コンテンツにスキップ

磐城平藩

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。MystBot (会話 | 投稿記録) による 2011年12月16日 (金) 07:00個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.1) (ロボットによる 追加: fr:Domaine d'Iwakidaira)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

磐城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めたである。藩庁は磐城平城(福島県いわき市)。

歴史

前史

浜通り南部は、平安時代末期から岩城氏が支配していたが、関ヶ原の合戦で西軍に就いたために領地を没収された。岩城氏は、後に信濃中村藩川中島藩)を経て出羽亀田藩(現在の秋田県南西部)に移転した。

磐城平藩は、鳥居、内藤、井上、安藤の各家が治めたが、幕末に公武合体を進めた老中安藤信正の所領として知られている。

鳥居時代

  • 岩城氏が去った後に浜通り南部を治めた者は、徳川家康の側近でもある鳥居忠政である。忠政が飯野平に入ると、岩城の「いわ」の字を変更して「磐城平」に都市名を変更し、陸奥国南東部4郡のうち10万石が与えられた。岩城氏の居城は大館城(飯野平城)であったが、その東に新たに磐城平城を築き、それに伴い城下町の再編を行った。今の八幡小路付近にあった紺屋町等を移して家臣の屋敷にし、高台に数多くあった寺社を移し、そこを城郭にした。磐城平城を建設する際に、治水のため丹後という翁を人柱とした話があり、今でも「丹後沢」の名前で残っている。

内藤時代

  • 鳥居家が山形に転封後、磐城平に入った藩主が内藤政長である。嫡子忠長(忠興)に2万石、政長の女婿・土方雄重に1万石が与えられ、磐城平藩は7万石となった。
  • 政長が没し、その跡を継いだのが内藤忠興である。継いだ翌年から約10年にわたって領内の総検地を行い、これによって2万石の増収をもたらした。寛永15年(1638年)の寅の年に集中して行われたので、「寛永寅の縄」といわれる。慶安2年(1649年)には、平藩にとって最初の成文法である「家中法度」「諸代官郷中取扱之定」「郷中御壁書」を制定した。また、新田開発も盛んで、用水路の普請を行った。その代表的なものが小川江愛谷江である。小川江は、郡奉行澤村勘兵衛勝為により開削され、小川から四倉まで30km、31ヶ村におよぶ。愛谷江は愛谷村から沼之内村まで23ヶ村を潤した。
  • 忠興が隠居して藩主に就任した者が内藤義概である。若い頃から和歌・俳諧に傾倒していたため、藩政を小姓の松賀族之助に委譲してしまった。このことが、後の磐城平藩小姓騒動のもとになってくる。
  • 義概のあと、義孝、義稠、政樹の代まで天災や普請のため財政が圧迫していた。そんな中、元文3年(1738年)9月に百姓一揆が起こった(元文百姓一揆)。それが理由で処罰的な意味もあり、延享4年(1747年)、内藤家は延岡に転封となった(飛ばされた)。

井上時代

  • 内藤家の後に来たのが井上正経である。磐城平藩を支配したのは10年間のみで、史料は少ない。

安藤時代

  • 井上家の後には加納藩主安藤信成が入封した。入封後、藩校施政堂を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育した。漢学を主とし、撃剣を従とした。四書五経・国語・小学・通鑑・習字を中心に教え、後に、兵法・洋学も取り入れた。春秋2回の試験で成績優秀者には褒賞を与えた。明治4年(1871年)に廃止になるまで、磐城の最高学府的な存在であった。
  • 歴代藩主の中で最も有名なのは、第5代藩主・安藤信正である。桜田門外の変の後、老中として幕政を主導したが、文久2年(1862年)の坂下門外の変で失脚、強制隠居処分に処されて、所領も4万石に削減された。しかし戊辰戦争でも、信正は佐幕派としての地位を貫いた。

歴代藩主

鳥居家

譜代 12万石

  1. 忠政

内藤家

譜代 7万石

  1. 政長
  2. 忠興
  3. 義概
  4. 義孝
  5. 義稠
  6. 政樹

井上家

譜代 3万7千石

  1. 正経

安藤家

譜代 6万7千石→4万石

  1. 信成
  2. 信馨
  3. 信義
  4. 信由
  5. 信正
  6. 信民
  7. 信勇

幕末の領地

明治維新後に磐前郡5村(旧幕府領4村、旧棚倉藩領1村)、磐城郡1村(旧幕府領)が加わった。

関連項目

外部リンク

先代
陸奥国
行政区の変遷
1602年 - 1871年
(磐城平藩→磐城平県)
次代
磐前県