如意ヶ嶽

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如意ヶ嶽
春の大文字山
標高 472 m
所在地 日本の旗 日本
京都府京都市左京区
位置
如意ヶ嶽の位置(日本内)
如意ヶ嶽
北緯35度1分0.47秒 東経135度49分33.38秒 / 北緯35.0167972度 東経135.8259389度 / 35.0167972; 135.8259389 (如意ヶ嶽)座標: 北緯35度1分0.47秒 東経135度49分33.38秒 / 北緯35.0167972度 東経135.8259389度 / 35.0167972; 135.8259389 (如意ヶ嶽)[1]
山系 比叡山系
プロジェクト 山
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如意ヶ嶽(にょいがたけ[2]、にょいがだけ)は日本京都東山に存在する。標高472メートルで、山頂は京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。他の表記・呼称は如意ヶ嶽、如意嶽、如意岳、如意ヶ峰(にょいがみね)、如意山(にょいやま)など。また如意ヶ嶽は京都市左京区と滋賀県大津市の境ともなっており、鹿ヶ谷から池ノ谷地蔵を経て園城寺へ至る山道は「如意越」(にょいごえ)と呼ばれ、これは京と近江の近道とされ[3]如意ヶ嶽の戦いなど合戦の舞台になったことがあるほか、城跡も残っている(後述)。また古来より信仰を集めた山であり、山中にはかつて大規模な山岳寺院・如意寺(にょいじ)が在った。

支峰(西峰)として標高465.4メートル[* 1]大文字山(だいもんじやま)があり[4]、8月16日に執り行われる京都の伝統行事、五山の送り火の大文字として著名であり、逸話も多い。この大文字山はその山上から京都市内を一望でき、ハイキングコースとしても人気がある。本項では如意ヶ嶽と同時に、支峰の大文字山とその斜面で行われる「五山の送り火」なども併せて解説する。

概要[編集]

大文字山火床より、西方向。京都盆地を望む。
大文字山頂より、南西方向を望む。
大津市から見た如意ヶ嶽 - 長等山。
山中の地図。送り火の火床は慈照寺と大文字山山頂の中間辺り。

京都東山の一峰で、東山の主峰[5]。標高472メートル。比叡山を東山に含むか否かについては諸論あるが、含めないとした場合、最高峰が如意ヶ嶽である[* 2]。京都府と滋賀県の県境に位置し、山域は北白川浄土寺鹿ヶ谷にまたがる。京都側の麓はおおよそ、今出川通丸太町通の東端。京都市左京区北白川、銀閣寺(慈照寺がある銀閣寺町および銀閣寺前町からなる地域名)、浄土寺、鹿ヶ谷辺り。滋賀県側はおおよそ大津市長等山園城寺近辺。北は白川の上流部を挟み比叡山支峰の四明岳、南は南禅寺山科区となっている。

五山の送り火の筆頭、大文字として著名で、また山中にかつて園城寺(三井寺)の別院であった「如意寺」(にょいじ)なる大規模な寺院が存在するなどしており、現在でも山中には信仰の対象となる施設が多い。また山上からの眺望は素晴らしいものである[3]

名称の語源については諸説あるが、一つは『諸社根元記』に曰く、「日神岩戸を出てさせたまひてその御光顕れ出てたりけるを、八百万神悦びて皆意のごとくなると宣ひしより如意山と名付く」が名称の元(天照大神天の岩戸から出るやその御光により八百万の神は喜び皆意の如くなる)[6]というもの。今一つは先述の「如意寺」が由来であるとの説[3]。なお、古い文献では、如意の山、如意が峰などのほか、『扶桑京華志』では「如意宝山」、『日次紀事』では「東山浄土寺山」[* 3]、などの記述が見られる。『雍州府志』「如意嶽」ではこれを東山の頂とし、如意の瀑もこことしている。しかしこちらでは送り火の言及はなく別項目である「慈照寺山」で送り火に言及している。

大文字山山頂は如意ヶ嶽山頂の西方1.3キロメートル強の位置にあり[7]、標高465.4メートル。三等三角点が設けられている。如意ヶ嶽と大文字山は混同されがちであるが、現在では別の山である。京都市内からは如意ヶ嶽は全く見えず、大の字の見える山は、西側の大文字山である[7][8]

古くは両山を同一視する向きが強く、この周囲の山塊を如意ヶ嶽と呼んでおり[9]、江戸時代の書物では「如意ヶ嶽で送り火が行われる」[10]、如意ヶ嶽を俗に大文字山と言う[11]などといった例が見られた。1791年(寛政3年)、神沢貞幹の『翁草』では、如意峰と、大の字の持った浄土寺山の二山が並立している図版が掲載されている。その後「大文字の送り火」が定着するにつれ、それが行われる支峰が独立し大文字山と呼称されるようになったという[9]

近年も混同は続いており、両山は同じものであるとも[8]、元々は如意ヶ嶽であったが「大文字」の送り火が著名になり、大文字山と呼ばれるようになったとも[8]如意ヶ嶽の西側または中腹の通称が大文字山であるとも[12]いう。大文字保存会内でも同一視する者がいるなどするという[7]。なお2003年の資料によれば、大文字保存会は公式には、送り火を行う山を「大文字山」としている[7][9][13][8][14]

山容・登山[編集]

如意ヶ嶽・大文字山界隈はハイキングコースとして人気がある[9]。山頂までは様々なルートがあり、また京都市から大津市まで踏破することも可能であり、鉱物収集コースとしても有用なものである[15][16][17]。特に火床からの京都方面の眺望は素晴らしいものであり、「京洛第一」との呼び名もあり[18]、送り火が行われる五山の内、他の四山を全て眺めることができる[19][20]。山頂からは天候が良ければ大阪の高層ビルや、遠く木曽御嶽山などを視認できる場合もある[20][21]

一帯はレクリエーションの森(東山風景林)、第一種風致地区、大文字山歴史的風土保存地区、東山鳥獣保護区、風致地区特別修景地域(おおよそ慈照寺から火床にかけて)などに指定されており[22]、市内から火床を見て向かって左手、銀閣寺山または月待山を中心とする23.89ヘクタールについては銀閣寺山国有林となっている[* 4][23][24][25][26][27][28][29]

行者の森の碑近辺
銀閣寺北からの登山道。麓に近い部分。
銀閣寺北からの登山道。砂防ダムの右手。
この石段を登り暫く進むと火床。
大文字山 三等三角点

京都側からの主な入山口は、慈照寺の北側、浄土院、八神社(後述)および行者の森[* 5][3][19]石碑辺りからのもの。眺望の良い火床までは30分程度[30]。大文字山山頂まではさらに20分程度[17]。『フィールドガイド大文字山』によれば、山頂まで90分程度[31][* 6][32]。「大」の字の左側に出るかたちである。砂防ダム、千人塚(後述)を経由し[* 7][20]「大」の字の左手に到達。大文字山頂まではいましばらくの距離がある。大文字山山頂を越えて、しばらく東に歩を進めると「四つ辻」に到着する。

楼門の滝
俊寛僧都忠誠の碑

鹿ヶ谷霊鑑寺、瑞光院(浪切不動)付近からも入山が可能で、園城寺に至る道は如意越と呼ばれた。崇徳上皇以仁王などが用いたゆかりがあるほか、合戦にまつわり言及されることがある。このルートは千人塚近辺で慈照寺からのルートと合流することもできるが、そちらと比較すると若干きついルートであるという[* 8]。また慈照寺からのルートに合流せず登り続けると、如意寺由来の楼門の滝(楼門の瀑布、または如意滝。高さ約10メートル)がある[* 9]。さらに登ると、1935年9月[3]または1944年[13]に「平家物語」などに因んで祇園十二段家西垣精之助により建てられた高さ3メートルの石碑、「俊寛僧都忠誠の碑」がある[* 10]。周辺に桜も数百本植えられ「瓶子桜」とも言われたが、1957年には既にその数をかなり減らしているという。また、碑の下には硫黄島の石も埋められた[33]。また近辺の谷は俊寛らの談合に因んで「談合谷」と呼ばれ(鹿ケ谷の陰謀も参照)[* 11]、これについても石碑が建てられている。このルートは火床は通らず、大岩(奇石)を経由し大文字山山頂より東の「四つ辻」に到着するかたちである[3][20][14][13][8][33]

南禅寺付近、蹴上日向大神宮からの入山は脇道が多いが、これは「京都一周トレイル」の東山ルートでもあり、道標が 完備されているため[* 12]、安心してハイキングを楽しむことができる。このルートも火床は経由せず、一旦は京都から見て裏手になる「四つ辻」に到達する。標高差は約413メートル。慈照寺付近に下山するとすれば、行程はおおよそ3時間ないし3時間20分程度である[17][16][34][35][36][* 13]

京都側からの以上3つの登山道は大文字山東方「四つ辻」近辺で一旦合流し、大津側へ向かうのであれば、改めてさらに東に分け入る形となる。

山科からの入山は山科駅北方、山科川の上流安祥寺川のほとり、毘沙門堂付近からのものなど。途中で南禅寺・蹴上ルートと合流し四つ辻に至り、毘沙門堂から大文字山山頂までは約90分[37][38]

