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常陸山谷右エ門

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常陸山谷右エ門
基礎情報
四股名 常陸山 谷右エ門
本名 市毛 谷
愛称 御大、角聖
生年月日 1874年1月19日
没年月日 (1922-06-19) 1922年6月19日(48歳没)
出身 茨城県東茨城郡
身長 174cm
体重 146kg
所属部屋 入間川部屋出羽ノ海部屋→三ッ湊(名古屋)→中村(大坂)→出羽ノ海部屋
得意技 泉川、吊り
成績
現在の番付 引退
最高位 第19代横綱
幕内戦歴 150勝15敗22分2預131休
優勝 優勝相当成績6回
幕内最高優勝1回
データ
初土俵 1892年6月場所
入幕 1899年1月場所
引退 1914年6月場所
引退後 年寄出羽ノ海
備考
2010年1月11日現在

常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん、1874年(明治7年)1月19日 - 1922年(大正11年)6月19日)は、茨城県東茨城郡(現在の水戸市)出身で出羽ノ海部屋(入門時は入間川部屋、一時期は名古屋相撲の三ッ湊部屋、大坂相撲の中村部屋)所属の明治時代に活躍した元大相撲力士、第19代横綱

本名は、市毛 谷(後に谷右衛門)。現役時代の体格は、身長四分(174cm)、体重39(146kg)。得意手は泉川、吊り。優勝額掲額制度の発足前に優勝相当成績6回、制度発足後優勝1回。現役引退後は、年寄出羽ノ海を襲名。

人物

近代化へむかう国勢の中で、現役時代には2代梅ヶ谷との「梅・常陸時代」で角界を隆盛に導いた。引退して後は、年寄出羽ノ海として横綱・栃木山以下の名力士を多数育成、現在まで続く出羽海一門の礎を築いた。

また、相撲協会取締役として辣腕をふるい、力士の地位向上に多大な功績を残し、〝角聖〟の異名を冠された。武家の出身であったことから相撲の世界に武士道を導入、それまで天皇・政府の庇護はありながらも興行に過ぎなかった大相撲を国技と呼ばれるほどに押し上げ、かつスポーツのカテゴリに加える端緒を切り開いた最大の存在といえる。

彼の代まで名跡は出羽ノ海だったが、その死後に継承した小結両國は「ノ」を外して出羽海とした。これは常陸山の偉大さを称えてのことであるとされた。稽古熱心であり、また後進の指導にも熱心で、有望な力士には一門や陣営(当時は番付の東西に分かれて割が組まれたため自分と同じ片屋は全員味方、反対の片屋は全員敵だった)の区別なく稽古をつけ、当時数ある小部屋の1つでしかなかった出羽ノ海を1代で角界一の大部屋にまでのし上げた。

栃木山に加え大錦常ノ花の3横綱、九州山對馬洋大ノ里常陸岩の4大関、20余名の幕内力士を輩出した。また常ノ花、出羽ノ花の2人はのちに日本相撲協会の理事長を務め、協会改革を叫び春秋園事件を起こした天竜三郎も常陸山の門下であるなど、常陸山とその弟子たちが角界に与えた影響は長く大きい。以上の点から、力士としての強さ以上に歴代横綱中別格の存在とされている。

来歴

1874年(明治7年)1月19日、旧水戸藩士であった市毛高成の長男として現在の茨城県水戸市に生まれる。1889年(明治22年)ごろ、当時の士族にありがちだった苦しい家庭環境のため旧制水戸中学(現水戸一高)を中退、叔父で剣豪として知られた内藤高治を頼って上京。そこで、内藤に持ち前の怪力から相撲力士になる事を勧められ、1890年(明治23年)出羽ノ海部屋に入門する。

明治40年 訪米中の常陸山(右から4番目)

1892年(明治25年)6月、御西山の名で初土俵水戸光圀の隠居地「西山」に因む)。1894年(明治27年)1月、師匠の現役時の名をもらって常陸山に改名。1895年(明治28年)6月、幕下に進むが初めて負け越し、また師匠の姪と交際したものの駄目という事になったために部屋での立場が狭くなっていた事もあって、神戸へ巡業中脱走し名古屋相撲へ、翌1896年(明治29年)大坂相撲に加入。1897年(明治30年)春ごろに、東京相撲に復帰を許される。

復帰後快進撃を続け1899年(明治32年)1月、4枚目に進み新入幕でいきなり8勝1(無敗)の優勝相当成績。1901年(明治34年)1月に関脇の地位で8勝1分で2度目の優勝相当成績で大関に昇進。1903年(明治36年)1月場所は1分のみの負けなしで3度目の優勝相当成績を挙げ、綱取りとなる翌5月場所は全勝のまま9日目に梅ヶ谷との全勝対決となりこれに勝利し、初の全勝で4度目の優勝相当成績を挙げた。横綱免許授与が決まると常陸山はしばらく考えた後に「できれば梅ヶ谷関といっしょにお願いします」と返答、しかし当時は大砲がまだ現役の横綱であるため同時免許が実現すれば前例のない3横綱になってしまう。ところが司家は双方承認した。このため常陸山の器の大きさが知れ渡るとともに、当時から既に歴代横綱としては常陸山が先であるという見方が存在したという。現在のように横綱が称号ではなく地位として確立したのは実質的にはこの同時昇進であったとされ、実際この後1909年に正式に規約が改正されている。

