松井石根

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松井 石根
陸軍大将 松井石根
生誕 1878年7月27日
愛知県
死没 1948年12月23日
東京都
所属組織  大日本帝国陸軍
軍歴 1900年 - 1945年
最終階級 陸軍大将
指揮 ハルピン特務機関
第11師団
台湾軍司令官
上海派遣軍司令官
中支那方面軍司令官
戦闘 日露戦争
第二次上海事変
南京攻略戦
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松井 石根まつい いわね明治11年(1878年7月27日 - 昭和23年(1948年12月23日)、中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官、ハルピン特務機関長、陸軍大将正三位勲一等功一級ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(BC級戦犯[1])を受け、処刑された。

生涯

出自

愛知県出身。旧尾張藩士松井武国、ひさの六男として生まれた。成城学校から陸軍士官学校(9期次席)、陸軍大学校(18期首席)を卒業。陸大在学中に日露戦争に従軍した。

中国駐在中は孫文大アジア主義に強く共鳴し、辛亥革命を支援。中国国民党袁世凱打倒に協力。昭和8年(1933年)に大亜細亜協会の設立発起人となり(後に会長に就任)、同年8月には台湾亜細亜協会を設立した。また日本に留学した蒋介石とも親交があり、蒋が政治的に困難な際に時の日本の首相田中義一との会談を取り持ち事態を打開させたのも松井である。昭和9年(1934年)4月勲一等旭日大綬章軍紀に厳しいことで知られ、昭和3年(1928年)に起きた張作霖爆殺事件では、首謀者である関東軍河本大作の厳罰を要求した(この事から、若手の将校の間では松井を頑固者扱いして敬遠する声も多かったと言われている)。満州事変後も1936年に広東・広西で胡漢民、陳済堂、李宗仁、白崇禧ら西南派の指導者らと会談、さらに南京で蒋介石、何応欽、張群らと会談している。

日中戦争(支那事変)

南京で閲兵する松井石根

日中戦争支那事変)勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍司令官として上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。その際に南京攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底していたつもりであったが、南京戦後に、一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞いたとき、彼は「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。しかし、後の東京裁判における宣誓口述書では「一部の」兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している[2]。 昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた。滞在先の宿の主人に相談し、昭和15年(1940年)2月、日中戦争支那事変)における日中双方の犠牲者を弔う為、静岡県熱海市伊豆山に興亜観音を建立し、自らは麓に庵を建ててそこに住み込み、毎朝観音経をあげていた。

大東亜戦争期から終戦まで

軍籍を離れた松井は「大亜細亜協会」会頭として、アジア主義運動を展開し、国内各所での講演活動を行っていた。対米英開戦後の1月、松井は「思想国防協会」会長となり、日米開戦の意義や東南アジア占領地における興亜思想の普及について述べている。

1942年6月、松井は大亜細亜協会会頭として国外視察に出かけ、上海~南京~台湾~広東~海南島~仏印~タイ~ビルマ~マレーシア、スマトラ島~ジャワ島~セレベス島~フィリピンを訪れ、大東亜共栄圏確立の重要性を説いた。南京では汪兆銘と、ビルマではバー・モウ、シンガポールではチャンドラ・ボースとそれぞれ会談している。

帰国後の松井は、栄養失調から風邪をこじらせ、軽い肺炎を起こした。敗戦までの間、松井は仏門に励み、朝昼の二回、近くの観音堂に参拝するのが日課だった。

1945年8月15日、松井は終戦の玉音放送を熱海の自宅で聞いた。10月19日、松井は戦犯指定を受けたが、この時肺炎を患い、病床にあった。松井の個人通訳を務めていた岡田尚は、松井の巣鴨出頭を遅らせようと、松井と親交のあった岩波書店岩波茂雄社長に頼み、岩波と親しい間柄であるGHQの派遣医師である武見太郎に松井の診断書を書いてもらい、巣鴨出頭を1946年3月5日まで延期させることに成功している。この間松井は、死後に備えて「支那事変日誌抜粋」と「我等の興亜理念併其運動の回顧」を書き上げている。

巣鴨

1946年3月5日、松井は巣鴨プリズンに出頭。収監されてからも毎朝、観音経をあげるのが習慣だった。また、重光葵によると、人の依頼に応じて揮毫する文字は決まって「殺身為仁」であり、獄中では常に国民服姿だったという。

