鎌田実
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県三原郡広田村(現:南あわじ市) |
生年月日 | 1939年3月8日(85歳) |
身長 体重 |
177 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手 |
プロ入り | 1957年 |
初出場 | 1957年6月12日 |
最終出場 | 1972年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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鎌田 実(かまだ みのる、1939年3月8日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(内野手)・コーチ・野球解説者。
来歴
洲本高校では、同期のエース蔦行雄を擁し、1956年夏の甲子園県予選決勝に進出。この試合は蔦と県尼崎高の今津光男両投手が好投、最後は9回裏1-2でサヨナラ負けを喫し、甲子園出場を逸する。
1957年に大阪タイガースに入団。当初は中日ドラゴンズに入団する予定だったが、鎌田を担当していた佐川直行スカウトがドラゴンズを解雇されてタイガースに移籍したことにより、「何だかよくわからないうちに」タイガースに入団することとなった[注釈 1]。
1959年に二塁手の定位置を獲得、1960年には初の規定打席(13位、打率.265)に到達する。主に二番打者として起用され、1962年のリーグ優勝に貢献。しかし日本シリーズでは31打数4安打と真価を発揮できなかった。1964年には移籍入団の本屋敷錦吾にポジションを譲るが、その後も準レギュラーとして活躍。1966年には定位置を奪還する。
1967年に近鉄バファローズに移籍。ここでも3年間、レギュラー二塁手をつとめた。1970年に阪神へ復帰し、1971年からは選手兼任コーチとなったが、1972年限りで現役引退。
引退後はスポーツ用品店経営を経て、近鉄で二軍総合アドバイザー(1993年)・一軍総合アドバイザー(1994年)を務めた。退団後はサンテレビ野球解説者、デイリースポーツ野球評論家を務めた後、淡路島で少年野球を指導していたが、2009年2月1日より阪神大学野球連盟の神戸大学海事科学部野球部(神戸大学体育会硬式野球部とは別チーム)監督に就任。現在は、芦屋市立山手中学校野球部の外部コーチとしても活躍。
高校時代は遊撃手だったが、「空前絶後の遊撃手」とまで言われた吉田義男がいたため、二塁手に転向する。本人は「吉田さんがいたので、阪神は一番行きたくなかった球団だった」と後に笑顔で語っている。遊撃・吉田、三塁・三宅秀史と共に「試合前のシートノックだけで金を取れる」と言われるほど「日本球界最強の鉄壁の内野陣」を構成する。
ただし一塁手の遠井吾郎だけは、お世辞にも守備がうまいとは言えなかったため、「下手な一塁手に出てこられると邪魔だ」と、本来一塁手が捕るべき打球を鎌田がすべて処理した。なお、この指示に従って一塁から動かなかった遠井は「仏のゴローちゃん」と呼ばれた温厚な性格のためか「鎌田さんの言うとおりですから」と、嫌な顔ひとつしなかったという。
人物
鎌田も遊撃手として非常に高い能力があったようで、一時期 故障した吉田の代役として遊撃を任されたこともある。それを見た巨人が阪神にトレードを申し入れたということもあるという。そのプランでは吉田と共に名手と並び称された広岡達朗を二塁にコンバートし、鎌田を遊撃手に据えるというものであった。そのことからも、遊撃手としても半端ではない鎌田の技量が窺える。しかし、阪神がトレードを了承せず、この話は幻のまま終わったため、本人がこのトレード話を当時巨人監督の川上哲治から知らされたのは現役引退後だった。
鎌田は日本で初めてバックトスを導入した選手として知られる。1963年のフロリダキャンプで現地の選手のバックトスを目の当たりにした鎌田は、「このプレーを日本でも定着させたい」と思い、練習を始める[1]。3年後、ついにバックトスを自在に使えるようになるが、マスコミ嫌いのため「このチームでバックトスをして、万一失敗したらマスコミがうるさいから」と、ほとんど使用しなかった。それでも、チームの危機にはバックトスを使って併殺を築き、相手チームの反撃を絶った。このとき受け皿となった吉田はのちに「お互いプロだし、守備についてのプライドもある。だから初めて見た時は驚いたけど、驚かないフリをした(笑)」と語っている。
