日本とメキシコの関係

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日本とメキシコの関係
JapanとMexicoの位置を示した地図

日本

メキシコ
2015年11月より在メキシコ日本国大使館が入居しているトレ・マプフレスペイン語版英語版(撮影は大使館が入居する前の2014年2月)
メキシコを訪れた日本海軍。1900年。当時の1人当たりGNPは日本1167ドル、メキシコ1366ドル、米国4091ドルだった[1]

日本とメキシコの関係スペイン語: Relaciones entre Japón y México英語: Japan–Mexico relations)は日本メキシコの二国間関係を指す。日墨関係とも呼ばれる。両国はともにアジア太平洋経済協力会議(APEC)、環太平洋パートナーシップ協定(CPTPP)、経済協力開発機構(OECD)に加盟している。

歴史

日本とメキシコの関係はスペインがメキシコを統治していた時代に始まる。当時、メキシコはスペイン帝国領ヌエバ・エスパーニャ副王領の一部であった。16世紀中ごろから19世紀初頭までフィリピンマニラとメキシコのアカプルコを結ぶアカプルコ貿易が行われており、スペインはそのルートの周辺諸国と交易を行っていた。日本の貿易商もマニラなどでスペインと交易していた[2]。なお、その品々はアカプルコからベラクルスまで陸送された後、スペイン本土に運ばれるものもあった。また、16世紀中ごろから17世紀初頭にかけては日本でも布教活動を行うメキシコ出身の宣教師もいた。

1609年にフィリピンからヌエバ・エスパーニャに向け航海していたスペインのガレオン船のサン・フランシスコ号が上総国夷隅郡岩和田村(現在の千葉県御宿町岩和田)沖で嵐に遭遇して座礁・沈没して岩和田海岸に漂着している[3]。このとき、前フィリピン総督のドン・ロドリゴら乗船員は、江戸で幕府高官と謁見し、幕府の建造したサン・ブエナ・ベントゥーラで帰国した。1611年にはスペイン副王のルイス・デ・ベラスコは、司令官セバスティアン・ビスカイノ一行を日本に送り、ロドリゴらの救出に謝意を伝えた。なお、この際金銅製の洋時計などの品々が徳川家康に送られている[4]1613年仙台藩伊達政宗により慶長遣欧使節がメキシコを経由してスペイン国王フェリペ3世、およびローマ教皇パウロ5世のもとに派遣された。しかし、その後日本は鎖国体制下に入り、スペインやメキシコとの関係が途絶した。

鎖国が解かれた後の1874年、メキシコの科学者フランシスコ・ディアス・コバルビアススペイン語版が金星の太陽面通過の観測のため日本を訪れ、同時に日墨間の外交関係が築かれた。 1888年、駐米公使兼駐メキシコ公使の陸奥宗光と駐米メキシコ公使マティアス・ロメロ英語版日墨修好通商条約を締結する。この条約は日本にとってはアジア以外の国と結んだ最初の平等条約であり、メキシコにとってはアジアの国と初めて締結した条約であった[5]

その後、両国間の貿易関係や外交関係は第二次世界大戦でメキシコは日本を含む枢軸国に宣戦布告し、国交が断絶した時期を除き、衰えることなく続いている。

なお、諸外国の駐日大使館のうちでメキシコ大使館のみ東京都千代田区永田町にある[6]

貿易

2005年日本・メキシコ経済連携協定が結ばれた後、貿易が急拡大し、2国間の貿易額は約222億米ドルに達している[7]。日本はメキシコへ主に自動車部品などを輸出し、メキシコからは主に電気機器や科学光学機器を輸入している[8]。また、両国はともに環太平洋パートナーシップ協定(TPP)参加国である。

外交使節

駐メキシコ日本大使・公使

駐日メキシコ大使館

駐日メキシコ大使・公使

駐日メキシコ公使

駐日メキシコ大使

脚注

関連項目

外部リンク