館山航空基地

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館山飛行場
IATA: noneICAO: RJTE
概要
空港種別軍用
所有者防衛省
運営者海上自衛隊
所在地千葉県館山市宮城[1]
建設1930年
所在部隊第21航空群
標高10 ft / 3 m
座標北緯34度59分14秒 東経139度49分43秒 / 北緯34.98722度 東経139.82861度 / 34.98722; 139.82861
滑走路
方向 全長 表面
ft m
09/27 300×45 舗装

館山航空基地(たてやまこうくうきち、JMSDF Tateyama Air Base)は、千葉県館山市に所在する海上自衛隊飛行場である。艦載哨戒ヘリSH-60JSH-60Kと救難ヘリUH-60Jを運用する第21航空群の航空基地となっている。

概要

・館山航空基地は、もともと関東大震災によって隆起した浅瀬を埋め立てて旧海軍が建設した飛行場館山海軍航空隊の基地である。特有の強い西風と、埋立地という地形により戦前から「陸の空母」とも呼ばれ、戦中に勇名を馳せた日本海軍空母艦載機部隊の訓練基地である。風が激しく、しかも時折急激に風向きを変えることがあるため、艦載航空部隊の訓練用飛行場としては、非常に実戦的な環境条件を有している。戦時中は、最強の零戦パイロットと謳われた岩本徹三が在籍しており、戦後、映画「零戦燃ゆ」の撮影は当基地で行なわれた。 東京湾の防備を担当する海軍航空部隊の重要基地であり、横須賀鎮守府に所属している艦載機や水上飛行機、飛行艇が運用されていた。基地周辺には、本土決戦に備えて多数の地下壕や掩体豪が建設され、現在も残っている。なお、基地の近隣には赤山地下壕があり見学可能な戦跡となっている。終戦後、昭和20年9月3日から4日間アメリカ軍がスベリ地区から上陸して直接占領し、日本の本州で唯一の軍政が敷かれた。

・現在の館山飛行場は、ヘリコプター専用飛行場としては、日本最大規模のヘリポートである。旧海軍の建造物は、現在も司令部庁舎や国旗掲揚台として使用されており、基地専用の水源地も旧海軍が建設したものをそのまま使用している。基地の内外には、旧軍関係の石碑や史跡が数多く点在しており、まさに、生きた戦争遺跡とも言える基地である。

・戦後は海上保安庁海上警備隊から保安庁警備隊となって館山航空隊が編成され、海上自衛隊航空部隊の発祥の地ともなった。現在は海上保安庁の羽田基地所属ヘリも、離着陸訓練のため頻繁に使用する。以前は、砕氷艦南極観測観測船)しらせ艦載ヘリ部隊「しらせ飛行科」の基地としても知られていた。しらせ輸送ヘリS-61Aは退役して基地内に85号機が記念展示されている[2][3]

・毎年10月に行なわれる基地祭「ヘリコプターフェスティバルIN館山」では、厚木航空基地からは、アメリカ海軍UH-60木更津基地からは陸上自衛隊のUH-60J、浜松基地からは航空自衛隊のUH-60が飛来して、日本国内のすべてのUH-60シリーズのヘリコプターを見ることができる。

・現在は、京都府舞鶴航空基地、青森県大湊航空基地、東京都硫黄島基地とともに第21航空群を編成し、護衛艦艦載ヘリコプター部隊の基地になっている。

・かつては、「第101航空隊」による伊豆諸島での急患搬送が東京都から任されていたが、現在は、厚木航空基地下総航空基地より救難ヘリコプターUH-60Jが移動し、救難任務を主体とする「第73航空隊」が新編された事により、伊豆諸島への急患搬送体制の向上が期待されている。

・館山航空基地に近い館山港には、海上自衛隊専用岸壁があり、観艦式に参加する艦船の連絡艇が使用するなど、横須賀基地の補助的な役割を担っている。

・滑走路のタイトルバックが有名なTVドラマ「Gメン'75」の撮影はここで行われた。

・一般見学者用に基地内に史料館があり、山本五十六元帥の揮毫のプロペラや零戦の栄エンジンのセルモーター、二式小銃などが展示されている。見学には事前の予約が必要である。