四つ辻
西より如意ヶ嶽山頂を望む。山頂は大阪航空局大津航空無線標識所に占有されている。

大文字山山頂および「四つ辻」東はおおよそ、「雨神社」(雨社大神)を通過し如意ヶ嶽山頂に至る。ただし山頂には大阪航空局大津航空無線標識所があり、立ち入りは制限されている。なお「雨神社」から北へ向かうと「池ノ谷地蔵」(後述)、「薬草園」があり[* 14]、その北方は比叡平である。この付近から南東へ向かえば山科盆地(大津市藤尾近辺)へ、東にルートを取ると滋賀県大津市に入り、皇子山カントリークラブ近辺を経由し、長等山-園城寺に至る[17][20][13][8][39][40][17][16][41]

大文字山では、2017年に10件、2018年に9件の遭難が発生。2014年-2016年の2件から増えた。京都観光や登山の人気が高まり、軽装で入山する人が増えた影響が指摘されている。大文字山は送り火の火床が京都市街から見える近さであるものの、脇道や山塊の連なりで方向感覚が狂いやすい箇所も多く、注意が必要である[42]

地学・動植物[編集]

太閤岩

大文字山と如意ヶ嶽の稜線(おおよそ、東西のライン)を境に北側、比叡山との間を花崗岩質が占め(北白川花崗岩)[* 15]、そこを白川が流れ、白川扇状地を形作る。南側が丹波層群と呼ばれる堆積岩。その境目はホルンフェルスとなっている。すなわち風化しやすい花崗岩が浸食され、そうでない部分がそのまま残った結果、如意ヶ嶽・大文字山から比叡山にかけての山容が形作られたものである[15][43][44][14][45][20]

大文字山・如意ヶ嶽(あるいは東山)については広葉樹を中心多様な植物が見られるが、北部については前述の通り花崗岩地帯である。この区域については風化が激しく植物は極相遷移するには至らず、また土壌も痩せており、アカマツコナラなどが多く見られる二次林となっている[* 16]。また、酸性土壌によく見られるツツジ科植物なども生育し、アカマツ林ではかつてはマツタケも多く見られていたという。その他スギヒノキの植林地などもある[23][46][47][48][49]

なお東山国有林は明治初期の「社寺上知令」で社寺から国に管轄が移ったのであるが、その際に社寺側が、せめて木材を伐採・売却してから返還を行おうとしたため、伐採跡となってしまった。その後の伐採禁止令後まずアカマツが成長し、昭和初期cには東山国有林の70%がアカマツで占められていた。そしてその後シイ林へと植生が遷移していったという[50]。2007年現在マツノザイセンチュウによる松枯れの被害などもあり、東山国有林の西側(京都側)は大部分がシイ林となっており、今後も拡大が続くとみられている[51]。これについては景観を乱すとして、対策が協議されている状態である[52]。ただしこれは東山国有林全体の話であり、必ずしも銀閣寺国有林に直接当てはめられる話であるとは限らない。その後、東山国有林は、1994年、ユネスコ世界文化遺産清水寺と慈照寺が登録されたことにより、全域が「世界文化遺産貢献の深林」に設定されている。

大文字山に生息している哺乳類は大型ではニホンザル[* 17][53]イノシシキツネタヌキニホンジカから、ムササビニホンテン、数種類のコウモリ。小型では何種かのネズミに至るまで、18種ないし20種程度。最も良く見られるのはムササビであるという。野鳥も多く見られ、『フィールドガイド 大文字山』にも数十種類が挙げられている[54][55]

昆虫類はクワガタムシなどが見られる。大文字山に生息するクロシジミは京都では他にこの近辺の音羽山比叡山にしか生息しておらず、絶滅の危機にさらされているという[56]

送り火[編集]

大文字の送り火
浄土院
大の字の中心・金尾の火床
金尾にある弘法大師堂
第3画、右の流れを金尾から望む。
第1画を金尾から望む。銀閣寺からの登山道を上りきった人物が見える。
薪を運搬するリフト

毎年8月16日[57](かつては旧暦の7月16日であった)、19時半ごろには大の字の中心(金尾、カナワ、カナオ、カネオ)にある弘法大師堂[20]で行事・般若心経の読経が開始され[58]、20時から「大」の字の送り火が行われる。運営は大文字山麓、浄土寺界隈の民間人らの組織する保存会が行っている(後述)[* 18]。ちなみに火床周辺は昭和13年/26年の地形図では「大文字霊場」と記されている。また『京都故事物語』によれば、辺りの面積は7,000程度であるという。この送り火は本来の盂蘭盆の「送り火」としての意味だけではなく、都の安寧や悪霊退散を願うものでもあったともいい[57]、家内安全や無病息災なども願う伝統的・包括的な宗教行事である[7][59]

「大」の字は第一画の横棒を一文字といい80メートル、第二画の左払いを北流れといい、一文字より上に突き出した字頭(じがしら)部を含め160メートル、第三画の右払いを南流れと言い120メートル。火床の数は大の字中心より上が9、左が8、右が10、左払いが20、右払いが27。これに大の字中心の「金尾」[60]を加え合計で75。

他に妙法、左大文字、船形、鳥居形でも行われ、これらを併せて「五山送り火」とし、京都の夏の風物詩の一つである。現在は20時ちょうどに、五山の先頭を切ってこの大文字が全火床一斉に点火され、25分から30分程度燃焼する[7][* 19]。なお、火床の所在地は京都市左京区浄土寺七廻り町1[61][58][* 20]

なお日本が太陽暦を採用してからは点火は20時に行われているが、それ以前、旧暦の時代においては、約1時間前、太陽暦採用後で19時ごろに点火されていたと言う説が、2014年、在野の研究家である青木博彦より提唱された。これは本居宣長 1756年『在京日記』に、送り火当日(当時の暦で7月16日)、ある人物の家を訪れたとあるが、この時に月が出るのを見たと記されていたことがきっかけとなっている。京都市の標高や国立天文台の公開数値から計算すると当日の月の出は20時6分ごろと推定され、日記の記述から本居の足取りを推測した結果、本居が三条大橋で大文字を見たのは19時16分ごろとしている。また送り火の燃焼時間を20分と推定し、19時16分ごろにはまばらに消え残っていたと記されていることから、点火時刻はその20分前の18時56分ごろとしている。なお当日の日の入りは18時46分であり、よって点火はその直後に行われたことになる。また日暮れは19時22分であるから、そのころには既に消火していた。このため送り火は現代の様な「夜間」ではなく、夕方、薄暮に行われていたことになる。青木は他にも1603年『慶長日件録』や1864年『花洛名勝図会』も分析し、明治時代に至ってもしばらくの間は19時ごろに点火されていたと結論している。また、当時は現在のように携帯できる照明器具が発達していなかったことも影響し、薄暮に行われたのではないかともしている。なお1780年『都名所図会』でも、送り火の紹介には「毎年七月十六日の夕暮」と記されている。[62]

大文字山で燃やされるのは薪(アカマツ)が600束、松葉が100束、麦わらが100束。要するアカマツは25本、約4トン[63]。前日の8月15日正午ごろより、慈照寺の門前で護摩木を受け付けている[64][65][* 21]。薪については主に大文字保存会が管理する、大の字周辺およびそれより上部の約12ヘクタールにおよぶ共有林のものが使用されるが[* 22][66]、近年マツクイムシによる被害や、時代の流れによるアカマツ林の手入れ不足・土壌の肥沃化(アカマツは痩せた土壌を好む)による影響などもありアカマツが減少。植林を行ったり、隣接する銀閣寺山国有林から融通されるなどして対応している[67][68][26][69]

各火床については古来は杭を立てそれに松明を結わえたものとなっていたが、寛文延宝年間(1661年 - 1681年ごろ)には、薪を積み上げる形に移行した。近年までは単に土を掘ったところに薪を井桁に積み上げたものであったが、1969年以降、火床については細長い大谷石を二つ並べたもの(上から見ると「=」の形状)に薪を井桁に積み上げるかたちとなっている。薪の間には松葉を詰め、周囲には麦わらを立てかけ、点火を行っている[61][58][70][71]

各戸の受け持ちは原則として1戸が2床で、負担を均等化するためか、古くから交代制になっている[* 23][59][66]。「大」の中心である「金尾」は4戸[* 24]、「大」の最上部、字頭のものは2床一組でこれを2戸で受け持つやはり大きなもの[* 25][7][72][58]。また、担当した火床の燃え方が悪いとその家に不幸が続くとの言い伝えもあるという[73]

薪は毎年2月に切り出され[* 26]、4月から翌5月まで火床近くの倉庫で乾燥させ、麓まで下ろし各家庭で保管。8月16日に再度火床まで運搬する運びとなる[74][7]

年一回の送り火のために多大の準備を要し、切り出しのほかにも各所の下草や雑木の刈り取り、近年比較的入手困難な麦わらの確保[66]、火床の維持管理など多岐にわたるものであり、また地元民も現在は農民というわけではなく作業への慣れの問題もあり、負担は大きい。2004年『京都・火の祭事記』によれば中心メンバーはほぼ毎週の土曜日曜、その他は年間平均約10日をボランティアに充てている[66][58][59][74]

送り火当日の作業人員は総計約300名[7]。雨への備えのため、火床への薪上げは当日まで行われない。かつて作業者は1週間前から沐浴・酒肉断ちなどを行い[75]、当日には1束10キログラムの薪束を一人2束担いで1.5キロメートルにおよぶ山道を4回登ったというが[76]、1972年にはこれに代わり約400メートルのリフトが設置され、途中からはそれを用いている[* 27][77]