敗戦と東京裁判

東京裁判での松井石根

戦後、戦争犯罪人として逮捕、極東国際軍事裁判において起訴される。そして松井が司令官を務めた中支那方面軍が南京で起こしたとされる不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受ける[3]この判決について、ジョセフ・キーナン検事は、『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と判決を批判している。[要出典]当の松井自身は、『どうもワシは長生きしすぎた』と述べたとされる。

処刑

昭和23年(1948年)12月23日に巣鴨プリズン内で処刑(絞首刑)が執行された。辞世の句は、

天地も人もうらみずひとすじに 無畏を念じて安らけく逝く
いきにえに尽くる命は惜かれど 国に捧げて残りし身なれば
世の人にのこさばやと思ふ言の葉は 自他平等誠の心

昭和53年(1978年)年、他のA級戦犯と共に靖国神社へ合祀された。

評価

中華人民共和国

中国共産党では松井を南京事件の責任者、日本軍による非道の象徴的人物と位置づけている。また、国家中枢にあったとされる他のA級戦犯と同格の人物とみなしている。

日本

2011年、ノンフィクション作家の早坂隆が『松井石根と南京事件の真実』(文春新書)を刊行。それまで謎の部分の多かった松井の生涯を詳細に記録した。この本では、松井が南京占領を平和裡に進めようとしていた過程や、親中派としての松井の思想、東京裁判における松井に関する審理の矛盾などが指摘されている。

松井に関する蒋介石の「発言」

蒋介石自身の公式の回顧録である産経新聞(当時はサンケイ新聞)が1976年に紙面掲載した『蒋介石秘録』の「全世界を震え上がらせた蛮行」によれば、蒋介石は1938年1月22日付の日記に「日本軍は南京であくなき惨殺と姦淫をくり広げている。野獣にも似たこの暴行は、もとより彼ら自身の滅亡を早めるものである。それにしても同胞の痛苦はその極に達しているのだ」と記している。また、日本軍による南京攻略戦が終了した後の自軍の損害については、「南京防衛戦における中国軍の死傷者は六千人を超えた。しかし、より以上の悲劇が日本軍占領後に起きた。いわゆる南京大虐殺である。」「日本軍はまず、撤退が間に合わなかった中国軍部隊を武装解除したあと、長江(揚子江)岸に整列させ、これに機銃掃射を浴びせてみな殺しにした。」「虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ。」「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ。」「犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである。」 とも発表している(『蒋介石秘録12 日中全面戦争』サンケイ新聞社P67~P70)。

一方で、「興亜観音を守る会」会報『興亜観音第15号』(2002年4月18日号)に田中正明が書いたところによれば、1966年9月に、田中ら5人が岸信介の名代として台湾を訪問した際、蒋介石が「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。松井閣下は冤罪で処刑されたのです」と涙ながらに語ったという体験談が記されている。この話は『興亜観音第10号』(1999年10月18日号)にも掲載されており、両方とも蒋介石は「申し訳ない事をした」と田中に語ったと記されているが、何応欽の軍事報告や、松井大将が冤罪だったという部分は、10号では、田中が考える事実として、15号では蒋介石自身の発言と記されている点で異同がある[4]

年譜

演じた人物

南京大虐殺の責任者として、南京事件を扱った映画に登場する。

脚注

  1. ^ 松井は東京裁判でA級戦犯容疑で起訴されて有罪判決を受けたが、「a項-平和に対する罪」では無罪であり、訴因第55項戦時国際法又は慣習法に対する違反罪。で有罪となったため、実際にはBC級戦犯である。しかし、世間では東京裁判が日本の戦争犯罪人を裁く裁判として強く印象に残っていること、東京裁判は「a項-平和に対する罪」によって有罪判決を受けた被告で殆ど占められたために「東京裁判の被告人=A級戦犯」という印象が強く、松井石根がA級戦犯であるという事実に反する認識が浸透している。
  2. ^ http://www.history.gr.jp/~koa_kan_non/5_06.html
  3. ^ ラダ・ビノード・パール判事は、南京で日本軍による一定の犯罪行為の存在を認定する一方で、「裁判の在り方自体に有効性がないため『有罪』という概念そのものが成立しない」との立場から、松井を含めた被告全員の無罪を主張した。
  4. ^ 同様の内容は田中の「門下生」であるという深田匠の著書「日本人の知らない二つのアメリカの世界戦略」P72でも記されている。

関連項目

参考書籍

  • 「松井石根と南京事件の真実」早坂隆著(文春新書)
  • 「将軍の真実・松井石根の生涯」 早瀬利之著(光人社)(後に光人社NF文庫より「南京戦の真実 松井石根将軍の無念」と改題)

資料

外部リンク