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*[[広島県出身の人物一覧]]
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*[[広島東洋カープの選手一覧]]
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==外部リンク==
*[http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/2/990204.html 備前 喜夫]([http://www.chugoku-np.co.jp/Carp/50y/retu/index.html カープ50年選手列伝]より){{リンク切れ|date=2012年2月}}


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2012年2月24日 (金) 15:15時点における版

備前 喜夫
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県尾道市
生年月日 (1933-10-09) 1933年10月9日(90歳)
身長
体重
170 cm
64 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 投手
プロ入り 1952年
初出場 1952年3月21日
最終出場 1962年
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴

  • 広島カープ
    広島東洋カープ (1963 - 1974)

備前 喜夫(びぜん よしお、1933年10月9日 - )は、広島県尾道市出身のプロ野球選手広島東洋カープ投手。引退後はコーチ、二軍監督、スカウトを務めた。旧名は「大田垣 喜夫」(おおたがき よしお)。

来歴・人物

尾道西高校(現・尾道商業高校)から1952年、創設二年目の広島カープに入団。当時の広島県内の有力選手は、影響力が強かった広島球団後援会の援助をプロ入り前から受けており、大田垣も「他のチームに行ったら承知しない」と脅されていたという(白石勝巳著書 『背番号8は逆シングル』 207頁)。

1952年3月21日で新人ながら開幕投手となり松竹ロビンス相手に初登板で完投し、初勝利を飾る。当時、エース・長谷川良平中日入りの話があって交渉がもつれ(結局は広島に残留したが)開幕に調整が間に合わず、大田垣に白羽の矢が立ったものであった。18歳5ヶ月での開幕戦勝利は、現在もプロ野球史上最年少記録である。また、広島は広島は前年も新人の杉浦竜太郎が開幕投手を務めて完投勝利を挙げており、2年連続で新人が開幕完投勝利を収めるという珍しい記録を作った。また、広島の新人で初登板初勝利を挙げたのも長らくこの2人のみであった。1990年佐々岡真司が38年ぶりに新人の初登板初勝利を記録し、現在までには8人が記録している[1]2011年5月現在)。1952年、大田垣は結局7勝を挙げ、球団初の最下位脱出に貢献。身長170センチ、体重60キロと小柄ながら、強いリストを効かしたキレのいい直球と縦に大きく割れるカーブ、プロ入り後覚えたといわれるシンカーで、長谷川良平と共にエースとして草創期の弱小カープを支えた。シンカーの名手として知られたが、打者が打つと腕を痛めたという逸話があるので、シンカーというよりシュートに近い球を投げていたものと思われる。また、子鹿のように飛び跳ねるピッチングフォームから「バンビ」というニックネームで親しまれた。

1953年からは5年連続で2桁勝利を挙げるものの、この間2度20敗を記録。しかし、備前家の婿養子となってが変わり、背番号も16番に変更した1957年には20勝を記録した。オールスター戦出場2回(1956年1959年)。1959年にはルーキーだった王貞治に、シーズン本塁打7本のうち2本を献上している。体格からか、やや体力に乏しかったともいわれ怪我が多く、1962年現役を引退した。

引退後は広島の投手コーチ、二軍監督を歴任し、1977年スカウトに転身。1987年にはチーフスカウトに就任し、計25年間に亘りスカウトとして活躍した。ドミニカカープアカデミー開設にも尽力した。広島球団草創期に在籍した選手のうち、広島一筋に半世紀もの間、一度も球団から離れることのなかった唯一の人物である。現在の広島のコーチ・主力選手には、スカウトとしてほぼ全員と関わっている。2002年退団。

なお、1952年の大田垣以降、カープでは高卒新人投手の開幕ローテーション入りが一度も無く(2010年現在)、現在でも有望な高卒の投手が入団すると、報道等で大田垣の名前を耳にすることがある。

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1952 広島 43 23 5 0 1 7 17 -- -- .292 770 180.0 186 8 60 -- 4 42 5 0 98 86 4.30 1.37
1953 49 26 3 1 1 13 20 -- -- .394 1066 249.0 282 9 62 -- 6 82 2 1 130 105 3.80 1.38
1954 30 21 9 1 2 10 10 -- -- .500 704 170.1 198 14 33 -- 2 54 1 1 83 73 3.84 1.36
1955 45 31 15 2 2 13 18 -- -- .419 1173 290.0 270 11 64 5 5 101 0 0 106 82 2.54 1.15
1956 48 30 9 3 2 13 22 -- -- .371 1006 247.0 219 18 61 7 5 112 4 1 110 86 3.13 1.13
1957 51 34 11 2 2 20 13 -- -- .606 1044 258.2 225 9 61 4 4 128 0 0 95 72 2.50 1.11
1958 29 13 5 1 1 9 10 -- -- .474 541 135.0 121 5 30 2 1 52 1 0 44 36 2.40 1.12
1959 55 35 18 6 5 17 20 -- -- .459 1162 291.2 259 16 67 5 5 153 2 0 86 71 2.19 1.12
1960 33 17 2 1 0 7 8 -- -- .467 509 127.0 106 7 40 7 1 45 0 0 30 22 1.56 1.15
1961 40 11 0 0 0 5 8 -- -- .385 480 118.2 101 5 39 3 3 42 1 0 42 35 2.65 1.18
1962 23 6 1 0 0 1 3 -- -- .250 229 52.0 69 1 5 0 2 24 0 0 35 30 5.19 1.42
通算:11年 446 247 78 17 16 115 149 -- -- .436 8684 2119.1 2036 103 522 33 38 835 16 3 859 698 2.96 1.21
  • 各年度の太字はリーグ最高

記録

背番号

  • 14 (1952年 - 1956年)
  • 16 (1957年 - 1962年)
  • 63 (1963年)
  • 64 (1964年)
  • 65 (1965年 - 1967年)
  • 62 (1968年 - 1974年)

登録名

  • 大田垣 喜夫(おおたがき よしお)(1952年 - 1956年)
  • 備前 喜夫(びぜん よしお)(1957年 - 1974年)

脚注

  1. ^ 杉浦、大田垣、佐々岡の他の顔ぶれは山内泰幸黒田博樹小林幹英(唯一の救援勝利)、齊藤悠葵福井優也である。このうち、高卒新人は大田垣と齊藤の2人である。

関連項目

外部リンク