満州 (通報艦)
基本情報 | |
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艦歴 | |
進水 | 1901年4月 |
就役 | 1906年3月8日、日本海軍籍に編入 |
除籍 | 1932年4月1日 |
その後 | 1933年9月15日撃沈処分 |
要目 | |
常備排水量 | 3,916トン[1] |
垂線間長 | 103.94m (341ft) |
最大幅 | 13.18m (43ft 3in) |
吃水 | 4.88m (16ft) |
機関 |
円缶5基 直立3気筒3段膨張レシプロ 2軸 5,000馬力 |
速力 | 17.6ノット[1] |
燃料 | 石炭 1,218トン |
乗員 | 169名 |
兵装 |
安式8cm砲 2門 保式5cm砲 2門 |
満州(まんしゅう)は、日本海軍の通報艦。後に海防艦となる。艦名は現在の中国東北部の名称の満州からとられた。
概要
1901年(明治34年)オーストリア帝国領トリエステのスタビリメント・テクニコ社で建造された高速客船で旧ロシア帝国汽船「マニジューリヤ」(ロシア語:Маньчжурияマニジューリヤ、「満州」のロシア語、日本側呼称は英語読み「マンチュリア」)。ロシア東清鉄道の所有で大連、青島、上海市間を就航していたが日露戦争開戦当時、長崎で修理中だった。開戦時に長崎にいたロシア船舶は解放する予定だったがそのまま接収され、1904年(明治37年)そのまま訳した「満州丸」と命名、運用は大阪商船に委託され佐世保と前線間の連絡船として用いられた。その後「満州」と改名され1906年(明治39年)に通報艦として日本海軍籍に入る。
主に中国方面の警備や測量などに従事したが、客船時代の豪華な設備はそのままに残されており、観艦式の供奉艦や、来賓や軍幹部、各国駐在武官などを搭乗させる特別任務によく用いられた。第一次世界大戦ではシンガポール方面への輸送任務の他に南洋諸島、青島方面の測量任務に就き、関東大震災の際は救助活動や相模湾の再測量を行っている。
1925年(大正14年)10月3日、マリアナ海溝で水深9814.6mの錘測に成功し、この付近の海底が世界で最も深いことを突きとめた [2]。
1932年(昭和7年)に除籍され、翌年に標的として撃沈処分された。
艦歴
- 1901年(明治34年)4月 進水。ロシア客船「マニジューリヤ」。
- 1904年(明治37年)2月17日 日露戦争開戦により長崎で捕獲、4月7日「満州丸」と命名。
- 1905年(明治38年)2月14日 「満州」と改名。
- 1906年(明治39年)3月8日 艦籍に編入、通報艦に類別。
- 1912年(大正元年)8月28日 通報艦の類別が廃止されたため二等海防艦となる。
- 1917年(大正6年)から1918年(大正7年) 第一次世界大戦によりシンガポール方面で輸送任務。
- 1931年(昭和6年)6月1日 海防艦の等級が廃止され、海防艦となる。
- 1932年(昭和7年)4月1日 除籍
- 1933年(昭和8年)9月15日 館山沖で魚雷の標的として撃沈処分。
艦長
※脚注なき限り『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。階級は就任時のもの。
- 西山保吉 中佐:1905年3月15日 - 6月14日
- 矢代由徳 大佐:不詳 - 1907年5月17日
- 大沢喜七郎 中佐:1907年5月17日 - 1908年2月20日
- 秀島七三郎 大佐:1908年2月20日 - 12月10日
- 松岡修蔵 中佐:1908年12月10日 - 1909年3月4日
- (兼)中島市太郎 大佐:1909年3月4日 - 7月30日
- 小黒秀夫 中佐:1909年7月30日 - 10月11日
- 川浪安勝 中佐:1909年10月11日 - 1911年4月1日
- 向井弥一 大佐:1911年5月23日 - 12月1日
- 奥田貞吉 大佐:1911年12月1日 - 1912年8月13日
- 堀輝房 大佐:1912年8月13日 - 12月1日
- 平田得三郎 大佐:1912年12月1日 - 1913年2月19日
- 三輪修三 大佐:1913年4月1日 - 5月24日
- 石川長恒 中佐:1913年5月24日 -
- 島内桓太 大佐:1914年12月1日 - 1915年2月1日
- 糸川成太郎 中佐:1915年2月1日[3] - 1916年5月23日
- 新納司 大佐:1916年5月23日 - 12月1日
- 関田駒吉 大佐:1916年12月1日 - 1917年12月1日
- 井手元治 大佐:1917年12月1日 - 1918年11月10日
- 江口金馬 中佐:1918年11月10日 - 1919年11月3日
- 坂元貞二 中佐:1919年11月3日 - 1920年1月30日
- 松坂茂 大佐:1920年2月13日[4] - 8月12日[5]
- 三村俊夫 中佐:1920年8月12日[5] - 1921年11月20日[6]
- (心得)辻友輔 中佐:1921年11月20日[6] - 不詳
- 辻友輔 大佐:不詳 - 1922年12月1日[7]
- 大谷四郎 中佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 広瀬豊 大佐:1923年12月1日[8] - 1924年10月25日[9]
- 重松良一 中佐:1924年10月25日[9] - 1926年12月1日[10]
- 佐藤英夫 大佐:1926年12月1日[10] - 1928年3月15日[11]
- 竹原九一郎 中佐:1928年3月15日[11] - 12月10日
- 神田嘉穂 大佐:1928年12月10日[12] - 1929年9月30日[13]
- 難波常三郎 大佐:1929年9月30日[13] - 1930年12月16日
脚注
- ^ a b 要目は『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 』の付表1-1「大正九年調艦艇要目一覧表 その一 軍艦」より。速力の要目が不明だったため、この項目は『聯合艦隊軍艦銘銘伝』よりとる。また同書では排水量:3,961トンとなっているがおそらく3,916トン(『戦史叢書』の数値)の転記ミスと思われる。
- ^ “世界で一番深い海”. 海上保安庁ホームページ. 2017年5月13日閲覧。
- ^ 大正4年2月2日付 海軍辞令公報 (部外秘) 第89号。
- ^ 『官報』第2257号、大正9年2月14日。
- ^ a b 『官報』第2410号、大正9年8月13日。
- ^ a b 『官報』第2793号、大正10年11月22日。
- ^ 『官報』第3102号、大正11年12月2日。
- ^ 『官報』第3385号、大正12年12月4日。
- ^ a b 『官報』第3654号、大正13年10月27日。
- ^ a b 『官報』第4283号、大正15年12月2日。
- ^ a b 『官報』第363号、昭和3年3月16日。
- ^ 『官報』第587号、昭和3年12月11日。
- ^ a b 『官報』第828号、昭和4年10月1日。
関連項目
参考文献
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』朝雲新聞社、1969年。
- 『官報』