歴史

  • 1930年(昭和5年)・・・大日本帝国海軍横須賀鎮守府隷下の館山海軍航空隊が開設される。首都防衛の拠点として、海軍航空隊の艦上戦闘機、艦上攻撃機、水上偵察機部隊が置かれる。近くの洲崎にも海軍飛行場が存在していた。
  • 1945年(昭和20年)8月31日・終戦により、アメリカ陸軍第1騎兵師団が駐留。
  • 1946年(昭和21年)2月・・同師団移留
  • 1948年(昭和23年)6月30日・千葉県立安房水産高等学校が当施設の一部を使用開始(1955年(昭和30年)8月1日まで)
  • 1953年(昭和28年)・・・保安庁館山航空隊が新編。保安庁~海上自衛隊の航空部隊としては初の部隊。
  • 1955年(昭和30年)・・・「第101飛行隊」に改編。
  • 1961年(昭和36年)・・・第21航空群が新編。「第101航空隊」を隷下に再編。「第211・221教育航空隊」が館山で新編。
  • 1965年(昭和40年)・・・「第101航空隊」隷下に南極観測船(砕氷艦)「ふじ」搭載機部隊「ふじ飛行科」を新編。
  • 1968年(昭和43年)・・・「第221教育航空隊」が小月航空基地へ移転。
  • 1973年(昭和48年)・・・「第121飛行隊」を新編。翌年「第121航空隊」に改編。
  • 1974年(昭和49年)・・・「第211教育航空隊」が鹿屋航空基地へ移転。
  • 1983年(昭和58年)・・・「第101航空隊」隷下「ふじ飛行科」を「しらせ飛行科」に改編。
  • 1989年(平成元年)・・・「第123航空隊」が、「第124航空隊」として新編。
  • 1998年(平成10年)・・・「第124航空隊」が、「第123航空隊」に名称変更。
  • 1999年(平成11年)・・・護衛艦はるな」艦載の「第123航空隊」所属機が、能登半島沖不審船事件に出動。不審船をビデオ撮影して、防衛庁に電送。
  • 2001年(平成13年)・・・舞鶴航空基地が開港。「第123航空隊舞鶴航空分遣隊」が新編。
  • 2008年(平成20年)3月26日・・・組織改編され第21航空群隷下部隊再編と新編。
「第101航空隊」、「第121航空隊」、「第123航空隊」を「第21航空隊」に再編。
「しらせ飛行科」を第21航空隊隷下へ改編。
「舞鶴航空分遣隊」を「第23航空隊」に改編。
大湊地方隊隷下の「大湊航空隊」を隷下に編入し「第25航空隊」に改編。
救難を主体任務とする、「第73航空隊」を新編。
八戸航空基地「八戸救難飛行隊」を隷下に編入し「大湊航空分遣隊」に改編。
第4航空群隷下の「硫黄島救難飛行隊」を隷下に編入し「硫黄島航空分遣隊」に改編。
  • 2008年(平成20年)10月15日・・・第21航空隊隷下「しらせ飛行科」所属の輸送ヘリコプターS-61A-1(8185)が最終飛行を行い退役。
  • 2009年(平成21年)
2月26日・・・第73航空隊UH-608971号機が、海上自衛隊の航空機としては、史上初めて、海上保安庁の巡視船に着船した。海上自衛隊と海上保安庁の合同捜索救難訓練の一コマであった。着船した巡視船の船名は「いず」。
5月20日・・・第21航空隊隷下「しらせ飛行科」岩国航空基地へ移動。

配置部隊

  • 第21航空群
    • 第21航空隊
      • 第211飛行隊 哨戒ヘリSH-60K 約10機
      • 第212飛行隊 哨戒ヘリSH-60J 約10機
    • 第73航空隊 救難ヘリUH-60J約3機 救難任務を主体とする。海難救助、伊豆諸島急患搬送を行う。隷下部隊に「大湊航空分遣隊」、「硫黄島航空分遣隊」がある。
    • 第21整備補給隊
    • 館山航空基地隊
  • 館山システム通信分遣隊
  • 館山警務分遣隊

保存展示航空機

回転翼機

  • 対潜哨戒機 HSS-2B 8085号(第124航空隊)
  • 輸送機 S61A-1 8185号(第101航空隊) ※「しらせ」飛行科(但し「しらせ」には8186,8187号機が派遣されることが多く、同機は予備機的な存在だった)
過去の展示機
  • 対潜哨戒機 HSS-1N 8569号(大村航空隊) ※HSS-1Nの最終号機。現在のS-61A-1 8185号の場所に展示されていたが、屋外展示による老朽化に伴い2003年に解体処分された。

固定翼機

  • 練習機 KM-2 6259号(第201航空隊)
  • 練習機 B-65 6726号(大村航空隊)

関連項目

脚注

  1. ^ 防衛ハンドブック 2009(平成21年版) 朝雲新聞社 ISBN 978-4-7509-2030-6
  2. ^ 「しらせ飛行科」は、岩国航空基地へ移動しCH-101輸送ヘリコプターに更新され、第111航空隊支援の下、独立した艦(しらせ)所属航空部隊として再編されている。
  3. ^ 「館山時代は第101航空隊(再編後は第21航空隊)が整備支援を担当していた。

外部リンク