足利義輝

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足利義輝
足利義輝像(国立歴史民俗博物館蔵)
時代 室町時代後期(戦国時代
生誕 天文5年3月10日1536年3月31日
死没 永禄8年5月19日1565年6月17日
改名 菊童丸(幼名)→義藤(初名)→義輝
戒名 光源院融山道圓
官位 従五位下正五位下左馬頭従四位下征夷大将軍参議左近衛中将従三位
従一位左大臣
幕府 室町幕府 第13代征夷大将軍
氏族 足利将軍家
父母 父:足利義晴、母:慶寿院近衛尚通の娘)
猶父:近衛尚通
兄弟 義輝義昭周暠
正室近衛稙家の娘
側室:小侍従[注 1]
輝若丸、女子(耀山、宝鏡寺住持)、女子(伝山性賢、宝鏡寺住持)、天誉(足利義高)?、尾池義辰?
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足利 義輝(あしかが よしてる)は、室町時代後期(戦国時代)の室町幕府第13代征夷大将軍(在職:1546年 - 1565年)。

生涯

少年期

天文5年(1536年)3月10日、第12代将軍・足利義晴の嫡男として東山南禅寺で生まれる。幼名を菊童丸。誕生直後に外祖父・近衛尚通猶子となる(『後法成寺関白記』天文5年3月11日・4月6日条)。

この頃の幕府では父・義晴と管領細川晴元が互いの権威争いで対立し、義晴は戦をするたびに敗れて近江坂本に逃れ、菊童丸もそれにたびたび従った。その後も父と共に京への復帰と近江坂本・朽木への脱出を繰り返した。

天文15年(1546年)12月、菊童丸はわずか11歳にして、父から幕府将軍職を譲られる。父・義晴がかつて11歳で元服・将軍宣下を行ったことに加え、自身が健在のうちに実子に将軍の地位を譲ってこれを後見する考えがあったとされる。このときの将軍就任式は亡命先である近江坂本の日吉神社(現日吉大社)祠官・樹下成保の第で行われ、六角定頼烏帽子親として元服し、義藤(よしふじ)と名乗った[注 2]。 天文17年(1548年)、義晴は晴元と和睦して京に戻った。このとき晴元も義藤の将軍就任を承諾している。

三好長慶との戦い

ところが、細川晴元の家臣で、畿内に一大勢力を築きつつあった三好長慶が晴元を裏切って細川氏綱陣営に転属。天文18年(1549年)6月、江口の戦いで長慶に敗れた晴元によって義晴・義藤父子は、京都から近江坂本へ退避し、常在寺に留まった。天文19年(1550年)5月、義晴が穴太にて死去[2]。義輝は父が建設を進めていた中尾城で三好軍と対峙したが、戦局が好転しないまま11月に中尾城を自焼して堅田へ逃れ(中尾城の戦い)、翌年に朽木へ移った。

天文21年(1552年)1月、細川氏綱を管領にするという条件で三好長慶と和睦し、京に戻った。ただし将軍とは有名無実で、長慶とその家臣・松永久秀の傀儡であった。天文22年(1553年)に晴元と協力して長慶との戦端を開くも敗退。再び近江朽木へ逃れ、以降5年間をこの地で過ごした。なお、亡命中の天文23年(1554年)2月12日、名を義輝に改めている。なお年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。

永禄元年(1558年)5月、六角義賢(承禎)の支援で晴元とともに坂本に移り、京の様子を窺う。翌月、如意ヶ嶽に布陣して三好長逸らの軍と交戦した。一時期は六角義賢の支援を受けた義輝側が優勢であったが、長慶の弟・三好実休の反攻を受け、さらに六角義賢からも支援を打ち切られたために戦況は思うように展開しなかった(北白川の戦い)。11月、六角義賢の仲介により長慶との間に和議が成立したことに伴って、5年ぶりの入洛が実現し、御所での直接的な幕府政治を再開。この年の12月28日には、伯父である近衛稙家の娘を正室に迎えている。

長慶はなおも権勢を高め、幕府の御相伴衆に加えられ、さらに官位の修理大夫に推挙されたが、同時に義輝の臣下として幕府機構に組み込まれることとなった。

将軍親政

足利義輝木像(等持院霊光殿所蔵)

義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力している。伊達晴宗稙宗(天文17年(1548年))、里見義尭北条氏康[3](天文19年(1550年))、武田晴信長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久大友義鎮毛利元就尼子晴久[4][5](永禄3年(1560年))、松平元康今川氏真[6][7](永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟[8] (永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。

また懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、三好長慶・義長(義興)父子と松永久秀には桐紋使用を許した。さらに自らの名の偏諱(1字)を家臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏藤政などに、「輝」の字を毛利輝元伊達輝宗・上杉輝虎(謙信)などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また島津義久武田義信などのように足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。