また送り火当日には事故に備え、消防および消防団の協力も見られているほか、京都市文化財保護課職員による立ち会いもあり[58][59]、関係者が消火を確認してから下山するのは、22時以降になるという[46][78][79][80][81][58][82]

送り火の由来については諸説あり様々な文献で様々な説が見られるが、送り火という性質上、仏教が伝来し民衆に深く根付いた時代より後のことであると考えられる[61][83]。また公式な記録が見られないことから、為政者・権力者の側ではなく、民衆の側より発生したのではないかと見る向きもある[84]。送り火について言及している最も古い文献は慶長8年(1603年)の『慶長日件録』7月16日に「山々灯を焼く」[* 28]と記されているものである[61]。その後、江戸時代に発刊された各種の都案内本の類ではほとんどで送り火への言及が見られたが、何故か地図への反映は遅れ、駒敏郎によれば1709年(宝永6年)の「京絵図」が最も古い[85]

  • 足利義政説、延徳元年(1489年)、足利義政が病によってその息子である足利義尚を亡くした時に、相国寺の横川景三らによってなされたというもの。『山城名跡志』など。大文字山が慈照寺領であったことを示す資料があるといった意味で有力視されている[8][* 29][65][7]
  • 空海(弘法大師)説。平安初期、弘仁年間に悪病が流行したとき、弘法大師が山頂でゴマ行法を行ったというもの。また『都名所図会』、『花洛名勝図会』では、浄土寺が炎上した時に本尊である阿弥陀仏がこの峰に飛び去り光明を放ったものを、弘法大師が大文字に改めた、と記されている[57][86][65]。その他にも空海説はいくつか見られるものの、弘仁年間より近世に至るまで大文字について触れられている文献が無く、この様な古い時代から行われていたとも考えにくいといった意味で、真実性については疑問が残る[61][65][87]。ただし前述のように、火床中心部に弘法大師が祀られていることも事実である。
  • 近衛信尹説。中川喜雲、1662年『案内者』によれば、「大文字は三藐院殿の筆画にてきり石をたてたりといふ。」。先述『慶長日件録』が1603年、近衛信尹の没年が1614年と時代が近いことを考慮すると有力な説であるという[61][19]

また『新撰京都名所図会』では、如意ヶ嶽(大文字山)が送り火の山として選ばれた理由を、この山裾一帯が埋葬地であったが故に、それにふさわしかったのではないかとしており[* 30]、『京都市の地名』ではそれに加えて、この山が洛中のどこからでも見ることができたからではないかともしている。

「大」の字の意味についてもやはり諸説あり、「大」の字を人の五体に見立てたとの説[57][88]もあれば、仏教法相学でいうところの「四大」、すなわち地、水、火、風が由来であるとも言われ[88][89]、「大」の字が五芒星を表す、さらにはこの五芒星は北辰、すなわち北斗七星または北極星になぞらえたものであるとの説もある[88]

火床の数は5位75法、すなわち75の煩悩が由来であるとする説があり、地元の浄土院もこれを採用している[90][57][33]。ただし古い文献によれば火床の数は(そして火床の大きさも)まちまちであった。『雍州府志』では72または59余り、『京都坊目誌』では69床などがその一例である[91]

岡崎の疏水縁より大文字を望む。

「大」の字の筆者についてもこれもまた諸説あり、前述の近衛説であれば1662年案内者によれば近衛信尹の、1658年『洛陽名所集』によれば青蓮院門主の、1684年『苑萄泥赴』または1711年『山州名跡志』によれば相国寺の横川和尚の筆などとされ、1684年の『雍州府志』でも謬伝が多しと紹介されている。また、大の字の向きについては、相国寺または室町御所を向いているという説[* 31]、または、特に御所の池に映る様に向いている説[92][93]や、一条通を向いているという説などがある[65][19]。ちなみに大の字は丸太町通あたりより以南は段々と見えがたくなり、三条通からは半分程度しか見えない。一見Kの字に見えるため、かつては外国人観光客が「KYOTOの頭文字だ」と勘違いするようなこともあったらしい[94][33]

この節全体についての参考文献は以下を参照。

[61][95][18][13][57][96]

大文字保存会[編集]

もともとは京都の愛宕郡浄土寺村浄土院浄土宗慈照寺建立前よりこの地に在った「浄土寺」が移転した際に残された堂が寺となったもの[97]。通称大文字寺)檀家の農家が送り火の行事を維持していた。2000年現在の地名で言えば、左京区の銀閣寺町、銀閣寺前町、および浄土寺東田町、浄土寺南田町、浄土寺石橋町といった地域である[58]

現在は「特定非営利活動法人、大文字保存会」(NPO、1999年9月より)が管理・運営に当たっている[58]。1995年の文献によれば、少し前までは財源の確保にも苦労しており、寄進者を捜し歩く始末であったという[66][* 32]

なお担当する家は、文献によるが50戸前後であるとのこと[98][13][57]

送り火の中止と白い送り火[編集]

太平洋戦争下にある1943年(昭和18年)、主として連合軍の空襲への備え、防空上、灯火管制上の観点から、送り火の点火は見送られた。屋外での焚火等が禁止されており、空襲警報発令時に即座の消火が困難であるとみられたためという。そのため同年8月16日は早朝より第三錦林小学校の児童400人とその他一般人400人、計800人が白いシャツを着用し大文字を登り、ラジオ体操を奉納し、これに代えることとなった。当時の京都新聞では「英霊を送る」ともされている[99][66][* 33]

翌1944年には錦林小学校および第二、第三、第四錦林小学校の児童が人文字を表し[* 34]、1945年も中止となっていたが、終戦より1年余りが過ぎた1946年8月16日には4年ぶりに送り火が行われた[100][101]

2012年(平成24年)3月11日午後には、前年発生した東日本大震災の追悼のため、第三錦林小学校児童および地元住民ら約400人により、白い紙で大の字を作った[102]

なお、冬季積雪時「大」の字が白く浮かび上がった様子を「雪大文字」と言う[103]

大文字中止騒動[編集]

1962年(昭和38年)、送り火に対する京都市の助成金が少なすぎ、また人手も足りず崩れた火床の補修もままならないこと[* 35]、市が地元民の会談の要請を無視して大文字の麓の韓国学校に建設許可を与えたことへの反発により[* 36]、8月12日、大文字保存会は送り火の準備作業である山道と火床の整備を停止。8月12日、総会での投票の結果賛成多数で送り火の中止が決定、点火はせずに大師堂での護摩法要だけを行う見込みとなった。また翌13日には地元有志70名が市に韓国学校の建設中止を陳情。

この年は折しも阪急京都本線の延長工事のため、祇園祭山鉾巡行が中止となっており、京都市は説得を開始。京都市が韓国学校に工事の中止を勧告したほか、今後の協力の見込みが立ったことや、市民からの寄付金が寄せられるなどしたこと、また14日朝から京都市が労働者50人を供出し参道の整備作業を開始[* 37]し、さらに保存会役員や地元長老が説得に動くなどした結果、14日夜の総会で一転、満場一致で送り火の決行が決定し、送り火は無事に点火された[104][105]

1980年(昭和55年)2月、火焔・残り火の消火、および万が一それが類焼におよんだ時などの責任の所在を問題とし、また前年7月よりの申し入れにも拘らず市・消防当局の対応に誠意が見られないことを理由に、大文字五山保存連合会は送り火の中止を決定した。

これまで消防側は「(焚火と同じで)火を点けた者が責任をもって消火するべきである」としており、また万が一の類焼時には地元民に全ての責任を負わせるかたちとなっており、保存会側は過重な負担を強いられていると主張[* 38]。結局は5月に京都市が残り火に責任を持つとすることで合意し、送り火は継続されることになった。このほか、送り火当日の一般人の立ち入りも制限されることとなった[106][107][* 39]

臨時点火[編集]

大文字は節目節目の慶事などで点火されることがある。ただし現在、地元ではこのような点火には抵抗が強いようである[108]

1890年(明治23年)
4月8日、琵琶湖疏水開通を祝して点灯[109][110]
1891年(明治24年)
5月9日、ロシア皇太子ニコライ2世)の来日・来京を歓迎するため、大文字、左大文字、船形、妙法の点火が計画された。実際に点火も行われたと見られる[111][110]
1895年(明治28年)
5月15日、日清戦争の勝利を記念し、「祝平和」の文字が灯された[112][110]
1905年(明治38年)
6月1日、日本海海戦での大勝利を祝い、第三高等学校生徒650名により、大文字の点火が予定された[113]。ただし新聞には実際に点火されたとの続報はなく、また6月10日に人文字のかたちで行われたとの説もある[110]
11月25日、日本海海戦大勝利の立役者にして連合艦隊の指揮艦、東郷平八郎提督の凱旋を歓迎し、大文字が灯された[114][110][110]
1935年(昭和10年)
4月3日、前年の室戸台風で甚大な被害を被った東山の木々を慰めるために点火された[66][110][115]。東山国有林は全面積が251ヘクタールあるが、その内58ヘクタールが立木に30%以上の被害を受けた。その後清水山では景観回復のために植栽が行われている[116]
2000年(平成12年) 大晦日
21世紀の到来を記念して21時から「五山」の送り火が灯された。京都新聞によれば、五山揃って8月16日以外に点火されたのは前例がないことであるという[117]