近鉄移籍後、「これで自由にバックトスが使える」と思ったが、いきなり遊撃手がボールを捕れずにエラー。翌1968年から監督を務めた三原脩からは「バックトスを使うな」と厳命された。納得できぬ鎌田は「なぜバックトスを使ってはいけないのか」と、大監督である三原に食って掛かった。「他の野手のレベルが低く、鎌田のバックトスに対応できなかったから」と諭そうとする三原に対し、「それは他の内野手の問題で、私のバックトスに問題があるわけではない。むしろ、併殺の可能性が高まるので、バックトスは積極的にするべきだ」とさらに反論。三原は「私も昔バックトスをやろうとしたができなかった」などと話をうやむやにするしかなかったという。その後はバックトスを封印していたが、一度だけバックトスを行い、サヨナラ負けのピンチを救った。これ以降、三原は鎌田に対し「先輩」というあだ名で呼ぶようになったという。また、2000年に行われた阪神巨人OB戦では往年のバックトスを披露した(ただし、打球は正面に近く、技を見せるためにわざとバックトスをしていた)。
飛行機の移動が苦手で、試合中チームを離れて、次の試合に備えて一人夜行列車で移動したこともある。これは前述のフロリダキャンプの際、他のメンバーが熟睡する中、一人起きていた鎌田はものすごい大雨の中を飛行機が飛び立つという経験をし、恐怖を覚えたからだという。つまり、鎌田はバックトスと共に飛行機恐怖症も一緒に覚えて帰ったということになる。
バッティングにも特徴のある選手で、いわゆる悪球打ちの打者であった[1]。バッティングのストライクゾーンが頭の上まであったという[1]。この打撃に「大根切り打法」という呼び名もついていた[1]。これは、頭の高さのボールであっても強引に叩きつけ、ヒットにするバッティングであったことから命名された[1]。その一方で真ん中のボールに弱いという弱点も持っていた[1]。選球眼に難があり、ボールゾーンスイング率が高く、打率と出塁率がほぼ変わらなかった。IsoD(出塁率-打率)が.028と4000打数以上の歴代選手の中では最も低い数字となっている[2]。1959年には106試合出場で、IsoDが.006,1961年には全試合出場を果たしながら.013しかなかった。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1957 | 阪神 | 45 | 92 | 85 | 4 | 11 | 1 | 0 | 0 | 12 | 5 | 1 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 3 | 13 | 2 | .129 | .169 | .141 | .310 |
1958 | 67 | 139 | 128 | 9 | 23 | 4 | 3 | 1 | 36 | 13 | 3 | 1 | 6 | 1 | 3 | 0 | 1 | 18 | 0 | .180 | .203 | .281 | .484 | |
1959 | 106 | 371 | 360 | 31 | 86 | 16 | 4 | 2 | 116 | 17 | 1 | 6 | 7 | 1 | 2 | 0 | 1 | 23 | 8 | .239 | .245 | .322 | .567 | |
1960 | 130 | 468 | 449 | 32 | 119 | 16 | 3 | 3 | 150 | 39 | 11 | 8 | 3 | 1 | 14 | 1 | 1 | 35 | 4 | .265 | .288 | .334 | .622 | |
1961 | 130 | 522 | 500 | 56 | 130 | 17 | 4 | 4 | 167 | 36 | 14 | 11 | 10 | 2 | 9 | 1 | 1 | 29 | 9 | .260 | .273 | .334 | .607 | |
1962 | 133 | 571 | 532 | 41 | 106 | 10 | 5 | 1 | 129 | 23 | 2 | 10 | 9 | 2 | 25 | 1 | 3 | 59 | 9 | .199 | .238 | .242 | .481 | |
1963 | 110 | 416 | 400 | 43 | 104 | 12 | 3 | 1 | 125 | 26 | 5 | 4 | 1 | 2 | 13 | 0 | 0 | 13 | 5 | .250 | .282 | .313 | .594 | |
