江戸川

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江戸川
江戸川 2004年3月3日撮影
千葉県流山市流山
水系 一級水系 利根川
種別 一級河川
延長 59.5 km
平均流量 109.96 m³/s
(野田観測所1999年)
流域面積 200 km²
水源 利根川(茨城県五霞町
水源の標高 8.6 m
河口・合流先 東京湾(千葉県市川市
流域 茨城県千葉県埼玉県東京都
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江戸川(えどがわ)は、関東地方を流れる一級河川利根川水系分流派川)である。流路延長59.5km(旧江戸川河口より)、流域面積約200km²。流域は、茨城県千葉県埼玉県東京都の1都3県におよぶ。

地理

市川市国府台三丁目より市川橋方面(2009年10月1日撮影)

茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点で利根川と分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境を南に流れ、千葉県市川市付近で本流である江戸川と旧流路である旧江戸川に分かれる。

現在の江戸川の最下流部は、放水路として建設され、行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り、千葉県市川市で東京湾に注ぐ。1960年の河川法改正に伴い、この区間の名称が江戸川放水路から江戸川になったものの、依然として江戸川放水路の呼び名が使われることが多い。

現在でも天然うなぎが捕れるほか、江戸川の河口付近は、三番瀬など東京湾でも数少ない干潟が広がる地域でもあり、トビハゼの北限生息地となっているほか、汽水性の希少なトンボであるヒヌマイトトンボの生息地のひとつでもある。

利根川から江戸川に流れる水は関宿水門で水量を調整され、江戸川下流の住宅地が水害にあわない様になっている。江戸川は北千葉導水路からの水を合わせて首都圏上水道を支えている。しかし、江戸川が比較的人口の多い地域を流れるため、水質が良いとは言えず、浄水場によっては高度処理を行う事で対応している。

旧江戸川河口にある堀江量水標の零位は、Yedogawa Peilの略である「Y.P.」(ワイ・ピー)と呼ばれ、利根川や江戸川、霞ヶ浦、鬼怒川、小貝川等の利根川水系の河川を測量する際の基準面となっている。Y.P.0m=T.P.-0.8402mである(「T.P」はTokyo Peilの略で、東京湾の平均潮位を零位として、山の標高や河川などの水位を測量するときの基準面となっている)。

歴史

古くは太日川おおいがわ又はふといがわ太日河)とよばれる渡良瀬川の下流部であり、利根川とは別に江戸湾(東京湾)へと流れていた。「更級日記」、「吾妻鏡」、「義経記」等に太日川を渡ったという記述が見られる。

伊奈忠次伊奈忠治らによる利根川東遷事業が始められ、江戸川に利根川の水が流れるようになり、1641年には現在の江戸川上流部が人工水路として開削された。なお、江戸川下流部も人工水路であるという説[1]もある。

1654年赤堀川掘削工事が完成して、利根川の銚子への放流が始まった。その結果、江戸川は、東北地方や北関東からの物資を涸沼霞ヶ浦、および銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ流通幹線となった。房総半島を周回する海路よりも距離が短く安全性も高かったので、流域には河岸が作られて大いに賑わう事となった。江戸川周辺からも、野田醤油流山みりんなどが産物として江戸に運ばれている。

1890年には、利根運河を開いて水路短縮が図られたが、その後すぐに鉄道網が整備され、水運は急速に衰退していく事となった。

1919年には、河口部に江戸川放水路が開削され、放水路が本流となった。もとの流れは旧江戸川と呼ばれるようになる。

1958年東京都江戸川区の製紙工場から黒い排水が放流され、下流域の漁業に大きな損害を与える公害が発生した。

1965年に、江戸川放水路が江戸川となり、もとの流れは旧江戸川と呼ばれるようになる。

支流・分流

河川施設

橋梁

玉葉橋より下流を望む。(2010年6月撮影)

下流より記載

脚注

  1. ^ 川上しのぶ「江戸川は下流域も人工河川

関連項目

外部リンク