送り火の延期[編集]

1963年(昭和38年)には翌年に予定されていた1964年東京オリンピックも絡めて火床を新調し、さらには前夜祭を催した上で点火時には京都府仏教会により市内の各寺院が鐘を鳴らすなど、大きな規模で送り火が行われる予定で、比叡山などにも多くの見物客が詰めかけていた[118]

しかし当日の京都市中心部は16時半ごろから集中豪雨に見舞われ、浸水や停電などの被害が発生[* 40]。他の四山については決行されたものの、大文字山では身動きもままならないほどの豪雨に見舞われ点火の準備もままならず、翌17日に延期となった。当時の京都新聞によれば「大文字」のみが中止したのは恐らく初めてではないかとのことである[* 41][119]

ところが翌17日も断続的な降雨に見舞われ、やむを得ず雨間を縫って予定より25分前倒し、19時35分の点火を決断せざるを得なくなった。しかしながらそれについての広報が万全には至らず、市民の多くが気付かない内に、送り火は終了。見物客もまばらといった次第であった。その後京都市役所などには送り火はまだ点かないのか、との問い合わせが寄せられたが、もう終了したと告げられた市民は憤慨したという[120]

その他近代では1913年(大正2年)、豪雨のために18日に延期されたとの伝承があり[115][66]、1935年(昭和10年)は夕立のため16日には「左大文字」と「船形」のみしか点火できず、「大文字」の送り火は翌17日に延期された例がある[121][122]。1963年の『京都新聞』によれば、1934年と1935年は(先の報道と矛盾するが)台風での倒木のため延期されたとしている[119]

施設・史跡[編集]

中尾城・如意ヶ嶽城[編集]

如意ヶ嶽は京の東の口、京と大津を繋ぐ経路の一つとして要衝であり、如意城(にょいのじょう[123])、如意ヶ嶽城、あるいは中尾城と呼ばれる城が築かれていた。正確な所在については諸説あり、慈照寺の裏に当たる中尾山とも、如意ヶ嶽と大文字山の間であるとも言われているが、現在は二つ存在したとする説が有力である[* 42]

一つは中尾城と呼ばれ、如意ヶ嶽の北西の支峰、中尾山に遺構が見られている[3]1549年(天文18年)には12代将軍足利義晴および細川晴元が築城を行ったとされ、『万松院殿穴太記』ではその威容について「名城」であるなどと言及している[3]。義晴は翌1550年(天文19年)5月に没し、嫡男の13代将軍足利義輝は7月にこの城に移り、三好長慶軍と京都で戦闘を行ったが(中尾城の戦い)、11月に落城、焼失した。京都市遺跡地図台帳420。

もうひとつは如意ヶ嶽城などと呼ばれ、如意ヶ嶽山頂・大文字山山頂付近。『応仁記』巻三、応仁別記(15-16世紀ごろ)または大乗院寺社雑事記1471年、文明3年)によれば、1469年(文明元年)5月に多賀高忠が如意ヶ嶽に布陣したとの記述がある。恒久的な築城がなされたわけではないと見られるが[124]、現在も空堀や土塁などの遺構が残っている[125]。京都市遺跡地図台帳423。

隣接地域には将軍山城東岩倉山城など、他にも山城が見られる[13][8][20][126][14]

如意寺[編集]

かつて如意ヶ嶽山中に大規模な山岳寺院があった。これを如意寺(にょいじ)または如意輪寺と言う。近江園城寺三井寺天台宗の別院で、比叡三千坊の一つ。開基は円珍(智証大師)であると伝えられ、多くの文献でもこの説が紹介されているが、円珍に関する文献では如意寺の創建について記されていないことなどから、これを疑問視する向きもある[127]。長等山から鹿ヶ谷まで東西8キロメートルにもわたってその数幾十にもおよぶ堂舎僧房が築かれていたものである。園城寺所蔵『園城寺境内古図』では、50を越える建築物が記されている。

成り立ちについては明らかではないが歴史はかなり古いらしく、恐らく最も古くは938年の『貞信公記』で言及されており、さらに『今昔物語』巻15のほか、『続本朝往生伝』でも平安時代中期の公家、慶滋保胤が如意輪寺に住まっていたとの記述が見られる。また『天台宗 如意寺門跡歴代』では、健保年間の公胤が門跡初代である。鎌倉幕府ともゆかりがあり、二代目将軍源頼家の子、公暁も門跡を勤めた[128]

鎌倉時代に栄えたあと1336年(建武3年)、戦火に巻き込まれ焼失[129]したが、『拾遺都名所図会』によれば、霊鑑寺尼公(後水尾院皇女)により鹿ヶ谷桜谷町あたりに小堂が再建されたという[* 43][130]明治の初年ごろに再び廃絶した。

現在でも多数の遺構が残り、瓦・陶磁器などが多く出土している。如意寺跡調査会らによれば本堂跡は標高415メートル、雨神社と如意ヶ嶽山頂の間、やや南の地点で東西30メートル、南北40メートル程度の平坦地。北、東、西は崖に囲まれ、南側は谷となっている[131][132][3][133][126][125][134][135][* 44][* 45]

千人塚[編集]

山中には「千人塚」なる石碑があり、これは太平洋戦争後期、山中に壕を構築していたところ大きな壺に入った大量の遺骨が発見され、それが祀られたものである[136][33][* 46][19][3]

池ノ谷地蔵[編集]

池谷地蔵、池地蔵(いけのじぞう)などとも。京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町。如意ヶ嶽登山道山頂付近より北上、または比叡平より南下した辺りに在る[137]。如意寺由来の地蔵菩薩像で、高さ約1.5メートル[135]、『昭和京都名所図会』によれば如意越の道半ば。かつてはこの辺りの崖下に池があり、それが名称の由来であるとも考えられる。この池は現在は見られない。寺伝によれば浄土宗金戒光明寺に属し[138][139]、江戸中期から信仰を集めた。また付近はホトトギスの名所であったようで、渡忠秋は「郭公[* 47]をききに池の谷にまかりて」との詞書きで、「おく山のいけのあたりのほととぎす影さへみえて鳴わたりつつ」と詠んだ。春には山桜が見られる。現在、病気回復や商売繁盛で信仰を集めており、また境内には「薬草園」があり、多種の薬草が植えられている[3][33][140][135][141][138]

雨神社[編集]

雨社大神とも。かつてはここに赤龍社、龍王社、龍王祠(りゅうおうのやしろ)、龍王宮などと呼ばれる社があり、それを継ぐもの。大山祇命などが祀られている、雨乞いのための社。『京都坊目誌』によれば岡崎神社の末社。かつて如意寺の鎮守社であった。地図上では大文字山頂と如意ヶ嶽山頂の間に位置する。『昭和京都名所図会』によれば、1917年(大正6年)岡崎神社に遷されたが、その後再興。如意越の中程より北に分け入ったところにあり、7月16日に例祭が行われているという。かつては周囲に大きな池が有ったが、現在は小さな池と、かつての堤などが残るのみである。雨神社と赤龍社の同定が、如意寺発掘調査の足がかりの一つとなった[* 48][3][33][141][135][142][125][143][144][145]

八神社[編集]

天御中主神、高皇産霊神など宮中八神を祀っていることが由来で浄土寺村の地主神、浄土寺の鎮守社。延期年間創立、かつての名を十禅師社。かつては広大な社域を有していたとも言われ、「浄土寺馬場町」などの地名が往事の規模を偲ばせている。空海が比叡山に参るときに立ち寄ったとの伝承も見られる[3][146][147][126][148]

その他[編集]

ゴルフ場問題[編集]