1964 | 53 | 154 | 148 | 11 | 26 | 2 | 1 | 0 | 30 | 6 | 2 | 1 | 1 | 1 | 3 | 0 | 1 | 11 | 2 | .176 | .196 | .203 | .399 | |
1965 | 88 | 227 | 213 | 13 | 45 | 4 | 1 | 1 | 54 | 10 | 4 | 1 | 1 | 1 | 12 | 1 | 0 | 31 | 6 | .211 | .252 | .254 | .506 | |
1966 | 92 | 272 | 250 | 20 | 50 | 8 | 1 | 2 | 66 | 12 | 2 | 3 | 6 | 0 | 16 | 4 | 0 | 11 | 3 | .200 | .248 | .264 | .512 | |
1967 | 近鉄 | 112 | 441 | 420 | 52 | 105 | 15 | 1 | 2 | 128 | 16 | 16 | 4 | 9 | 2 | 9 | 0 | 1 | 50 | 3 | .250 | .266 | .305 | .571 |
1968 | 124 | 429 | 390 | 38 | 89 | 11 | 2 | 3 | 113 | 25 | 15 | 4 | 19 | 2 | 17 | 1 | 1 | 25 | 5 | .228 | .261 | .290 | .551 | |
1969 | 114 | 302 | 278 | 24 | 63 | 10 | 2 | 2 | 83 | 18 | 2 | 3 | 9 | 1 | 13 | 1 | 1 | 20 | 5 | .227 | .263 | .299 | .561 | |
1970 | 阪神 | 108 | 213 | 186 | 23 | 54 | 5 | 3 | 2 | 71 | 12 | 3 | 2 | 15 | 0 | 12 | 0 | 0 | 12 | 5 | .290 | .333 | .382 | .715 |
1971 | 62 | 116 | 104 | 5 | 28 | 2 | 0 | 0 | 30 | 6 | 3 | 1 | 8 | 0 | 4 | 1 | 0 | 9 | 0 | .269 | .296 | .288 | .585 | |
1972 | 8 | 10 | 8 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .250 | .250 | .250 | .500 | |
通算:16年 | 1482 | 4743 | 4451 | 403 | 1041 | 133 | 33 | 24 | 1312 | 264 | 84 | 59 | 109 | 16 | 153 | 11 | 14 | 360 | 66 | .234 | .261 | .295 | .555 |
- 各年度の太字はリーグ最高
記録
- 初記録
- 初出場:1957年6月12日、対広島カープ7回戦(阪神甲子園球場)、8回表に遊撃手で出場
- 初先発出場:1957年6月13日、対広島カープ8回戦(阪神甲子園球場)、7番・遊撃手で先発出場
- 初安打:1957年7月24日、対広島カープ14回戦(広島市民球場)、9回表に松山昇から
- 初打点:1957年9月21日、対国鉄スワローズ22回戦(明治神宮野球場)、4回表に黒岩弘から
- 初本塁打:1958年9月20日、対読売ジャイアンツ24回戦(後楽園球場)、7回表に義原武敏から左越ソロ
- 節目の記録
- 1000試合出場:1967年6月20日、対阪急ブレーブス11回戦(阪急西宮球場)、2番・二塁手で先発出場 ※史上126人目
- 1000本安打:1970年10月6日、対大洋ホエールズ23回戦(阪神甲子園球場)、3回裏に平松政次から左前安打 ※史上75人目
背番号
- 41 (1957年 - 1966年、1970年 - 1972年)
- 8 (1967年 - 1969年)
- 71 (1993年 - 1994年)
関連情報
著書
- 『21世紀の野球理論―もっと上手になる120の鉄則』デイリースポーツ社(共著・編集)。神戸新聞出版センター。2002年。128頁。ISBN 4343001776
注釈
脚注
- ^ a b c d e f 本間勝 (2010年12月). “寡黙な職人気質も一転 一生涯を野球に”. 月刊タイガース. 2014年6月22日閲覧。
- ^ ちょっとマニアックですが、IsoDベスト、ワースト40|野球史
関連項目
外部リンク
- 鎌田実の野球教室
- 鎌田実の「ジュニアからシニアまでの野球教室」(ブログ形式。旧サイト。)