1907年(明治40年)8月、門弟3人を連れて欧米を漫遊し、時のルーズベルト大統領と会見、ホワイトハウスで土俵入りを披露した。翌1908年(明治41年)3月まで各地で相撲の紹介に勤めたため、同年1月場所は全休。

1909年(明治42年)、「相撲大鑑」を著す。1910年(明治43年)1月場所に優勝掲額を果たす。1914年(大正3年)6月 引退し年寄出羽ノ海を襲名、このとき3日間にわたって引退相撲が行われた。相手の十分に力を出させてから相撲をとるという相撲の形であった。幕内勝率は9割を超えたが、歴代横綱では最後の9割越えである。1922年(大正11年)6月19日、敗血症のため本所相生町の自宅で死去、48歳。葬儀は史上初の協会葬として行われた。その葬列は上野駅から両国橋まで途切れる事なく続いたという。

逸話

常陸山像(慶雲館

大の負け嫌い、そして引分嫌いで強引な相撲も取るが取りこぼしは少なかった。それでも玉椿などしぶとい相手には手を焼くことがあったという。

彼の弟子である大錦、栃木山、常ノ花の3横綱はいずれも師匠の影響だと言って土俵入りの際太刀持ちを左に立たせていたそうだが、常陸山引退土俵入りの写真を見ると不思議なことに太刀持ちを勤めた太刀山は右にいる。その土俵入りは、せり上がりこそ現在雲龍型と呼ばれるものに近いが、拍手の直後に両腕を広げるという現在では見られないものであり、初披露で間違えて行なったものが吉田司家による検証の結果、過去にもあったと考えられる資料(不知火諾右エ門の錦絵であったらしい、綱姿で両腕を広げたものが現存)が見つかり最後までこの型を通した。ところが、これを継承するものは誰もいない。この型は梅ヶ谷と共に映像が現存するので確認可能である。

武家に生まれた影響か〈力士は侍である〉との思想の持ち主で、現役時代から力士の品位を向上させる努力を怠らなかった。また弟子への指導の厳しさは有名で、稽古場では常に愛用する青竹のステッキを持っていた。後の横綱たちをしても、彼が稽古場にこのステッキを持って現れれば、震え上がったという。悪い相撲をとったり稽古をしなかったりすると容赦なくこのステッキで殴っていたが、逆によい相撲をとれば賞金を出し、時にその金額は10円にも達したという。土俵外の生活においても厳格で、力士にはの着物との着用を徹底させ、門限に1分でも遅れたものには大関といえども容赦なくステッキを飛ばした。御大将を略した御大の名で呼ばれていた。

新しもの好きで早くから自動車に乗り、外国からウイスキーを取り寄せて飲んでいたという。またちゃんこ後援会の習慣の創始者としても伝わる。

軍人八代六郎海軍大将、広瀬武夫海軍中佐とは意気投合し、義兄弟の盃を交わした仲であった。常陸山が横綱に昇進した時期は折しも日露戦争開戦直前で、軍人の広瀬は多忙を極めており、常陸山の横綱の晴れ姿を見る事ができなかった。そのため、戦地に赴いた広瀬から、常陸山の横綱姿をいまだ見ていないため、土俵入り姿の写真を送って欲しいとの旨の手紙が送られて来たので、常陸山は慰問文と一緒に写真を送ったものの、その写真が届く前に広瀬は1904年3月27日第二回旅順口閉塞作戦で戦死してしまい、常陸山の横綱姿を見る事はついに叶わなかった。そのことを知った常陸山は泣き明かしたと言い伝えられる。

また、この広瀬との縁が常陸山どころか出羽ノ海一門をあわや全滅という危機から救ったことがある。1910年5月より出羽ノ海一門は朝鮮満州において巡業を行い、7月20日に当時日本の租借地であった大連で巡業を打ち上げて22日に大連港大阪港行の大阪商船の客船・鉄嶺丸に乗船して帰国する予定であった。ところが、帰国の数日前になってから常陸山が突然に「旅順へ行く」と言い出した。広瀬が戦死した旅順は大連からほど近い。せっかく大連まで来ているにもかかわらず弔いもせずに日本へ帰っては兄弟としての義理が立たない。今から旅順へ赴いて奉納相撲を行ってやりたい、というのである。かくして、出羽ノ海一門は乗船を取り消して21日に旅順へと赴き、22日に旅順神社にて奉納相撲を実施した。翌23日、一行が大連に戻ると町は大騒ぎになっていた。前夜に大連を出港した鉄嶺丸が、朝鮮半島南西木浦沖の竹島灯台附近で沈没していたのである(この事故では200余名が死亡した)。常陸山の気まぐれにも等しい突然の旅順行きが無ければ、一行が乗船していた筈の便であった。無論、東京でも出羽ノ海一行は予定通りに鉄嶺丸に乗船しているものと考えており、両国界隈では常陸山の遭難を伝える新聞の号外が飛び交い、大連同様に上を下への大騒ぎになっていた。

相撲史上屈指の艶福家という評伝も残る。「あなたの子だ」と言ってつれて来られれば、ろくに調査もせずにすべて認知し、十分な援助をした。現在も日本中に「常陸山の傍流の子孫」を名乗る家は多い。

弟子の1人小常陸を養子とした。孫娘は笠置山の妻である。従弟に幕内御西山がいる。

慶雲館の生みの親である浅見又蔵氏の贔屓であったため、慶雲館の前庭に石像が造られた。

関連項目