1988年8月12日、不動産業大手地産および財団法人社会スポーツセンターが、大文字山の北斜面に当たる北白川南ヶ原町に18コース、約100ヘクタールのゴルフ場の建設を計画していることが発覚する[149]。これに対し、景観面での問題のみならず、農薬汚染や土砂崩れ[* 49]についても懸念が発生し、北白川学区、第三錦林学区の住人の一部を中心に反対運動が展開された。一帯は旧浄土寺村の共有地であったが1969年に大阪の不動産業者の手に渡り、それを地産が1972年または1974年[150]に購入したもので、1983年ごろからゴルフ場建設を計画していたもの。古都保存法では大の字の火床については開発を規制されているのだが、それ以外の場所については、市街化調整区域(1971年)、第一種風致地区(1970年)の指定により宅地造成に制限はあるものの、あらゆる開発が規制されているものではなかった[151]。11月にそれぞれの学区においてゴルフ場建設に反対する団体が別個に発足。反対運動を開始する。翌1989年3月27日には京都弁護士会公害対策委員会が「大文字部会」を設置[152]、京都市に意見書を提出するなどする。1989年8月に行われた京都市長選で反対派はゴルフ場反対との姿勢を明らかにした[153]日本共産党推薦の木村万平候補に接近・共闘するも、公明党民社党が推薦、自由民主党が支持する田辺朋之候補に321票差で敗北した[154]。その後大文字山の沢水、地下水を利用していた京都大学の学生なども反対運動を展開する。1989年12月6日、地産は市民らの反発が強いことを理由として計画を白紙撤回した[155]。なお、送り火に関わる大文字保存会は中立の立場を取っていた[156]。その後1990年のゴルフ場等建設指導要綱、およびその1993年の改定で、京都市では2012年現在開発許可を必要とするゴルフ場の建設は認められない[157][158][* 50][159]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 466メートルとの表記も一般的。国土地理院平成9年の1/10000地図では465.95メートル。国土地理院のwebによる地図閲覧サービスでは2012年5月時点で、465.4メートル。京都市計画局平成19年1/2500の地図では465.44メートル。
  2. ^ 東山三十六峰はもとより定義が曖昧なものであり、三十六という数字も単に「数が多い」という意味しかない。京都新聞編集局『東山三十六峰 -京都案内記-』(1957年刊行)でも比叡山を含めるか否かの問題は議論が有るものとしている。ただし同書では本来は如意ヶ嶽が北限ではないのかとしながらも、「現代」(1957年当時)においては最早比叡山を含めることが市民権を得ているとしている (p.15)。
  3. ^ ただし同じ著者の『雍州府志』ではこれは如意ヶ嶽とは別の山。
  4. ^ 明治以前は慈照寺、一部を八神社が所有していたもの。慈照寺北側の登山道から入山した場合、おおよそ千人塚(後述)あたりまでの範囲。なお銀閣寺山国有林は「東山国有林」のひとつであり、最北端のもの。最南端は稲荷山である。これらは1871年の社寺上知令により、管営となったもの。詳しくは『社寺と国有林』p.78などを参照。
  5. ^ 大日如来不動明王役行者を祀ったもの。鎌倉時代初期の釈迦如来石仏も見られる。
  6. ^ ちなみに「京都走ろう会」が開催している「大文字山ランニング」(火床まで)での優勝者は男子で9分弱、女子で11分前後となっている。
  7. ^ この先には頭上に送り火に使用する薪の運搬用リフトのケーブルおよび、金網による防護柵を見ることができる。
  8. ^ この如意越は『太平記』巻15などでも言及がなされている。
  9. ^ 竹村俊則『昭和京都名所図会』によれば、雨が続いて水量の増えた時は麓からこの瀑布を遠望することができるという。黒川道祐『近畿歴覧記』に曰く「久しく雨ふるときは此の渓より瀑漲り落つ、此亦洛東之一奇観也」
  10. ^ もともとは麓に設置したのであるが、その後に場所を移したもの竹村俊則『如意寺跡をたづねて』では、こんな鬱蒼とした山中に山荘が在ったとは考えにくく、何故こんな所に移設されたのか真意がわからないとしている。
  11. ^ ただし『京都市の地名』によれば、現地ではここより南東にあった安祥寺の上寺跡を檀の谷と言ったことがその成り立ちであるとする説も紹介されているが、竹村俊則は『昭和京都名所図会』で、その説はただの混同であると否定している。
  12. ^ おおよそ東山30-33あたりから45。ただしトレイルのルートに沿うと、見晴らしの良い火床は経由せず、四つ辻より、前述の如意越、鹿ヶ谷の霊鑑寺へのルートを下山する。
  13. ^ 月刊『Leaf』2013年4月号「大文字山トレッキング」によれば、このルートで京都市営地下鉄蹴上駅から大文字山山頂に到達し、火床を通って慈照寺へ降りる場合、総行程は7km程度。所要時間は上級者で90分程度とのことであるが、一般の目安としては山頂まで1時間半、火床まで2時間、慈照寺まで2時間半程度としている。
  14. ^ 大文字山山頂東に「薬草園への分かれ」があり、そちらのルートを選ぶこともできる。
  15. ^ これを切り出したものは白川石として。風化して白川の川砂となったものは白川砂として、北白川の特産品である。大文字山には豊臣秀吉太閤)が石を切り出したとの曰くあり、1897年に京都大学の比企忠が日本で初めて褐簾石を発見した石切場跡、「太閤岩」なるものもある。
  16. ^ 『東山国有林風致計画』によれば、1936年ごろには東山の国有林の61パーセントをアカマツが占めていた。
  17. ^ 近隣の比叡山には、ニホンザルの群れが生息している。この辺りは京都東管理ユニットに属する。
  18. ^ この火床付近の海抜は『京都一周トレイル 東山』によれば330メートル、『大文字 五山の送り火』p.65によれば333メートル。
  19. ^ 1957年 田中緑紅『京の送火 大文字』p.10によれば、当時は大文字が最後に点火されていた。p.22によれば点火時刻は20時13分。1976年の駒敏郎『大文字 五山の送り火』p.66でも、20年くらい前(1956年くらい)までは大文字は五山の中でも「横綱格」であるので、他の四山が点火されるのを見定めてから点火したとのことである。ちなみに「左大文字」は一斉ではなく筆順に点火される。
  20. ^ 大の字の各字画の長さについては文献により若干の違いがみられる。本項では昭和40年代に京都市当局が実測し、大文字保存会が採用している数値を示している(『大文字送り火 説明資料』など)。
  21. ^ 『京都故事物語』では、茄子に穴を開けて大文字を見ると目を患わない、大文字を盃に映してから飲み干すと中風を患わない、などのまじないも紹介されている。
  22. ^ 古くは浄土寺村の共有林。現在は保存会が維持管理。
  23. ^ 『京の大文字ものがたり』によれば、一巡すれば一年の休み。
  24. ^ 『京の大文字ものがたり』p.71によれば、4,5戸。
  25. ^ 『大文字送り火 説明資料』によれば、1973年ごろは金尾は5戸、字頭は1戸で担当していたが、2003年ごろにはそれぞれ4戸、2戸となっている。
  26. ^ 『京都・火の祭事記』によれば樹齢30から40年。『大文字送り火 説明資料』によれば90から100年(ただしこれは1973年の情報)、『フォレストニュース「森のひろば」』vol.988によれば燃焼時間の関係から樹齢80年程度。
  27. ^ 1972年の京都新聞によれば、このリフトの始点までは小型トラックで運搬をしていたとのことであり、積み込み時の写真も掲載されている。
  28. ^ 原文は「及晩冷泉亭ヘ行、山々焼火見物ニ東川原へ出了」。山本武夫校訂、1981年、『資料纂集 慶長日件録 第一』、続群書類従完成会、p.49、より引用。
  29. ^ 相国寺150世維明周奎がこれをしたためているという。
  30. ^ 「如意寺跡発見への挑み 1」でも、火床から大文字山山頂にかけて経塚が点在しており(如意ヶ嶽経塚群)、古来より神聖な山であったようだとしている。
  31. ^ 『京の大文字ものがたり』[要ページ番号]によれば、地元浄土寺で支持されている説。
  32. ^ 後述する1962年の送り火中止騒動も参照。
  33. ^ 1943年8月17日付『大阪毎日新聞』では計2000人(『京の大文字ものがたり』pp.153-154 による)。
  34. ^ 京都新聞では単に人文字としており、ラジオ体操への言及はない。
  35. ^ 当時60万円の経費の内、京都市の補助は10万円に過ぎず、ほとんどが地元負担であった。市や市民が大文字送り火を観光資源として利用し利益を得ているのに地元民ばかりに負担を強いるのは堪忍ならないという向きも多く見られていた。これについては1957年京都新聞編集局『東山三十六峰 -京都案内記-』でも言及されている。また1950年、大文字保勝会『京名物 大文字』での座談会 (p.49-)でも火床の維持、山道の補修などについて保勝会(当時)の声が掲載されている。なおこの座談会において当時の京都市観光課長は祇園祭・大文字送り火は宗教的行事であるので、市として表立っての支援は難しいと見解を述べている。
  36. ^ 付近に既に北朝鮮の学校があり、南北朝鮮の対立感情からのトラブルの発生を恐れたとのこと。
  37. ^ 京都市側は送り火とは関係なく、ハイキング客向けの、通常の市道整備を行っただけとコメントしている。
  38. ^ 京都新聞 1980年5月16日では当時の保存会会長が、高齢化などもあり防火用水を火床まで運搬することからして一苦労であるなどと語っている。またこの記事では市側が送り火を焚火扱いしたことも問題視されている。
  39. ^ 1976年 駒敏郎『大文字 五山の送り火』p.70では、立ち入り制限前である1976年当時、送り火当日の火床には実に5000人や3000人といった規模の人出が見られていたと記されており、また1950年 大文字保勝会『京名物 大文字』p.6でもその人出は一般人が数千人とされている。
  40. ^ 京都市中心部の繁華街新京極四条河原町南部一帯なども停電に見舞われている。
  41. ^ ただし雨のため点火が「遅れる」ことは、そう珍しいことではないともされている。
  42. ^ 『京都坊目誌』では同一のものとしているが、『資料京都の歴史 8』などでは別の物とされている。別々とした場合、その位置はかなり離れたもの。両城をプロットした地図については『資料京都の歴史 8』、『第49とれんち』、『京都市遺跡地図台帳』などを参照。
  43. ^ 一部の古文書で「霊鑑寺の南」として如意寺が紹介されているのは、これのこと。
  44. ^ 京都市遺跡地図台帳425。
  45. ^ 『昭和京都名所図会』によれば、跡地はバレーコートになっているという。
  46. ^ 『楽しい京都の山歩き』では、戦後とされている。
  47. ^ カッコウホトトギスは古来混同が良く見られる。
  48. ^ 京都市遺跡地図台帳425-02。
  49. ^ 前述の通り、大文字山の北側は風化した花崗岩が多い。
  50. ^ ちなみに比叡平東方、大津側にある「皇子山カントリークラブ」は1960年(昭和35年)1月起工、1961年6月開場。もともとは開拓地であった。