永禄年間には信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年(1558年)には信玄を信濃守護に補任するが信玄はさらに景虎の信濃撤退を求め、義輝は景虎の信濃出兵を認め、永禄4年(1561年)には信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を命じている。また長尾景虎の関東管領就任の許可、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、三好長慶、三好義興、武田信虎らを任じた。

治世

永禄元年(1558年)の義輝の帰京以降も三好長慶の権勢は続いたが、それに反発する畠山高政と六角義賢が畿内で蜂起し、三好実休が戦死する(久米田の戦い)と、三好氏に衰退の兆しが見え始めた。こうした中、永禄5年(1562年)に長慶と手を結び幕政を壟断していた政所執事の伊勢貞孝が長慶と反目すると、義輝は長慶を支持してこれを更迭し、新しく摂津晴門を政所執事とした。これに激怒した貞孝は反乱を起こしたが、9月に長慶の手で討たれた。これによって、かつての3代将軍、足利義満の介入すら不可能だった伊勢氏による政所支配は歴史に幕を閉じ、幕府将軍による政所掌握への道を開いた。

永禄2年(1559年)、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた)。

永禄7年(1564年)7月に長慶が病死。長年の政敵が消滅した義輝はこれを好機として、いよいよ中央においても幕府権力の復活に向けてさらなる政治活動を行なおうとした。

最期

しかし、松永久秀と三好三人衆にとっては、そのような義輝は邪魔な存在であった。

久秀の長男と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合うが、朝廷は耳を貸さなかった。一方で義輝が頼みとする近江六角氏は永禄6年(1563年)の観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていた。

永禄8年(1565年)5月19日、松永久通と三好三人衆は主君・三好義継(長慶の養嗣子)とともに清水寺参詣を名目に集めた約1万の軍勢率い二条御所に押し寄せ、将軍に訴訟(要求)ありと偽り取次ぎを求めた(永禄の変)。義輝は自ら薙刀を振るって奮戦したが衆寡敵せず、最期は寄せ手の兵たちが四方から畳を盾として同時に突きかかり、殺害された(または、槍で足を払われ、倒れたところに上から刺し殺されたともいう)[注 3]

享年30(満29歳没)。この時、摂津晴門の嫡子・糸千代丸も一緒に討ち死にした。また、義輝の生母である慶寿院も殉死している。

辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」

年表

※ 日付=旧暦

  • 天文15年(1546年
    • 7月27日、従五位下に叙す。
    • 11月19日、正五位下に昇叙し、左馬頭に任官。
    • 12月19日、元服し、義藤を名乗る。
    • 12月20日、従四位下征夷大将軍宣下。
  • 天文16年(1547年
    • 2月17日、参議に補任し、左近衛中将を兼任。
  • 天文23年(1554年
    • 2月12日、従三位に昇叙し、名を義輝と改める。
  • 永禄8年(1565年
    • 5月19日、薨去。
    • 6月7日、贈従一位、左大臣。

人物

  • 剣豪として名を馳せていた塚原卜伝から指導を受けた直弟子の一人である[注 4]。奥義「一之太刀」を伝授されたという説もあり、武術に優れた人物であったのではないかと言われている。ただし卜伝はこの他に北畠具教や細川藤孝などにも授けており、必ずしも奥義を極めたとは断言できない[注 5]
  • 永禄の変の際、自ら薙刀を振るって戦い、その後は刀を抜いて戦ったとも言われる(『フロイス日本史』)。また、後に「足利家秘蔵の刀を十数本畳に刺し、刃こぼれするたびに新しい刀に替えて寄せ手の兵と戦った(『日本外史』)」などの記述も出たことから、現代において「剣豪将軍」と称される場合もある。
  • ただし、義輝の戦いについて最も詳細な記述がなされた『日本外史』は江戸時代後期の作である。そのため、「数多の名刀を畳に突き刺しとりかえながら戦った」というのは後世において後付された創作と考えるのが妥当とされる。
斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址
  • 義輝は武衛陣(斯波武衛家旧邸)に室町幕府の拠点を移した将軍としても知られる。斯波武衛家の旧邸は室町中御門にあり、義輝の御所は室町中御門第とよばれる。のちに大規模に拡張され、石垣で囲まれた城郭風の外観となったため、旧二条城と呼ばれることもある。
  • 松永貞徳の『戴恩記』においては「大変な悪御所であり、刀に黒紙を巻いて闇夜に辻斬りを行った。三好家はその所業を恐れて義輝を討った」と否定的な評価を受けている。
  • 天文23年(1554年)には大友氏から鉄砲火薬の秘伝書(『鉄放薬方并調合次第』)を手に入れたり、永禄3年(1560年)にはガスパル・ヴィレラキリスト教の布教を許している。
  • 永禄8年(1565年)、正親町天皇は京都からイエズス会を追放するよう命令したが、義輝はこの命令を無視した[9][注 6]

