言論の自由

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言論の自由(げんろんのじゆう,: Freedom of speech)は検閲を受けることなく自身の思想良心を表明する自由を指す。自由権の一種である。

概説

言論の自由は表現の自由の根幹をなすと考えられ、今日では国際人権法で保護され世界人権宣言第19条、市民的及び政治的権利に関する国際規約(国際人権B規約、自由権規約)にも規定されている。

表現の自由における言論の自由と出版の自由との関係であるが、本来、「言論」は音声による表現[1]、「出版」は主に文字による表現であるが[1]、広く「言論の自由」と表現されることもあり、言葉を通しての表現の自由は「発言の自由」と呼ばれることもある[1]

原理

典型的な自由主義的な信念によれば、各人の自発的な表現が総体として互いに他を説得しようと競い合う「思想の自由市場」(free market of ideas)を形成し、その自由競争の過程で真理が勝利し、真理に基づいて社会が進歩すると説かれる[2](思想の自由市場論)。正しい知識と真理は、各人の自発的言論が「思想の自由市場」へ登場し、そこでの自由な討議を経た結果として得られるものと考えられることから、表現の自由は真理への到達にとって不可欠の手段であるとみる[3]

また、民主政治は被治者の同意に基づく政治であるが、この同意は何ら強制によることなく表現の自由のもとで形成されている必要があり、この自由を欠いてる政治体制はその支配を正当化することができない[4]。言論の自由は民主政治の不可欠の要素であり、国民または人民の主権を謳いつつ実際には表現の自由を認めていない国も非常に多いが、統治の任に当たっている一握りの人々の行動が国民の利益・願望に合致しているかどうか監視し公に批判することができない国民は真に主権者とは言えない[2]

アメリカ最高裁判所判事のロバート・ジャクソンは「われわれは被治者の同意による政府を樹立したのであり、権利の章典は、権利の把持者がその同意を強制する法的な機会を一切否定する。」とし[2]、「公権力が世論によって統制されるべく、世論が公権力によって統制されてはならない」としている[2]。また、アメリカ最高裁判所判事のオリバー・ウェンデル・ホームズ・ジュニアは、権力を持つ人間は自己の思想の正しさを確信すればするほど対立する思想を直接・間接に抑圧しようとする論理を指摘している[5]。第4代アメリカ合衆国大統領であるジェームズ・マディソンは「人民的知識もしくはそれを獲得する手段のない人民的政府というようなものは、茶番かまたは悲劇、もしくはおそらくその両方の序幕にすぎない」と述べている[5]

権力に対する言論の自由は、権力を監視する意味合いがあり、もし制約があれば民主主義とは言えない。しかし、個人に対する言論の自由は、濫用すると、名誉毀損罪侮辱罪に抵触する恐れがあり、充分に注意して行使しなければならない(ロンドンのハイド・パークにある「スピーカーズ・コーナー」は、この制約さえもなく、主張・発言の自由が完全に保障された珍しい場所であるが、同時に「ヤジの自由」も保障されている)。

哲学者アレクシ・ド・トクヴィル19世紀初頭のアメリカで人々が政府による報復への恐怖からではなく、社会的圧力のために自由に話すのをためらうことを指摘している。

なお、ヨーロッパには「ユダヤ人問題の最終的解決」をナチス寄りに解釈した説もしくはホロコースト否認論を唱えると、禁錮刑が科せられる国も多い(ドイツフランスオーストリアハンガリー等)。

参考文献

  • 「人格権侵害と言論・表現の自由 (村上孝止)青弓社 2006年3月 ISBN978-4-7872-3254-0(4-7872-3254-1) C0036

脚注

  1. ^ a b c 阿部照哉 編『憲法 2 基本的人権(1)』有斐閣〈有斐閣双書〉、1975年、160頁。 
  2. ^ a b c d 阿部照哉 編『憲法 2 基本的人権(1)』有斐閣〈有斐閣双書〉、1975年、162頁。 
  3. ^ 阿部照哉 編『憲法 改訂』青林書院〈青林教科書シリーズ〉、1991年、118頁。 
  4. ^ 阿部照哉 編『憲法 改訂』青林書院〈青林教科書シリーズ〉、1991年、119頁。 
  5. ^ a b 阿部照哉 編『憲法 2 基本的人権(1)』有斐閣〈有斐閣双書〉、1975年、163頁。 

関連項目

言論の自由をめぐる問題