出典[編集]

  1. ^ 国土地理院 ウォッ地図
  2. ^ 『京都市の地名』『東山三十六峰 -京都案内記-』『角川日本地名大辞典』などによれば、「た」は濁らない。
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  4. ^ 『京都 大文字五山送り火』
  5. ^ 『角川日本地名大辞典』、『京都市の地名』、竹村俊則『新撰京都名所図会』または『昭和京都名所図会』、京都観光Navi など。『東山三十六峰 -京都案内記-』は、明治時代までは第一峰とされていたとし、『雍州府志』では東山の頂、『京都坊目誌』では東山の主山としている。
  6. ^ 斜体部は『東山連峰に思う』p.50より引用
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  8. ^ a b c d e f g h 『東山三十六峰を歩く』
  9. ^ a b c d 『角川日本地名大辞典』
  10. ^ 『東山三十六峰を歩く』で、本居宣長宝暦6-7年、おおよそ1750年代)『在京日記』、百井塘雨寛政年間、おおよそ1790年代)『笈埃随筆』の例が紹介されている。
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  12. ^ 『京の大文字ものがたり』p.68 (1990)、『東山国有林風致計画』p.2 (1936)
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  68. ^ 「銀閣寺山国有林におけるマツ林再生について」- アカマツの融通、共有林・国有林などについて
  69. ^ 『京都・火の祭事記』p.7
  70. ^ 『大文字山を食べる』[要ページ番号]
  71. ^ 『京の大文字ものがたり』p.69-71
  72. ^ 『京都・火の祭事記』[要ページ番号]
  73. ^ 『京都故事物語』[要ページ番号]
  74. ^ a b 『京都・火の祭事記』p.26
  75. ^ 『京の送火 大文字』p.21。1957年の文献であるが、このころは作業人員は80人程度。
  76. ^ 『大文字 五山の送り火』p.66
  77. ^ 『京都新聞』1972年8月16日 夕刊
  78. ^ 京都観光協会webサイト「五山の送り火」
  79. ^ 京都観光Navi「京都五山送り火」
  80. ^ 『フィールドガイド 大文字山』p.166 または『大文字山を歩こう』p.17「大文字送り火」
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  82. ^ 『京名物 大文字』pp.6-7、pp.50-51。1950年当時の点火の模様、火床の造営など。
  83. ^ 『京洛物語』
  84. ^ 『京の大文字ものがたり』p.9
  85. ^ 『大文字 五山の送り火』p.29
  86. ^ 『雍州府志』
  87. ^ 『京の大文字ものがたり』p.53
  88. ^ a b c 『京の大文字ものがたり』p.63「大文字送り火はなぜ『大の字』か」
  89. ^ 『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』
  90. ^ 『京名物 大文字』p.4
  91. ^ 『京の送火 大文字』pp.19-20 この文献では『雍州府志』では72床とするが、『雍州府志』「慈照寺山」では、横の一画10箇余、左竪の一画20箇、右の一画29箇余である。
  92. ^ 『京都案内記』[要ページ番号]
  93. ^ 『京の送火 大文字』pp.12-13, p.23
  94. ^ 『京の大文字ものがたり』[要ページ番号]
  95. ^ 『史跡探訪 東山三十六峰』
  96. ^ 『フィールドガイド 大文字山』pp.166-168
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  98. ^ 1991年『フィールドガイド 大文字山』p.167。48戸 1994年『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』、50余戸 1981年『京洛物語』、47戸 2004年『京都・火の祭事記』、48戸 1957年 『東山三十六峰 -京都案内記-』p.69 など。
  99. ^ 『京都新聞』1943年7月17日朝刊、8月13日夕刊、8月16日夕刊
  100. ^ 『京の大文字ものがたり』p.153「人文字の大文字」
  101. ^ 『京都新聞』1944年8月17日朝刊、1946年8月17日朝刊
  102. ^ 『京都新聞』2012年3月12日朝刊
  103. ^ 『京の送火 大文字』p.14
  104. ^ 『京都新聞』1962年8月12日-8月16日
  105. ^ 『京の大文字ものがたり』pp.158-161
  106. ^ 『京の大文字ものがたり』pp.162-164 同書によれば「共同で当たる」。
  107. ^ 『京都新聞』1980年2月22日朝刊、5月16日朝刊、5月30日夕刊。京都新聞5月30日夕刊によれば、「京都市が責任を持つ」
  108. ^ 1990年の『京の大文字ものがたり』による。
  109. ^ 『日出新聞』1890年4月9日「昨日の実況」
  110. ^ a b c d e f g 『京の大文字ものがたり』pp.145-
  111. ^ 『日出新聞』1890年5月3日、5月9日。20:30からの予定だったとのこと。『京の大文字ものがたり』によれば、日出新聞には点火されたとの続報は示されていない。
  112. ^ 『日出新聞』1895年5月15日 今夜点火予定との由。
  113. ^ 『日出新聞』1905年6月1日
  114. ^ 『日出新聞』1905年11月26日
  115. ^ a b 田中泰彦『京都新聞』 1979年8月16日 p.6「大文字余聞」。京を語る会会長(当時)。安西文献はこれの孫引き。
  116. ^ 『社寺と国有林』pp.86-87 当該ページには、清水寺の背後の国有林に倒木が相次ぎ、惨憺たる有様となっている写真が掲載されている。
  117. ^ 『京都新聞』 2001年1月1日
  118. ^ 『京都新聞』1963年8月16日朝刊および夕刊
  119. ^ a b 『京都新聞』1963年8月17日 朝刊
  120. ^ 『京都新聞』1963年8月18日 朝刊
  121. ^ 『京都日出新聞』1935年8月17日
  122. ^ 『京都日出新聞』1935年8月18日
  123. ^ 読みは『拾遺都名所図会』による。
  124. ^ 『資料京都の歴史 8』p.180、および別添地図。
  125. ^ a b c 「如意寺跡発見への挑み 1」
  126. ^ a b c 『京都市の地名』
  127. ^ 『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.64 - 小山田和夫、2007、「如意寺の創建について」
  128. ^ 『華頂要略』による。
  129. ^ 「如意寺発見への挑み 1」によれば、園城寺『寺門伝記補録』に曰く、1336年に罹災した後、1468年に再び焼失した。
  130. ^ 『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.7
  131. ^ 『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.13-15、図版第1, 3, 5
  132. ^ 『平安時代山岳伽羅の調査研究』pp.5-9 全般または基礎的な事実について。pp.45- 出土物について(直接の出典とはしていない)。p.64「如意寺の創建について」(小山田和夫)、p.74「如意寺について」(佐々木令信)
  133. ^ 『京都・山城 寺院神社大事典』p.555
  134. ^ 「如意寺とその古図」
  135. ^ a b c d 『京のお地蔵さん』
  136. ^ 『大文字 五山の送り火』p.71
  137. ^ 地図のほか、薬草園のwebサイトによる。竹村俊則『京のお地蔵さん』では左京区如意ヶ嶽池ノ谷。
  138. ^ a b 『京のご利益さんの穴場』
  139. ^ 『京都坊目誌』「上京第28学区(鹿ヶ谷町)之部 - 池ノ地蔵」
  140. ^ 『拾遺都名所図会』「池谷地蔵」
  141. ^ a b 『東山名勝図会』
  142. ^ 竹村俊則「如意ヶ嶽跡をたづねて」
  143. ^ 「如意寺跡発見への挑み 2」
  144. ^ 『哲学の道とその周辺の史跡を訪ねて』p.21
  145. ^ 『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.35 赤龍社との同定について。
  146. ^ 『京都・山城 寺院神社大事典』「八神社」
  147. ^ 『京都 ご利益さんの穴場』「八神社」
  148. ^ 『京都坊目誌』「上京第27学区(浄土寺町)之部 - 八神社」
  149. ^ 『京都新聞』1988年8月12日朝刊
  150. ^ 『ゴルフ場撃退・全記録』では1972年、『京都新聞』1989年12月7日では1974年
  151. ^ 『ゴルフ場撃退・全記録』p.15, pp.38-39。『京都新聞』1989年12月6日夕刊、7日朝刊。ゴルフ場以外ではスポーツ施設や寺院などの開発が、禁止はされていない状態であったとされる。
  152. ^ 『ゴルフ場撃退・全記録』p.29, p.31, p.43
  153. ^ 『草の根の怒り321』p.25, p.61, p.64, p.96, p.120など。
  154. ^ 『ゴルフ場撃退・全記録』pp.51-55
  155. ^ 『ゴルフ場撃退・全記録』pp.59-63、『京都新聞』1989年12月6日夕刊
  156. ^ 『京都新聞』1989年12月7日
  157. ^ [1]京都市運動施設等およびゴルフ場の建設事業に関する指導要綱
  158. ^ 『京都市長選挙結果調』1989年、『京都破壊に抗して』
  159. ^ 『皇子山カントリークラブ20年史』p.76「20周年座談会」およびp.98の年表。

