になったホテルである。ホテルは、1997年にシェイク・モハメッドが設立して前ドラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレスが事業を進めたホテル管理会社のジュメイラによって管理された最初の不動産物件であるジュメイラビーチホテルの建設場所から離れた沖の人工島に建設された。実際には両方のホテルで同時に操業が開始されたが、人工島の増設に2年の歳月がかかり、ブルジュアルアラブのホテルの建物を地盤に建造し完成するまで3年の歳月が費やされている。

有名なジュメイラ海岸の沿岸と増進するドバイの都市から280メートル離れたアラビア湾の海上に造られた人工島にそびえ立ち、象徴的な超高層ビルで、現在建築の最高傑作であり、また世界で最も豪勢なホテルである。アラビアのダウ船の優美な帆を模してデザインされた。高さは321メートル。ドバイ市から20キロ以内に位置する。ドバイの海岸線を見下ろす。夜には水と炎を表す演出された照明で照らされ、個性的で、比類のない素晴らしく印象的なホテルである。

ジュメイラ・ビーチ・ホテルがジュメイラグループによって最初に運営された不動産物件で、1997年にシェイク・モハメドにより立ち上げられたホテル運営会社である。前トラストハウスフォルテの幹部のジェラルド・ローレスが長として率いた。実際には2つのホテルは同時に建設が始まったが、ブルジュ アル アラブは島の上に建設を開始するまで3年の月日を要した。その後のジュメイラグループの国際的な展開は2004年にドバイホールディングの傘下企業となった後に推進されて著しく進み、10か国で22のホテルを含む。

家族

2012年4月現在で20人の子供達の父親となっている。

詳細な経歴などは全く紹介されていない。5男7女の母親。
  • ハヤー・ビント・アル=フセイン(2004年 - )
ヨルダン国王フセイン1世の三女。2007年10月に第1子アル=ジャリーラ、第2子ザーイドを出産。

ヒンド妃との息子達

息子達のうちの数人が2006年のドーハアジア大会におけるエンデュランス馬術競技で金メダルを獲得した。

2008年2月1日にドバイ首長国の太子に指名された。ドバイ執行評議会議長、ハムダーン・ビン・ムハンマド電子大学(HBMe-U)学長を務めている。2008年12月にシェイハ・ビント・サイード・ビン・ターニー・アール・マクトゥームと婚約した。
ちなみに「ハムダーン・ビン・ムハンマド」で「ムハンマドの息子ハムダーン」、「アール・マクトゥーム」で「マクトゥーム家の」の意味があり、「マクトゥーム家のムハンマドの息子ハムダーン」という意味になる。
2008年2月1日にドバイ執行評議会の第一副議長に任命された。
ムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム基金の理事長を務めている。

ヒンド妃との娘達

2008年12月にサーイド・ビン・ダルムーク・ビン・ジュマア・アール・マクトゥームと結婚した。
ドーハアジア大会における馬術の障害飛越競技で銅メダルを獲得した。
2009年2月フジャイラ首長国の太子ムハンマド・ビン・ハマド・ビン・ムハンマド・アッ=シャルキー英語版と結婚した。
2009年10月バーレーン王子のナースィル・ビン・ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファ英語版ハマド・ビン・イーサ・アール・ハリーファの四男)と結婚した。

他の女性達との間の子供達

母親の名前は公表されていない。

ムハンマドの第1子。アラブ首長国連邦副首相のマンスール・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン英語版ハリーファ・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーンの弟)と結婚した。
2006年6月9日に第1子ファーティマ、2007年12月4日に第2子ムハンマドを出産した。
ドバイ女性組織(DWE)の会長を務めている。
  • マンスール
ドバイ文化芸術庁の長官を務めている。
おそらくドイツ人女性との間の子供。

競馬との関わり

ファイル:Royal Ascot Race.jpg
ムハンマド首長とハムダーン太子(2010年のロイヤルアスコット開催にて)

イギリスで高等教育を受けたムハンマドは競馬に関心が深く、前述した通り、世界でも有数のオーナーブリーダーとして知られる。

早くからイギリスなどで馬主として活動し、1994年に兄のマクトゥームと共に競走馬の生産・管理・調教などを行う組織ゴドルフィンを設立して本格的に活動を開始した。

また、1996年には世界最高額賞金を誇る競走ドバイワールドカップを創設した。1999年にはエミレーツ航空スポンサーとしてワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップを創設(後にエミレーツ航空は撤退、2006年以降休止状態)、世界の名馬がその能力を競う場を提供した。

日本の競馬にも関心を持っており、第3回ジャパンカップハイホークを出走させて以来、ハートレイク安田記念優勝)など多くの馬を出走させている[注 1]。また2003年には日本現地法人ダーレー・ジャパン・レーシングを設立し、法人として地方競馬の馬主免許を取得。船橋競馬場川島正行厩舎などを拠点として活動していた。

2006年に同年のゴドルフィンマイルを優勝した直後のユートピア2002年全日本2歳優駿2003年ダービーグランプリ2004年2005年マイルチャンピオンシップ南部杯優勝)を400万ドルの移籍金で獲得してゴドルフィンに移籍させている。

ダーレージャパンは関連会社であるダーレー・ジャパン・ファーム有限会社2007年中央競馬の馬主免許を取得し、約40億円のトレードで獲得したアドマイヤムーン(2007年ドバイデューティーフリー宝塚記念優勝)を中央競馬における所有馬第1号とした。しかし、11月1日にダーレージャパングループの代表である高橋力を解任し、11月27日には中央競馬馬主登録を抹消申請した。

2年後の2009年11月25日、JRAはこの年から認められていた日本国外居住者の馬主登録について、ムハンマドが登録したことを発表した。JRAでの馬主登録名は「H.H.シェイク・モハメド」(H.H.はHis Highness=殿下)。また勝負服の柄は「海老、白袖、海老一本輪」。ムハンマドの登録に合わせて、ハヤー妃(登録名:H.R.H.プリンセス・ハヤ)とハムダーン太子(登録名:H.H.シェイク・ハムダン)もJRAに馬主登録したと発表された。2010年3月には所有するルナーレガシーが中央競馬「メイクデビュー中山」で1着となった。2011年には所有馬のデボネア東京優駿に出走することとなり、観戦のために訪日している。

本人はエンデュランス馬術競技の優秀な騎手であり、数々の大会で優秀な成績を残しており、また自身が大会を主宰する事もある。

主な所有馬[21]

脚注

注釈

  1. ^ 1995年の京王杯スプリングカップにドゥマーニで優勝した際の馬主名義は「ハムダン殿下」の表記。[19][20]

出典

関連項目

外部リンク

先代
シャイフ・マクトゥーム
ドバイ首長
2006年 -
次代
-
先代
シャイフ・マクトゥーム
アラブ首長国連邦副大統領首相
2006年 -
次代
-