系譜

一般には一男一女とされ、息子は輝若丸(永禄5年(1562年)4月生 - 同年7月15日没)のみであるが、非公式に義輝の息子といわれる人物が2名知られている。

  • 細川藤孝の孫で熊本藩主となった忠利は、讃岐国高松藩生駒氏の下で閑居していた尾池義辰(玄蕃、義輝の遺児といわれる[注 7])を探し出し熊本に迎えて、100石扶持を与えた。忠利は、熊本藩の客分・宮本武蔵とともに義辰を山鹿温泉の新築の御茶屋(別荘)に招くなどした。その長男の尾池伝右衛門は西山氏を名乗り、知行1,000石、比着座同列定席の家格にて奉行などを務め、子孫は明治に至る。
  • 他の子としては、義輝暗殺の際に家臣に保護され丹波国波多野氏の下で養育されたという足利義高(出家して天誉)がいたと伝わる。

墓所・肖像

足利義輝像紙形(土佐光吉筆、京都市立芸術大学芸術資料館蔵)
墓所
法号は光源院融山道圓。供養塔が山口県山口市俊龍寺にある。
肖像
他に、源弐(土佐光吉)の写したという頭部の下絵(紙形)が京都市立芸術大学所蔵の土佐家資料の中に現存する。国立歴史民俗博物館本や真正極楽寺本は、これを粉本として制作されたと考えられている。

脚注

注釈

  1. ^ 「公方様の夫人は、実は正妻ではなかった。だが彼女は懐胎していたし、すでに公方様は彼女から二人の娘をもうけていた。また彼女は上品であったのみならず、彼から大いに愛されてもいた。したがって世間の人々は、公方様が他のいかなる婦人を妻とすることもなく、むしろ数日中には彼女にライーニャ(=王妃)の称を与えることは疑いなきことと思っていた。なぜならば、彼女はすでに呼び名以外のことでは公方様の正妻と同じように人々から奉仕され敬われていたからである」
    「コジジュウドノ(小侍従殿)と称されたこのプリンセザは~」[1]
  2. ^ 将軍の烏帽子親は管領が務める慣例になっていたが、義晴は定頼を管領代に任じて菊童丸の元服を行った。これは晴元の管領としての権威を否定するものであった(そもそも、晴元は管領に任じられていなかった説もある)。
  3. ^ フロイスの『日本史』にもこれとは少々異なる奮戦の様子が記されているほか、『言継卿記』には自害したと記される。
  4. ^ 後に柳生宗矩細川忠利に門弟である雲林院弥四郎を推挙した際の書状において、上方における卜伝の直門として弥四郎の父・雲林院松軒と共に、義輝と北畠具教の名を挙げている。
  5. ^ 新当流の伝承では、卜伝が「唯授一人」の一之太刀を伝授した相手は北畠具教としている。また、卜伝本人からではないが、徳川家康も、その直門である松岡則方から一之太刀を伝授されている
  6. ^ 『フロイス日本史』第1部66章および67章や、宣教師の書簡集などには、義輝の死後、竹内季治などの法華宗徒が松永久秀などに働きかけて正親町天皇を動かし、イエズス会の宣教師を京都から追放する勅令状を発行させることに成功し、宣教師は都を追われたという記述があるが、同書や彼らの書簡には義輝の生前に天皇より宣教師やイエズス会の会員を京都から追放する命令が出たという記述はない。
  7. ^ 『三百藩家臣人名事典』第七巻(新人物往来社)では義昭の弟としている。

出典

  1. ^ 『完訳フロイス日本史1 将軍義輝の最期および自由都市堺』より。なお同書では、ライーニャおよびプリンセザの訳語に「奥方」を使用している。
  2. ^ 『万松院殿穴太記』
  3. ^ 矢崎勝巳「『彦部家譜』所収里見氏関係文書」(『中世房総』5号、1991年)
  4. ^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・雲和平調停―戦国末期に於ける室町幕政―」(『国学院大学大学院紀要』6輯、1974年)
  5. ^ 宮本義己「戦国大名毛利氏の和平政策―芸・雲和平の成立をめぐって―」(『日本歴史』367号、1978年)
  6. ^ 宮本義己「松平元康<徳川家康>の早道馬献納―学説とその典拠の批判を通して―」(『大日光』73号、2003年)
  7. ^ 柴裕之「永禄期における今川・松平両氏の戦争と室町幕府―将軍足利義輝の駿・三停戦令の考察を通じて―」(『地方史研究』315号、2005年)
  8. ^ 宮本義己「足利将軍義輝の芸・豊和平調停(上)(下)」(『政治経済史学』102号・103号、1974年)
  9. ^ ベン・アミー・シロニー『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎訳、146頁(第4章「非力で女性的な天皇像」、10「非力な天皇の秘めたる強さ」「ふたりの元首―信長と正親町天皇」)

義輝を題材とした作品

小説
  • 宮本昌孝『剣豪将軍義輝』上、中、下(徳間文庫、2000年)
上 鳳雛ノ太刀 ISBN 4198912475、中 孤雲ノ太刀 ISBN 4198912661、下 流星ノ太刀 ISBN 419891284X

関連項目