参考文献[編集]

書籍等[編集]

  • 安西幸夫、1995、「大文字送り火」、『京都・左京の十五年戦争』 pp. 140 - 大文字保存会会計(当時)の安西による寄稿。
  • 井手成三、1956、『京都案内記』、角川書店 pp. pp.18-19
  • 岩田英彬、1990、『京の大文字ものがたり』、松籟社 ISBN 4-87984-111-0 - 五山の「送り火」の歴史や地元での行事について詳しい。第一章「五山送り火の謎」では、送り火の起源について多くの説が系統立って紹介されている。岩瀬は送り火の起源について、京都の大文字が高知県四万十市(旧中村市)の大文字の成立に強く影響をおよぼしたとして、1565年以前にすでに存在したと仮定し、それが戦国時代の争乱の落ち着いたころに復活・定着したのではないかとの説を提示している。
  • 岩田英彬、1995、『楽しい京の山歩き』、松籟社 ISBN 4-87984-168-4 pp. 29-36
  • 碓井小三郎(編)、1916、『京都坊目誌』 - 京都叢書。如意寺について特に詳しい。直接の出典とはしていないが、「楼門の滝」「如意ヶ嶽城」「談合谷」にも言及。
  • 皇子山カントリークラブ、1978、『皇子山カントリークラブ20年史』、皇子山カントリークラブ - 滋賀県立図書館蔵書
  • 大阪営林局、1936、『東山国有林風致計画』、大阪営林局 pp. 口絵「銀閣寺山国有林 林相図」、p.21「5.国有林の林相と其の成因」、p.53「7.2.土地所有の沿革」
  • 大槻雅弘、内田嘉弘、木之下繁、2008、『京都府の山』、山と渓谷社 ISBN 978-4-635-02375-7 pp. 108-109 - 大槻雅弘執筆部
  • 梶川敏夫、1986、「如意寺跡発見への挑み 1」、『園城寺』56巻、総本山園城寺 - 大津市立図書館蔵書。如意寺、如意ヶ嶽城について。
  • 梶川敏夫、1986、「如意寺跡発見への挑み 2」、『園城寺』57巻、総本山園城寺 - 大津市立図書館蔵書。如意寺本堂跡について、雨神社についてのほか、園城寺『寺門伝記補録』の全文が引用されている。なおこの論文は『園城寺』58号までの3回の連載である。
  • 角川日本地名大辞典編纂委員会、竹内理三(編)、1982、『角川 日本地名大辞典 26 京都府 上巻』、角川書店 pp. p.867「大文字山」、p.1117「如意ヶ嶽」
  • 加納進、1986、『哲学の道とその周辺の史跡を訪ねて』、室町書房
  • 川勝政太郎、1952、「如意寺とその古図」、『史跡と美術 228』、史跡・美術同攷会
  • 北白川小学校(編)、1958、『北白川こども風土記』、山口書店
  • 木村万平、2007、『京都破壊に抗して - 市民運動20年の軌跡』、かもがわ出版 ISBN 978-4-7803-0102-1 pp. 114-118
  • 京都市選挙管理委員会、1989、『京都市長選挙結果調』、京都市選挙管理委員会 - 京都府立総合資料館蔵書
  • 京都市文化観光資源保護財団、大文字五山保存会連合会、2000、『京都 大文字五山送り火』 - 概要についてのパンフレット状のもの。京都府立総合資料館蔵。
  • 京都市文化観光局文化観光部文化財保護課、大文字五山保存会連合会、1986、『京の伝統行事 大文字五山送り火』 - 概要についてのパンフレット状のもの。京都府立総合資料館蔵。
  • 京都趣味登山会『京都・滋賀 近郊の山を歩く』編集委員会(編)、1998、『京都・滋賀 近郊の山を歩く』、京都新聞社 ISBN 4-7638-0435-9
  • 京都趣味登山会、2003、『京都・滋賀 ふるさとの山103』、京都趣味登山会 pp. 106-107 - 京都府立総合資料館蔵
  • 京都新聞出版センター(編)、2003、『ウォーキング京都』、京都新聞出版センター ISBN 4-7638-0511-8 pp. 14
  • 京都新聞編集局(編)、1957、『東山三十六峰 -京都案内記-』、河出出版 pp. p.65「如意岳」
  • 益富寿之助(監修)ほか、京都地学会(編)、1993、『京都の地学図鑑』  ISBN 4-7638-0320-4
  • 京都府、2011、『京都府特定鳥獣保護管理計画 ニホンザル』、京都府 - 京都府立総合資料館蔵
  • 京都府、2011、『京都市鳥獣保護区等位置図 平成23年度(および付属冊子)』、京都府 - 京都府立総合資料館蔵
  • 近畿中国森林管理局、2008、「「五山の送り火」と銀閣寺山国有林」、『フォレストニュース「森のひろば」』988 民有林と国有林の連携による森林づくり、  pp. 6
  • 古代学協会、江谷寛、坂誥秀一(編)、2007、『平安時代山岳伽羅の調査研究 - 如意寺跡を中心として』、古代学協会 - 本文中で示した箇所のほか、p.78「如意寺関係史料」も参考とした。雨神社(赤龍社)や楼門の滝についての史料も示されている。
  • 駒敏郎、1976、『大文字 五山の送り火』、駸々堂出版
  • 清水誠規、1981、『京洛物語』、丸善
  • 下中邦彦(編)、1979、『日本歴史地名大系第27巻 京都市の地名』、平凡社 pp. p.71「如意ヶ嶽」、p71「中尾城跡」、p.71「大文字山」、p.144「八神社」、p.151「談合谷」、p.151「如意寺跡」
  • 薪く炭くKYOTO(編)、2004、『京都・火の祭事記 - 伝統行事からみた森林資源と人のつながり -』、薪く炭くKYOTO - 編者の読みは「しんくたんくきょうと」。
  • 市民本位の民主主政をすすめる会(編)、1989、『草の根の怒り321 89京都市長選の記録』、市民本位の民主主政をすすめる会 - 京都府立総合資料館蔵書
  • 鈴木元(編)、1997、『京都山歩き一周トレール』、かもがわ出版 pp. 26-38
  • 鈴木元 ほか、2004、『新編 ベスト・ハイク 京滋の山』、かもがわ出版 ISBN 4-87699-811-6 pp. 22-25 - 旧版は1990年。
  • 芝村文治、1993、『京滋百山 三角点を行く 下』、かもがわ出版 ISBN 4-87699-077-8
  • 瀨戸憙雄、1984、『東山連峰に思う』、創元社 pp. 50-56 - 特に如意越に詳しい。
  • 大文字保勝会、1950、『京名物 大文字』、大文字保勝会 - 京都府立資料館蔵書
  • 大文字保存会(編)、2003、『大文字送り火 説明資料』、大文字保存会 - 京都府立資料館蔵書
  • 大文字山ゴルフ場建設に反対する会、大文字山ゴルフ場問題を考える会(編)、1990、『ゴルフ場撃退・全記録』、かもがわ出版
  • 竹村俊則、1958、『新撰京都名所図会』1、白川書院 pp. 117-118
  • 竹村俊則、1994、『京のお地蔵さん』、京都新聞社 pp. 27-29
  • 竹村俊則、1981、『昭和京都名所図会』2 洛東-下、駸々堂出版 pp. 100-104 - 『新撰京都名所図会』 (1958)の増補改訂版。如意ヶ嶽、大文字送り火、如意寺、八神社、池の地蔵、雨神社、談合谷、楼門ノ滝の項目を参考とした。
  • 竹村俊則、1952、「如意寺跡をたづねて」、『史跡と美術 228』、史跡・美術同攷会
  • 田中泰彦、1993、『京都ご利益さんの穴場』、京を語る会 pp. p.55「八神社」、p.65「池の谷地蔵」
  • 田中緑紅、1957、『京の送火 大文字』、京を語る会 - 京都府立総合資料館蔵。『緑紅叢書』第1年4輯の4。送火の由来について、現在主流でない説なども紹介。
  • 地学団体研究会京都支部(編)、1968、『郷土の地質見学案内シリーズ 1 大文字山の岩石と鉱物 改訂版』、地学団体研究会京都支部 - 京都府立資料館蔵書
  • 奈良本辰也(編)、1967、『京都故事物語』、河出書房 pp. 275-276
  • 奈良本辰也(編)、1978、『史跡探訪 東山三十六峰』、京都新聞 pp. 64-70
  • 林屋辰三郎 他、1985年11月30日、『史料京都の歴史 8 左京区 京都市編』、平凡社 p.13「自然と景観 - 比叡山・大文字山とその鞍部」p.171「鹿ヶ谷村」(如意越、如意ヶ嶽城。雍州府志および名所都鳥など)、p.195「浄土寺村」(中尾城、『万松院殿穴太記』。送り火、『雍州府志』巻1および『東山名所図解』2巻) - 各種の古文書を集積して地域別に抜き書きしたもの。
  • 久山喜久雄 他、1991、『フィールドガイド大文字山 法然院森の教室』、ナカニシヤ出版 ISBN 978-4888481502
  • 久山喜久雄 他、2003年、『大文字山を歩こう 里山で自然観察』、ナカニシヤ出版 ISBN 4-88848-783-9 - 『フィールドガイド 大文字山』からの再録も多いため、多くについてはこちらの参照でも可である。
  • 福田淳、2012、『社寺と国有林 -京都東山・嵐山の変遷と新たな連携-』、日本林業調査会 ISBN 978-4-88965-226-0* 平凡社地方資料センター、1997、『京都・山城 寺院神社大事典』  ISBN 4-582-13401-7 - p.555「如意寺」、p.566「八神社」、p.357「浄土院」、p.358「浄土寺」
  • 三浦隆夫、京都新聞社(編)、1995、『東山三十六峰を歩く 面白の花の都や』、京都新聞社 pp. 85-91
  • 邨瀬豊、1994、『東山三十六峰を眺め心のしこりを晴らしましょう』、近代文藝社 ISBN 4-7733-2424-4 pp. 25
  • 安田陽介、2007、『大文字山を食べる 山菜・キノコ採集記』、新風社 ISBN 978-4-289-01165-0 pp. 157-160
  • 山本武人 (2001年3月30日). “歩きま専科 大文字山”. 京都新聞  - 京都新聞の連載登山コラム。掲載地図について、主に東山トレイルのルートを参考とした。
  • リーフ・パブリケーションズ、2013、「大文字山トレッキング」、『Leaf』(2013年4月号)、リーフ・パブリケーションズ - 京滋のタウン情報誌。

新聞[編集]

  • “昨日の実況”. 日出新聞: pp. 2. (1890年4月9日)  - 疏水開通記念での点灯についての言及
  • “通水式の夜会”. 日出新聞: pp. 3. (1890年4月10日)  - 疏水開通記念での点灯についての言及
  • “京都に於ける歓迎の準備”. 日出新聞: pp. 1. (1890年5月3日)  - ロシア皇太子歓迎
  • “露国皇太子殿下”. 日出新聞: pp. 1. (1890年5月9日)  - ロシア皇太子歓迎 送り火は20:30から予定されていた
  • “新樹啼鵑”. 日出新聞: pp. 1. (1895年5月15日)  - 日清戦争勝利「祝平和」点灯
  • “大捷と市中(市民歓喜の声) - 第三高等の大文字点火”. 日出新聞: pp. 7. (1905年6月1日) 
  • “建礼門前の拝賀式 - 大祝賀会寡報”. 日出新聞: pp. 7. (1905年11月26日) 
  • “雨に流れた大文字 船と左大文字が寂しく燃ゆる”. 京都日出新聞: pp. 朝刊 p.3. (1935年8月17日) 
  • “一夜越しの大文字 東山の夜空にぽつかり”. 京都日出新聞: pp. 朝刊 p.3. (1935年8月18日) 
  • “大文字 今年はどうなる? 防空強化の際だけに”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.2. (1943年7月17日) 
  • “白い"朝"の大文字 ラジオ体操で描く京の名物行事”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.2. (1943年8月13日) 
  • “英霊を送る 山腹にバツと白の大文字咲いて”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.2. (1943年8月16日) 
  • “送り火は若き力で 大文字に描く「人文字」”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.3. (1944年8月17日) 
  • “四年ぶり彩つたお盆の夜空”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.2. (1946年8月17日) 
  • “"大文字"ことしは中止”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.5(7版). (1962年8月12日) 
  • “"大文字"騒ぎ・きょうがヤマ 市、急ぎ解決へ話し合い”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.11. (1962年8月13日) 
  • “韓国学校の移転望む 地元民、京都市に陳情”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.7(4版). (1962年8月13日) 
  • “"大文字を消さないで" 市民からぞくぞく寄附”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.10. (1962年8月14日) 
  • “市、けさ山道の整備作業 大文字保存会 長老が反対派を説得”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.7. (1962年8月14日) 
  • “"大文字"点火に決まる 守られた"五山の送り火"”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.1. (1962年8月15日)  - および p.11
  • “きょう大文字ショー 送り火、大型化準備OK”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.15. (1963年8月16日) 
  • “"五山の火"一望に 大文字鑑賞へ人波続く”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.7. (1963年8月16日) 
  • “また浸水、停電騒ぎ 集中豪雨 大文字客もアワ食う”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.10. (1963年8月17日) 
  • “"主役"なしの大文字 異例、四山だけ点火 "2日ショー"がっかりの人波”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.11. (1963年8月17日) 
  • “日延べ大文字 抜き打ち点火 また雨、25分も早く 気付かぬ市民は憤慨”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.10. (1963年8月18日) 
  • “大文字 点火待つばかり 火床へリフト”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.11. (1972年8月16日) 
  • “大文字五山送り火 点火中止を決める”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.1. (1980年2月22日) 
  • “灯せぬか伝統の"火"”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.3. (1980年5月16日) 
  • “大文字 ともします”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.13. (1980年5月30日) 
  • “大文字山(北東部)にゴルフ場 大手不動産業者が計画”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.23. (1988年8月12日)  - 完成(予想)模型の写真も掲載。
  • “大文字山 業者(地産)ゴルフ場断念 市民の反発厳しく”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.1. (1989年12月6日) 
  • “大文字山ゴルフ場計画断念 「環境守れた」歓迎”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.28. (1989年12月7日) 
  • “ゴルフ場開発全面禁止へ 指導要綱で明文化”. 京都新聞: pp. 夕刊 p.1. (1993年9月16日)  - 18日朝刊に社説。
  • “希望の火 21世紀幕開け 平和願い京を照らす”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.1. (2001年1月1日)  - 30面、31面にも言及がある。
  • “鎮魂の「大」人文字”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.29. (2012年3月12日) 
  • 樺山聡 (2014年8月16日). “大文字点火 1時間前?”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.1 

地図[編集]

  • 京都一周トレイル会 2009年 京都一周トレイルコース公式ガイドマップ 東山
  • 京都市都市計画局 2007年3月 1:2500 『大文字山』 如意ヶ嶽山頂の所在地と高度について。
  • 京都市都市計画局 2007年3月 1:2500 『如意ヶ嶽』 如意ヶ嶽山頂の所在およびそれ以東の地形などについて
  • 国土地理院 1996年6月1 1万分の1地形図 『大津』 京都および大阪2-4-2,3-3-1
  • 参謀本部測量、地理調査所発行 1955年1月30 1:10,000地形図 京都近傍2号 『大文字山』
  • シンブン21編、2010年、『2010年 京都市都市計画地図集』

ウェブサイト[編集]

古文書[編集]

  • 『拾遺都名所図会』- 国際日本文化研究センターのデータベースより参照可能。これも中尾山、如意城、池谷地蔵、雨神社など広く言及。一部について参照した。
  • 木村明啓、1864、『東山名勝図会』巻2 または『再撰 花洛名勝図会 東山之部』巻4 - 国際日本文化研究センターのデータベースより参照可能。送り火、如意寺、談合谷、中尾城についてなど、広く言及されている。一部言及について参照した。
  • 黒川道祐、1676、『日時紀事』7月16日 - 送り火について。『史料 京都見聞記』第1巻より。
  • 黒川道祐、1686、『雍州府志』 - 巻1、山川門愛宕郡では如意ヶ嶽、慈照寺山で全般について言及。一部について参照した。巻4、寺院門愛宕郡の慈照寺の項目でも言及が有る。
  • 黒川道祐、1687ごろ、『近畿歴覧記』 - 楼門の滝について。『史料 京都見聞記』第1巻より。
  • 松野元敬、1665、『扶桑京華志』巻之1 山岳 - 如意宝山との記述と、送り火への簡単な言及。

関連文献[編集]

  • 『都名所図会』 巻3 - 国際日本文化研究センターのデータベースより参照可能。「大文字山」として。
  • e国宝 園城寺境内古図”. 如意寺境内古図. 国立博物館. 2022年5月20日閲覧。 - 如意寺境内を描いた古図。
  • 池田硯、東山学園、1970、『比叡山・如意ヶ嶽・東山山系の自然科学的研究』 - 京都府立総合資料館蔵
  • 京都大学考古学研究会、1998、『第49とれんち』、京都大学考古学研究会 pp. p.62「大文字山踏査報告」 - 如意越・中尾城・如意ヶ嶽城がプロットされた地図。および中尾城の遺構調査。
  • 京都大学考古学研究会、2001、『第50とれんち』、京都大学考古学研究会 - 大文字山特集。中尾城の歴史・遺構のほか、隣接する北白川城と一体化して防御施設として成立していたのではないか、との考察など。如意ヶ嶽信仰・如意寺の歴史にも言及。
  • 上山春平 (1979). “如意越え探索”. 園城寺 (総本山園城寺) 26.  - 大津市立図書館蔵書。如意越えと如意ヶ嶽城(大文字山山頂付近)についての考察。なおこの文書では慈照寺から火床へ至るルートを「大文字道」と呼称している。
  • 滋野敬淳 (1978). “三井寺如意寺山越えの記”. 園城寺 (総本山園城寺) 22.  - 大津市立図書館蔵書。滋賀大津側、園城寺(三井寺)付近からの入山経路など。
  • 矢野桂司、中村和郎(編)、2005、『地図からの発想』、古今書院 pp. p.74「デジタル地図から景観シミュレーションへ 大文字山の展望:四条大橋からの送り火鑑賞 - 京都市内各所で見える「五山の送り火」の数を可視化し、GISでプロットした地図が掲載。

外部リンク[編集]